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【68大会・報告】長崎第6分科会/ヒバクシャ2―学習・交流編―強制連行と被爆を考える

2013年08月08日

長崎第6分科会.JPG

高實康稔さんのお話
 日本の植民地支配が根源となって朝鮮が南北に分断されたこと、満州国についての説明、当時朝鮮国は日本の領内であったことから、「移住」という言葉で誤魔化して強制連行を行ってきたこと、また、朝鮮人以外の被爆した外国人として中国人などがいたことなどを時系列に沿いながら説明されました。現在、長崎平和記念公園がある場所に、当時は浦上刑務支所があり、そこに収容されていた中国人32人、朝鮮人13人は全員原爆の犠牲になり、どれほど多くの在外被爆者がいたかということが語られ、その後、在外被爆者援護法とその変遷、そして戦傷病者戦没者援護法の話がありました。

カク・キフン(郭貴勲)さんのお話
 郭さん自身が21歳のときに、朝鮮で大日本帝国に徴兵され、貨物列車にゆられて釜山へ行き、そこから船で広島に渡って被爆したこと。またそこで日本軍として従軍したときの様子などをお話しいただき、その後、106名の仲間の中で唯一生き残った郭さんが、韓国に帰り、国内でも差別され、同じように差別された韓国人被爆者たちも続々と死んでいく中で、日本政府と裁判で在外被爆者を認めさせる闘いを続けてきたことなどをお話されました。
 韓国を出発して、日本で裁判をして、韓国に帰るときのことを「朝は被爆者じゃ無い。昼は被爆者。夜は被爆者じゃ無い。こんなことがあり得るのか。被爆者はどこにいても被爆者だ」という言葉がとても印象的でした。

チョン・テホン(鄭泰弘)さんのお話
 長崎で被爆した当時、中学生だった鄭さんは長崎で在日朝鮮人家族として生活を送っていて、原爆投下当日の様子を自分の生活状態も含めて非常に詳しく話してくださいました。
 鄭さんは、日本で育ったので、終戦後に釜山に「帰国」したものの、ハングルがわからずしかも中学生からハングルを覚えるのは非常に大変でお金もかかったと話されていました。鄭さんも郭さんも非常に流ちょうな日本語でお話しくださいました。聞いている側は、聞き取りやすかったのですが、両先生の日本語が流ちょうだという事実そのものは、日本軍が朝鮮の人たちに母国語を捨てさせ、日本語教育を強要した何よりの証拠であると感じました。
 3名の先生からの様々なお話しを受けて、それぞれがその話を、職場や家庭などに持ち帰り、そこで議論とまで行かずとも話を広げてもらえたら良いのではということで、実行委員からのまとめとさせていただきました。

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