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原水爆禁止世界大会 広島大会 基調提起(藤本泰成・大会事務局長)

2014年08月04日

原水爆禁止世界大会 広島大会 基調提起(藤本泰成・大会事務局長)

 週刊朝日の8月1日号に、作家の落合恵子さんと、作詞家で作家の「なかにし礼」さん、どちらも「戦争をさせない1000人委員会」の呼びかけ人ですが、対談が掲載されました。
 引用が長くなりますが、一部省略しながら紹介します。
 まず落合さんから始まります。
 「私は、3.11以降、大事な人がはっきり見えてきたんです。気がつけば、その人達は皆、反原発であり、反戦であり、反核なんです」
 なかにしさんが、                          
 「3.11の時、『これはおまえの生き方が問われる瞬間だぞ』と言う思いがしたでしょう」
と問うと、
 落合さんが
 「はい、しました」答えます。
 「満州から引き揚げるとき、日本は僕らに『日本に帰ろうとは思わず、その土地で生きる努力をせよ』と言うような通達を出した。国から捨てられたんだと思いましたよ。それと同じことが震災後も起こるに違いないと思っていたけど、事実起きている」
 また落合さんが答えます。
 「はい、ひどいものです」

 2011年3月11日から、4回目の夏を迎えました。復興への道のりは遅々として進みません。しかも、復興財源の確保や住民の帰還の前提である生活基盤の確保、そして除染など課題が山積みの中で、国は、被災県が要請している「集中復興期間」の延長を、認めぬ姿勢に終始しています。
 7月28日付けの「福島民友」は一面トップで「国は福島を突き放そうとしている」との記事を掲載しました。
 国が福島原発事故の責任を曖昧にし、復興に向けた真摯な姿勢を見せない中で、「事故で奪われた当たり前の日常生活、故郷、その責任を誰が、どうとるのか」と、国や東電に対する集団での損害賠償請求訴訟が起きています。
 「棄民」という言葉がありますが、「捨てられた民」なかにしさんが言うように、「捨てられた」と言う言葉がふさわしいと思われるような事態が進んでいるのではないでしょうか。
 なかにしさんは、旧満州からの引き揚げ者です。「満蒙は日本の生命線」、国策として送られた民は、その国から捨てられるいう悲惨な最期をむかえます。
 同じ引き揚げ者のJAZZピアニスト秋吉敏子さんの曲に「ロングイエローロード」という名曲があります。
 黄砂に染まる長い長い黄色い道を、私の母の叔母も3人の子ども達を連れて引き揚げてきました。そして、戦後を生き抜きます。塗炭の苦しみがあったと思います。
 ここ広島においても、69年前、原爆によって、罪なき多くの命が一瞬にして奪われました。生き残った人々も、放射能による健康被害と寄る辺なき苦しい生活を強いられました。そこからの復興は、罪なく苦しみを背負った、その名もなき民の一人ひとりの努力にあったのです。
 それから69年、なかにしさんや落合さんが指摘するように、名もなき民の「我慢と自己犠牲」が強いられています。
 
 原水禁の運動の原点には、国の責任を明確にして、そのことを基本にしたヒバクシャの生活の再建と幸福の追求という視点があったと思います。私たちは、いま、その原点に返って、フクシマと向き合うことが求められています。
 国は、フクシマの復興を半ばに、その責任さえ明確にしないまま、川内原発の再稼働に踏み切ろうとしています。安倍首相は、「世界で最もきびしい安全基準」を繰り返し主張していますが、どこにも根拠を見つけ出すことはできません。
 私たちは原子力規制委員会から、一度も安全であるとの話を聞いていません。規制委員会の田中俊介委員長は「新規性基準を満たしてはいるが、私は安全とは言わない」と発言しています。
 菅官房長官は「原発の安全性は、規制委員会の判断にゆだねている。ここの再稼働は事業者の判断で決めること」として、国の責任を回避した発言を繰り返しています。九州の財界関係者に対する「川内原発は何とかします」という安倍首相の言葉は、今の政治が、名もなき民である私たちの声を、全く無視し、馬鹿にする、そして、フクシマの被災者の心を切り裂く、浅ましい発言であると、断言させてもらいます。

 5月21日、福井地裁樋口英明裁判長は、関西電力大飯原発運転差し止め訴訟の判決において
 「当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と、電気代の高い低いの問題等とを、並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことと考えている」
 「豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると考えている」とし、
 原発事故のもたらす被害の大きさを考えると、人格権の視点から大飯原発の再稼働は許されないとの判断を下しました。
 人間の生命の根源を、深く洞察した倫理的な判決は、「脱原発」の運動の正しさと、「脱原発」そのことが、国土に根を下ろしての豊かな生活を保障するものであることを、明確にした、歴史的判決であると考えます。
 アメリカ最大の原子力メーカーであるGEのジョンイメルト最高経営責任者(CEO)は、 「今、本当にガスと風力の時代になってきている」
 「原子力を正当化するのは非常に難しい」
 「だから、ガスと風力か太陽光、そういうコンビネーションに世界の大部分の国が向かっていると思う」と発言しています。
 「原発」に拘泥することなく、「脱原発」を国の方針として、意味のない既存原発の安全対策にかける多額の費用を、自然エネルギーの開発・拡大に注ぎ込むことに、直ちに着手すべきです。
 しかし、安倍政権は、「2030年代に原発ゼロを謳った」民主党の「革新的エネルギー戦略」を反故にして、新しい「エネルギー基本計画」を策定し、原発を重要なベースロード電源として位置づけるとともに、原発推進の基本政策に位置づけられていた「高速増殖炉もんじゅ」と「六ヶ所再処理工場」を基本とする、核燃料サイクル計画の着実な実施を盛り込みました。
 高速増殖炉計画からは、世界各国が撤退し、日本の「もんじゅ」も計画破綻と言った状況になっています。また、六ヶ所再処理工場も本格稼働の時期を20回も延長させ、そのめども立っていません。
 「核燃料サイクル計画」は、原子爆弾、核兵器の原料となるプルトニウムを利用する計画です。日本は、核保有国以外で唯一商業利用として、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出して利用する計画を進めてきました。

 現在、主に英仏で再処理し分離したプルトニウムを45トン所有しています。これは、長崎型原爆の5500発分にもなり、「近隣諸国の脅威」との批判も聞こえます。
 今年3月に、オランダのハーグで開催された「核セキュリティーサミット」では、「プルトニウムの最小化」への合意がなされました。原発がすべて停止している中で、日本は、プルトニウムの利用計画を策定できないでいます。
 日本が再処理の計画を放棄しない中、韓国は、改定時期を迎えた韓米原子力協定の交渉において、米国に対して再処理を認めるよう要求をしています。同時多発テロ以降、「核テロ」の脅威を視点に「核セキュリティーサミット」を開催してきた米国は、韓国の要求を認めず、韓米原子力協定は、改定されないまま2年の延長で決着しました。
 核実験を繰り返し核保有国とみられる朝鮮民主主義人民共和国と、プルトニウムを45トンも所有する日本の狭間にあって、韓国の不満は増大する可能性があります。原水禁は、この間、「東北アジアの非核地帯構想」を支持し運動を展開してきました。被爆国日本として、現実的課題としてこの構想をとらえるとき、プルトニウム利用政策を放棄することが極めて重要ではないかと考えます。
 被爆国日本が、プルトニウムの利用をやめる決断をする。そして、米国の核の傘の下にあるとする非現実的な呪縛からのがれ、先制不使用と消極的安全保障を自ら、米・ロ・中国に対して主張していく。
 原子爆弾の惨劇から、平和を誓った日本国憲法の前文にある「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と言うならば、日本政府はそうすべきです。

 さて、安倍政権は、憲法9条の平和主義の解釈を閣議決定のみで変更し、「戦争をする国」へ踏み出そうとしています。私たちは道を誤ってはなりません。
 「ホルムズ海峡は、日本経済にとって死活的」とする安倍首相の言葉は、「満蒙は日本の生命線」と言って15年戦争に突入した当時の主張と重なります。
 歴史に学ばずして、将来を語ることはできません。国を守る戦争は、常に最後は、一般市民を大量に巻き添えにするものです。沖縄戦が、東京大空襲が、ヒロシマ・ナガサキが、そのことを明確に語っています。
 東京大空襲の記録を生涯の役目としてきた作家の早乙女勝元さんは、「忘れるから戦争になる」と話しています。
 私たちは、ヒロシマ・ナガサキを、そして戦争の実相を、忘れてはなりません。
 

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