「日朝国交回復早期実現訪朝団」報告 

5団体の呼びかけで18名参加
 2004年7月19日から24日にかけて、「日朝国交回復早期実現訪朝団」が実施されました。昨年5月に有事法制集会を共催したフォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム)、全日本海員組合(海員組合)、全日本港湾労働組合(全港湾)、東京地方公務員関係労働組合連合会(東京地公労=自治労東京・全水道東水労・東交・東京教組・都高教〈オブ〉)、東京平和運動センターの5団体が呼びかけたものです。     →呼びかけ文
 訪朝団には、海員組合4人、東京地公労4人、東京平和運動センター2人、平和フォーラム6人の他、東京−ピョンヤン友好交流会議の水谷研次・事務局次長(連合東京総務企画局長)、朝鮮総聯国際局の金勲さんの計18名が参加。団長に福山真劫・平和フォーラム事務局長、副団長に福岡真人・海員組合中央本部政策教宣局長と山岸皓・東京地公労事務局長(都労連副委員長、東交副委員長)、事務局長に水谷研次さん、顧問に本郷真一・東京平和運動センター前議長という団の役員構成で進めました。また、参加メンバーは東京中心でしたが、山口・福井・大阪・神奈川からも参加しました。
訪朝団の主要な日程・行事
7月19日 (月)
8:30 成田空港集合
10:40 成田空港発(日本航空781便)
13:20 14:20 北京空港着
15:00 16:00 在北京朝鮮大使館でビザ申請。
18:00 19:00 北京市内見学(景山公園、天安門広場)
20:00 21:00 結団式・夕食
7月20日 (火)
11:30 12:30 北京空港発(高麗航空152便)
14:25 平壌空港着(出迎えに対文協国際局の孫さん、李さん、通訳の金さん)
16:30 万寿台大記念碑訪問・献花
18:30 対外文化交流協会と意見交換・歓迎宴(黄虎男国際局長、普通江ホテル)
7月21日 (水)
9:30 プエブロ号見学(拿捕した金鍾緑さんの説明)
11:00 朝鮮中央歴史博物館
15:00 万寿台創作杜訪問
15:25 平壌市地下鉄視察
16:30 原子弾被害者協会・意見交換会(朴文淑副会長、普通江ホテル)
7月22日 (木)
9:10 錦繍山記念宮殿訪問
11:20 澤奄協同農場視察(鄭明哲管理委員長の説明)
15:30 朝鮮職業総同盟訪問(金英道副委員長、
  金泰三国際部長、李明俊運輸水産職業総同盟副委員長)
16:30 万景台学生少年宮殿視察
7月23日 (金)
9:40 板門店視察
11:20 開城市・誠均館(高麗博物館)見学
12:00 開城市人民委員より工業団地建設について説明
16:20 信川博物館視察・犠牲者墓碑献花
19:30 対外文化交流協会・意見交換会(洪善玉副委員長、普通江ホテル)
20:00 平壌市内で答礼宴(対外文化交流協会)
7月24日 (土)
8:10 平壌空港発(高麗航空151便)
14:50 15:50 北京空港発(日本航空782便)
19:10 成田空港着
平壌空港到着(2004年07月20日14:25)
 平壌空港に到着したのは、成田空港を出発してからまる1日以上経ってから。国交がないので、ビザ申請を北京の朝鮮大使館で手続きしなければならないからです。今回の訪朝団は、この1日を使って、ビザ取得の他、結団式、若干の北京市内観光などを行いました。
 北京ルート以外にも新潟港〜元山港からの万喜峰号ルート、ロシアのウラジオストクや中国の瀋陽からの航空路線や鉄道ルートもありますが、現時点では北京ルートがもっとも早い方法となります。
 平壌空港には、受け入れ団体の朝鮮対外文化連絡協会の孫哲秀国際局副局長、李さん、通訳の金春姫さんの出迎えを受けました。前日まで雨季だったとのことでしたが、訪朝団の行くところは、東京でも、北京でも、平壌でも、東北アジア中がきわめて暑い状態で、これは訪朝中ずっとつづきました。
万寿台大記念碑訪問・献花(2004年07月20日16:30)
 まず訪問したのは、万寿台大記念碑。故・金日成国家主席の銅像とその両側に並ぶ2つの記念塔、朝鮮革命博物館前に広がる大型モザイク壁画からなるものです。外国からの公式の訪問者は銅像に献花するという慣例に従って、福山団長が献花しました。
対外文化交流協会・黄虎男国際局長との意見交換・歓迎宴(2004年07月20日18:30)
 つづいて宿泊先の普通江ホテルに到着。夜は、ホテル内で対文協と意見交換を兼ねての会食・歓迎宴となりました。このとき、対文協を代表したのは、黄虎男国際局長。5月22日の小泉訪朝時、首脳会談に通訳として同席した方。また、8月10日の朝日新聞には対文協の日本局長という肩書きで発言記事が掲載されるなど、38歳と比較的若いけれども日本との関係では非常に密接・重要な役割をもっている方です。
 黄国際局長はあいさつで、「朝鮮はこれからが暑い夏。昨日まで降雨でしたが、今日は晴天となったのは、訪朝した皆さんのおかげ。皆さんは、人々との交流のなかで朝鮮人民の自信をみることになると思います。2002年9月17日、朝日平壌宣言が合意されました。それ以降、日本の右派勢力の妨害により交渉が停滞する時期もありました。5月22日の朝日首脳会談により、国交回復に向けて交渉が再開されています。この間、期待とともに非常に複雑な思いで朝日関係に携わってきました。日本の平和団体と労働団体が一緒に訪朝したのは、おそらく初めてです。訪朝団の掲げる『日朝国交回復早期実現』という表現は、非常に深い意味合いを持っていると考えます。訪朝団の皆さんを心から歓迎します。今後ともさまざまな困難があるでしょうが、朝日友好の勇気を持って、お互いに奮闘しましょう」という趣旨の発言。
 これに対して、福山団長は、訪朝団を代表して受け入れを感謝するとともに、「まず最初にお詫びしなければなりません。まもなく日本では戦後60周年、朝鮮の皆さんにとっては解放60周年を迎えますが、過去の侵略戦争と植民地支配についていまなお謝罪と補償が実現できていません。第一義的には日本政府の責任です。しかし、日本で平和運動・労働運動を担うものとして、これまでの取り組みの弱さについて反省と同時にお詫びしなければなりません。朝鮮半島の自主的平和的統一と日朝国交回復に向けてさらに努力しなければなりません。2002年9月17日の平壌宣言をもとに、一刻も早い国交回復をおこなわなければなりません。訪朝団として、共和国の実情について視察させていただき、共和国が目指しているものを十分に学び理解を深めて、その率直な見聞を日本に持ち帰り、国交回復に資するものとしていきます。現在6ケ国協議が続いていますが、東北アジアの平和にとって大きな流れをつくらなければなりません。この平和にむかう方向を逆転させてはいけません。一方で、小泉内閣は、アメリカに追随し、軍事大国家の不安をあたえています。小泉内閣の有事法制化を許さず、私たちは、平和運動を進める決意です」と発言しました。
プエブロ号見学(2004年07月21日09:30)

説明してくれた金鍾緑さん
 現在は大同江に係留されている米国情報艦「プエブロ号」を視察。その当時、軍隊長だった金鍾緑さんの案内で、事件の概要を日本語で説明するビデオを鑑賞したあと、艦内を見学しました。
 米軍艦船が史上初めて元山沖で拿捕されるという「プエブロ号事件」が起きたのは、1968年1月22日。アメリカの原子力空母「エンタープライズ」が日本の佐世保に初めて入港(1月18日〜23日)中の出来事でした。復帰前の沖縄・嘉手納基地から朝鮮艦艇の攻撃命令を受けて発進した米軍F105戦闘機2機は日没のため、またベトナム戦争まっさなかのため出動可能な戦闘機部隊が揃わず、直後の戦闘は回避されました。しかし、米軍は艦船を日本海に空母6隻など艦船を大集結させ緊迫状態を続けました。しかし、朝鮮は「脅しには屈しない」とし、国連安保理でもソ連(当時)の反対があり、朝鮮との停戦協定に調印しているのは国連軍が休戦協定を破るわけにはいかず、外交交渉による解決しかなくなったアメリカは1968年12月23日、朝鮮領海に侵入してスパイ活動したことについて謝罪文を書いて、乗組員の釈放という形で決着しました。
 その後、プエブロ号は元山に係留されていましたが、1999年10月にシャーマン号撃沈記念碑のある大同江の忠誠の橋近くに移されました。1997年11月に訪朝した歴史学者の故・大江志乃夫さんが同艦を発見・写真撮影し、朝日新聞が1998年1月22日に特ダネ報道されましたが、当時、日本では日米新ガイドラインに基づいて「周辺事態法」制定にむけての動きが強まっていました。また、その後の有事関連法の制定など米軍支援のシステムが次々と作られています。現在、同様の事件が起きたらどうなるのか、米朝関係、そして日本の対米追随の問題点が浮き彫りにされています。なお、現在進められている6ヵ国協議の交渉事項にもプエブロ号の返還請求が含まれています。
平壌市地下鉄視察(2004年07月21日15:25)
 参加者の強い要望で地下鉄体験乗車。深く急なエスカレーターを降りると広い空間の駅。2路線で17駅あり、将来は8の字運転の環状線に拡張する予定。「復興」〜「栄光」の1区間に乗車。他の駅名は、「烽火」「勝利」「統一」「凱旋」「戦友」「赤星」「楽園」「光明」「三興」「戦勝」「革新」「建設」「黄金原」「建国」「光復」。
原子弾被害者協会・朴文淑副会長との意見交換会(2004年07月21日16:30)

朴文淑・原子弾被害者協会副会長
 反核平和のための朝鮮原子弾被害者協会」の朴文淑副会長は、長崎での被爆された方。1992年の被爆47周年原水爆禁止世界大会にも海外ゲストとして参加された方です。
 まず福山団長は、「今日はわざわざお越しいただき感謝します。最初にお詫びしなければなりません。まもなく日本では戦後60周年、朝鮮の皆さんにとっては解放60周年を迎えますが、過去の侵略戦争と植民地支配についていまなお謝罪と補償が実現できていません。日本で平和運動・労働運動を担うものとして、これまでの取り組みの翻さについて反省と同時にお詫びしなければなりません。私たちは日本で原水禁運動を担っていますが、在外被爆者の情報はわかっている限りでは、5000人くらいだと考えています。在外被爆者の日本政府による権利保障はたいへん不十分であると誰織しています。非常につらいことであることは承知していますが、ヒロシマ・ナガサキにおける朴さんの被爆体験とこれまでの思いをぜひ聴かせていただきたい。今日の朴さんのお話を日本に持ち帰り、日朝国交回復と日本における平和運動の前進、(在外被爆者を含む)被爆者の権利拡大のためにたたかっていきたい」と発言。
 朴副会長は、「『反核平和のための朝鮮原子弾被害者協会』は1994年に組織されました。被爆者の生活の保障と被爆責任の追及、対外的な連絡調整を目的としています。被爆者の一例として私の話をします。1945年8月9日、私が3歳のとき長崎で被爆しました。当時、私の家族・親族あわせて8人で暮らしていました。父親は叔父とともに『北里組』で砂利運搬の仕事に携わっていました。父親は爆風で木の下敷きとなりました。九死に一生をえましたが、足に傷を受けました。叔父は地面に伏せっていましたが爆風で投げ出され、全身火傷を負ったようです。建物が壊れ『助けてくれ』という人々の声が多かったが、すべての人を助けることはできませんでした。母親は、当時3歳の私と5歳の姉を連れていました。朝鮮人だという理由で防空壕に入れてもらませんでした。また、『朝鮮の赤ん坊は泣くばかりだ』と言われて、防空壕に入ろうとはしませんでした。しかたなく厚い布団で部屋を覆っていたために一命を取り留めました。母親は当時妊娠6ケ月でしたが、胎児は死亡しました。その後も母親は3年に7回も手術を受けましたが、寝たきりとなり、最後は53歳で癌で亡くなった。私も貧血など体調が悪くて、日本ではABCCで治療を受けましたが、何の効果もなく帰国しました。1999年には胃癌で手術しました。私も父親もいつも貧血や下痢に悩まされ、叔父は舌に潰瘍ができて食事もろくにできない状態でした。いくら治療を受けても被爆によるものなので直すことができず、最後は1999年リンパ癌で亡くなりました。兄も59歳で亡くなってしまいました。現在は私だけが生き残っています。兄は死ぬ間際に私の手を取って、『共和国は治療も生活も全部面倒見てくれたのに、日本は何の補償もしない。これでは死んでも眼を閉じるわけにはいかない』と言って亡くなりました。この10年間、被爆者運動に係わってきましたが、この間にも多くの被爆者が亡くなりました。先日も、結婚もせず独りで暮らしていた女性が血を吐き止血しても止まらないなかで、私に対して、『日本から謝罪と補償を勝ち取るまで活動を続けてほしい』と言って亡くなりました。共和国の被爆者の実情は厳しいです。被爆と高齢化のなかで病床に臥せ、活動ができない人が増えてきています。2001年には、私も原子弾被害者協会の代表として、日本の外務省の調査団に面会し資料を渡したが、日本政府は未だ何の対策もとろうとしていません。金正日総書記は、被爆者を一人ひとり調査し探し出して被爆者証明書を発行し、この原子弾被害者協会を組織しました。共和国では受けたい治療も静養も受けることができます。無料で特別に手厚い扱いを受けています。共和国に負担ばかりかけていて心が痛みます。それに対して、日本政府の対応には怒りを覚えます。日朝国交回復が被爆者問題解決の面でもよい影響があらわれるように、よろしくお願いします」という趣旨の発言をされました。
 その後、訪朝団と「反核平和のための朝鮮原子弾被害者協会」との話し合いは、質疑形式で次のようなやりとりしました。
Q:共和国の被爆者の調査はどのようになされているのか。
A:共和国の被爆者は1世だけで1900人いる。被爆者調査票にもとづいて、被爆当時の状況など、本人に申告してもらっている。
Q:日本では、被爆者の運動を2世・3世がどのように継承していくのかが課題となっているが、共和国では何か取り組みが進められているのか。
A:共和国では2世や3世も含めて被爆者証明書が付与され登録されている。2世・3世だけの特別の会合はないが、1世と一緒に活動をおこなっている。治療は1世と同じように治療を受けることができる。
Q:日朝国交正常化のなかで、在外披爆者への被爆者援護法の適用拡大など、共和国でも議論がなされているのか。
A:共和国の被爆者への被爆者援護法の適用は除外されている。日朝交渉のあと、どのようなことになっているのかはわからない。
Q:日本の原水禁運動は『いかなる核にも反対』という立場をとっている。共和国の核問題の考え方と原子弾被害者協会の思いとでは少し食い違う面もあるのではないか。
A:共和国においても反核は貫かれている。しかし、米国のために核問題が発生している。米国と対等の立場に立たない限り侵略されてしまう。かつて日帝の植民地支配から受けたような苦痛を再び受けるわけにはいかない。それだからこそ、今のような厳しい状況のなかでたたかっている。難しい状況にあるが、共和国の人民は力を合わせて頑張っている。米国と対等でなければ、イラクのようになってしまう。イラクの今日の状況は私たちに道を示している。核の問題は米国にかかっている。あくまで共和国は反核の立場に変わりない。東北アジアの反核のためにたたかっている。」
Q:共和国でも、被爆者に対する差別というものはあるのか。
A:被爆者ということで、共和国で差別を受けたことはない。しかし、自分自身の問題として肉体的にもそうだが、精神的な苦痛にさいなまれる。いつでも被爆の影響が出てくるのではないかとの不安がある。女性としても、子どもたちや孫たちが生まれるに際しても、障害を持って生まれるのではないかとの不安をいつも持っている。このことはいくらお金を積み上げられても補償されるものではない。平和人民ともいろいろあってきたが、共和国の声が日本政府に届かないのではないかとの不安もある。今回、日本の心ある人たちと会えて勇気づけられた。共和国の被爆者も高齢化が進んでいる。ぜひ私たち被爆者の声を日本政府に届けてほしい。そして日本の被爆者と同じように補償と謝罪を勝ち取らせてほしい。同じときに同じように被爆を受けた同じ人間なのだから。
 最後に福山団長が、「日本政府の調査団に面会され資料を提供されたにもかかわらず、その後何の音沙汰もないという点については、その後どうなっているのか日本に帰ってから調べます。共和国の声が日本政府に届かないとの話しがありましたが、私たちとしては、今日の朴さんの話を日本に持ち帰り、在外被爆者を含む被爆者の権利拡大のために今後ともたたかっていきたいと思います。来年開催される被爆60周年原水禁世界大会に、『反核平和のための朝鮮原子弾被害者協会』を招待し、日本で歓迎したい」というまとめの発言をおこないました。
錦繍山記念宮殿訪問(2004年07月22日09:10)
 ネクタイ・スーツで正装し、錦繍山記念宮殿に。10年前に金日成国家主席が執務室で突然の逝去したその議事堂を、遺体を生前の姿で安置したお墓で、一周忌の1995年7月に開館しています。
 朝鮮の人たちがこの宮殿を訪れることはたいへん名誉なことで、順番を待つたくさん市民や兵士は感胸に迫る様相・姿の人ばかりでした。
澤奄協同農場視察(2004年07月22日11:20)

鄭明哲管理委員長
  平壌市内から約30分のところにある「宅庵協同農場」を訪問。鄭明哲管理委員長から農場の沿革と現状・課題について説明を受けました。朝鮮には約4000の農場があり、「宅庵協同農場」は中規模のもので人口は700世帯約2800人、トラック・トラクターとともに、牛90頭を有効活用し、米、野菜、果物他をつくっているとのこと。山盛りで出されたトマトやジャガイモを訪朝団メンバーはみな頬張っていました。
 農場には、病院、診療所、小学校、中学校が各2校、託児所が8ケ所あるとのことで、託児所と幼稚園も視察しました。託児所の屋根には、日本ボランティアセンター(JVC)などでつくるコリアこどもキャンペーンのとりくみで設置したソーラー発電が動いていて、託児所の暖房やテレビなどに活用されているということでした。
朝鮮職業総同盟訪問(2004年07月22日15:30)
 続いて、職業総同盟を訪れ、金英道副委員長、金泰三国際部長、朴相満同副部長、金任傳同課長、李任哲同部員、運輸・水産職業総同盟の李明俊副委員長と懇談。職業総同盟は、教育、運輸、公務サービスなど7産別組織160万人で構成されており、労働者の労働条件の改善をはかるため、社会主義における労働組合の組織として活動しているとのことでした。
万景台学生少年宮殿視察(2004年07月22日16:30)
 万景台学生少年宮殿は、子どもたちのスポーツ能力や、あらゆる才能を伸ばすために作られた施設で、エリート少年少女たちにとっては非常に恵まれた環境。5000人の子どもたちが無料でクラブ活動しています。なお、コンピュータ教室だけは選抜制の英才教育だが、他は自主的な選択とのこと。また、非常に素晴らしい公演が行われました。
 万景望号で故国訪問している朝鮮大学校学生と朝鮮高校生徒の皆さんと一緒に参観しました。
板門店視察(2004年07月23日09:40)
 片道160キロの文字通り一直線の高速道路で板門店へ。板門店では、まず検問所内で板門店全体の立体地図による状況の説明を受け、片側2キロの非武装地帯をバスで移動。朝鮮戦争停戦協定調印場、軍事停戦委員会会議室等を見学。当時の建物がそっくりそのまま残されている。
 ソウルまでわずか40キロの位置にある板門店の、軍事境界線がある共同警備区域(JSA)のブルーの中央建物に入ると、軍事境界線をまたぎ写真を撮る。訪朝団の見学が終わると、南側からも小学生風の団体が代わって見学していました。
 「板門店」は、1953年7月の休戦協定以来、南北の対立と和解の歴史を映し出してきました。共同警備区域が完全に南北に分けられ、共和国軍と韓国、アメリカ軍兵士が対峠して別々に警備している現実の姿は、まさに分断国家の現場です。訪朝団メンバーにとって朝鮮民族の置かれた状況への理解を深める絶好の機会となりました。
信川博物館視察・犠牲者墓碑献花(2004年07月23日16:20)
 朝鮮戦争当時に、人口14万人中3万5338人が米兵によって住民が虐殺された信川の地。その状況を写真などで記録しています。また、当時の生存者から直接米兵の虐殺の実態の報告がされました。アメリカは虐殺の実態をもみ消すために、信川に3100回もの爆撃をくわえて、当時は3つの建物しか残らない惨劇だったとの報告がされました。
対外文化交流協会・洪善玉副委員長との意見交換会・答礼宴(2004年07月23日19:30)

洪善玉対外文化交流協会副委員長
 訪朝最後の夜、対文協の洪善玉副委員長、黄虎男国際局長ほかのスタッフをお招きし、お世話になったお礼の懇談会を訪朝団主催で開催し、意見交換しました。
 福山団長が、「@4日間多くのものを学ばせていただきました。Aアジアに平和を、そのためにも日朝国交回復は大切です。また、かつての日本帝国主義を思い出しました。日本政府に謝罪と補償を日本政府に強く求めていきます。日本に帰ったら、そうした方向で頑張ります。」と、まとめて述べました。
 洪対文協副委員長が「@福山団長の話しは大変すばらしいです。また、私どもは、この団の皆さんが、日本において「有事法制に反対し、共和国間題を考えるシンポジュウム」を行ったことを評価しています。A両国人民の力をあわせて朝日国交回復早期実現にむけて奮闘しましょう。早期実現がされると確信しています。」と、激励しました。
平壌空港出発(2004年07月24日08:10)

黄虎男・対文協国際局長

孫哲秀・国際局副局長

対文協国際局の李さん

通訳の金春姫さん
 最終日も早朝から行動。平壌空港には対文協の黄国際局長、孫副局長、李さん、通訳の金さんに見送りしていただきました。たいへんお世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。相互訪問・交流を活発化させ、一刻も早く国交を回復しましょう。

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