「慰安婦」の用語は当時なかったのか? 中山文部科学大臣は辞任を
2005年6月18日
日本の戦争責任資料センター
事務局長 上杉 聰
中山成彬文部科学大臣に問題発言がつづいている。各紙報道によると、まず昨年11月、「歴史教科書から従軍慰安婦や強制連行などの言葉が減ってよかった」と発言、その後、「個人的な発言は控えるべきだった」と「反省」するものの、今年6月11日、ふたたび「従軍慰安婦という言葉はそもそもなかった。これまでなかったことが(教科書に)あるということが問題」と述べたという。
これに対して細田博之官房長官は同月13日、「問題は言葉でなくて実質だ。(日本政府は)これまで官房長官談話などで(慰安婦について)おわびと反省の気持ちを表明している」と、従来からの政府見解に変更ないことを表明した。
この細田官房長官の発言で、今回の中山氏の発言は、一応決着した形となっている。中山氏も同日、「そういう方々がいて、筆舌に尽くしがたい苦労をされたこともよく知っている」と、政府見解と自らの考えに相違ないことを強調したからである。
だが、中山氏は上につづけて、「だから用語と実態の問題で、実態はあったことは知っているが、用語はなかったということだ」と再び語った。これでは、文部科学大臣として反省したことにならないだけでなく、「そういう方々がいて、筆舌に尽くしがたい苦労をされた」という発言も、その真意を疑わざるをえなくなる。
ことの発端は、冒頭に紹介した「歴史教科書から従軍慰安婦や強制連行などの言葉が減ってよかった」という発言にある。今回の問題発言も、静岡・教育改革タウンミーティングの場で、それへの説明としてなされたもので、教科書に「当時なかった用語」が書かれてきたことだけを問題にしたのだと釈明したという。
しかし、教科書に「当時なかった用語」を、本当に使ってはならないのだろうか。大臣は、一度でよいから歴史教科書を最初から読んでみるべきである。そこには、旧石器時代から始まって縄文時代、弥生時代……近現代へと大見出しがつづく。旧石器に、「旧石器時代」という用語が、果たしてあっただろうか。弥生時代の人々も、きっと自分たちの作った土器が、ずっとあとになってから東京の「弥生町」で発掘され、自分たちの生きている時代を教科書が弥生時代と書くようになるとは、思ってもみなかったことだろう。
歴史の上では比較的新しい「明治維新」さえも、当時そう呼ばなかった。そもそも、「慶応」年間に「維新」が行われたからである。慶応4年10月に「明治」と改元されるが、すでに鳥羽伏見の戦いも江戸城の明渡しも終わっていた。五箇条の誓文も慶応4年3月のことで、明治以前の話なのである。にもかかわらず、後に歴史学者が、現代の側から一連の変革をとらえ、その出発を明治維新と呼び、この語が定着したのである。
もし教科書から「当時なかった用語」を削れば、そもそも文字のなかった時代をすべて削らねばならないことになるし、「自由民権運動」も「第一次世界大戦」も「大正デモクラシー」も「日中戦争」もそうなって、およそ歴史教科書は成り立たないことになる。にもかかわらず、なぜ中山文科大臣は、「従軍慰安婦」や「強制連行」の言葉についてのみ、「当時なかった」とこだわるのだろうか。
反対に、「慰安婦」という言葉が「当時あった」ことはご存じだろうか。次の資料は、いずれも外務省が所蔵してきた公文書である。
「軍慰安所開設ノタメ…慰安婦ノ内地ヨリノ招致ハ…天野部隊ノ慰安婦招致ニ関シテハ」(1939年12月、『従軍慰安婦資料集』大月書店、121〜122ページ)
「右ハ当隊附属慰安所経営者ニシテ、今回、慰安婦連行ノタメ帰台セシモノナリ。就テハ、慰安婦ハ当隊慰安ノタメ是非必要ナルモノニ付、之カ渡航に関シテハ何分ノ便宜附与方、取計相成タシ」(1940年6月、『同上』133ページ)
ここにはっきりと書かれているように、「慰安婦」という言葉は、「当時あった用語」なのである。
ただ、「従軍」という冒頭の二文字はここにない。この二文字は、上の資料中に「軍慰安所」「当隊附属慰安所」などとあるように、軍に附属していた慰安婦の実態をより明瞭に示すものとして、戦後になって付けられたのである。後世の者が、現在の立場から、当時の実態をより良く理解できるように命名することは、「旧石器時代」…「明治維新」のように、歴史の表現としてあたりまえのことである。
「誰がそんな勝手に言葉を作るのか」と問われれば、歴史研究者である。最初は誰かが提唱し、その言葉が歴史上の実態をより正確に表しているか、理解を容易にするかという基準からみて、支持され、あるいは訂正などされて、次第に学会における公用語が形作られていく。教科書は、ほとんどそうした言葉によって占められているのである(現に「従軍慰安婦」についても、日本軍「慰安婦」とすべきとの議論が生まれている)。
そこへ、「従軍慰安婦」や「強制連行」についてのみ、「当時なかった用語」と問題視することは、教科書の検定をあずかる文部科学大臣としては、歴史教科書の叙述の基礎について無知であることをあらわにしただけではない、ことさらそれらの語のみを問題にしたということは、その語の指し示す実態をも否定しようとしたからであろう。というのも、その語を削る代わりに、別の語や実態の記述を教科書に補うべきであるとは主張していないからである。現に、今年検定を合格した教科書の多くから、その言葉がなくなるとともに、実態についてもほとんど消されてしまっているのである。
中山文科大臣は、従軍慰安婦へのおわびと反省を示したこれまでの政府見解と対立する立場を表明してきたことになるし、そうした教育行政を行ってきたことになる。1993年8月4日の内閣官房長官談話が次のように表明し、歴史教育を重視していることは重要である。
「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。…いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。…われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決してくりかえさないという固い決意を改めて表明する」
文部科学大臣中山氏の一連の言動は、この政府見解に反するのみならず、とくに歴史教育の責任者として不適格であることを示しており、すみやかに辞任すべきであることをここに声明する。
以上