表面化した「つくる会」の内紛劇
「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)が内紛をつづけている。今年に入ると、それが人事のめまぐるしい変転となって表面化したが、外部からはいったい何が起こっているか、容易にわからない。
外見上は、今年の1月17日、西尾幹二名誉会長が辞任したことを三紙が報道したのが出発点であった。これを皮切りに、2月27日の理事会で八木秀次会長と藤岡信勝副会長、さらに宮崎正治事務局長まで解任という事態となり、代わりに種子島経理事(元副会長)が新会長に選任された。そして翌月の3月28日の理事会では、先に解任されたばかりの八木理事が改めて副会長となり、4月30日の理事会となると、またまた種子島会長と八木副会長が辞任、これにともなって4人の理事も共に辞任し、新しい会長代行として高池勝彦(弁護士)が、副会長に藤岡氏と福地惇大正大学教授の2人が就いたのである。
分かりにくいこの内紛劇について、いつもの「つくる会」≠ニ笑って過ごすこともできよう。私としても、これまで情報源がブログ「西尾幹二のインターネット日録」(以下「西尾ブログ」)のみであったり、一方的なものであったりしたため、様子をきちんと把握することはかなり難しいと思っていた。とくに騒動の中心に、これまでの内紛経過を見るかぎり、必ず藤岡氏がいる筈であるにもかかわらず、彼はいっさい自分の姿勢を明確にしてこなかった。
しかし、4月に入って八木氏側の見解が、『諸君!』(5月号)に西岡治秀「『つくる会』―内紛の一部始終」(以下「西岡記事」)として示されると、4月18日、それまで沈黙を通してきた藤岡氏は、ブログ「藤岡信勝ネット発信局」(以下「藤岡ブログ」)を立ち上げ、自分の主張を外部へ向けて発信し始めた。これらによって、内情を示す多面的な情報がそろってきた。その後、八木氏と共に行動してきた新田均氏も、ブログ「つくる会の体質を正す会」(以下「新田ブログ」)によって、それまで誰も語らず空白だった時期の問題を含めて見解を述べ始めている。
今回の内紛については深刻なこともあり、広く世間に知られるところとなった。評論家・宮崎哲弥氏は、保守の「思想内容の空疎化が進んでいる」(『朝日新聞』5/9夕)とした上で、「つくる会」には、現在「保守が瀕しているきたい危殆」が表れている、と次のように書いた。これまで「『アンチ』の共通性、もっとはっきりいえば『反共』(『反左翼』『反進歩』『反リベラル』)のきし旗幟によって、保守陣営は辛うじてまと纏まりを保」ってきたが、そのことによって「保守陣営は『つくる会』に代表される草の根的な運動の足場を獲得した。しかし、自律的な指導理念を欠いたその運動性は(中略)『新しい敵=新しい規定』を求めて散乱していった」「『敵』を見いだしては、その都度、対象に逆規定されるような思想実践では、やがて細分化と惰性化とを避け得ないであろう」と。この分析は、今回の「つくる会」の内紛の捉え方として正確であるし、示唆にも富んでいる。
その直後に小熊英二慶應大学助教授は、「つくる会」幹部も一般参加者も「各人の考えはばらばら」であり、「アンチ左派」の一点で結びついているだけで、「ナショナリズムともいえますが、不安を抱えた人びとが群れ集う『ポピュリズム』だと考えたほうが適切だと思います。今後も社会の構造変動が続き、孤立感を感じる人は増えるでしょうから、『つくる会』のような運動はまだ出てくるかもしれません。しかし思想的な核が何もないのですから、大きな政治運動に成長する可能性は低いと思います」(『朝日新聞』5/11)と語った。
小熊氏によるこの「つくる会」の捉え方は、共著『〈癒し〉のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会)以来のものだが、「思想的な核が何もない」とまで言ってしまうと、彼らへの過小評価に陥るだろう。また互いに「アンチ」で結びついているからといって、それぞれが独特の思想や組織を持っていないわけではない。むしろ、「ポピュリズム」の手法によって大衆を操作しようとしている「核にいる側」への把握努力を欠くと、運動周辺の傾向はとらえることはできても、総体的な状況が分からなくなる。
『〈癒し〉のナショナリズム』は、たしかに「周辺部」の分析で優れているが、中心部分の分析を欠いている点で甘いものであった。ただ、共著者である上野陽子氏はその末尾の記述において、ポピュリズムで引きつけられた周辺勢力が、01年の教科書採択の失敗によって離れて行きつつあるにもかかわらず、「担い手が宗教団体『キリストの幕屋』の信者たちに移り変わりつつある」(133頁)事態を報告していたし、「幕屋の人たちは信仰と結びついているから、すごく熱心。つくる会への入会だって家族ぐるみでやる。つくる会の教科書とか『国民の歴史』なんかを自腹で何十冊も買って、知人に配っている」(95頁)というインタビューを収録している。
右派分析の必要性
このインタビューが行われたのは、「つくる会」歴史教科書の採択率が0.039lに終わって後、次の体制が作られ始めていた時期のことであった。言い換えるならば、01年の採択までを「第1次つくる会運動」と呼ぶならば、第2次運動が始まる時期までを上野氏の研究対象は含んでいた。その後の展開が「キリストの幕屋」のみならず「日本会議」など「宗教右翼」によって主導される傾向にあることは、拙稿「日本における『宗教右翼』の台頭と『つくる会』『日本会議』」(『季刊戦争責任研究』三九号)で明らかにした。今回の「つくる会」の内紛劇は、その「第2次つくる会運動」の結末であり、それが行き詰まったことによるものであった。今後「第3次運動」がどうなるかについては、現在の内紛の結果次第であり、その解明のためには「つくる会」の内部に分け入った分析が必要である。
右派の分析、とりわけ宗教右翼の研究については、アメリカのキリスト教原理主義などについては進んでいるが、日本人は自らの社会に巣くうこれらの勢力についてほとんど行ってこなかった。そのため「つくる会」運動の実態解明も現象的なものとなり、結果として、思想的な領域に踏み込んで分析するような場合にも、的確さを欠く事態が生じていた。たとえば、01年の採択に付された「つくる会」歴史教科書の内容的について、皇国史観ととらえることを批判する考え方に、それがよく表れていた。
『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)は、「この教科書の歴史観・歴史像の中核をさして『皇国史観』と呼ぶことは適切でないと思います」(86頁)とし、その根拠として、「この教科書を通読してみるとき、明治天皇の役割はあまり強調されていないことに気づきますが、これは近代日本を『近代国民国家』としてとらえることとかかわりがありましょう」(84頁)と、天皇制を一貫して叙述していないことを挙げていた。
しかし、「つくる会」教科書の検討は当時数多くなされ、天皇制がその史観の中心となっていることは、すでに大方の共通理解となっていた。そして、明治期の天皇制への言及がなされていない理由についても、むしろ天皇の戦争責任を免責するためであることが明らかとなっていた。つまり、「つくる会」教科書は、明治天皇のみならず明治憲法体制そのものの説明について重大な欠落をもっていることを、安田浩氏が次のように指摘していた。
「この教科書の政治制度、とくに天皇に関する制度の説明は、極端に簡略化された、不正確なものである。たとえば明治憲法の天皇権限の説明では、「憲法は、国家の統治権は天皇にあるとし、その上で実際の政治は各大臣の輔弼(助言)に基づいて行われると定めた。また、天皇に政治的責任をおわせないこともうたわれた」(214頁)と記述されているだけである。この記述では、実際の政治決定は大臣がおこない、天皇の統治権は名目的なものとして、象徴天皇と同様に権力をもたない存在として、近代の天皇は理解されることになる。さらに問題なのは、この記述が統帥権の存在などにまったく触れていないことである。つまり統帥権や外交権などがさらに天皇大権として憲法に規定されていて、とくに統帥権は国務大臣の輔弼の範囲外とされることで、軍部の内閣からの独立性が生じたことが理解できるようには、この教科書はまったく記述されていないのである」(歴史学研究会編『歴史家が読む「つくる会」教科書』青木書店、46頁)。
安田氏はさらに、「つくる会」以外の他の教科書すべてが統帥権について記述していることを指摘し、こうした記述の欠落が同会の教科書に生じた理由について、意図的に天皇の「政治責任の不在の主張」(『別冊歴史読本 テーマ別検証 歴史教科書大論争』50頁)をするためであったと指摘していた。
これを換言するならば、「つくる会」が歴史を天皇制に基づいて描き切るためには、現段階ではまず天皇の戦争責任を解除することの方が先決であり、そのためには、統帥権など天皇に責任を負わせる危険性がある戦前の制度の存在は伏せられたのである。
たしかに、彼らにもそれくらいの「政治性」があることは知っておくべきだろう。むしろ、危険なことは、彼らの書いた内容を、そのまま素朴に信じることの方である。その点で永原慶二氏は『歴史教科書をどうつくるか』(岩波書店)において、「今回(2001年)の『つくる会』の歴史教科書は、内容的には『新編日本史』を継承した第2版のような性質をもっている」(15頁)と、皇国史観教科書としてすでに知られていた『新編日本史』(現在は『最新日本史』明成社)との類似性を強調していたのは正確であった。
2002年版の「つくる会」教科書が、より皇国史観的な色彩を帯びたことについて、これを否定する人はいないであろう。それは、当初抑制されていた史観の表明が、ついに表面化したという意味と、それを強く持つ勢力が「つくる会」の中で大きな発言力を持つことになった「第2次つくる会運動」の結果でもあった。こうした現状の把握について、研究者がある種のナイーブさを持つことは避けられないとはいえ、一つの社会事象をとらえようとする場合、表層の事実の把握で止まって良い筈はない。本稿は、その意味で、先の拙稿につづき、立ち入った右派勢力の分析に入ろうと思う。
ただし、今回の内紛については、まだ係争中であり、最終的にどう決着していくか予測できない面がある。とくに7月初旬に予定されている「つくる会」第9回総会で最終的な回答が出されると考えられるので、現在は不十分なままに中間的な分析を行いたい。元になっている情報源はいちいち注記しないが、上述の西尾・藤岡・新田ブログ、西岡記事、さらに「つくる会」の内部資料や公式サイトなどである。
内紛への助走
今回の事の発端は、05年の中学校教科書の採択結果が出始めた昨年の8〜9月にさかのぼる。それまで「つくる会」の運営に不満を持っていた西尾氏と藤岡氏は、この時期、共同して行動を起こすことになったという。西尾氏の不満の中心は、自らも執筆した「つくる会」歴史教科書が、岡崎久彦元駐タイ大使の手によって親米路線へと大幅に書き換えられたことであった。西尾氏は、教科書の書き換えが扶桑社の編集者によって実施されたと推測し、9月1日、主要執筆者と扶桑社による採択反省会議が開かれた際、扶桑社の営業担当者をスパイでもあるかのように詰問したという。9月25日に開かれた同会の第8回定期総会議案書では、市販本の販売が遅れたことなどを含め、扶桑社との間に「基本方針の食い違いがあった」と明記している。
いっぽう藤岡氏の不満は、採択をめぐって各地の「つくる会」がもっと果敢な行動をとるよう事務局は指導すべきであった、という点にあった。「つくる会」の宮崎事務局長は、「静謐な環境を守る」という既定方針を消極的に守っているだけと考えていた。業を煮やした藤岡氏は、杉並区の採択においては、自分が前面に出て、指揮を執り、大衆動員方式を強引にやりぬいた。結果として、かろうじて歴史教科書の採択を勝ち取り、それを背景に9月の定期総会では、今回の採択戦では「教育委員会への働きかけが弱かった」「リーダーシップの欠陥」があり、「戦術における著しい受動性・消極性」「攻撃性の欠如」が見られた、などの反省を議案書として提出し、「活力ある効率的な組織に変えなければならない」と括った。
西尾氏の怒りは、とりあえず藤岡氏の方向性、つまり「つくる会」事務局の刷新から始めるべきという打開策としてまとまり、宮崎事務局長を更迭することを、九月中旬までに、八木会長の了解も含めて取り付けたという。しかし実際に宮崎氏へそのことを話すと、辞任を拒否した。たしかに、「静謐な環境を守る」という方針は、「つくる会」が01年の採択における惨敗をふまえ、一貫した方針としてきたもので、その線で文部科学省も動かしてきた。それを十分な討論もなく突然変えるというのは、いささか乱暴な「肩たたき」であった。
西尾ブログは、この宮崎事務局長更迭の理由を、表向き彼の性格のせいにしている。「温順な優しい人格」「『事務局長』という対決精神を求められるポストには向いていないのです」と説明しているが、やはり基本は路線対立であった。採択率を増やせない閉塞状況に陥った藤岡・西尾両氏が、あせりから急激な方針転換を決意したことによって、宮崎氏は振り落とされようとし、第2次運動の責任も押しつけられようとしたのである。
事務局長解任を拒否されたことにより、「打開策」は逆に膠着状態を生みだした。以後、両者による駆け引きが12月にかけて繰り返された。この間の動きは、新田ブログに詳しいが、藤岡氏の陣営は宮崎氏追い落としのため、会員管理に導入したコンピューター処理をめぐる問題など些細な件を持ち出し、責任を追及すると、それに対して宮崎氏をかばう側から強い反発が起こり、そのやりとりを通して相互に不信が募っていった。この時期の状況を外部から見る限り、宮崎氏側に多少の同情を禁じざるを得ない面がある。しだいに八木会長も藤岡・西尾陣営に距離を置きはじめ、やがて宮崎氏と行動を共にする形へと展開していった。
ただ、ここで留保しておきたいことがある。それは、当時、「日本会議」(後述するように、宮崎氏はそのメンバーである)周辺から、彼らも手詰まりとなっていた高校教科書『最新日本史』の発行・採択について、今後は「つくる会」の活動に組み入れ、より大きな運動にしたい、との希望が漏れてきていたからである。こうした日本会議の「つくる会乗っ取り策」の噂が―その真偽は別として―彼らに反対する側の警戒心をあおった可能性も否定できない。
ついに12月12日には、4理事による藤岡氏など執行部への「抗議声明」が出されるところへと進む。この4理事も「日本会議」のメンバーであり、新田均皇學館大学教授、内田智弁護士、勝岡寛治明星大学職員、松浦光修皇學館大学助教授であった。それに宮崎正治事務局長を含めて、日本会議を指導してきたグループ「日本青年協議会」の構成員でもあった。
彼らは、宮崎氏が「コンピューター問題」によって会に損害を与えたとして停職、さらに事務局次長に降格されようとしたことに対して「“損害”なる主張は何ら法的実体を伴わないものです」「これらの言挙げは、まるで南京大虐殺を左翼がでっちあげて日本軍国主義批判を展開することを想起させます」とし、宮崎氏解任のためにしくまれた「一種の謀略」と批判した。
日本会議と「生長の家」元学生部
この「日本会議」(97年結成)については、先の拙稿でも書いたが、04年に大佛次郎論壇賞を受けたケネス・ルオフ『国民の天皇』(共同通信社)が、その後きちんとした分析を行っている。それによると、紀元節の復活ないし建国記念日の制定を求めた1951〜66年の運動を出発点とし、本格的には1968年から79年にかけて元号法制化運動を担い、四六の都道府県議会と市町村議会の過半数となる約1600の決議を推進するまでに大衆化(つまりポピュリズム化)した宗教右派勢力を背景とした団体である。現在は、靖国神社への首相の公式参拝や憲法の改悪への動きを作り出し、今年の春も皇室典範の改正を挫折に追い込んだ。今進められている教育基本法の改正についても、それを推進する中心的な勢力となっている。
その核となっているのは神社本庁(その政治局としての神道政治連盟)だが、ブレーンおよび活動家として指導的な地位にいるのが「日本青年協議会」である。この「日本青年協議会」は、現在そこから分かれた「日本協議会」と一体となって行動しているが、もとは70年前後の学生運動に対抗する目的で設立された組織で、実体は「生長の家」学生部であった。その後、創始者・谷口雅春氏から二代目に移って方針が変わり、「生長の家」そのものは現在こうした活動を停止している。そのため彼らは同協議会の名を借りて活動を継続しているのである。全国キャラバン隊や地方議会決議という日本会議が今進めている運動手法は、もとは彼らが編み出したものであった。
「つくる会」への彼らの影響力をみると、昨年9月の総会で承認された21人の名誉会長・会長・副会長・理事・事務局長のうち5人が、また後に行動を共にすることになる八木氏も加えるならば6人が、日本会議のメンバーかその同調者ということになる。さらに、早稲田大学時代から日本青年協議会で共に活動してきた人物に、前「つくる会」副会長の高橋史朗氏もいる。彼は宮崎氏の後輩にあたり、「高橋君」と呼ばれていたという。「つくる会」の内部に日本会議がいかに大きな位置を占めているかということである。
『国民の天皇』においてルオフ氏は、「紀元節復活と元号法制化を目指して国会に圧力をかけるため、右派の団体はこれまで左翼運動につきものだったさまざまな草の根運動のテクニックを取り入れた。こうした右派の組織は日本の(中略)『市民社会』の一部を構成しており、政治的影響力は無視できない。一方にリベラル、他方に保守的な国家を想定するといったあまりにも単純な二分法は、このあたりでやめた方がよさそうである」(226頁)とし、「米国の最右派団体、キリスト教連盟と同じように、神社本庁は個々の市民と国家との間に位置する市民社会の中に確固たる位置を占めている」(274頁)と書いている。これが現在のポピュリズム宗教右翼の実態であることにもっと関心を向けるべきであろう。
西尾幹二氏も、八木氏が日本会議の側へ傾いていった経過について、ブログで次のように述べていて興味深い。
「八木さんをこんなにおびえさせた背後のもの、それに対する配慮のために自分を失いかねなかった背後の勢力とは何でしょうか。じつは、ここからが微妙で、言いにくい点なのですが、要するにわれわれにとって兄弟の組織、親類のような関係にある団体「日本会議」です。(中略)「つくる会」の地方支部は大体「日本会議」と同じメンバーで重なります。日本会議を敵に回すことは「つくる会」の自己否定になる、と八木さんはおびえていました。四人組に対し強く出ることは会を割るだけでなく、日本会議の今後の協力が得られなくなることを意味するのだというのです。/しかも当の宮崎氏は「俺を辞めさせたら全国の神社、全国の日本会議会員がつくる会から手を引く」と威したのでした」「(つくる)会の幹部は日本会議の椛島事務総長にも、また、同じように背後から宮崎事務局長の立場を守ろうとしていた日本政策研究センターの伊藤哲夫さんの所にも出向いて挨拶に行っています。私は行っていませんが、八木、藤岡、遠藤、福田の諸氏は互いに都合のつく者同士で組んで挨拶と相談のために出向いているのです。(中略)そして余り色よい返事をもらえないで帰って来ています。(中略)椛島さんも伊藤さんもあの古い保守学生運動の仲間なのです」
ここに出てくる日本政策研究センターは、これまで「つくる会」を側面から政治的に支える活動を行っていたが、同じ組織人脈のもとにあることが、今回はっきりした。
カルトとポピュリズム
また、右で西尾氏によって「あの古い保守学生運動」と呼ばれたものこそ日本青年協議会(日青協)であり、椛島氏はそちらの中心人物でもある。この組織の実態は興味深いもので、西尾ブログに寄せられた声の中に、そこで活動してきた体験者の克明な報告が載せられている。現在は京都大学大学院で学んでいるという彼は、約一年間にわたって日本青年協議会傘下の学生組織「学生文化会議」で活動してきたことがあり、その後決別したという。彼は、「日本青年協議会と谷口雅春信仰の実情」と題して次のように回想している。長い引用になるが、重要なのでお許しいただきたい。
「入会後しばらく経って聞かされたことは実はこのサークルは学生文化会議近畿ブロックという大きなサークル連合の一つだ、ということであった。このとき彼らはもちろん日青協の名前など一文字も出すことはない。まさに正体を徐々に徐々に小出しにしていく、という宗教サークルの手法の典型例である。ところで私は何の根拠もなくこの文化会議を宗教サークルと呼称したのではない。私が入会して、一ヶ月ほどが経過したとき聞かされたのが、文化会議が伝統的に師として仰いできた四先生の教え、というものであった。それこそがまさに「三島(由紀夫)、小田村(寅次郎)、葦津(珍彦)、そして谷口(雅春)」の各氏であったのである。ここであまりに奇妙だったのはこの四先生なるものの「教え」を聞いたとき、このことはある程度以上の地位に就いているサークル幹部にしか教えてはならないものであり、他の誰にも口外してはならないと厳しく言われたことであった。正に秘境的教えともいうべきものである。通常の団体であれば自分たちが仰ぐ思想家を誇りに思い堂々と世間に対して表明するのが普通であろう。この四人中、谷口雅春ただ一人だけが宗教家であり新入生から怪訝に思われる、という危惧があったことは間違いないと思われる。しかし彼らが谷口氏を宗教家として信仰しそれに誇りを持つのならば堂々とその内実を初めから明かし、文化会議とはそういう流儀のサークルとして活動してきたのだということを素直に表明してくれてさえいれば私としてもそれなりの距離を置きながらこのサークルと付き合っていくという選択肢もありえたのかもしれない。が、後にも詳しく述べるが彼らは最後の最後まで谷口雅春を信仰する宗教的要素をもった団体であるとは認めることはなかった。(中略)
一二月ごろ、文化会議の幹部の一人として私は中央委員会なる幹部会議への出席を求められた。このころからようやく私にも日青協という組織の実態が見え隠れしてきたことで、この学生文化会議なるサークルが実は何の主体性も有していない日青協傘下の完全な下部学生組織であるということも分かり始めてきていた。/逆に言えばこの中央委員会に呼ばれるということは日本青年協議会の実態を少しずつ明かしてもよい地位についてきたということなのであろう。私が見た彼らの資料の中には方針として、
1年目には4先生の教えを徹底させる。
2年目には天皇信仰を徹底させる。
そして3年目には総仕上げとして谷口雅春氏の教えを最後に植え付ける。
という裏のカリキュラム(洗脳プログラム)とでも言うべきものがある。この中央委員会では、かの4先生の名前とその教えが簡単に書かれたレジュメを渡され皆で「葦津先生、三島先生、小田村先生、谷口先生のご遺志を受け継ぎ、天皇国日本の再建を目指さん」と何度も復唱させられるのである。さらに心許してきた学生に対しては「今度、尊師(谷口雅春)のお墓に行こうと」と誘い、またより組織に定着してきたと思われる学生には谷口雅春の主著である『生命の実相』を読むように薦められる。こうしたやり方がカルティックといわずして何と言うのだろうか」(括弧内は引用者による)
「カルティック」とあるが、彼らが自らの信仰を隠しつつ、他方でいかに大衆迎合的に活動しているかということでもある。「カルティック」が、それと接してきた側からする不気味さを表す言葉であるならば、逆に「ポピュリズム」という言葉は、彼らの大衆への接し方を要約しているとしても問題ないであろう。「つくる会」の運動は、カルトとポピュリズムが表裏をなす構造を持っているのである。
内紛の顕在化
明けて1月16日の今年最初の理事会は、日本会議メンバーによる西尾・藤岡両氏に対する激しい抗議の場となった。西尾氏には、追及に窮する一幕もあり、彼は翌日、名誉会長の辞任を発表する。同氏は「若い人とことばが通じなくなってきて、むなしい」と読売新聞(1/18)に語っているが、組織的なエネルギーとの対立に嫌気のさしたことが推測される。この理事会で、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の三副会長も一斉に辞任しており、副会長は藤岡氏一人が留まったのみである。
西尾ブログによると、このあと、彼は会長を藤岡氏にする線で動き始めたという。日本会議のメンバーと対抗し、彼らを排除できるのは藤岡氏しかないと考えたからという。しかし、西尾氏のすすめにもかかわらず藤岡氏は動かなかった。これまで西尾氏に同調してきた理事は6人程度いたが、中間派とみなされるメンバーもほぼ同数おり、そこへ西尾氏が会を出たことで、むしろ藤岡氏は弱い立場に陥ったと考え、日本会議に抗争を仕掛ける精神的な余裕を持たなかった様である。
西尾氏はこれに怒り、「私は藤岡氏にいたく失望した。(おとな)穏和しい性格ではないのに、妙に温良ぶっている。戦意をすでに失っている。昂然の気概がない(中略)彼は将たり得ない人物だ」と公言した。西尾氏の藤岡評は悪化し、このままでは日本会議に牛耳られて、「理事が次々と辞意を表明し、逃げて行くであろう。/どこまでも残留するのは、およそプライドというものを持たない藤岡氏であろう」とまで書いた。「他人の心をつかめずに他人を操ろうとして、それが謀略めいて見えて、信用を失うことを彼は10年間、そして今も繰り返している」、あるいは「たちまち昨日言ったことを替えて、結果的に彼を支持しようとしてきた人の梯子を外す」「昨日顔を真っ赤にして怒りを表明していた相手に、今日はお世辞を言って接近する」「用が終わると、同じ人に数日後に会っても鼻もひっかけない」と、不信を表明してはばからなかった。
ただ、藤岡氏が動かなかったことにはもう一つの理由があっただろう。それは、西尾ブログも認めるように、「つくる会」の地方支部は「日本会議」と重なる部分が大きく「日本会議を敵に回すことは『つくる会』の自己否定になる」という大きな現実があったからである。藤岡氏は、日本会議のメンバーを排除して、これから「つくる会」を維持していけるか、自信なかったものと推測される。
藤岡氏は、日本会議との関係は弱く、むしろ「原始キリスト教団・キリストの幕屋」と呼ばれる無教会派の一団との強い関係を、教科書運動の発足以来保ってきた。3年前の愛媛の中高一貫校や今回の採択で大衆行動の前面に出たのはこのグループであった。藤岡氏が昨年九月の総会でうち出した大衆動員方式による運動を現実に実行しようとするとすれば、主にこの教団に依存するしかない。だがこの教団は、日本会議の中に大きな位置を持っておらず、むしろ厄介視される傾向にある。
ただ、少なくとも理事会の雰囲気は、藤岡氏擁立で動いた西尾氏の読みが当たっていた。次の2月27日に開かれた会議で、日本会議メンバーに対する理事からの反発が表面化し、まず宮崎事務局長が、その資質と会の運営を混乱させた責任を問われて退職に、次いで八木会長も、この間の会運営について指導力を欠き、事態を混乱させた責任があるとして辞任させられたからである。その際、昨年12月、八木氏が事務局員数名と中国を訪問し、知識人と歴史認識について討論した軽率さも批判された。
この日、藤岡副会長も、執行部の一員としての責任を問われる形で共に辞任させられたのだが、八木氏に代わって種子島経元BMW東京(株)社長が会長に就任、彼は西尾氏と藤岡氏の双方に近い人物でもあった(種子島氏がキリストの幕屋に属しているという噂もあるが、今のところ根拠は薄弱にみえる)。就任2日後には藤岡氏を福地理事とともに「会長補佐」という特別職に任命し、実質的に「西尾・藤岡」連合が立場を逆転しつつあった。藤岡氏はこれで矛を収めたかったようである。3月6日に開かれた「つくる会」の首都圏支部長会議において、同氏は「八木氏は日本の宝です」と持ち上げ、周囲を驚かせたという。
この支部長会議において、「つくる会」に最初から関わってきた歴史学者・伊藤隆氏の「辞表」と題された種子島会長に宛てた文章が公表され、多くの関心を引いた。
「新しい歴史教科書をつくる会の立ち上げ当初から理事として参加してきましたが、教科書が出来た段階で、自分のしなければならぬ仕事に専念するために辞意を申し上げておりました。形だけでもよいから残留して欲しいと当時の田中英道氏から慰留され、さらに私が信頼している八木秀次会長に交替したときにはそのままにしておりました。大した事は出来ないが、多少なりともお役に立てればと思って今日に至りました。ところが今回の騒動で、私が積極的に参加していた時期にも繰り返し内紛が繰り返されていた、その際必ず藤岡信勝氏がその紛乱の中心の当事者であったこと、それがこの会の発展の阻害要因ともなってきたことを思い出し、私の信頼する八木会長を解任した藤岡氏が会の実質上のリーダーとなるような今日の事態のもとで、最早理事として名を連ねることは、全国の運動を推進されている会員の皆様に対して責任を果たす所以でないことを考慮し、改めて理事を辞退させて頂きたく存じます。
なにとぞ、ご了承下さるようにお願い申し上げます」
日本会議派の反撃と藤岡氏の逆襲
宮崎事務局長が退職に追い込まれ(彼は有給職員であった)、八木会長も降ろされた日本会議派は、必死の巻き返しを開始した。ただ、そのやり方は汚いものだった。次のような怪文書が、3月の初旬、かなりの人数の理事へ送り届けられたという。
警察公安情報 藤岡教授の日共遍歴 日共東京都委員会所属不明
S39 4月16日開催の道学連在札幌編集者会議出席、道学新支部再建準備会出席
S41 北海道大学大学院教育学部所属
S56 東大教育学部助教授
H10 東大大学院教育学部研究科教授
H13 日共離党
「公安情報」と銘打たれたこの怪情報を、多くの理事は信じたようである。3月28日に開かれた理事会で、今度は藤岡氏が会長補佐の任を解かれるとともに、八木氏が副会長に任命された。しかし、藤岡氏が「平成13年」(2001年)まで日本共産党員であったという「情報」は、常識さえあればとても信じられるものではない。ただ、それを笑って消し去るほどの人望が彼には無かった。
追いつめられたことで、今度は藤岡氏がふっきれた。このあと、日本会議との融和路線を完全に捨て、必死の逆襲に出たのである。共産党からの離党が2001年とする「情報」に対して自己弁明する藤岡ブログには鬼気迫るものがある。多くの理事は、その釈明を受け入れた。それによって、むしろデマを流した方に批判の矛先が向かうことになった。ただ、怪文書の効果に味を占めた日本会議派は、さらに産経新聞の記者と通じ、3月28日理事会の内容を自分たちに有利な内容で報道させる挙に出た。これが彼らの致命傷となった。
翌日の産経新聞は、その理事会について、「つくる会 八木氏を副会長に選任 夏までに会長に復帰へ」というタイトルで報じ、「同会の内紛は事実上の原状回復で収束に向かうことになった」「地方支部や支援団体から疑問の声が相次いだことなどから再考を決め」「宮崎氏の事務局復帰も検討されている」とした。また「理事会では西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認された」とし、「種子島会長は『会員の意見を聴いたところ、八木待望論が圧倒的だ。内紛はピンチだったが、「創業者の時代」から第2ステージに飛躍するチャンスにしたい』と話している」と報じたのである。
ところが、その理事会は、28日の19時から始まっていたが、「Sankei Web」はその記事を同日の22時前に、すでにインターネット上に流していることがあとで判明。「つくる会」内部から事前に誤情報が流されていたことが、逆に追及の対象となっていった。また「つくる会」として、「西尾元会長の影響力排除を確認」「宮崎正治前事務局長の事務局復帰も検討」と報じた点について、「明らかに理事会の協議・決定内容ではありません」と、産経新聞に対し抗議する局面へと発展していった。
一応の決着と今後
産経新聞を使って全国の日本会議勢力へ働きかけ、八木体制支持の流れを作ろうとした稚拙な策略は、こうして自らの墓穴を掘ることになった。次第に、怪情報を含めそれらの実行者かその近くに八木氏がいるらしいということになっていった。二度にわたって藤岡氏側は八木氏の査問を要求、それが実現しないままに次の理事会へなだれ込んだが、すでに力関係は完全に逆転していた。たとえば「つくる会」東京支部のホームページの掲示板は、反藤岡派の書き込みも多く、様々な情報が乱れ飛ぶ場だったが、4月6日には「つくる会」本部のホームページとのリンクを切り離され、そのトップページには藤岡ブログへのリンク画面が大きく掲げられ、藤岡氏による東京支部支配の誇示を許すまで変わっていった。
こうして4月30日に開かれた理事会では、種子島会長が冒頭に辞任を表明することから始まるという異常事態となった。彼はその理由を、「3月28日の理事会で、理事間の内紛は一切やめる、今後は将来についての議論のみ行い、過去に遡っての糾弾は行わない、との方針を決めた。ところが、翌日の産経新聞が不正確な記事を出し、その取材源の追及が始まった」こと、「一部の理事」が八木氏の査問を要求してきた。彼が拒否したのは、「これは、私の選んだ副会長を信任しないということであり、こんなことでは会長職を全うすることは不可能であるので、辞任を決意し八木副会長に伝えた。八木氏も『精神的に限界で、私も辞めます』と表明、揃っての辞任となった」という。
さらに八木氏も、「本会は発足以来、定期的に内紛を繰り返してきたが、『相手代わって主代わらず』という言葉があるように、今回は私などがたまたま『相手』とされたに過ぎない。『主』が代わらない限り、本会の正常化は無理であり、発展も未来もないものと判断し、退会を決断した」と表明したという。
ただ、藤岡氏は、それだけで2人を退席させなかった。福地理事と共に、理事会の場を、文字通り「査問場」へと変えたのである。「八木氏が3月理事会の精神に反する一連の謀略工作の中心にいる可能性が極めて高く、その証拠もあることを説明し八木氏の聴聞会の開催を改めて求めた」が、これに対して「会長は、1、八木氏に確かめ、事実を認めれば解任し、自分も任命責任をとって会長を辞す。2、否認すれば八木聴聞会を開く、と表明」。「翌日13日、種子島、八木、藤岡、福地、鈴木の5人の会合の場がもたれ、冒頭で会長は両名の辞任を表明した。従って、前日の一のケースであったことになる」と詰問し、追いつめた。
「つくる会Webニュース」は、この会議について「2時間半以上にわたって続きましたが、結局八木氏は謝罪せず、種子島・八木両氏は辞意を撤回するに至らず、辞任が確定しました。この両氏の辞任に続いて、新田・内田・勝岡・松浦の四理事も辞意を表明(松浦氏は欠席のため文書を提出)、会議場から退出しました」と報じた。こうして会長代行に高池勝彦(弁護士)、副会長には藤岡・福地両理事が選任されたのである。
一連の「つくる会」の騒動は、こうして日本会議派の排除によって収束に向かいつつあるように見受けられる。今後もっとも可能性があるのは、日本会議が組織的に「つくる会」から手を引くことであり、もしそれが行われるならば「つくる会」の会員は恐らく半減し、とくに地方では、一部を除いて同会は不随状態になるだろう。次回の採択まで「つくる会」がどの程度もつか、たとえもっても大幅に力を失い、とくに議会への影響力を無くすことになろう。
しかし、それによって「つくる会」が宗教右翼勢力によって支配されることから脱する訳ではない。たしかに組織の中心は、藤岡氏と西尾氏に近い理事によって占められようが、内紛に嫌気をさして離れる会員も多いと予想される。そのとき藤岡氏の手足となって動くのは、さらにカルト性の強い「キリストの幕屋」の可能性が高い。カルト/ポピュリズムの構図はこれからも続くのである。
もう一つの可能性としては、7月に開かれる次期定期総会で、全国に基盤をもつ日本会議が総力を挙げて再度の逆襲に出ることも、全く考えられないわけではない。現に彼らの怪文書が、今も―当日本の戦争責任資料センターにまで―送られ続けているからである。その時、日本会議の離脱がもたらす危機的な状況を考え、一種の手打ちが行われる可能性を残している。
ただ、そうした短期的な帰趨を超えて、西尾氏が言うように「現代日本の保守運動に二つの流れがあるのかもしれません」という指摘は、冒頭に紹介した宮崎哲弥氏の分析とも合わせるとき、興味深い。というのも、皇室典範の改正をめぐる会議で八木秀次氏は、「女系」天皇に反対する論陣を張ったが、同じ「つくる会」の前事務局長であり現理事でもある高森明勅拓殖大学客員教授は、女系に賛成の論を活発に展開してきた。「つくる会」がここでは真二つに割れていたのである。
これについて八木氏は、最新の著書(渡辺昇一・松浦光修との共著『日本をしいた虐げる人々』PHP研究所)において高森氏を名指しし、「白い共産主義≠ノ荷担するような言辞」と非難している。こうした対立の背景には、たとえば皇學館大学など、戦後大学から追われた皇国史観派の再結集する場となってきた大学ですら、現在彼ら日本会議派が必ずしも全幅の支持を得られず、むしろ彼らと対立する保守陣営が皇室典範問題などをめぐって生まれていることが指摘されている。こうした右派内部の対立は、今回の「つくる会」騒動に陰を落としている可能性がある。今後も彼らの動きを把握しつづける必要があろう。
(『季刊戦争責任研究』52号<’06/6>より)