以下は、3月11日の記者会見で、「つくる会」の白表紙本を理解していただくため配布した資料です。
記者会見に30社近く、約50人の記者さんが参加してくれましたが、日本国内ではライブドアの地裁判決の記事にとられ、あまり大きく報道されませんでした。ただ韓国では、私たちの直後の「日本の教科書を正す運動本部」による記者会見で、世論は大きく沸騰したようです(内外ニュース速報)。
ともあれ、白表紙本の不正が発覚したこの日、経営権をライブドアに奪われる可能性が生じたことも合わせると、扶桑社にとって「厄日」であったかもしれません。
なお本論文は、日本の戦争責任資料センターのご厚意によって同センターのホームページhttp://www.jca.apc.org/JWRC/index-j.htmlから転載したものです。
T.削除・訂正箇所抜粋
以下は、旧版の「つくる会」教科書が指摘された問題箇所のうち、今回の白表紙本において削除ないし訂正されている箇所をゴチックで示したものである。
〔1〕グラビアp.3
飛鳥時代は、ギリシャの初期美術に相当するといってよい。
<コメント> かつて和辻哲郎は『古寺巡礼』において、飛鳥・天平文化に古代ギリシャに通じる美を読みとろうと牽強付会を重ねたが、美術作品にギリシャ精神を見いだし、ギリシャ美術をもって美術の唯一の目標としたというヴィンケルマンの言葉をもって天平彫刻を賞賛することに執筆者たちは違和感をもたなかったのだろうか。西洋美術の基準で「日本美術」の価値の測定を行うことは執筆者たちの立場からは許されない筈ではあるまいか。さらに興味深いのは、ギリシャ彫刻への賛辞によって称えられている仏像が、決してこの時代の代表作ではないという事実である。ギリシャ彫刻の基準を用いたために当代一級の作品は取り上げられなかったのだろうか。――(f)
*〔解説〕コメントにある「この時代の代表作」として通常挙げられるのは、たとえば国宝第一号に指定されている広隆寺の半か思惟像などであろう。朝鮮文化の影響を強く受けているので、扶桑社版が取り上げていないと考えられる。他の多くの教科書が、朝鮮や中国の影響を強調しているのと比較して、この教科書の特徴的な問題点である。また、もう一つの「代表作」として、中国の強い影響を受けた法隆寺の釈迦三尊像があるが、旧版ではそれが「日本の美の形」の中に位置づけられており、改訂版でも日本独特のものと誤解されかねない記述の中に紹介されている。大陸文化の影響を否定する傾向は、新旧版を貫く特徴である。
〔2〕グラビアp.5
奈良時代 奈良時代、天平文化のころには、仏像が仏教の教えをあらわす図解を超えて、理想の人間表現となり、すぐれた仏師が次々と登場した。興福寺の将軍万福、東大寺の国中連公麻呂などは、イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵するほどである。
<コメント> この表現の内容について言うと、天平というのは、紀元でいうと729年から748年である。それに対して、ドナテルロが生きていたのは1386年から先である。ミケランジェロはというと、1475年から先である。すなわち600年から700年ほど時代がズレている。/600から700年ちがえば、時代背景の文化もずいぶん異なる。いまの時代に生きているわれわれと、1300年代に生きていた人物とを比較するようなものであるわけだから、これは無理である。――(g)
*〔解説〕扶桑社が「天平文化」と書いているのは奈良時代(710〜784)の文化全体を指したもので、コメントが言うように必ずしも天平年間に限定しておらず、その用語法自体に問題はない。しかし、大局的にみて奈良時代とイタリアの彫刻家たちとの年代差は歴然としており、批判は適切である。
〔3〕グラビアp.6
鑑真和上像……国中連公麻呂作
<コメント> 「鑑真和上像」まで国中連公麻呂の作だと考える説は、現在のところ、あるひとりの西洋美術研究学者の個人的な見解であって、日本美術史の定説になってはいない。もちろん、どのような人にも自説を主張する自由は保証せれるべきであるが、その言論の場として、中学校の教科書がふさわしいとは思えない。――(e)
*〔解説〕コメントにある「あるひとりの西洋美術研究学者」とは、旧版扶桑社教科書の執筆者である田中英道氏のことである。
〔4〕グラビアp.8
鳥獣戯画……鳥羽僧正作
<コメント> 「鳥獣戯画」が鳥羽僧正の作だという説は、すでに過去のものであって、今日、それを支持する日本美術史研究者はいない。――(e)
*〔解説〕「鳥獣戯画」は今日、複数の年代の作者によって描かれたものであることが判明していて、明白な誤り。
〔5〕p.26
孔子は、仁愛(思いやりの心)を説き
<コメント> 「孔子は、仁愛(思いやりの心)を説き」とあるが、仁と愛を「思いやりの心」と解釈するのは間違いである。/そもそも孔子は、仁愛などという言葉を使ってはいない。人が用いなかった言葉を持ち出して、その人の思想であるときめつけるようでは無茶苦茶である。仁はあくまでも仁であり、愛はあくまでも愛である。この二つはレベルがちがうので、まとめていっしょに使うなどということはなかった。――(g)
〔6〕p.27
孔子の教え……人間の性質はもともと善であるとするこの考え
<コメント> これはもう出鱈目である。なんとまあ性善説をもってきているのだ。いうまでもなく孔子は性善説ではない。「人間の性質はもともと善である」などと、孔子は絶対に言っていない。この執筆者は『論語』を一行も読んでいないのだ。性善を言ったのは、孟子である。――(g)
〔7〕p.30
Column 日本語の起源と神話の発生
<コメント> 同書の中における、神話・伝承の配列の位置が問題である。「日本語の起源と神話の発生」は、弥生時代の次、古墳時代の前に置かれている。いうまでもなく、記紀の神話は奈良時代に成立した古事記・日本書紀の中に収められているものである。にもかかわらずこの配列をとることは、記紀神話は弥生時代の成立のようなイメージを生徒たちに与えることになりはしないだろうか。
記紀神話の素材となった神話群が形成されるのは、古墳時代から奈良時代のことであろう。この配列に、記紀神話の成立を故意に古く見せようとする、意図的なものを感じる。もし取り上げるとしても、奈良時代の記紀成立の段階に置くべきではなかったか。――(e)
〔8〕p.34〜35
日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。
<コメント> 「文明くらべ」の圧巻は、ピラミッドや「秦の始皇帝の墳墓」と比較して「仁徳天皇陵が最大規模」とする箇所だ。仁徳天皇陵を実物より高く描いたこの図は「歴史教科書」にもそのまま載せられている。面積は確かにそうだろう。だが、高さの順なら、ピラミッド、始皇帝墓、仁徳天皇陵の順だし、年代ならクフ王・前27世紀、始皇帝・前3世紀、仁徳・後5世紀初頭の順である。深さでなら、始皇帝墓は地底30メートルで一番となる。構造・素材の比較はどうだろう………比較すること自体が愚かであることくらい気づくべきだろう。そして注目すべきは、始皇帝の「陵」とせずに「墳墓」としていることだ。広く知られている騎馬俑は「墳墓」の外にあり、これも加えると「陵」は面積の点でも仁徳天皇陵をはるかにしのぐことになる。このため「墳墓」に限定したと思われる。これでは「インチキ」と呼ばれても仕方がない比較ではなかろうか。
そもそも、大きい墓は誇るべきことなのだろうか?散骨葬さえ主張されている現代に、価値観の違いの大切さこそ教科書は取り上げるべきだろう。――(l)
*〔解説〕『国民の歴史』以来、「つくる会」のセールスポイントにしようとしてきた大仙古墳と他国の墳墓を比較した旧版の記述は、批判を受けて改訂版から完全に削除された。また比較の犠牲となって伏せられ、他社本にはすべて書かれていた秦の始皇帝陵の著名な兵馬俑が、新版に新たに記載された。
〔9〕p.39
おもに5世紀以降(中略)大和朝廷の頂点に立つ人は大王(王をうやまったよび方)とよばれ、まだ天皇のよび名はなかった。地方の豪族は同じ血縁を中心にした氏という集団をつくり、大王から臣や連といった姓を与えられ、氏ごとに決まった仕事を受けもった。これを氏姓制度という。
<コメント> 朝廷や国家の問題に言及するには、ヤマト王権や律令制国家に対する正確な記述が必要である。同書には、5世紀の時期に氏姓制度が記されているが、5世紀に氏姓制度が整備されたとするような学説はない。ここには、研究史に対する無理解がある。―(e)
〔10〕p.39
日本は、古代においては(中国に-引用者)朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較して、独立した立場を貫いた。
<コメント> 日本は室町期にも朝貢を行っているので、古代に限定するのは誤り。また、中国との地理的関係を考慮せずに日本と朝鮮やベトナムを比較して、日本の独立した立場を強調しても意味がないばかりか、不必要に朝鮮やベトナムを貶めることになる。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。―(a)
*〔解説〕中華秩序の理解は「つくる会」教科書の重要な点で、近代までの中国の大国主義を強調する伏線になっている。ここでは、日本がそこからいちはやく自立していたことを強調したいのと相まって、朝鮮やベトナムを差別的にあつかい、批判を受けた。新版は、その点を削除したが、もし中華秩序を問題とするのであれば、日本もそれを天皇制自らの原理として輸入し、古代から国際関係の形成に利用してきたこと、そのため朝鮮や東南アジアへの蔑視が『記紀』以来生じてきたことなどを述べなければ、バランスを欠くことになる(上田正昭『帰化人』〔中公新書〕など参照)。
〔11〕p.40
6世紀になると、半島の政治情勢に変化が生じた。あれほど武威をほこっていた高句麗が衰退し始め、支援国の北魏も凋落に向かった。
<コメント1> 6世紀中葉、高句麗では安蔵王の殺害(531年)や安原王から陽原王への王位継承(545年)などの内紛があったが、598年以降の隋の侵攻を撃退しており、高句麗が衰退していたと簡単にいうことはできない。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。―(a)
<コメント2> 根拠のない主張。当時高句麗は北魏と直接対決したりもした。―(c)
〔12・13〕p.42〜p.43
Column 日本武尊と弟橘媛―国内統一に献身した勇者の物語……皇子はクマソの国にいたり、少女の姿になって、反乱の指導者クマソタケルに近づき、これを見事に倒した。タケルは皇子の勇敢さをたたえ、「これからは、あなたがヤマトタケルと名乗られるがよい」と言って、息絶えた。……この草薙の剣と、八咫の鏡・八坂瓊の曲玉は、やがて「三種の神器」とよばれ、歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなった。
<コメント1> 2ページにわたって神話が紹介され、末尾(43ページ)に「以上が、日本武尊と弟橘媛の言い伝えである」と書かれているが、ここに紹介されている内容は、『古事記』と『日本書記』を合成したものである。またクマソタケルが日本武尊によって斬殺される場面は、「タケルは皇子の勇敢さをたたえ、……と言って、息絶えた」と変えられている。『古事記』のもつ王権神話としての側面を隠すことを意図した神話の改竄である。
神話も歴史研究の一つの素材ではあるが、利用するときには、だれが語る神話であるかを考慮しなければならない。『古事記』『日本書記』が大和王権の勢力拡大を正当化する目的をもって叙述されたものであるという視点を持たなければ、歴史的事象を多面的・多
角的に考察し公正に判断することはできない。まして神話の改竄など許されるものではない。―(a)
<コメント2> 現在の学界では、タケルの伝承は大和政権の多くの遠征武将たちを投影した物語であって、英雄的皇子個人の歴史事実ではない、というのが定説である。ところが、日本武尊のコラムでは、物語に過ぎぬ弟橘媛の水死や白鳥陵の伝承にいたる話に筆をついやしている態度にも首を傾けるが、問題はタケルが所持したという、「草薙の剣」についての叙述である。/この剣が八岐大蛇退治に由来することや、伊勢神宮で日本武尊に授けられたことを述べる。さらに「この草薙の剣と、八咫の鏡・八坂瓊の曲玉はやがて『三種の神器』とよばれ、歴史の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなった」という記述には、まるで戦前の「修身」の教科書を読むような錯覚を覚えた。まさに神話伝承と歴史事実の混同の極みである。―(e)
*〔解説〕「クマソタケル」は『古事記』に出てくる名前で、『日本書紀』には「川上(かわかみ)梟(のた)帥(ける)」とある。この「つくる会」教科書が記す「ヤマトタケル」による「クマソタケル」の殺害シーンは、むしろ『日本書紀』の記述に近く、おとなしい。いっぽう、『古事記』の記述は残虐さの極みだが文学的である。ヤマト政権の武力拡大の凄惨さを示すその記述を隠したこと、草薙の剣をめぐる神話と史実の混同などを指摘され、2ページにわたったこの神話のコラムは完全に新版で削除され、神話の記述は旧版より減少した。
〔14〕p.45〜46
(聖徳)太子は、607年、小野妹子を代表とする遣隋使を派遣した。しかし、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような道はさけたかった。
<コメント> 聖徳太子が日本の文化のあり方についてどのように考えていたかを知りうる史料は存在しない。執筆者の希望を述べたにすぎない。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。―(a)
〔15〕p.49
日本につながるシルクロード(地図)

<コメント>日本からローマにいたる範囲のユーラシア大陸を描いた地図で、緑で草原の道、オレンジ色で絹の道(シルクロード)を示している。そして、青の太線で囲って「唐の最大領土」が示されているが、なんとチベットが「唐の最大領土」に入れられている。唐がチベットを支配したことは一度もないから、この地図は明らかに誤りである。―(h)
〔16〕p.54
新羅は唐の年号の使用を強制され、これを受け入れた。
<コメント> 新羅については、「唐の年号の使用を強制され、これを受け入れた」と対比して記す。これは事実誤認であって、唐の軍事援助を引き出すために新羅は自ら申し出て唐年号を採用するという経緯があった。新羅の政治的戦略の産物であった。―(f)
〔17〕p.57
朝廷は、開墾を奨励し、それまで国家の統治がおよばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地を私有地にすることを認めた。
<コメント> 墾田永年私財法は開墾を奨励するためのものであって、未墾地規制のためではないので記述は誤り。「未墾地も規制」という表現自体、意味不明である。史実についての正確な理解を欠いたまま適当に執筆されたものであろう。
※ 他社本はこのような初歩的な誤りは犯していない。―(a)
〔18・19・20〕p.58〜59
『古事記』や『万葉集』は、漢字を並べて書かれているが、漢文ではないので、中国人が読んでも意味が分からない(『古事記』は序文だけが純粋な漢文であった)。……古代の日本人は、日本語をあらわすさい、中国語からは音に応じた文字だけを借りた。―(e)
<コメント>この教科書は、日本語の起源や特徴について、従来の教科書以上に書かれている。日本人としてのアイデンティティを強調するためであろうか。日本列島で確実に文字が使用されていた史料として、千葉県市原市の稲荷台一号墳出土の「王賜」銘鉄剣がある。ついで埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣。ここには「獲加多支鹵」「平獲居」の人名、「斯鬼宮」という王宮名がみえる。すでに人名や王宮名に漢字の字音を利用して、和語が表記されている。しかし、「斯鬼宮」とあるように、漢字の「宮」も使用されている。単なる字音の利用だけではない。「古代の日本人は、日本語をあらわすさい、中国語からは音に応じた文字だけを借りた」というのでは、不十分であろう。また、『古事記』について「漢字を並べて書かれているが、漢文ではない<中略>(『古事記』は序文だけが純粋な漢文であった)」とある。しかし、『古事記』の本文は「散文が和化漢文体、韻文が和文体(『日本古典文学大辞典』簡約版、岩波書店)なので、これまた誤解が生じやすい記述である。―(e)
*〔解説〕『国民の歴史』以来の日本語論は次の訓読、ヲコト点を含めて完全に新版で姿を消した。
〔21・22・23〕p.59
漢文は中国語だから、今のわれわれが英語を学ぶように中国音で発音し、中国文の語順どおりに読み書きする練習を通じて学べばよいはずだった。ところが、当時の日本人はそうした学び方のほかに、中国語の発音を無視し、語順をひっくり返して日本語読みにする方式を編み出した。いわゆる訓読という読み方の発明だった。ここには、古代日本人の深い知恵と強い決断があった。……ヲコト点とよばれる記号を打って、助詞を補って読んだ。やがてそこから片仮名が誕生した。/ヲコト点の例(*写真とキャプション)漢字のどこに点を打つと何の助詞をあらわすのかを示している。―(e)
<コメント1> 日本人が漢字の音を借りて日本語を表記する方法(万葉仮名)を確立したことが特筆され、「語順をひっくり返して日本語読みにする方式を編み出した」ことを「古代日本人の深い知恵と強い決断があった」と高く評価している。これでは中国周辺諸国にあって日本列島においてのみこうした工夫が行われたように受け取れるが、広く周辺諸国のアルタイ語系民族の間で、それぞれに訓読法が行われたことは、研究者の間では常識に属する。/朝鮮半島でも、万葉仮名に相当する表記法(吏読、郷札)があったこと、さらに1973年には、本文の左右に口訣(漢字の音訓で助詞、助動詞を表記したもの)と星点(・)が付された『旧訳仁王経』が発見され、返読して訓読していたことが確認された。最近には、11世紀の『瑜伽師地論』にヲコト点に類するものが角筆で記入されている事実(角筆口訣)が確認され、日本の訓読との関係が注目されている(藤本幸夫「漢字文化」『月刊しにか』12−7)。そのほかにも金石文や木簡の発見によって古代日本の漢字の表記法や解読法、さらに木簡の利用法などから、日本の漢字文化には、古代朝鮮の強い影響があったことが解明されている(李成市『東アジア文化圏の形成』)。―(e)
<コメント2> 「漢字のどこに点を打つと何の助詞をあらわすのかを示している」というキャプションがつく。「漢字の四周・内外などに・ ― / \(中略)等の形を書き加え、その形と位置とによって、漢字の和訓・活用語尾・助詞・助動詞、時には字音をも表した」(『日本古典文学大辞典』)という、ヨコト点の意味が理解されていない。―(e)
*訓読の独自性を批判した上のコメントに加え、その後の研究により、ヲコト点の発生も朝鮮半島で800年頃にさかのぼる可能性が出てきた(朝日'01.11.1夕)ことによって、扶桑社旧版の主張は完全に姿を消すことになった。
〔24〕p.62
アメノウズメの命が、乳房をかき出して踊り、腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから、八百万の神はどっと大笑い。
<コメント> 品性欠ける「セクハラ教科書」
「つくる会歴史教科書」には、次のような記述が登場する「アメノウズメの命が、乳房をかき出して踊り、腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから、八百万の神はどっと大笑い」(62ページ)と。その上には、天の岩戸前で踊る絵(カラー)まで添えられている。もしこんな箇所を、中学校の教室でひとたび朗読したら、女子生徒は、顔を赤くして黙り込むか、激しく怒り出すことだろう。(中略)問題は、「つくる会歴史教科書」が「慰安婦」問題をまったく書かなかったことの裏側で、このように女性差別的な記述をいくらも載せていることだ。性的な表現に加えて「八百万の神はどっと大笑い」などには、女性を辱める差別的な視線がある。―(j)
〔25〕p.65
日本古来の和歌を集めた『万葉集』が、朝廷の命によって編集された。―(a)
<コメント> 『万葉集』が数次の段階を経て成立していく過程で、部分的に持統天皇や元明天皇らがかかわったという説はあるが、それらを最終的にまとめたのが大伴家持であるというのは歴史学界、国文学界の定説である。全体の編集が「朝廷の命」によってなされたとするような記述は弁解のしようのない誤り。天皇の文化的役割を強調する意図的に犯された誤りである。―(a)
〔26〕p.67
最古の歌集『万葉集』は、長くその後の模範とされた。
<コメント>『万葉集』は奈良時代末期に成立して以来、千年以上、列島の住民の大部分とはまったく縁のない書物であった。一般には書名すら知られていないという状態が明治の中頃まで続いていたのである。したがって、本書の『万葉集』についての記述はまったく事実に反していることになる。―(f)
〔27〕p.71
武士の登場 社会が大きく転換する中で、武士とよばれる集団が、しだいに力をもつようになった。そのおこりは、国司となって地方におもむき、そのまま住み着ついて勢力を伸ばした皇族や貴族の子孫を中心に結集した武装集団である。
<コメント>個々の武士と集団としての武士団との区別がなく、また武士の発生=武士団の成立と読みとれる点で、誤りというべきである。―(f)
〔28〕p.74
894(寛平6)年菅原道真の進言を受けて、日本は遣唐使を廃止した。その結果、貴族を中心に宮廷の洗練された文化がおこり、唐文化の影響を離れて日本化していった。これを国風文化とよぶ。
<コメント1> ことさら中国文明の受容、文化の影響を否定的に扱っていては、複雑で豊かなこの時代の文化現象を単純な理解におとしめてしまうことになろう。唐の文化が宮廷社会に、より広く定着、浸透し、その一方で唐文化の変容(国風化)が進行したとみるべきである。/そうでなければ、執筆者が唐文化の影響を離脱し「国風文化」が形成されると主張する9、10世紀に、政治構造や天皇をとりまく宮廷社会が最も唐風化するという事実が理解できなくなるであろう。この時代には、宮廷における儀礼や、年中行事などのなかに唐文化のいっそうの定着過程がみてとれるのである。―(f)
<コメント2> 唐文化の影響というのは、じつに圧倒的なものであった。そのため、遣唐使を廃止したからといって、「唐文化の影響を離れて」ということにはならない。歴史の進行を手前勝手に独断で割り切ってナメてかかるのが、この教科書の顕著な特色である。唐文化の影響を、それほどカンタンに考えてもらっては困る。小島憲之の綿密な研究が、唐文化と日本文化の細部にわたる関係を証している。小島憲之の著書が厖大で、とても読めないと言うのなら、小西甚一の僅か242ページしかない『日本文学史』<弘文堂・昭和28年12月20日初版、現・講談社学術文庫>に学べばよい。/清少納言が御簾をかかげる話があるが、あれは唐の文化が溶けこんでいるゆえである。―(g)
〔29〕p.90〜91
禅宗は、ひたすら座禅することによって、悟りを得ようとする教えである。鎌倉では2代将軍頼家や北条政子が支持して、鎌倉武士たちの間に広まった。
<コメント> 頼家や政子が栄西とかかわりがあったことを根拠にしているものと思われるが、頼家や政子とかかわったころの栄西は、天台宗・禅宗の双方を兼帯していた。栄西の頼家・政子とのかかわりは、天台僧としての活動の場面に限られる。したがって頼家・政子が禅宗を支持したという主張には何ら根拠はない。鎌倉武士の間に禅宗が広まるきっかけは、ずっとのちに北条時頼が蘭渓道隆を招いたことに求めるのが通説であり、記述は誤りである。
※他社本にはこのような初歩的な誤りは犯していない。―(a)
〔30・31・32〕p.93
鎌倉の文化…神護寺の「源頼朝像」は、単純化された線で、人物の気品をよく表現している。…大徳寺の「大燈国師像」や、妙智院の「夢窓国師像」など、高僧の人間性をたくみに写した作品がえがかれた。
<コメント1> 神護寺の「源頼朝像」を鎌倉時代の肖像画として紹介しているが、「源頼朝像」については、南北朝期の作品であり、描かれているのも源頼朝ではないという説得力のある学説が近年提起され、学界では扱いに慎重になっている。社会的にも話題になっている。/※帝国は記述なし。東書・教出は「源頼朝と伝えられる肖像画」、大書・日書・日文は「伝源頼朝像」、清水「頼朝像と伝えられています。」となっており、他社本はいずれも新しい学説に対応している。―(a)
<コメント2>「大燈国師像」は1333年の制作、「夢窓国師像」の制作年代は不明だが、作者無等周位の創作活動は南北朝期しか知られていない。(中略)いずれも鎌倉時代の作品として取り上げるのは適当でない。
〔33〕p.95
武家政権がほろび、公家政権が復活したという見方からは、建武の中興とよぶ。
<コメント> 「武家政権がほろび、公家政権が復活した」のは事実であって、見方による相違はない。「建武の中興」とは、日本では天皇中心の政治が行われるのが正しい姿である、という見方からの呼称であるから、記述の誤り。バランスのとれた記述を装おうとしたのであろうが、正確な知識を欠いていたために、誤りに陥っている。/※配慮したつもりだったが間が抜けていた、という誤りであり、他社本には類した記述はない。―(a)
〔34・35〕「13世紀後半の世界」(p.86の地図)のモンゴル帝国の範囲と「A図」(p.110地図)の範囲
<コメント> 86ページに「13世紀後半の世界」という地図があり、「モンゴル帝国の最大領土」をピンクの太線で囲んで示している。これが正解だ、と思うのは一瞬である。よく見ると、110ページの「帝国の最大領土」の範囲と、86ページの「モンゴル帝国の最大領土」の範囲は大きくずれているではないか。86ページの地図によれば、モンゴル帝国の領土は西はバルト海、北はバイカル湖の北方にまで及んでいるが、110ページの地図では、西はせいぜいウクライナのキエフあたりまで、北はバイカル湖の南端あたりまでとされている。逆に86ページでは帝国の領土外とされるアナトリア(現在のトルコ共和国)西部、北西インド、ベトナム、朝鮮半島などが、110ページでは「帝国の最大領土」に含まれている。どちらの地図が正しいかとはいわない。どちらもいいかげんである。が、モンゴル帝国の最大版図を示すはずの二つの地図は、当然一致していなければならない。これが大きくずれているとはどういうことか。この教科書がいかにずさんなつくりになっているか、という見本である。執筆者の責任という以前に、編集者が気づくべき問題である。編集者の顔が見たい。―(h)
〔36〕p.112
1450年代にポルトガルが、アフリカの西海岸を南下する航海事業にまず手をつけた。
<コメント>「1450年代にポルトガルが、アフリカの西海岸を南下する航海事業にまず手をつけた」とあるが、ポルトガルがインド航路開拓の第一歩としてマディラ諸島の再調査に着手したのが1418年。難所のボシヤドル岬沖の通過に成功して古代以来ヨーロッパ人には未知だった西サハラ海岸に到達したのが1434年なのだから、「1450年代にまず手をつけた」などということはありえない。西尾氏は『国民の歴史』(扶桑社、1999年)の第15章で、1450年代にポルトガルが法王庁から新たな到達地の領有と貿易及び布教の独占権を得たことを“決定的に重要な出来事”としているが、それまでのポルトガルの航路開拓の実践があったからこその“出来事”でしかなく、上記の誤りは明白!―(i)
〔37〕p.116
信長は、京都の荒廃した内裏(天皇の住む御殿[ごてん])の修理をするなど、朝廷の心をつかんだ、このような信長を将軍義昭は警戒するようになり
<コメント> 信長について、「朝廷の心をつかんだ」と書き、すぐに「このような信長を将軍義昭は警戒するようになり」と続けば、信長における朝廷の比重は研究史で明らかにされている以上に過度な強調を帯びる。歴史研究と連携して歴史教育を行うという常識的なルールが、かんたんに破られてしまう。―(f)
<38>p.137
18世紀のはじめには、江戸の人口は100万を超えた。「山の手」と「下町」の区別も17世紀のなかばには生まれ、「下町」に住む町人たちは、武士の住む「山の手」を意識しながら、「いき」の感覚に支えられた独特の町人文化を築いていった。
<コメント> 「いき」は18世紀半ば以後にうまれた感覚である。17世紀の町人文化の説明で触れるのは誤りである。/※他社本には類した記述はない。―(a)
〔39〕p.150
5代将軍綱吉は、武士たちが殺伐とした行動に出ないように、生類哀みの令を発して
<コメント> 150ページに、またまた大ケッサクが登場する。心を静めてお読みください。「武士たちが殺伐とした行動に出ないように」綱吉の生類憐れみの令が出たというのである。(中略)この生類憐れみの令の説明は、この「新しい歴史教科書」全巻のなかで最高のケッサクとして、歴史に残る大迷作である。この教科書が採択されたあかつきには、どうかこの部分をゴシック活字で刷っていただきたい。―(g)
〔40・41〕p.152図版公事方御定書
商業発展にともなって増大する訴訟のために、公事方御定書という法律をつくって裁判の基準を定め
<コメント> 高札風の絵の中に書かれているが、公事方御定書は秘書の書であり、三奉行など以外に見せることは許さないことになっていた。高札は街道筋の宿場の入り口などに立て、人々に周知徹底させるためのものであり、公事方御定書を高札にして布告するなどありえない。生徒の正確な理解の妨げとなる。/また、本文に「商業発展にともなって増大する訴訟のために」公事方御定書が出されたと述べているが、この記述は「相対済し令」と混同した完全な誤りである。/※他社本はこのような初歩的な誤りは犯していない。―(a)
〔42〕p.166地図 A図
<コメント> マゼラン艦隊のコースが、フェゴ島の外海側の海岸線沿いとなっている。→ちなみに、『新編日本史』(1986年)は艦隊のコースを海峡の部分だけ削除して描いたため「トンネルをくぐったのか?」と笑われた。―(i)
〔43〕p.172
アヘンは,衰退期に入った清に,無抵抗に受け入れられた。―(a)
<コメント>「無抵抗に受け入れられた」と強調するが、173ページに記述されているように、政府はアへンの輸入を取り締まっているのだから、「無抵抗」というのは誤りである。アへンに犯されたのは中国側に責任があったかのような記述である。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。―(a)
〔44〕p.176〜177
ペリーは, なぜ日本にやってきたのだろうか。日本を開国させるアメリカの目的は二つあった。一つは,中国にいたる太平洋航路を開くことだった。その中継地として日本がどうしても必要だった。アメリカは,産業革命によって工場で大量に生産されるようになった錦製品を,人口の多い中国に輸出することを狙っていた。太平洋航路が開かれれば,アフリカ回りでやってくるイギリスとの競争に勝つことができる。
<コメント> ペリー来航の時点での米中貿易の基本は中国茶の輸入であり、たしかに輸出面では米国産の白綿布が最大の品目であったが、それは茶の輸入とバランスをとれるほどのものでなく、米国産の白綿布の輪出先もブラジル、チリなど近隣諸国が上位を占めた。綿布の中国輸出をペリー来航の背景の一に挙げる石井孝の研究(1972年)はあるが、加藤祐三の新研究、『黒船前後の世界』1985年が説得的に批判をくわえており、上記記述は誤りである。―(b)
〔45〕p.176ペリーが渡した白旗
白旗を2本……それには手紙が添えられ
<コメント>偽文書に基づいた記述であり、明白な誤りである。この文書には、ペリーは白旗とともに「皇朝古体文辞」・漢文・英語で書かれた書簡を日本側に手渡したことが記されているが、この文書は、幕末にあまたある風説や流言飛語を書き留めた風説書と呼ばれるたぐいの史料にのみ見えるものであり、史的事実を解明するために使用できるような文書ではない。そもそも「皇朝古体文辞」とは古代の和文のことであるが、そのような書簡をペリーが差し出すはずもない。このような明白な偽文書に基づいたコラムを設けたのは、近代史におけるアメリカ合衆国の脅威をことさらに協調してみせるためであろう。―(a)
〔46〕p.183
同年,幕府はもう一度長州征伐を試みたが,今度は薩摩藩がこれに反対し,諸藩も従わなかったので失敗した(第二次長州征伐)
<コメント> 幕府の長州再征の失敗について、同書が「諸藩も従わなかった」ためだとしているのは明らかに初歩的な事実誤認であり、動員された諸藩の軍隊を含む幕府軍の戦意の乏しさと装備の古さに加えて、国許での軍役反対や打ちこわしと世直し一揆の頻発という事情こそが重視されなければならない。―(e)
〔47〕p.186
[日の丸の由来]……平安時代には,太陽をかたどった金の日の丸をあしらったものが,扇などに使われていた。
<コメント> 陰陽思想から作られる「軍扇」もありました。那須与一が源平合戦で射落とした扇には丸が描かれていたとされますが、その頃から見られるものです。新井白石が書いた『本朝軍器考』によると、源養家(1039〜1106)が使い新田家に伝わったとされる扇を、左図のように紹介しています。それによると、表はキラキラ輝く雲母地で、紅(赤)色の地に金の丸を描いています。裏は銀の丸で、地色は記されていませんが、他の史料(「軍用記」)によると、軍扇は表地を赤、裏地を青にしていたといいますので、この源義家の扇の場合も裏は青であったと考えられます。つまり軍扇も、月−日、銀−金、青−赤の対応で陰陽を表すものであったのです。―(k)
〔48〕p.187
[君が代の由来]……わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで(私の敬愛するあなたさま,どうか千年も,万年も,小石が寄り集まって大きな岩となり,それに苔が生えるほど末永くお健やかに)
<コメント> 歌の最後にある「さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで」のか所は、長寿や長久への願いを古い伝説にたとえて表したものです。「さざれ石」は「小石」や「砂」を意味しますが、その小石が成長して、やがて岩となる昔話が中国の『酉陽雑狙』などに見えます。日本でも、類似した話が日本全国各地に数多く民間伝承となって残っていることを柳田国男が「生石伝説」に紹介しています。『古今集』真名序も、この歌を「砂が長じて巌となる」と解説しています。/文部(科学)省庁舎の中庭などに、多数の砂が粘着して岩(礫岩)となったものを「さざれ石」として飾っていますが、この歌そのものは、小石や砂が成長するという不思議な故事にかけたもので、現代科学に固執する解釈であり、砂が積もってできる「堆積岩」とする解釈なども、同じ種類のまちがいです。―(k)
〔49〕p.195
教育を通じ,国民にいち早く平等に同じ機会を与え,より高い教育を受けた者がより出世することを保証した「能力主義」の考え方である。この考え方は江戸時代までの身分制度を壊し,近代的な平等の観念に基づく国づくりをしていく上で,決定的に重要な役割を果たした。こういった日本の義務教育制度は,当時の欧米でもまだ一般的とはいえない時代に成立した。
<コメント> 「当時の欧米でもまだ一般的とはいえない時代」に、「能力主義」による身分制的学校制度体系の否定が日本に成立したと誇らしげに語る(195頁)のだが、「米」はすでに単線型体系を作り出しており、「欧米」とくくるのは誤りである。その六行後には.「日本においては、アメリカをいち早く参考にし」云々とあるのだから、前後撞着も甚だしい。―(e)
〔50〕p.196
日清戦争……戦死したラッパ手の木口小平も平民の出身で,死んでもラッパを口から離さなかったとして,その当時,有名になった。
<コメント> 現在の研究では、このラッパ手は木口でなかったことが明らかにされているが(西川宏『ラッパ手の最後』青木書店、1984年)、こうした戦前国定教科書風の人物が「非常時には国のために尽くす」民衆像の典型として、ほこりを払って再デビューしている。―(e)
〔51〕p.200
日本軍艦が朝鮮の江華島で測量をするなど示威行動をとったため,朝鮮の軍隊と交戦した事件(江華島事件,1875年)をきっかけに,日本は再び朝鮮に国交の樹立を強く迫った。
<コメント1> これは「日朝間の交戦の事情が説明不足で理解し難い表現である」と検定官の意見をつけられ、修正した文章であるが、日本軍艦の行動の前提として、日本国内に「征韓論」が台頭していたことを述べないので、基本的な理解がえられない。日本の軍艦は朝鮮の西海岸を測量しながら北上したのだが、江華島では測量をおこなわず、カッターを入れたところ砲撃されたとの理由で、砲撃を加えたものである。江華島で測量をしたというのは誤りである。―(b)
<コメント2> 朝鮮の発砲を誘導した計画的な軍事作戦であったという事実等、挑発の主体、目的、経緯を隠蔽 ―(c)
*〔解説〕当該の記述は修正されたが、江華島事件そのものが欄外注へと追いやられた。
〔52・53・54〕p.209
[藩校と寺小屋] 江戸時代の学枚には・武士階級の子弟のための藩校と,一般庶民ための寺子屋の二つがあった。藩校は儒学を重んじ,武芸を大切にし,経済実用の学も少し教えた。寺子屋は読み書き算盤を主とし,男女共学で,女の先生もいた。
<コメント>江戸時代の藩校について「武芸を大切にし」とあるが(209頁)、藩校は元来儒学教授機関であり、そこで武術を教授した例は幕末に一部の藩にみられたものの、決して一般的ではない.寺子屋でもそろばんを教えたものは少数に留まるし、「男女共学」(同頁)は当てはまらない。―(e)
〔55〕p.216
日本政府の中には,ロシアのカが朝鮮におよぶ前に,朝鮮を中立国とする条約を各国に結ばせ,中立の保障のため日本の軍備を増強しなければならないという考えもあった。
<コメント1>これは、これは山県有朋の1890年の「外交政略」を指しているが、そのもとには1882年の井上毅の「朝鮮政略」があったことはたしかである。しかし、日清戦争に向かう1880年代後半から1890年代はじめの日本の対朝鮮政策の中心、基本が朝鮮中立化構想であったかのように説明するのは、正しくない。「日本政府は、…と考えた」というテキストを「これが具体的構想であったかのように誤解するおそれのある表現である」という検定官の意見をえて、「政府の中には、…という考えもあった」と修正したのだが、別の考えがあったことは説明されていないのだから、この修正は検定官の意見に正しく応えていない。井上にしても、山県にしても、ロシアに対して日本の「権益」を擁護するということが大目的であり、その手段としての朝鮮中立化政略があったのだから、この記述はバランスを欠くものである。―(b)
〔56〕p.217
金玉均らのクーデターがおこったが,このときも清の軍隊は,親日派を徹底的に弾圧した
<コメント> 金玉均等の開化派を親日派と記述―(c)
〔57〕p.222
1904(明治37)年2月,日本は英米の支持を受け,ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)。
<コメント> 日本は日英同盟を結んでいたが、イギリスにあらかじめ日露開戦の支持を取り付けて、戦争をはじめたわけではない。またアメリカについては、事前に日本の対露戦に明示的に支持を与えたということはない。誤解をあたえる記述である。―(b)
〔58〕p.235
晶子は戦争そのものに反対したというより,弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから,その身を案じていたのだった。
<コメント1> 「君死にたまふことなかれ」の説明としては極めて一面的である。当時晶子は、この歌が危険思想であると批判されたことに対して、「当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や畏れおほき教育勅語を引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申す者に候はずや」(「ひらきぶみ」『明星』1904.11)と述べている。単に弟の身を案じて詠んだということにとどまらず、当時の軍国主義的な社会風潮に対する批判が込められていたと見るべきである。/※他社本には類した記述はない。―(a)
<コメント2>晶子のこの詩を素直に読みなさい。疑う余地なく日露戦争に対する反戦の詩である。反戦ではなくて実家の心配であるなどとは無理なこじつけだ。実家の跡取りが心配であるから戦争を止めろ、と言っているに過ぎない。戦争はしても宜しいけれど弟だけ無事に帰らせてくれなどと言っているのではない。疑問の余地なく反戦詩である。それで宜しいではないか。それとも「新しい歴史教科書をつくる会」では、これが反戦詩であると都合の悪いことでもあるのか。―(g)
〔59〕p.235
それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。実際,晶子は,大正期の平塚らいてうらの婦人運動を当初支持したが,晶子の人生観や思想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった。
<コメント> こうした与謝野晶子評価はきわめて一面的で、歴史上の人物を多面的に理解することを妨げる記述である。明治末〜大正初期の晶子は、「女子の独立自営」(1911)、「母性偏重を排す」(1916)などの文章を発表しており、その思想は女性の個人としての独立に重きを置いたものであったことは明らかである。「(女性が)学者、官吏、芸術家、教育者、諸種の労働者としても天分を発揮し得る事を示すに到りますのはかえって女子の進歩であって…人類の幸福は単に母として妻としてのみの時よりも非常に倍加するでしょう」(「女子の独立自営」)と母・妻としてのみの生き方以上に社会的活動を重視しており、また「私は母性ばかりで生きていない」(「母性偏重を排す」)とも断言しているのである。 ※他社本には類した記述はない。―(a)
*〔解説〕与謝野晶子・弟橘媛に関し、旧版のすべての記述を削除した。ただし女性の職業的な自立を無視し、役割を夫や家族への献身の分野に閉じこめようとする点は不変。
〔60〕p.238
日露戦争……日本の勝利に勇気づけられたアジアの国には,ナショナリズム(自国を愛し,国益を主張する思想や立場)がおこった。
<コメント> これは検定意見で修正されたテキストであるが、基本的な事実誤認をふくみ、不適切である。中国のナショナリスムは日露戦争における日本の勝利に元気づけられた面があるかも知れないが、韓国のナショナリズムは日露戦争における日本の勝利に勇気づけられておこったのではなく、日本による韓国の従属化に反発して生まれたものである。―(b)
〔61〕p.240
韓国併合……イギリス,アメリカ,ロシアの3国は,朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので,これに異議を唱えなかった。
<コメント1> イギリスとアメリカが日本の韓国併合に異議を唱えなかった理由は241(239)頁にのべられているように、いずれも自分のフィリピン支配、インド支配を日本に承認させたからである。ロシアは韓国皇帝から独立支持を要請されていたが、ポーツマス条約で、日本の韓国支配を認めざるを得なかったので、その後は日本の動きに異議をとなえなかったのである。日露戦争以後、三国が朝鮮半島に勢力を拡大することを互いに警戒しあい、日本の併合に異議をとなえなかったというのは、誤りである。―(b)
<コメント2> 韓国併合の過程で侵略行為と強制を隠蔽し、国際的に認められた合法的なものとして記述―(c)
〔62・63・64・65・66〕p.258〜259
【白船事件】1908年3月,16隻の戦艦で構成されたアメリカの大西洋艦隊が,目的地のサンフランシスコ寄港をへて突如,世界一周を口実にして,太平洋を西へ向かって進んできた。……アメリカの砲艦外交風の威嚇の意図は明らかだった。船団は白いペンキで塗られていたので,半世紀前の黒船来航と区別し,白船来航とよばれる。日本政府は国を挙げて艦隊を歓迎する作戦に出た。……日本人のみせたこの応対は,心の底からアメリカをおそれていたことを物語っている。
<コメント> この部分の記述は、以下の点で史実と異なっている。
@この艦隊は「グレート・ホワイト・フリート」と呼ばれ、当時の日本ではしばしば「(大)白色艦隊」と直訳されていた。今日では通例「ホワイト・フリート」の来航もしくは世界一周と呼ばれ、「白船事件」という呼称は本書の創作と思われる。
Aホワイト・フリートがチェサピーク湾口(アメリカ東海岸)を出航したのは、1907年12月16日。南米諸国を歴訪し、サンフランシスコに入港したのは1908年5月6日のことである。したがって、1908年3月の段階で、ホワイト・フリートが「太平洋を西へ向かって」いたとの記述は誤りである。
B「1908年3月」は、日本政府がホワイト・フリートを公式に招待した時期(3月18日)から採用したと思われる。ホワイト・フリートの横浜寄港(1908年10月18日)は、この日本政府の招待を受けたものである。『小村外交史』(外務省編)の記述に基づいた誤りと思われる。
Cホワイト・フリートの世界周航は、当時としては空前の壮挙であり・横浜を含め、世界各地で熱烈な歓迎を受けた。この歓迎が「作戦」であり、当時の日本人が「心の底からアメリカをおそれていた」とみるのは、筆者の主観的な判断であるとともに、事実の著しい歪曲である。/※他社本には類した記述はない。―(a)
*〔解説〕アメリカ艦隊の日本訪問そのものは残されたが、反米的記述はすべて削られた。
〔67〕p.259
日英同盟の廃棄はイギリスも望まず,アメリカの強い意思によるもので,日本の未来に暗い影を投げかけた。
<コメント>たしかにイギリスは大戦直後には中国、太平洋における日本の野心を抑制するため、同盟の継続を望んだが、自治領、中国の反対などから、日英同盟にアメリカを加え、三国同盟にする案を出すにいたった。したがって、イギリスも同盟解消の立場になっていたのでここの記述は誤りである。アメリカは他の諸国を加えた多国間同盟に発展させることを望み、その結果、やがてフランスを加えて4国同盟に発展したのである。―(b)
〔68〕p.262
アメリカは自国産業の保護のため,外国から輸入される商品に極端に高い関税をかけたので,1年半の間に貿易は半減し,世界恐慌に発展した。
<コメント> 「極端に高い関税」というのは、1000種類近い商品に平均40%の高関税をかけた、1930年6月のスムート=ホーリー関税を指すのだろうが、これが原因で「世界恐慌に発展した」とはあまりにも乱暴な単純化である。米国内での過剰生産と消費の縮小やフーバー政権の「手遅れの恐慌対策」、対外的にはアメリカ資本(短期の貸付資金)の欧州からの引き上げなどに触れずして、世界恐慌への発展は解けないのであって、このような単純化は許されない。―(e)
〔69〕p.266〜267
満州事変は,日本政府の方針とは無関係に,日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが,関東軍はこれを無視して戦線を拡大し,全満州を占領した。これは国家の秩序を破壊する行動だった。
<コメント> 関東軍の東北侵略を、日本政府と軍部中央が次々に追認した事実に触れず、日本政府の方針と「無関係」であるとか、政府と軍部中央は「不拡大方針を取った」というのは正確さを欠く。/※日書「日本政府は、当初は不拡大方針をとっていたが、しだに軍部に同調し」、清水「日本政府は、はじめは戦争の拡大をさけようとしたが、関東軍の行動をおさえることできず、のちに事変を認めていった」。東書・日文・帝国・大書は日本政府の態度にはふれない。―(a)
*〔解説〕満州事変における当該記述は改善されたが、同事変に関し他に悪い記述が加えられた。
〔70〕p.267
1932年,満州国の承認に消極的だった政友会の犬養毅首相は,海軍将校の一団によって暗殺された(五・−五事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ,その後は世論の支持のもと,軍人や役人を中心とした内閣が任命されるようになった。
<コメント> 不適切な表現である。政党内閣が終わったことが世論の支持をうけたかのような印象を与える。―(b)
〔71〕p.268(キャプション)
国際連盟総会 立っているのが松岡洋右主席全権。満州国否認決議に抗議して,このあと,総会から退場する。
<コメント> このとき、採択されたのは、リットン報告にもとづく対日勧告案であり、満州国否認決議というのは不正確である。―(b)
〔72〕p.268
世界恐慌後,イギリスやフランスは,本国と植民地間の関税をさげて物資を流通させる一方,他国の商品には高い関税をかけて,これを排除するブロック経済を採用した。このため,日本の安価な工業製品は,世界各地でしめ出されていった。
<コメント> 「世界恐慌後」とは、いったい何年のことを指しているのかわからない。ただ「ブロック経済を採用した」とあるから、1932年7月、イギリスがカナダのオタワで開いた英帝国経済会議を指すのであろう。このとき世界はまだ恐慌の真っ只中にあったから、世界恐慌後というのは明らかに間違いである。―(e)
〔73・74〕p.278
アリューシャン列島のアッツ島では,わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず,弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け,玉砕していった。
<コメント1> 日本軍が捕虜になることを禁じられていたことにふれずに、「日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していった」(278頁)などとすることは、戦略・作戦の失敗を前線将兵の「勇戦敢闘」で覆い隠すものであり、戦時中の論理の無批判な繰り返しである。―(e)
<コメント2> 民衆を「玉砕」にかりたてていった「生きて虜囚の辱めを受けず」という国家意思には一言の言及もない―(e)
〔75〕p.299
1954(昭和29)年,防衛力強化の約束により警察予備隊は自衛隊に再編された。
<コメント>「警察予備隊は自衛隊に再編された」とあるが、“保安隊を経て”が欠落。―(i)
〔76〕p.306
昭和天皇(1901〜1989,第124代)
<コメント>神話と史実を混同しかねない構成になっている。(略)昭和天皇は、神武天皇から数えて「第124代」とさえ紹介している。―(j)。
U.無修正問題記述箇所
以下は、旧版の「つくる会」教科書が指摘された問題箇所のうち、今回の白表紙本において削除ないし訂正されなかった箇所をゴチックで示したものである。下線部分は改訂版で修正された箇所である。
〔1・2〕p.36
Column 神武天皇の東征伝承……神日本磐余彦尊(のちの神武天皇とよばれる)は……橿原の地で、初代天皇の位に即いた。

<コメント1>架空の物語である神武東征を、広開土王碑や稲荷山古墳の鉄剣銘の記述よりも、前に配置する構成になっている。しかも、東征進路の地図まで入れている。検定意見により、「神武天皇が進んだと伝えられるルート」(傍線は筆者)と傍線部分を加えてはいるものの、神武天皇を実在の人物のように思わせようとする意図は貫かれている。神武天皇を「初代天皇」(検定修正以前の原文)とする認識は生きつづけているといえよう。―(e)
<コメント2> この教科書には、伝承を歴史的事実とみせるような配慮が働いている。そして、「(略)橿原の地で、初代天皇の位に即いた」と書く。本心としては、「神武天皇を「初代の天皇」にしたいのであろうか。
ところで、「初代の天皇」を意味する「はつくにしらすすめらみこと」と評された「天皇」は、『古事記』が「崇神天皇」で、『日本書紀』が「神武天皇」と「崇神天皇」。したがって、この教科書の記述は『日本書紀』に基づいていることになる。しかし、『日本書紀』には「初代天皇の位に即いた」という文章はない。必ずしも『日本書紀』どおりに記述しているわけではない。こうした目でみれば、「神日本磐余彦尊」の名称も、この教科書の造語である。『古事記』は「神倭伊波礼毘古命」、『日本書紀』が「神日本磐余彦天皇」と表記する。やはり何か意図的な作為がある。―(e)
*〔解説〕改訂版では、旧版で批判された「東征進路の地図」、昭和天皇を神武天皇から数えて「第124代」とした点などを削除し、神話全体の記述を減少させた。しかし、「歴史事実と交互に読み進むよう構成され」ている点に変わりはなく、むしろ神武天皇の東征神話を旧版より遡らせ古墳時代に置き、彼が古墳に埋葬されたと誤解されかねないような紙面構成(「神武天皇陵」復活の地ならしか)をはじめ、同天皇を実在の人物とするための工夫がちりばめられている。
なお、コメント2の指摘は、新版でもまったく無視されている。記紀神話は、神武ではなくむしろ 嵩神天皇の方を初の天皇としている(『古事記』は「初国知らしし御真き天皇」として初代天皇とし、 『日本書紀』も「肇国天皇」としている)ことを知るべきだろう。たしかに、神武について記紀とも に「天皇」と表記してはいるが、「嵩神天皇が…大和朝廷の始祖としての天皇であるが、皇室の起源を さらに古く神代にさかのぼって求め、神代と人代とを一続きの物語として歴史的に語るために、神武 天皇の伝説を語り、さらに神武天皇から開化天皇まで九代の天皇系譜が形作られたのであろう、と考 えられる」(次田真幸『古事記(中)』講談社学術文庫、p.100)とする今日の至極当たり前の見解をし りぞけ、扶桑社教科書は皇国史観に道を開こうとしている。
〔3〕p.37
大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。
<コメント1>4世紀後半に「大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。」とし、その後も「任那」をめぐる国際関係が述べられている。本書は「任那」に関する叙述をみる限り、すべて一つの国のように描いているが、いわゆる任那(任那は日本側資料の呼称であって、加羅ないし加耶とすべきである)とは、少なくとも20余りの小国群であって、滅亡の時まで統合されることはなかった。また、4世紀後半の加耶に大和朝廷の拠点があったとする史料的根拠はない。―(f)
<コメント2>「任那日本府説」は韓国と日本の50余年間の研究の結果、認められない説。―(c)
*〔解説〕「日本府」という表現まではないものの、それにつながる記述は、新版でもまったく変わっていないし、任那を「一つの国のように描」く方法も、以下のように変わっていない。
〔4・5・6〕p.40
任那は、新羅からは攻略され、百済からは領土の一部の割譲(土地を他に分け与えること)を求められた。……しかし、562年、任那はほろんで新羅領となった……任那から撤退し、半島政策に失敗した大和朝廷だが、こうして再び自信を取り戻した
<コメント1> 任那という一つの国家があったかのような記述は、否定された学説に基づいた重大な誤り。かつて「任那」と考えられていた地域が群小の国家からなる地域であったことは、すでに歴史学界、考古学界の共通認識となっている。
※他社本では「加羅(任那)地域」「朝鮮半島南部」などと表記している。―(a)
<コメント2> 占領国である日本が被占領地の任那から撤収したことを前提に記述一駐屯、撤退の記録がないため誤りであり削除が必要――(c)
*〔解説〕改訂版では表現が緩和されたが、任那を一つの国のように描く方法は変わっていないし、悪い記述も新たに加えられた。
〔7〕p.55
710(和銅3)年、奈良に平城京がつくられた。唐の都の長安に似せてつくられたといわれるが、二つの都には違いもあった。長安の都には、外敵に備える外壁があり、また城内にも、治安の維持に加えて、人民を囲い込んで監視するための内壁があった。しかし、日本はそうしたきびしい対策を必要としていなかったので、平城京には城壁がなかった。
<コメント>【平城京】では、唐の長安城と平城京、唐と奈良時代の役所の仕組み、皇帝と天皇の違いなどを比較しているが、そこで下されている評価は、同時代の新羅や渤海をも加えて論ずれば、異なる評価がなされるはずである。たとえば新羅の王都にも長安城のような城壁はなかったが、そのような新羅のありかたを視野に収めれば、「そうしたきびしい対策を日本は必要としていなかった」といえるかどうか疑わしい。
むしろそれらの諸国と比較すれば、いっそう明確になることだが、東アジア諸国が唐に起源する律令を継受して、巨視的には同様の国家体制をとりながらも、それぞれの政治的、経済的、社会的、文化的条件の下で、特色ある律令国家を形成したのであって、恣意的に、あるときは新羅と、またあるときは唐との二国間で比較して、日本の独自性を際だたせてどのような意味があるというのだろうか。―(f)
*〔解説〕改訂版では、一部改善されたが同趣旨の記述は残した。さらに律令の輸入について、新羅とのつまらない比較なども新しく加え、全体として周辺諸国への差別的姿勢は一貫している。
〔8〕p.56
公地の支給を受けた公民
<コメント> 制度面では第3節「律令国家の成立」以降で、古代国家の統治理念として「公地公民制」(いわゆる土地人民の公有制)を重視し、大化改新から律令国家の成立までを、その実現過程として描いている。しかし、律令における「公−私」の概念は、いわゆる「公地公民」の「公−私」の概念と異なっている。たとえば、班田収受法において公民に班給される口分田は、「公田」ではなく、「私田」であった。また「公民」という語は律令にまったく用いられていない。実証レベルでは様々な疑問があって、近年では、「公地公民制」はほとんど議論の対象となっていない。「公地公民」という分析視角が生まれた背景については、近代日本の現実的な課題のなかで生じた近代史学のバイアスがあったことが指摘されている。―(f)
*〔解説〕「公地」の部分について、改訂版は修正したが、「公民」については変更していない。
〔9・10〕p.57
租・調・庸とは
税は田の面積に応じた租(収穫の約3%の稲)がまずあり、地方の財政をまかなった。ほかに調・庸がある。調は絹・布・糸・綿・海産物などを、庸は労働の義務であったが、実際に労働するかわりに一定量の布地を、それぞれ朝廷に納める義務であった。ほかに雑徭といって、60日を限度に地方で労働に従う義務もあった。また都の警備をしたり、北九州の海辺を守ったりする兵役の義務もあった。全部合わせると、農民にはかなりの負担であった。
<コメント>「租・調・庸とは」のコラムにおいて「税は田の面積に応じた租がまずあり、地方の財政をまかなった」と記されている。「地方財政をまかなう」とあるが、日本では租は課役に含まれず、「積極的な財政機能も果さなかった」(日本思想大系『律令』)とするのが通説である。「庸は労働の義務であった」という文章にいたっては、完全にまちがい。「歳役に実際に就く代わりに納める物」(『律令』)ではないのか。これほど事実誤認の教科書も珍しい。―(e)
〔11〕p.60
出雲の神代神楽(島根県) 古代の神話は、現在でも人々の生活や行事の中に息づいている。
<コメント> 「日本の神話」の最初の写真は、出雲時代神楽である。この写真の脇に「古代の神話は、現在でも人々の生活や行事の中に息づいている」というコメントが添えられている。これでは記紀神話が、古代以来現代まで、民衆の間にずっと生きつづけてきたような錯覚を、生徒たちにあたえることにならないだろうか。/いうまでもないことだが、記紀の神話が民衆の間に語り継がれてきたという証拠は何もない。中世には、『神道集』などにみられるように、記紀とは全く別の神仏習合の神話が唱導家たちによって語られていた。そのうえ、記紀神話は古代においても民衆とは無縁の世界であったし、古代神話と中世・近世の伝承との間には、大きな断絶が存在したのである。/ここに取り上げられた出雲神楽も「神代」を主題とした各地の神楽も、私の知るかぎりでは、中世末から近世中期に京都の吉田神道が介在して、日本書記の神代巻を題材として創作されたものばかりであって、近世の民衆芸能として位置づけられるものである。―(e)
〔12〕p.70
10世紀に入り、人口が増え、新田が不足したために、班田収授が行き詰ると、朝廷は地方政治の方針を大きく転換した。
<コメント> 問題の多い記述である。/第一点。班田収授の崩壊の原因を、人口増加による新田不足に求めているが、この時代に人口増加や新田不足があったという主張は、何ら根拠がないものである。/第二点。「朝廷は地方政治の方針を大きく転換した」とあるが、10世紀はじめの延喜国制改革を指しているのか、10世紀半ばの地方政治の変化のことを指しているのか、不明な文書である。もし前者であれば、班田収授の行き詰まりも10
世紀に入ってから生じた事態であるように読めるが、通説では9世紀のこととされている。また後者であれば、上記記述は、10世紀半ばの地方政治の変化の原因を、班田収授の行き詰まりに求めていることになるが、そうした歴史理解は無理である。いずれにしても、この時代の地方政治の変化についての史料も研究も知らないまま、適当に執筆したものと思われる。
※研究上でも難しい箇所であり、各社とも記述に苦労しているが、人口増加と新田不足という根拠のないことを記述している他社本はない。―(a)
〔13〕p.87
元寇……朝廷と幕府は一致して、これをはねつけた。
<コメント> モンゴルへの対応の主導権は明らかに幕府が握った。朝廷と幕府が対等な形で対応したかのような表現をするのは誤り。朝廷の存在を強調するために犯された誤りである。※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a)
〔14〕p.94
やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、これまで討幕勢力が不利だった形勢は一変する。
<コメント> 後醍醐天皇の隠岐脱出と戦況の変化に直接の因果関係はない。元弘3年閏2月に後醍醐が船上山に迎えられたのちもしばらくは倒幕勢力に不利な状況が続いた。状況が変化するのは足利尊氏の幕府からの離反が明らかになった同年4月末のことである。後醍醐天皇の存在を事実以上に強調するために誤った記述がなされている。―(a)
*〔解説〕改訂版では表現をやわらげたものの、基本的な叙述を残した。
〔15〕p.95
建武の新政は公家を重んじた急激な改革で、武家の実力をいかす仕組みがなかった。また、討幕をめぐる戦乱でうばわれた領地をもとの持ち主に返し、今後の土地所有権の変更はすべで後醍醐天皇自身の判断によらなければならないとしたが、はるかむかしに失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、その方針を後退させざるをえなかった。そのため、早くも政治への不満を多く生み出すことになった。 /このようなときに、足利尊氏が幕府を再興しようと兵を挙げたので、建武の新政はわずか2年余りで崩れてしまった。
<コメント> 「建武の新政」において、新政権がわずか2年余りで崩壊した原因について、(一)公家重視の急激な改革であったこと、(二)武士の実力をいかす仕組みがなかったこと、(三)土地所有の変更は、すべて、後醍醐天皇の判断によるとしたことなどがあげられている。しかし、新政権崩壊の要因の一つとして、鎌倉末期の戦乱に疲弊しきった民衆生活の安定をかえりみることなく、天皇の絶対性を誇示するために、大内裏の造営を強行しようとしたことを看過すべきではなかろう。後醍醐天皇は、大内裏造営の費用を集めるために、地頭武士らの収益の20分の1を徴収することを命じたが、これに対して、全国各地の武士たちの間にわきおこった造営費徴収反対運動、この負担を転嫁されたであろう農民諸階層の建武政権への反発こそが、新政権にとって躓きのはじまりであった。建武新政への不満は、武士階級のみならず、全国各地の農民や、政権膝下の京都においてもはっきりと見てとることができる。東寺領若狭国太良荘(現 小浜市)の農民たちは、後醍醐天皇=明王聖主の御代への期待が、年貢・公事の増徴によって裏切られたと嘆き、京都の民衆は「夜討・強盗・謀綸旨」の横行に抗議して、二条河原に落書をかかげて、建武新政権を厳しく批判したのである。―(e)
〔16〕p.96
室町幕府は、北朝によって承認されていることをみずからの正統性の根拠にして、しばらく南朝と対立した。
<コメント>約60年間にわたる南北朝の争乱の時代を、「しばらく」とは、どのような歴史認識なのであろうか。天皇から将軍、武士から民衆にいたる、あらゆる階層の人々を戦禍にまきこんで展開した内乱が、60年の長きにわたって継続した原因については、当然のごとく、全く記述されていない。―(e)
〔17〕p.99
また、すき・くわなどの農具や刀をつくる鍛冶職人、なべ・かまなどの日用品をつくる鋳物職人もあらわれた。
<コメント> 室町時代の手工業・商業の発達に触れた箇所で、「すき・くわなどの農具や刀をつくる鍛冶職人、なべ・かまなどの日用品をつくる鋳物職人もあらわれた」とあるが、このままでは古代から存在する鍛冶あるいは鋳物師の出現自体が室町期だと受け取られてしまう。―(f)
〔18〕p.106
足利義満の死後、明との勘合貿易が中断されると、再び倭寇の活動がさかんになったが、構成員のほとんどは中国人だった。
<コメント> 義満死後の勘合貿易中断期(15世紀はじめ)の倭寇と、16世紀になってから始まる後期倭寇を混同した重大な誤り。構成員の多くが中国人だったのは後期倭寇であるから、100年ほどの錯誤を犯している。朝鮮半島で乱暴を働いた日本人の数を少なく見せることを意図して犯された誤りである。/※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。―(a)
*〔解説〕改訂版は時期的な面を改善したが、日本人を少なく見せることを意図している点は不変である。
〔19〕p.112地図大航海時代の世界
<コメント>図中の〈バスコ・ダ・ガマ航路図〉で、西アフリカ沖合から喜望峰にかけての部分は帰路のコース(風向と海流が南東から北西に向いている)で誤り。往路は西アフリカ沖合から南米大陸寄りに大きく迫り出す形で一気に喜望峰とほぼ同じ緯度まで南下し、その緯度に近づいてからは同緯度を維持して東に進み大陸南端付近に到達する緯度渡航法による航路を描いている。
→このミスは、明治以後誤って記述している欧米の歴史地図をそのまま日本国内で通用させたもので、’80年頃に高嶋がポルトガル現地で誤りであることを確認した後に、日本国内で教科書執筆者等に是正の必要性を指摘した。’90年代にはすべての中学歴史教科書(7種)に正確な表示が登場していた。―(i)
〔20〕p.113地図(トルデシリャス条約の分割線)
この条約によって決められた史上初のこの大胆な領土分割線は、地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。当時のヨーロッパ人は、まるでまんじゅうを二つに割るように地球を分割し、それを自分たちの領土とみなしたのだった。
<コメント> まず、第一に、第一節「戦国時代から天下統一へ」の「ヨーロッパ人の世界進出」の最初に、どうして「トルデシリャス条約」の内容を紹介して、そこから「日本の近世」の叙述を始めるのだろうか、という疑問である。
中学校歴史的分野のこの部分は、これから高校用をも含めて他の教科書にはまず出てきそうもない「トルデシリャス条約」(1494年)を、『教科書』は窓見出しに掲げ、「この条約によって決められた史上初のこの大胆な領土分割線は、地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。当時のヨーロッパ人は、まるでまんじゅうを二つに割るように地球を分割し、それを自分たちの領土とみなしたのだった」と特筆する(113頁)。
この条約は領土分割ではなく管轄区域を定めたものだから、表現が正確でないが、東半球では「北海道の東あたり」を通るというのは大まちがい。同じページに掲げられた地図自体がそうなっていないのだからお笑いである。条約に定める「ベルデ岬諸島の西方370レグア」は西経50度あたりで、反対側では東経130度あたりとなる。「北海道の東」では東経145度以東となってしまう。
『教科書』はおそらくヨーロッパの身勝手さを強調したくてとりあげたのだろう。そのかぎりでは私も同感だが、こんな半可通では、教育の妨げになるし、地図もおざなりすぎる。―(e)
〔21〕p.117
信長は仏教勢力にもきびしく対処した。信長は自分に反対する大名と結んだ比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、
<コメント> 比叡山と結んだ大名は誰なのか。ここでも架空のハッタリが横行している。(中略)信長は叡山が腐敗し墜落しきっているのを確認し、世の中に上からかぶさっている不合理な中世的権威を破壊したのである。―(g)
〔22・23〕p.121
加藤清正や小西行長などの武将に率いられた日本軍はたちまち首都の漢城(現在のソウル)をおとし……明との和平交渉のために撤兵した(文禄の役)。/ところが、明との交渉は整わず、1597(慶長2)年、日本は再び14万の大軍で朝鮮に攻め込んだ。ところが、日本軍は朝鮮南部に侵攻しただけで戦況は停滞し、翌年、秀吉の死去とともに、兵を引き上げた(慶長の役)。
<コメント1>文禄の役の終盤、日本軍が「明との和平交渉のために撤兵した」とする(121頁)のは完全な誤り。実際は在陣中の小西行長が秀吉の「降表」まででっち上げて和議をまとめたが、日本軍はなお撤兵せず、軍の一部が戦線を離脱して帰国したり、朝鮮側に投降したりしたにすぎない。そして、「降表」を受けて明皇帝が発した冊封使が大坂城に来て、秀吉は真相を知り、激怒して再派兵を決断するのである。『教科書』の叙述は、秀吉軍の侵略性を薄めようとして事実をねじまげたものか。――(e)
<コメント2>慶長の役については、(中略)朝鮮半島の南部4道を日本の領土化するという慶長の役の目的にはまったく触れることがない。――(e)
〔24〕p.126
江戸幕府の統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号であった。
<コメント> 「江戸幕府の統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号であった」というような一文も、武家官位を公家官位とは別物にして無定員の将軍推挙制に変え、官位叙任が将軍への思頼感に向くようにしたことや、家光以降は「公卿補任」から武家叙任の記載をすべて外してしまったことなどをあわせると、作為的だと思わせるほど歴史認識を単純化している。―(f)
〔25〕p.148
先祖伝来の家業に勤勉にはげむことが、人間としての安心立命につながるという考えが広がった。江戸初期の国土の大開発は、こうした勤勉さによってなされた。
<コメント> 江戸初期の大開発はおもには幕府や藩・武士によるものであり、町人などの新田開発はむしろ中後期が中心であるから、記述は誤り。日本人の勤勉さを強調することを意図したのであろうが、正確な知識を欠いていたために誤った記述となっている。
※他社本には類した記述はない。―(a)
〔26・27〕p.153
田沼意次は、(中略)海産物を輸出するため蝦夷地の開発を試みた。田沼の政策は斬新だったが、大商人が幕政に深くかかわり、その結果、賄賂が横行して批判を浴びるようになった。こののち浅間山噴火(1783年)による気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、数十万人もの人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発して、田沼はその責任を問われて失脚した。このように田沼意次が政治の中心にいた時代を、田沼時代という。
<コメント> 誤記の例をあげると、田沼意次のところだけでも2箇所ある。一つは、「蝦夷地の開発を試みた」とあるところで、調査隊を蝦夷地におくって開発計画を立てたが、松平定信に政権が変わって、関係者は追放されたため実現していない。「試みようとした」ならよいが、「試みた」は不正確である。また江戸の打ちこわしで、意次が失脚したとあるが、意次の失脚は打ちこわしの前年のことである。打ちこわしで倒れたのは田沼派の残存勢力であり、これによって松平定信政権が誕生した。――(f)
〔28〕p.158
大塩平八郎は、豪商が幕府の命令で米を買い占めて江戸に送っていたことに怒り、1837年門弟や民衆をつれて豪商を襲撃した。
<コメント> 「豪商の米の買い占めと、幕府の命令で大坂町奉行所が米を江戸に送っていたことに怒り」が正確である。誤った記述である。
※大書「大阪でも多くの餓死者が出ました。しかし、大商人は米を買い占め、幕府は大阪の米を江戸に送るように命令しました。……大塩平八郎は、奉行所や大商人が貧しい人々の救済を考えないことにいきどおり」が最も詳しくて正確。日書「大塩平八郎は、幕府の悪政にいきどおり」、清水「大塩平八郎が、ききんに苦しむ民衆をかえりみない役人や大商人に怒りをぶつけ」、日文「大塩平八郎は、幕府の政治にいきどおり」、帝国「大塩平八郎が、人々の苦しい生活を見るに見かねて」、教出「大塩平八郎が、役所や豪商が飢えた人々を救わないことにいかり」、東書「大塩平八郎は、大商人をおそって米や金を貧しい人々に分けようとしました」となっており、幕府が豪商に買い占めを命じたという誤った記述をしているのもは他にはない。―(a)
〔29〕p.202
岩倉使節団と征韓論……近代産業の確立(「富国」)を優先して追いつくべきだと考えるようになった。
*〔解説〕改訂版では、他の箇所に「富国強兵」が出現した。しかし、ここはもとの「富国」のままにしており、岩倉使節団に「強兵」の視点がないかのようであるし、直後の征韓論の理解にも誤解を与える記述を残した。
〔30〕p.209
[能力主義]…身分を問わず,新たな指導者層をつくる高等教育機関も整えられた。そして,誰にでもそこに入る可能性は開かれていた。封建的身分差別は,教育による能力主義によって少しずつ壊された。
<コメント> 特定身分の学校を近代日本は作らなかったというが、戦前に皇族・華族・一部の士族の子弟のみに入学を許した特権的な学習院や華族女学校(学習院女子部)、対照的に北海道での旧土人学校・西日本中心の部落学校などの存在、さらに貧農層や労働者層の子どもたちで中等学校以上に進学し得たのは極めて少数だった事実等々が、あっさりと無視されている。―(e)
〔31〕p.214
大日本帝国憲法は,国家の統治権は天皇にあるとし,その上で実際の政治は各大臣の輔弼(助言)に基づいて行われると定めた。
<コメント>この教科書の政治制度、とくに天皇に関する制度の説明は、極端に簡略化された、不正確なものである。(略)この記述では、実際の政治決定は大臣がおこない、天皇の統治権は名目的なものとして、象徴天皇と同様に権力をもたない存在として、近代の天皇は理解されることになる。さらに問題なのは、この記述が統帥権の存在などにまったく触れていないことである。つまり統帥権や外交権などがさらに天皇大権として憲法に規定されていて、とくに統帥権は国務大臣の輔弼の範囲外とされることで、軍部の内閣からの独立性が生じたことが理解できるようには、この教科書はまったく記述されていないのである。
こうした点について他の教科書は、「憲法では、天皇が国の元首として統治すると定められ、議会の召集・解散、軍隊の指揮、条約の締結や戦争を始めることなどは、天皇の権限とされました」(東京書籍)、「憲法は、天皇が最高の権力者であると定め、帝国議会(国会・内閣・裁判所も天皇を助けるものと位置づけた。また、天皇が軍隊を統率し、指揮するとした」(日本書籍)、「憲法では、天皇が軍隊を統率し、外国との条約の締結をするなど大きな権限をもち、憲法の規定に従って、大臣などの補佐により、国を統治するものときれた」(教育出版)など、統帥権といった生徒に難しい用語をさけながら、それぞれの観点からの工夫した記述をしている。―(h)
*〔解説〕天皇の戦争責任がかかわる統帥権の存在を隠すことにこの教科書の「特色」の一つで、改訂版では欄外に大日本帝国憲法第11条(統帥権)を登場させたが本文は変わっていない。
〔32〕p.214
日本は,本格的な立憲政治は欧米以外には無理であると言われていた時代に,アジアで最初の議会をもつ立憲国家として出発した。
<コメント>「本格的な立憲政治は有色人種には無理であると信じられていた時代に」という(検定申請本の)表現を修正したものであるが、この記述に対しては、そのような意見はどの国の誰によって言われていたのか、が問われなければならない。そのような意見は一般的であったのか。「アジア最初の議会」は誤りである。―(b)
〔33〕p.216
朝鮮半島と日本の安全保障 東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れて,海に浮かぶ島国である。この日本に向けて,大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時,朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば,日本を攻撃する格好の基地となり,後背地をもたない島国の日本は,自国の防衛が困難となると考えられていた。
<コメント1> 前近代史にあって、日本が大陸の文化を吸収したとき、朝鮮半島はその媒介者であり、供給者であった.朝鮮半島を乳房と見立てる見方もある。引っ越すことのできない隣国の地理的形状を日本を脅かす暴力的な「腕」と決めつける見方は、「朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器となりかねない位置関係にあった」という、検定修正で削除された表現の思想をなおのこすものである。依然として不適切な表現である。―(b)
<コメント2> 朝鮮半島脅威説を強調し、日本の防衛の名目で韓国侵略・支配を合理化するという論理/日清戦争ならびに日露戦争を自衛戦争として合理化―(c)
*〔解説〕改訂版では、批判を受けて表現を緩和したが、なお基本的に同じ論法を展開している。
〔34・35〕p.217
清は,最後の有力な朝貢国である朝鮮だけは失うまいとし,日本を仮想敵国(国防計画を立てるさいに,仮に敵とみなす国)とするようになった。/日本は,朝鮮の開国後,その近代化を助けるべく軍制改革を援助した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは,日本の安全にとっても重要だった。
<コメント1> 朝鮮を巡る清と日本の対立を一面的に説明し、日本が清を仮想敵国にした事実を歪曲。―(c)
<コメント2> 朝鮮に対する日本の影響力を植え付けようとした目的を隠し、軍事援助で朝鮮の独立に寄与したかのように叙述することで事実をごまかす―(c)
〔36・37・38〕p.218
1894(明治27)年,朝鮮の南部に東学の乱(甲午農民戦争)とよばれる農民暴動がおこった。東学党は,西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団だった。彼らは,外国人と腐敗した役人の追放を目指し,一時は首都漢城(現在のソウル)に迫る勢いをみせた。わずかな兵力しかもたない朝鮮は,清に鎮圧のための出兵を求めたが,日本も甲申事変後の清との申しあわせに従い,軍隊を派遣し,日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。
<コメント1> 「東学の乱」「東学党」という古い、不正確な呼称を復活するのは、不適切である。―(b)
<コメント2> 反封建・反外勢運動を「東学の乱」や「暴動」と表現したのは不適切であり、農民運動を宗教集団運動と限定したのは誤解の余地がある。/「漢城に肉薄した」のではなく全州城を占領したのみ。/日本が日清戦争を誘発する目的で計画的に派兵した事実を隠蔽し、清兵派兵に対する単純な対応措置であるように叙述―(c)
<コメント3> 日本は清の出兵に対抗して、公使館と居留民の保護を口実に出兵した。農民戦争が沈静化して、出兵の理由がなくなっても、日本は撤兵を拒否し、朝鮮の内政改革を要求し、1894年7月23日朝鮮の王宮を占領し、朝鮮兵を武装解除した。その上で7月25日に豊島沖で清軍を攻撃し、8月1日、清に宣戦を布告したのである。執筆者は、日本は戦争をする気はなかったが、成り行きで戦争になってしまったのだという印象を与えようとしているように見える。不適切な表現である。/※教出「日本もこれに対抗して」、帝国「日本も清に対抗して」、日文「日本は、朝鮮での指導権をとるために」、東書「これを機に、清と日本は朝鮮に出兵し」、日書「日清両国が出兵したとき、すでに農民軍と朝鮮政府は休戦していた。しかし日本は軍隊を駐在しつづけるため、改革案を朝鮮政府におしつけ、これに対する回答を不満として、朝鮮の王宮を占領した」―(a)
〔39〕p.222
ロシアは満州の兵力を増強し,朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば,ロシアの極東における軍事力は日本が到底,太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて,ロシアとの戦争を始める決意を固めた。
<コメント1> これはロシアが1903年に鴫緑江べりの平安北道龍川郡龍岩浦を租借して、木材の伐採をはじめ、そこに警備隊をおくりこんだのを、日本側がロシアが軍事拠点をつくろうとしているとして、極度に警戒心を高めたという話である。これを「軍事基地を建設した」と断定するのは正しくない。―(b)
<コメント2> 伐木場を軍事基地と誤って解釈―(c)
〔40〕p.223
日露戦争は,日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。日本はこれに勝利して,自国の安全保障を確立した。
<コメント> 日本の朝鮮への介入は、あきらかに隣国の独立を侵すものであり、「自衛」の枠を越えた、膨張主義政策であったといえる。この教科書では、このような近代日本国家の膨張主義戦略など存在しなかったかのように描かれている。幕末・維新期に日本が欧米列強の「脅成」にさらされていたことは確かであるが、日本は、その後、朝鮮半島への膨張戦略をとることによって「独立」を保持するという過剰防衛路線を歩んだことは、今日から見れば明らかな事実である。/例えば、一八九〇年に山県有朋首相は「外交政略論」を著し、日本は「主権線」(国境線)の外側に「利益線」(勢力圏)を確保することの重要性と、朝鮮こそがその「利益線」であることを表明した。これは、ロシアに先んじて朝鮮へと膨張・進出することが<国家戦略>にすえられたことを意味している。この教科書では、当時の国家指導者の主張をそのまま伝えるというスタンスを表明しながらも、こうした日本の能動的な膨張戦略についてはまったくふれていないのである。/日露戦争についても、この教科書は、ロシアの極東進出に対して「政府は手遅れになることをおそれて、ロシアとの戦争を始める決意を固めた」(222頁)と述べるなど、日本はロシアの脅威に対抗するための自衛戦争であったという立場をとっている。これも、明治以来の政府側の主張を基礎にした歴史認識である。/しかし、明治政府の認識が、当時の世界史の実態ではない。おもにイギリスからの情報にもとづくロシア脅威論は、今日からみれば、本当に明治政府が喧伝したほどの「脅威」であったかどうかは疑問である。また、日本が単に受動的に戦争を強いられたわけではなく、日英同盟を締結してイギリスの世界戦略に自らを組み込むことによって、積極的にロシアに戦争を挑んだ側面をこの教科書は無視している。さらにイギリスに支えられた日本の勝利が、世界の帝国主義ブロックの再編をうながし、イギリス陣営とドイツ陣営の世界戦争をより近づけたといった、世界史的な評価も欠落している。―(e)
〔41〕p.224
(津田)梅子は,自分の女子教育が世間からつまらない誤解や反対をされないように,生徒たちの日常の行儀作法や言葉づかいなどにも注意し,一見保守的な雰囲気の中で,おたがいの個性を尊重しあう気風を育むことに努めた。
<コメント> 全体としてこの教科書は、女性についての記述の少なさがきわだっているが、そうした基調は「人物コラム」にもみてとれる。取りあげられたのが20人中の2人という点はさて措くとしても、津田梅子の場合、女性を自立させるために力を入れた職業教育はまったく無視され、「行儀作法や言葉づかいなどにも注意し」という点が強調された。与謝野晶子については、「君死にたまふことなかれ」は「家の存続」を願う歌とされ、また「大家族の主婦として、妻や母としてのつとめを果たし続けた」点が力説された。これに、日本武尊の身がわりになって夫の任務を援けた弟橘媛を加えると、男性に求められる国家への献身と対比的に、女性の役割を夫や家族への献身という分野に閉じこめようとしていることが、明白となる。―(e)
*〔解説〕コメントで指摘された津田梅子に関する記述、また与謝野晶子・弟橘媛に関しては、旧版のすべての記述が削除されたが、上記の「職業教育はまったく無視され」「女性の役割を夫や家族への献身という分野に閉じこめようとしている」点は変わっていない。
〔42〕p.240(キャプション)
伊藤博文は1906年に初代韓国統監となったが,1909年ハルビンで暗殺された。
<コメント> 任命は1905年12月21日であり、1906年は誤りである。―(b)
〔43〕p.241
1911年,中国に辛亥革命がおこった。翌年1月,南京に革命派の代表が集まって孫文を臨時大総統に選び,中華民国の成立を宣言した。
<コメント>孫文を臨時大総統に選んだのは、いわゆる立憲派などを含む各地の代表であって、「革命派の代表」だけが集まって選んだわけではない。/※他社本は革命派という語は用いていない。―(a)
〔44〕p.256
(関東大震災)。この混乱の中で,朝鮮人や社会主義者の間に不穏なくわだてがあるとの噂が広まり,住民の自警団などが社会主義者や朝鮮人・中国人を殺害するという事件がおきた。
<コメント> これは検定後に追加された記述だが、住民だけの責任であるかのような説明は誤っている。社会主義者を殺害したのは、警察や憲兵であり、住民ではない。中国人も同じである。朝鮮人の殺害は住民の自警団によってなされたが、軍隊、警察もこれに関与した。朝鮮人は約6000人が虐殺されたと言われており、すくなくとも「多数の朝鮮人」と表現すべきであろう。一般に、この著者は外国人に日本人が殺された場合はその人数を明示しているのに、日本人が殺した場合は、具体的な人数を書かないようにしているのは、いさぎよくない。―(b)
*〔解説〕改訂版でも記述は維持されたのみか、中国人の殺害部分を削除した。
〔45〕p.263
中国の排日運動……中国の国内統一が進行する中で,不平等条約によって中国に権益をもつ外国勢カを排撃する動きが高まった。それは中国のナショナリズムのあらわれであったが,暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受けていたので 過激な性格を帯びるようになった。勢力を拡大してくる日本に対しても,日本商品をボイコットし,日本人を襲撃する排日運動が活発になった。
<コメント> (一)この紀述は20年代に日本軍国主義の中国拡張に対する中国人民の反対を「排日運動」と称し、その原因を「暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響」にし、中国に対する日本の侵蝕と拡張が中国人民の反抗の主因である歴史的事実を隠ぺいした.
(二)「過激という言葉で日本の拡張に対する中国民衆の正義な戦いを表現し、日本軍国主義が中国の東北地域で起こした様々な卑劣行為を正当化しようとした。―(d)
*〔解説〕若干の変更を施したが、むしろ改悪され、他に問題記述が追加された。
〔46〕p.267〜268
リットン調査団の報告書は,満州における不法行為によって日本の安全がおびやかされていたことは認め,満州における日本の権益を承認した。一方で,報告書は,満州事変における日本軍の行動を自衛行為とは認めず,日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。―(j)
<コメント>リットン報告書とは、「疑いもなく中国の領土であった広大な地域が、日本軍隊によって暴力をもって押収かつ占領された」(外務省編刊『日本外交文書 満州事変[別巻]』)と結論づけたものであり、したがっで日本軍の行動を「合法なる自衛の措置と認めることを得ず」としたのであった。「つくる会歴史教科書」は、この部分にも触れているが、付属的な記述へとわい曲している。―(j)
〔47〕p.268
満州国は,五族協和,王道楽土建設をスローガンに,日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ,中国人などの著しい人口の流入があった。
<コメント> (一) 1932年7月、関東軍本部が制定した「満州経済編制根本方策案」に、「満州の重要事業が国策上重要な意義を有し、日本国の経営を理想とす」と明記した。この背景の下で、「満鉄」と「満業」など一連の日本資本の企業が中国東北の経済命脈を完全に掌握し、直接に日本の中国拡張と侵略戦争に貢献することになった。いわゆる東北地域の経済成長は、実際には、日本の対中侵略の戦争経済の成長である。
(二) 日本は中国の東北で大規模な略奪を行なった。統計によると、1931年から1944年まで、中国東北から2万2800万トンの石炭、1200万トンの粗鉄と大量の良質な木材が日本に運ばれ、石炭と粗鉄は当時中国東北の生産量の30%と40%を占めた。このほか、大量の戦略物資が日本軍の中国内陸部に対する侵略と太平洋戦争に直接使用された。
(三) 日本は偽「満州国」政権と結託し、東北地域に大量に移民した。統計によると、1932年から1936年7月まで、日本は五回にわたり、東北に移民し、71.7万人の日本人、87.7万人の朝鮮人を入植し、その後も断続的に30万人を入植した。日本軍が上記の移民のために強奪した農地は当時東北の耕地全体の十分の一以上を占め、大量の中国農民を苦境に追い込んだ。いわゆる中国人が著しく東北に流入したということは、実は日本軍が強制連行や、詐欺などの手段で中国の華北地域から1200万人の中国人を東北に入れて労働力にした結果である。
(四)日本軍は公然と国際法に違反し、東北で細菌戦の研究実験基地を作り、「731」部隊は大量の人間を人体試験に使い、無数の中国人を残酷に殺害した。日本軍は大量の化学兵器を東北に埋蔵遺棄し、今でも現地の生態環境と人民の生命と財産の安全を脅かしている。
この教科書が以上の事実を隠蔽し、日本支配下の東北地域のいわゆる「繁栄」を極力喧伝することは、歴史的事実に対する重大な歪曲である。―(d)
〔48〕p.270
1937(昭和12)年7月7日夜,北京郊外の盧溝橋で,演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には,中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが,やがて日本側も大規模な派兵を命じ,国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
<コメント> 1931年、日本は「9.18事変」を通じて中国の東北を占領した。1982年、「1.28事変」で、日本軍は上海を侵攻し、駐留した。1982年3月、日本は偽満州国傀儡政権を作り、東北を中国から分裂させようと図った。1985年、日本軍は南侵し、北平天津を脅かし、「華北五省自治」を画策した。日本が30年代から計画的に中国に対し全面的な軍事進攻を準備し始めたことは大量の歴史的事実によって明らかにされている。この教科書が「全面戦争開始のきっかけ」を二つの偶発的な事件に描いた意図は日本が計画的に中国全面侵略戦争を発動した事実を隠ぺいすることにある。―(d)
〔49〕p.275
7月,日本の陸海軍は南部仏印(ベトナム)進駐を断行し,サィゴンに入城した。サイゴンは,アメリカ領のフィリピン,英領シンガポール,蘭領インドネシアのすべてを攻撃できる,軍事上の重要地点だった。危機感をつのらせたアメリカは,7月,在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で対抗した。米英両国は大西洋上で会談を開き,両国の戦争目的をうたった大西洋憲章を発表して結束を固めるとともに,対日戦を2,3か月引き伸(ママ)ばすことを決めた。
<コメント> 大西洋憲章とは、米英両国が提携し、ナチス・ドイツに対抗する意志と、「戦後」世界に関する理念を明確に表明したものである。対日戦の引き延ばしも、ナチス打倒に専念することが目的であった。日本軍の仏印進駐を契機に大西洋憲章が作られたかのような印象を与える不適切な表現である。なお、他でも大西洋憲章は登場するが(281ページ、286ページ)、憲章の理念には触れられていない。/※他社本には大西洋憲章に関する記述はない。米英の日本への対決姿勢を強調するためにあえて取り上げたものであろう。―(a)
〔50・51・52・53・54・55〕p.276
大東亜戦争(太平洋戦争)
初期の勝利……日本の海軍機動部隊が,ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し,飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。このことが報道されると,日本国民の気分は一気に高まり,長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降,カをつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである。/同じ日に,日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し……英軍を撃退しながら,シンガポールを目指し快進撃を行った……わずか70日でシンガポールを陥落させ,ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した……日本は米・蘭・英軍を破り,結局100日ほどで,大勝利のうちに緒戦を制した。
<コメント1> この日米開戦を叙述した「大東亜戦争」の項目をみていただければ、それが読者の戦闘気分をいかに高揚させるものかご理解いただけるものかと思う(真珠湾への攻撃には「奇襲」の語さえ欠けている)。戦中であればいざ知らず、現在の教科書に書くべき内容ではない。ここは漫画家・小林よしのり氏が書いた箇所といわれ(『週刊文春』)、彼が『戦争論』(幻冬社)で主張した「戦争の爽快感、戦争の充実感、戦争の感動」(同書210ページ)を子どもたちに直接訴える場となっている。これを読んで酔う子どもたちがもし出てくるならば、この教科書が、子どもたちをその内面からとらえることに成功したことを意味しよう。―(j)
<コメント2>かなりエモーショナルで、戦闘を賛美し、美化し、あるいは、その機会がきたことを喜びとしているかのような印象を与える。―(e)
<コメント3> 東南アジア攻撃に関する部分も、「快進撃」とか「ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した」(276頁)というエモーショナルな表現があり、勝ち誇った優越感が滲(にじ)み出ている。―(e)
*〔解説〕感情に走った表現は改訂版で抑制したが、戦果を誇る好戦的な傾向を残した。
〔56〕p.277 地図「大東亜戦争(太平洋戦争)の展開図」
<コメント>「大東亜戦争(太平洋戦争)の展開図」の図中に「C沖縄戦45.4〜6」とあるが、沖縄戦は45年3月下旬のケラマ諸島上陸戦から始まり、住民虐殺や「集団自決」もここで発生している。―(i)
〔57・58〕p.277
日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した……日本の戦争目的は,自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し,そして,「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。
<コメント> 日本政府が開戦にあたって出した詔書、勅語、政府声明において、日本の戦争目的が「アジアを欧米の支配から解放」することであるという表現はない。開戦の詔書では、「東亜の安定」のための積年の努力が水泡に帰し、「帝国の存立」もあやうくなったので、「自存自衛」のため、戦争を開始すると述べられている。同時に発表された政府声明には、「東亜の安定と帝国の存立」が危うくなったので、戦争を開始した、この戦争は「英米の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たんとする」ものだと説明している。この日、天皇が陸海軍にだした勅語には、「帝国ノ自存自衛卜東亜永遠ノ平和確立」のために戦争すると述べられている。これに対して、『読売新開』12月9日号に「日本戦争宣言」を発表した斉藤忠は、支那事変の完遂とは、「英米資本主義搾取の根を絶って、彼らが‥・鉄鎖より東亜を解放する」ことだと書いている。つまり「アジアの解放」は政府の宣言にはなく、民間の言論にあるということである。政府がアジア解放を宣言したという記述は誤りである。―(b)
*〔解説〕「アジアを欧米の支配から解放」の箇所は削除されたが、他の箇所で補強され、むしろ改悪された。
〔59・60〕p.280
日本は1943(昭和18)年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。……この地域の代表を東京に集めて大東亜会議を開催した。会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ,日本の戦争理念が明らかにされた。
<コメント1> 形式的な「独立」政策を打ち出した目的がどこにあるかを、ビルマと「独立」条約を結ぶ直前に、東条英機は次のように述べていた。/ビルマ国は、子供というよりむしろ嬰児なり。一から十まで我がほうの指導の下にあり。それにもかかわらず(日本とビルマの)本条約が形式的対等となり居るは、ビルマ国を砲き込む手段なり。(田中伸尚『ドキュメント昭和天皇』)
日本によるアジアの「独立」政策とは、すでに二〇世紀初頭から始まっていた植民地解放運動に押されたイギリス、アメリカやフランスなどが、自治や独立を約束し始めていた状況に対応するもので、英米仏より好条件をちらつかせて人々を引きつけるための手段(空手形)なのであった。したがって、東条は「独立」の内容についても、「大東亜圏内には外交なし」と強調していた(前出木坂論文)。たとえ「独立」させたとしても、外交権さえ持てないのである。つまり、ビルマやフィリピンの「独立」とは、国として自立した外交権をもたず、さらにその「国内」では日本軍が現地軍を支配下に置いて勝手に行動でき、現地の人々の労働力や食料、資源などを自由に徴発することができるものであった。
こうして、日本の独立政策に期待していたビルマのアウン・サンなどは、むしろ「独立」させられる過程で、裏切られたことを知り、以後、彼は日本に対して反旗をひるがえし抗日へと変化、崩壊する日本軍を最後は追放する立場となった。フィリピンでも、日本による「独立」政府に協力した人々は、民族の裏切り者として、戦後50年余を過ぎて今もなお、名誉を失ったままである。
実際のところ、もし日本の独立政策が本物であったなら、東南アジアを「独立」させる前に、まず台湾や朝鮮、満州国を解放したはずである。また、それを唱えた時期、中国で「三光作戦」(日本では燼滅掃蕩作戦)などという非道な戦争をやったりはしなかったであろう。「アジア解放戦争論」とは、人をだます言いぐさである。―(j)
<コメント2>「大東亜会議」の出席者は主に日本侵略軍に支えられたアジア各国の傀儡政権であり、アジアを代表することはできないし、「アジア各国の団結」を表すこともできない。―(d)
<コメント3>(「大東亜会議」に)朝鮮、台湾の植民地はもちろんのこと、インドネシアやマレー、シンガポールなどの占領地も招かれなかったことを考えると、この会議が果たして、アジアの自主独立を本当に摸索するものであったかどうかは疑問である。―(e)
*〔解説〕改訂版は、下線部を改訂したが、後半を残し、全体として同趣旨の主張を貫いた。
〔61〕p.281
大東亜共栄圏のもとでは,日本語教育や神社参拝が強要されたので,現地の人の反発が強まった。また,戦局が悪化し,日本軍によって現地の人々が苛酷な労働に従事させられる場合もしばしばおきた。
<コメント> 日本の侵略者が「共栄共存」という隠れみのをもって、アジア各国で残酷な植民地支配を行い、各国人民の生命と財産に巨大な損害を与え、その暴行は教科書に触れた「日本語教育や神社参拝の強要」や「過酷な労働に従事させた」よりもはるかにひどいものであった。この教科書はこれをできるでけ回避し、軽々しく描き、薄めようとした。―(d)
〔62・63・64〕p.290
占領の開始 …連合軍は,日本を世界の脅威にならない無力な国にすること,そして日本を民主化することを占領の目的とした。…GHQは,10月,日本政府に対し,婦人参政権の付与,労働組合法の制定,教育制度の改革,圧制的法制度の撤廃,経済の民主化など五大改革指令を発した。このうち,婦人参政権と労働組合法の制定は,以前から日本側の用意もあってただちに実行された。
<コメント> @「連合軍は、日本を世界の脅威にならない無力な国にすること、そして日本を民主化することを占領の目的とした」とある。しかし、アメリカ政府の「降伏後における米国の初期対日方針」(1945年9月22日公表、SWNCCI50/4A)や、同統合参謀本部の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する初期の基本的指令」(1945年11月3日伝達 JCSI380/15)、さらには極東委員会の「降伏後の対日本基本政策」(1947年7月11日発表)など、基本文書に記された占領「目的」には、「無力な国にする」などといった記載も内容も全くない。明白な誤りである。
A290頁9行目以降に「GHQは、10月、日本政府に対し、婦人参政権の付与、労働組合法の制定、教育制度の改革……など五大改革指令を発した」とある。しかしこの五大改革指令」の第二項にあるのは「労働組合の組織化促進」であって「労働組合法の制定」ではない。両者は同一の問題ではない。組織化促進の指示は、より広い範囲にわたる性格のものである。これも明白な誤りである。
B290頁11行目以降に「婦人参政権と労働組合法の制定は、以前から日本側の用意もあってただちに実行された」とあるが、1931年、浜口内閣時に衆議院(のみ)を通過したのは労働組合法案と、市町村議会での選挙権・被選挙権のみの「婦人公民権」法案であった。後者は、当時国政参加を意味した「婦人参政権」ではない。これも明白な誤りである。―(e)
*〔解説〕表現に多少の改変を行ったが、新版でも基本的に同趣旨の主張を貫いている。
〔65〕p.295
この東京裁判では,日本軍が1937(昭和12)年,日中戦争で南京を占領したとき,多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお,この事件の実態については資料の上で疑問点も出され,さまざまな見解があり,今日でも論争が続いている。
<コメント1> (南京事件の実態について)批判の余地があるものとして記述している。現場の教師は、この記述を使って、逆に「南京大虐殺まぼろし論」を展開することが可能となつた。―(j)
<コメント2>この教科書が「この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」と強調する意図は、ごく少数の異議を普遍的な論争であるかのように騒ぎ立て、読者が「南京大虐殺」の真実性と極東国際軍事法廷がこの歴史事実について下したに結論に疑問を持たせようとすることにある。―(d)
*旧版では、日中戦争の本文中の括弧内に南京事件を記述し、別に東京裁判の箇所で上の主張をおこなったが、新版では日中戦争の本文中の記述を削除したのみならず、東京裁判での上の記述を註記へと引き下げ、全体として南京事件の比重を低め、また南京事件の相対化を徹底した。
*〔解説〕この南京事件の記述は、東京裁判の箇所から日中戦争の欄外注へと移され、同事件の記述は、全体として改悪された。
〔66〕p.306〜307
[昭和天皇とその時代]……天皇がご自身の考えを強く表明し,事態をおさめたことが2度あった。一つは,1936(昭和11)年の二・二大事件のときであった……もう一つは,1945(昭和20)年8月,終戦のときであった。
<コメント> 明治憲法体制は、実際には天皇の親政的権力行使を不可欠とする体制であったから、昭和天皇の「聖断」=親政的権力行使も二度だけではなかった。それはたとえば1929年、張作霖爆殺事件の処理で田中義一首相に不信任の意思を示し、辞職させた事件ひとつでも明らかである。ところがこの教科書では、そもそも田中義一内閣自体が記述されていない。もちろん中学の教科書であるから、どこまで詳しく史実をとりあげるかは、検討されるべき問題である。しかしこうした事実の存在や、また1933年の熱河作戦の一時差し止め、1938年の張鼓峰事件での現地軍の進撃停止措置など、統帥においては、昭和天皇の指示・発言が直接的な影響を与えていたことが、すでに研究で明らかにされているのに、なぜこの教科書では、二度の「聖断」だけを「聖断」として強調するのだろうか。―(e)
〔67〕p.307
昭和天皇の人間性に感動したマッカーサーは,天皇との初めての会見について次のように述べている。/「私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう,自分の立場を訴えはじめるのではないか,という不安を感じた。しかし,この不安は根拠のないものだった。『私は,国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任をおう者として,私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』。私は大きい感動にゆすぶられた。死をもともなうほどの責任,明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする,この勇気に満ちた態度は,私の骨の髄までもゆり動かした」(『マッカーサー回想記』より抜粋)
<コメント>『マッカーサー回想記』については、それが翻訳紹介された1964年に『文藝春秋』が、アメリカ陸軍の公式戦闘記録と対比して、多くの誇張・思い違い・「まったく逆」の事実が存在することを指摘していた。この『回想記』の記述する史実の信用度は、低いものであることが、初めから指摘されていたのである。さらに天皇・マッカーサーの第一回会見の通訳であった奥村勝蔵の手記になる「『マッカーサー元帥』トノ御会見録」が紹介されて(児島襄『天皇と戦争責任』所収)、はたしてマッカーサーの言うような天皇の発言は存在したのかが、問題になってきた。この「御会見録」には、こうした天皇のことばが存在しないからである。―(e)
【 「つくる会」歴史教科書の間違いを指摘した文献目録】
(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」('01/7/9)
(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書その誤りと問題点」('01/4)
(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 ('01/5/8)
(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」('01/5/16)
(e) 『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
(f) 『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
(g) 『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一著)
(h) 『歴史家が読む「つくる会」教科書』(青木書店)
(i) 『季刊・戦争責任研究』第36号(日本の戦争責任資料センター刊、高嶋伸欣論文)
(j) 『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)
(k) 『知っていますか?君が代・日の丸一問一答』(解放出版社)
(l) 『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』(明石書店)
了