上杉 聰
教育基本法の改悪と「つくる会」
この小文が読者の眼にとまる頃、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)の教科書が、東京の中高一貫校で採択されることに、少しは社会の関心が集まっているかもしれない。東京初の中高一貫校として来春に開設予定の都立白鴎高校の教科書採択権限は、都教育委員会が握っている。同教委は三年前、広範な抗議が寄せられるなか、都立養護学校用に「つくる会」教科書を採択した経緯がある。
同校で「つくる会」教科書が採択されるか否かは、来年、ふたたび全国で「つくる会」による教科書の採択を問う前哨戦と位置づけることもできよう。「つくる会」は今年四月一三日、中学校「公民」教科書の改訂版を、一九日には「歴史」教科書の改訂版を検定申請したからである。これらは来年三月、再び検定を通過し、五〜八月に各地で激しい採択戦となることが予想される。
ただ、ここで考えたいのは、これから一年間、「つくる会」に対応する私たちの考え方と戦略についてである。「つくる会」の動きは、今や単独のものでなく、教育を国家管理する運動の一翼として、国家主義運動全体のなかに位置づけられている。したがって、それへの対応も、全体的な視野が必要となる。
たとえば「つくる会」高橋史朗副会長は、同会の機関誌に次のように書いた。「学習指導要領には『日本人としての自覚をもって国・を・愛・し・』と書かれているが(中略)教師の意識を改革し教育実践を深めないかぎり、それが『現実』に生きて働く力とはならない」。教育基本法の「改正が、漢方薬のようにじわりじわりと教育の『現実』を根本的に変える原動力」となるのであり、「歴史教育を是正するためには、法や制度と教育現場との両方からのアプローチが必要である」と(傍点ママ、『史』四三号)。つまり教基法の「改正」は、教師を、「つくる会」的歴史教育に向かわせる力の源泉だというのである。
こうして彼は、教基法「改正」を推進する「日本の教育改革・有識者懇談会」(略称・民間教育臨調)を昨年、中心となって立ちあげ、その運営委員長に就任すると、現在まで「改悪」運動の先頭に立ってきた。藤岡信勝副会長はじめ「つくる会」の現役員も、多くがこの懇談会の設立に協力してきた(詳細は、拙論「日本における『宗教右翼』の台頭と『つくる会』『日本会議』」『季刊・戦争責任研究』三九号)。教基法の改悪なくして「つくる会」の目的とするところは真に実現できない、と考えているのである。
まずは教基法改悪に向けた動きをストップ
また教基法改悪は、「つくる会」教科書の採択数を増やす上でも、重要な位置を占める。彼らは、三年前の採択において、「学習指導要領に沿った教科書であるか否か」を判断基準にするよう教委等に迫ってきたことを思い出していただきたい。そうした彼らの姿勢を見るならば、教育基本法の改悪は、現学習指導要領にまだ残る「他民族の文化、生活などに関心をもたせ、国際協調の精神を養う」などの条項を完全に無化することにより、彼らの教科書の採択に有利な条件を整えるとともに、改悪された指導要領そのものによって、全教科書の「つくる会教科書化」を実現するためのステップにもなるだろう。
その意味で、私たちにとって、教育基本法の「改正」案が来年の通常国会に提出されようとしている動きをまずストップさせることが、「つくる会」との対決の真の前哨戦になるのであり、来年の教科書採択も、同法の国会審議と並行して進む可能性があることを考えるとき、「つくる会」教科書への批判が教基法の改悪の批判へとつながり、また逆方向の動きも生むような議論の立て方こそ大切になる。
近隣諸国条項の骨抜きでより悪質な教科書が登場
「つくる会」は、その出発から、さまざまなとらえ方がなされてきた。当初は従軍慰安婦問題などを取り上げたことから「歴史修正主義」の流れの一つとして、また近年は日本の「ナショナリズム」を代表するものととらえられている。ただ香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)は、「ニッポン、大好き」と無邪気にいう若者の増加を分析しつつ、それが次第に「愛国ごっこ」の形をとりつつあり、これが「本格的な」動きへと向かう危険性について警告を発している。「愛国ごっこ」の先にあるものをあえて言葉にするならば、それは「愛国主義」であろう。
来年、「つくる会」教科書の改訂版がどのような姿で登場しようとしているかは、文科省が「つくる会」の要請に応じて秘密主義に転換したため、事前に知ることがほぼ不可能になった。だが、それが、より「愛国主義」的な教科書としてバージョンアップして登場するだろうことは、現下の教基法の改悪への動きを考えるとき、じゅうぶん予測できることである。
彼らは、今年四月の検定申請に先立って、「検定基準から近隣諸国条項を削除せよ!」という運動を繰り広げ、そうして集めた五五万人分の署名をもって同月一二日、河村文部科学大臣に面会した。彼らの「公民」教科書の検定申請はその翌日のことであった。あらかじめ、検定基準そのものを変更するよう圧力をかけておいて教科書の申請をするというやり方、文科大臣もそれに拒絶の姿勢を見せていない以上、次は実質的に近隣諸国条項が骨抜きにされ、より悪質な教科書として登場する可能性がきわめて高い。
それを、とりあえず「愛国主義」教科書と予測するならば、その姿は、すでに前回の「つくる会」教科書の中に、かなりはっきりした形を整えつつあったことを思い出す。たとえば、まえがきに、「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない」としていた。これはつまり、自国の「不正や不公平を(今)裁いたり」しないことこそ大切である、と主張していることを意味する。
あるいは、大きさの比較方法を自分に都合よく決めておいて、「大仙古墳の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の底辺部より大きかった」(六節)としたのも、愛国心ゆえに眼が眩んだ「けなげさ」とでも言うべきだろうか。また「日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている」(五二節)として、朝鮮半島がその存在からして日本に対する脅威であると描いてみせたり、中国が「日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になった」(六四節)ことを満州事変の誘因としたのも、すべて愛国心ゆえの思い込みであり、非難すべきではないと考えるべきだろうか。
国家エゴイズムの際限ない欲望の解禁
愛国主義の一代表として改めて右の「つくる会」教科書を眺めるとき、その本質的性格がより的確に把握できるように思う。そしてそれは、「愛国心」を教育基本法に盛り込もうとする問題性も、よりはっきりと浮かび上がらせるように思う。
これまで、教基法に愛国心を盛り込むことへの批判は、二つの方向から主に行われてきた。その一つは「国」にはさまざまな意味内容が含まれており、たとえば英語などで、Land、Country、Nation、Stateなどと区別して使われ、時には相互に対立さえする内容が含まれていることをぼかし、結局のところ統治機構を意味するStateへの愛をうたうものとなる危険性である。第二は、そのように曖昧で時には対立する領域を法律で規制することは、思想信条への介入である、という視点であろう。
ただ、「つくる会」教科書への批判を通して浮かび上がる愛国心の問題性とは、とりもなおさず、愛の自己中心性である。愛はいつも偏り、利己的である。それは愛の本質でもある。そして自己を愛するものは、ただちに他を愛するとは限らない。そしろそうしないのが自然である。ゆえに聖書も「おのれを愛するように他人を愛せよ」と言わねばならなかった。他人や他文化を理解させる教育によって、人ははじめて、それを敬愛し尊重すべきことを学ぶのである。自己を愛するのは教育の成果ではない。人間の自然の本性にすぎない。それを他者への愛に高めることこそ教育の役割なのである。
生来のエゴイストを、それ以上の人間にしないよう法律で縛り、強制するというのは、まさに教育の自殺であり、人間の野獣への堕落である。国家の暴走を抑制しようとしてきた戦後の国際的な流れの中にあって、愛国心の強制とは、国家エゴイズムの際限ない欲望の解禁として、侵略戦争と改悪憲法を支えるものとなるだろう。そうした法律の制定を阻止し、「つくる会」のような教科書でなく、より広い愛情と公正さを求める教科書を選択することは、平和に対する私たちの重大な責務となろう。