| 典 拠 目 録 (a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9) (b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4) (c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8) (d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16) (e) 『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社) (f) 『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店) (g) 『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一) (h) 『歴史家が読む「つくる会」教科書』(青木書店) (i) 『季刊・戦争責任研究』第36号(日本の戦争責任資料センター刊、高嶋伸欣論文) (j) 『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店) (k) 『知っていますか?君が代・日の丸一問一答』(解放出版) (l) 『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』(明石書店) |
以下、赤字が「つくる会」(扶桑社)歴史教科書、そのうち下線部がマチガイないし訂正を要する箇所。<コメント>はその指摘。
<1>グラビアp3
飛鳥時代 6世紀に伝わった仏教美術は、この時代に発展し、すぐれた仏像や仏画が数多くつくられた。飛鳥時代は、ギリシャの初期美術に相当するといってよい。
<コメント> かつて和辻哲郎は『古寺巡礼』において、飛鳥・天平文化に古代ギリシャに通じる美を読みとろうと牽強付会を重ねたが、美術作品にギリシャ精神を見いだし、ギリシャ美術をもって美術の唯一の目標としたというヴィンケルマンの言葉をもって天平彫刻を賞賛することに執筆者たちは違和感をもたなかったのだろうか。西洋美術の基準で「日本美術」の価値の測定を行うことは執筆者たちの立場からは許されない筈ではあるまいか。さらに興味深いのは、ギリシャ彫刻への賛辞によって称えられている仏像が、決してこの時代の代表作ではないという事実である。ギリシャ彫刻の基準を用いたために当代一級の作品は取り上げられなかったのだろうか。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<2>グラビアp5
奈良時代 奈良時代、天平文化のころには、仏像が仏教の教えをあらわす図解を超えて、理想の人間表現となり、すぐれた仏師が次々と登場した。興福寺の将軍万福、東大寺の国中連公麻呂などは、イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵するほどである。日本の古典主義時代といえる。
<コメント> この表現の内容について言うと、天平というのは、紀元でいうと729年から748年である。それに対して、ドナテルロが生きていたのは1386年から先である。ミケランジェロはというと、1475年から先である。すなわち600年から700年ほど時代がズレている。
600から700年ちがえば、時代背景の文化もずいぶん異なる。いまの時代に生きているわれわれと、1300年代に生きていた人物とを比較するようなものであるわけだから、これは無理である。――(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
<3>グラビアp6
鑑真和上像 5度の遭難や失明を乗り越えて、日本にやってきた唐の名僧の姿。肖像彫刻としてすぐれた出きばえを示している。(国中連公麻呂 作 奈良県 唐招提寺蔵)
<コメント> 将軍万福や国中連公麻呂を奈良時代の「偉大な天才」と見なす説、ひいては「鑑真和上像」まで国中連公麻呂の作だと考える説は、現在のところ、あるひとりの西洋美術研究学者の個人的な見解であって、日本美術史の定説になってはいない。もちろん、どのような人にも自説を主張する自由は保証せれるべきであるが、その言論の場として、中学校の教科書がふさわしいとは思えない。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<4>グラビアp8
鳥獣戯画 サル、ウサギ、カエルなどの動物になぞらえて、世の中のようすをたくみに風刺した作品。これは、カエルを殺したサルが、その供養をしているところ。(鳥羽僧正 作 京都府 高山寺蔵)
<コメント> 「鳥獣戯画」が鳥羽僧正の作だという説は、すでに過去のものであって、今日、それを支持する日本美術史研究者はいない。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<5>p26
紀元前8世紀のはじめ、周は衰え、それからいくつもの国がたがいに争う内乱の時代が始まった。これは数百年も続き、春秋・戦国時代とよばれる。この長い戦乱の時代に、多くの思想家があらわれ、どうすればよい政治が行われるかを論じ、各国の宮廷を説いてまわった。彼らを諸子百家という。
その中の一人である孔子は、仁愛(思いやりの心)を説き、道徳と礼(礼儀に基づく掟)で人を導けば、天空のすべての星が北極星を取りまきながら整然と動いているように、政治は万事うまくいくと述べた。
<コメント> 「孔子は、仁愛(思いやりの心)を説き」とあるが、仁と愛を「思いやりの心」と解釈するのは間違いである。
そもそも孔子は、仁愛などという言葉を使ってはいない。人が用いなかった言葉を持ち出して、その人の思想であるときめつけるようでは無茶苦茶である。仁はあくまでも仁であり、愛はあくまでも愛である。この二つはレベルがちがうので、まとめていっしょに使うなどということはなかった。――(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
<6>p27
この教えは儒教とよばれ、のちに弟子たちが孔子の教えをまとめて『論語』をつくった。しかし、人間の性質はもともと善であるとするこの考えは、楽天的すぎて、実際の政治には必ずしも役に立たないと反対する思想家もいた。
<コメント> これはもう出鱈目である。なんとまあ性善説をもってきているのだ。いうまでもなく孔子は性善説ではない。「人間の性質はもともと善である」などと、孔子は絶対に言っていない。この執筆者は『論語』を一行も読んでいないのだ。性善を言ったのは、孟子である。――(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
<7>p30
Column 日本語の起源と神話の発生
<コメント> 同書の中における、神話・伝承の配列の位置が問題である。「日本語の起源と神話の発生」は、弥生時代の次、古墳時代の前に置かれている。いうまでもなく、記紀の神話は奈良時代に成立した古事記・日本書紀の中に収められているものである。にもかかわらずこの配列をとることは、記紀神話は弥生時代の成立のようなイメージを生徒たちに与えることになりはしないだろうか。
記紀神話の素材となった神話群が形成されるのは、古墳時代から奈良時代のことであろう。この配列に、記紀神話の成立を故意に古く見せようとする、意図的なものを感じる。もし取り上げるとしても、奈良時代の記紀成立の段階に置くべきではなかったか。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<8>p32
紀元前1世紀ごろの日本について、漢の歴史書『漢書』には、「倭人」(中国人が日本人を指してよんだ語)が100余りの小国をつくっていたと書かれている。『後漢書』の「東夷伝」には、1世紀中ごろ、「倭の奴国」が漢に使いを送ってきたので、皇帝が印を授けたと記されている。「倭」も「奴」も、決して好意的な意味の文字ではない。中国皇帝の威厳を示すために、中国の歴史家はつねに周りの国々を見くだす言い方をした。
<コメント> ところで、「東アジアの中の日本」【中国の史書に書かれた日本】では、漢に朝貢した倭の奴国について、「倭」も「奴」も「決して好意的な意味の文字ではない」と断じ、「中国の歴史家はつねに周りの国々を見くだす言い方をした」として、その後の記述では、「中国の歴史書で倭とよばれていた当時の日本は」(35頁)とか、あえて同時代の史料にある「倭」を避け、「大和朝廷」や「日本」などと置き換えている。
これも「倭」に対する一面的で非歴史的な理解といわざるをえない。「倭の五王」の使者たちは、自ら王族の姓を「倭」と記した外交文書を宋の皇帝に持参している。さらに本書で多く引用されている『古事記』は、「日本」という表記をまったく用いずに「倭」(ヤマト)と記している。八世紀以降、「日本」を対外的に国号として用いてからも、対外意識の強い書物には「日本」が冠せられるようになるものの、奈良・平安時代の貴族には「日本」という表記に対する関心はたいそう低かった。聖武天皇もその宣命に「日本国」と記さず「大倭国」と記している。八世紀以降、「日本」はヤマトの天皇の王朝名であって、一方、「倭」は種族名であった。こうした事実をふまえれば、古代史の叙述はかなり違ったものにならざるをえないはずである。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<9>p34〜35
地方の豪族たちの上に立つ大王の古墳は、ひときわ巨大であった。わけても、日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。
<コメント> 「文明くらべ」の圧巻は、ピラミッドや「秦の始皇帝の墳墓」と比較して「仁徳天皇陵が最大規模」とする箇所だ。仁徳天皇陵を実物より高く描いたこの図は「歴史教科書」にもそのまま載せられている。面積は確かにそうだろう。だが、高さの順なら、ピラミッド、始皇帝墓、仁徳天皇陵の順だし、年代ならクフ王・前27世紀、始皇帝・前3世紀、仁徳・後5世紀初頭の順である。深さでなら、始皇帝墓は地底30メートルで一番となる。構造・素材の比較はどうだろう………比較すること自体が愚かであることくらい気づくべきだろう。そして注目すべきは、始皇帝の「陵」とせずに「墳墓」としていることだ。広く知られている騎馬俑は「墳墓」の外にあり、これも加えると「陵」は面積の点でも仁徳天皇陵をはるかにしのぐことになる。このため「墳墓」に限定したと思われる。これでは「インチキ」と呼ばれても仕方がない比較ではなかろうか。
そもそも、大きい墓は誇るべきことなのだろうか?散骨葬さえ主張されている現代に、価値観の違いの大切さこそ教科書は取り上げるべきだろう。――(l)『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』(明石書店)
<10>p36
Column 神武天皇の東
征伝承
一つの政治的なまとまりが、大きな力を備えた統一政権になるには、通常、長い時間を必要とする。大和朝廷がいつ、どこで始まったかを記す同時代の記録は、日本にも中国にもない。しかし『古事記』や『日本書紀』には、次のような伝承が残っている。
天照大神の直系である神日本磐余彦尊(のちの神武天皇とよばれる)は、45歳の時日向(宮崎県)の高千稲からまつりごとの舞台を東方に移す決心をし、水軍を率いて瀬戸内海を東へ進んだ。大阪湾から上陸を志すが、長髄彦の強い抵抗を受け、一人の兄を流れ矢で失う。二人の兄は海上で暴風雨をしずめるための犠牲となった。苦難の末、軍勢は熊野(和歌山県)に上陸し、大和を目指す。けわしい山道を踏み迷うさなか、天照大神のお告げがあり、頭の大きいカラスの八咫烏が道案内をしてくれる。神日本磐余彦尊は、抵抗する各地の豪族をうちほろぼし、服従させて目的地に迫る。再び長髄彦がはげしく進路をはばむ。冷雨が降り、戦いが困難をきわめたちょうどそのとき、どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んできて、尊の弓にとまった。トビは稲光のように光って、敵軍の目をくらました。こうして、尊は大和の国を平定して、畝傍山の東南にある橿原の地で、初代天皇の位に即いた。
<コメント1> 神武東征については、原文では本文にあったものが検定意見によって「コラム」に差し替えたものという。架空の物語である神武東征を、広開土王碑や稲荷山古墳の鉄剣銘の記述よりも、前に配置する構成になっている。しかも、東征進路の地図まで入れている。検定意見により、「神武天皇が進んだと伝えられるルート」(傍線は筆者)と傍線部分を加えてはいるものの、神武天皇を実在の人物のように思わせようとする意図は貫かれている。神武天皇を「初代天皇」(検定修正以前の原文)とする認識は生きつづけているといえよう。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<コメント2> この教科書には、伝承を歴史的事実とみせるような配慮が働いている。そして、「(略)橿原の地で、初代天皇の位に即いた」と書く。本心としては、「神武天皇を「初代の天皇」にしたいのであろうか。
ところで、「初代の天皇」を意味する「はつくにしらすすめらみこと」と評された「天皇」は、『古事記』が「崇神天皇」で、『日本書紀』が「神武天皇」と「崇神天皇」。したがって、この教科書の記述は『日本書紀』に基づいていることになる。しかし、『日本書紀』には「初代天皇の位に即いた」という文章はない。必ずしも『日本書紀』どおりに記述しているわけではない。こうした目でみれば、「神日本磐余彦尊」の名称も、この教科書の造語である。『古事記』は「神倭伊波礼毘古命」、『日本書紀』が「神日本磐余彦天皇」と表記する。やはり何か意図的な作為がある。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<コメント3> 同教科書では、神話が全体で7ページ、解説も含めると9ページにおよんでいることは、『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』でも紹介した。しかも、その配置は、歴史事実と交互に読み進むよう構成されており、神話と史実を混同しかねない構成になっている。今回の検定は、この神話の大量の登場そのものと、記述上の構成にはほとんど手をつけなかった。昭和天皇は、神武天皇から数えて「第124代」とさえ紹介している。
「神武天皇の東征」の神話は、「神功(じんぐう)皇后の三韓征伐」の神話とともに、戦前の教科書にはかならず登場したもので、日本にかんする神がかった傲慢な考え方や、海外を侵略することの正当性を、子どもたちの頭脳に焼き付けるうえで、はかりしれない大きな働きをしたものである。今回はさすがに、新羅・高麗・百済の「三韓」を征伐し、日本を神の国として朝貢させるようにさせたとするこの「神功皇后神話」は登場させなかったが、すでにこれだけ大量の神話記述があふれる教科書が認められた以上、次回の検定申請時には、加えられる可能性が出てきたといえる。――(j)『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)
<11>p37
4世紀後半、大和朝廷は海を渡って朝鮮に出兵した。大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。
<コメント1> 対外関係では、「大和王権の外交政策」で、4世紀後半に「大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。」とし、その後も「任那」をめぐる国際関係が述べられている。本書は「任那」に関する叙述をみる限り、すべて一つの国のように描いているが、いわゆる任那(任那は日本側資料の呼称であって、加羅ないし加耶とすべきである)とは、少なくとも20余りの小国群であって、滅亡の時まで統合されることはなかった。また、4世紀後半の加耶に大和朝廷の拠点があったとする史料的根拠はない。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<コメント12>「任那日本府説」は韓国と日本の50余年間の研究の結果、認められない説。――(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料
(’01/5/8)
<12>p39
おもに5世紀以降、……(中略)……大和朝廷の頂点に立つ人は大王(王をうやまったよび方)とよばれ、まだ天皇のよび名はなかった。地方の豪族は同じ血縁を中心にした氏という集団をつくり、大王から臣や連といった姓を与えられ、氏ごとに決まった仕事を受けもった。これを氏姓制度という。
<コメント> 朝廷や国家の問題に言及するには、ヤマト王権や律令制国家に対する正確な記述が必要である。同書には、5世紀の時期に氏姓制度が記されているが、5世紀に氏姓制度が整備されたとするような学説はない。ここには、研究史に対する無理解がある。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<13>p39
中華秩序と朝貢
中華秩序とは、近代以前の中国中心の国際秩序のこと。中国の皇帝が周辺諸国の王に称号などを授け臣下とする。臣下とされた国は、定期的に使者や貢ぎ物を送り(朝貢)、臣従の礼をとる。
日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較して、独立した立場を貫いた。
<コメント1> 同書は、対外関係史の記述に際しても、学界の共通財産を尊重していない。「中華秩序と朝貢」というコラムがある。そこで中華秩序を説明しているが、冊封関係と朝貢との区別ができていない。そのうえで、「日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較し、独立した立場を貫いた」と記す。この箇所では、朝鮮やベトナムと比較し、「優越感を植えつけよう」としている。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<コメント2> 日本は室町期にも朝貢を行っているので、古代に限定するのは誤り。また、中国との地理的関係を考慮せずに日本と朝鮮やベトナムを比較して、日本の独立した立場を強調しても意味がないばかりか、不必要に朝鮮やベトナムを貶めることになる。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<14>p40
6世紀になると、半島の政治情勢に変化が生じた。あれほど武威をほこっていた高句麗が衰退し始め、支援国の北魏も凋落に向かった。
<コメント1> 6世紀中葉、高句麗では安蔵王の殺害(531年)や安原王から陽原王への王位継承(545年)などの内紛があったが、598年以降の隋の侵攻を撃退しており、高句麗が衰退していたと簡単にいうことはできない。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<コメント2> 根拠のない主張
当時高句麗は北魏と直接対決したりもした。――(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料
(’01/5/8)
<15・16>p40
任那は、新羅からは攻略され、百済からは領土の一部の割譲(土地を他に分け与えること)を求められた。
しかし、百済と大和朝廷の連携だけは続いた。新羅・高句麗が連合して、百済をおびやかしていた時代だったからである。538(一説には552年)に、百済の聖明王は、仏像と経典を日本に献上した。百済からは、助けをもとめる使者が列島にあいついでやってきた。しかし、562年、任那はほろんで新羅領となった。
<コメント> 任那という一つの国家があったかのような記述は、否定された学説に基づいた重大な誤り。かつて「任那」と考えられていた地域が群小の国家からなる地域であったことは、すでに歴史学界、考古学界の共通認識となっている。
※他社本では「加羅(任那)地域」「朝鮮半島南部」などと表記している。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<17>p40
589年に中国大陸で髄が統一をはたした。これが新たな脅威となって、三国はより日本に接近した。任那から撤退し、半島政策に失敗した大和朝廷だが、こうして再び自信を取り戻したと考えられる。
<コメント> 占領国である日本が被占領地の任那から撤収したことを前提に記述一駐屯、撤退の記録がないため誤りであり削除が必要――(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)
<18・19>p42
Column
日本武尊と弟橘媛―国内統一に献身した勇者の物語
「反乱をしずめる」 日本で大和朝廷による国内の統一が進んだ4世紀前半ごろ、景行天皇(第12代)の皇子に日本武尊という英雄がいたことを、古典は伝えている。……(中略)……皇子はクマソの国にいたり、少女の姿になって、反乱の指導者クマソタケルに近づき、これを見事に倒した。タケルは皇子の勇敢さをたたえ、「これからは、あなたがヤマトタケルと名乗られるがよい」と言って、息絶えた。日本武尊とは、日本の勇猛な人という意味をもつ。……(中略)……この草薙の剣と、八咫の鏡・八坂瓊の曲玉は、やがて「三種の神器」とよばれ、歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなった。
<コメント1> 2ページにわたって神話が紹介され、末尾(43ページ)に「以上が、日本武尊と弟橘媛の言い伝えである」と書かれているが、ここに紹介されている内容は、『古事記』と『日本書記』を合成したものである。またクマソタケルが日本武尊によって斬殺される場面は、「タケルは皇子の勇敢さをたたえ、……と言って、息絶えた」と変えられている。『古事記』のもつ王権神話としての側面を隠すことを意図した神話の改竄である。
神話も歴史研究の一つの素材ではあるが、利用するときには、だれが語る神話であるかを考慮しなければならない。『古事記』『日本書記』が大和王権の勢力拡大を正当化する目的をもって叙述されたものであるという視点を持たなければ、歴史的事象を多面的・多角的に考察し公正に判断することはできない。まして神話の改竄など許されるものではない。
※他社本には類した記述はない。ただし、戦前の国定教科書では酷似した記述がなされていた。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<コメント2> 現在の学界では、タケルの伝承は大和政権の多くの遠征武将たちを投影した物語であって、英雄的皇子個人の歴史事実ではない、というのが定説である。ところが、日本武尊のコラムでは、物語に過ぎぬ弟橘媛の水死や白鳥陵の伝承にいたる話に筆をついやしている態度にも首を傾けるが、問題はタケルが所持したという、「草薙の剣」についての叙述である。
この剣が八岐大蛇退治に由来することや、伊勢神宮で日本武尊に授けられたことを述べる。さらに「この草薙の剣と、八咫の鏡・八坂瓊の曲玉はやがて『三種の神器』とよばれ、歴史の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなった」という記述には、まるで戦前の「修身」の教科書を読むような錯覚を覚えた。まさに神話伝承と歴史事実の混同の極みである。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<20>p45
太子は、607年小野妹子を代表する遣隋使を派遣した。しかし、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような道はさけたかった。
<コメント> 聖徳太子が日本の文化のあり方についてどのように考えていたかを知りうる史料は存在しない。執筆者の希望を述べたにすぎない。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<21>p49
日本につながるシルクロード

<コメント> 「日本につながるシルクロード」と題された地図。日本からローマにいたる範囲のユーラシア大陸を描いた地図で、緑で草原の道、オレンジ色で絹の道(シルクロード)を示している。そして、青の太線で囲って「唐の最大領土」が示されているが、なんとチベットが「唐の最大領土」に入れられている。唐がチベットを支配したことは一度もないから、この地図は明らかに誤りである。実は、かつてある歴史系出版社から出されていた「世界史地図」に同様の地図が載っており、以前は各社の歴史教科書もこれに依拠して、チベットを唐の領域に入れていたことがあった。しかしその後、誤りに気がついたらしく、現在では各社とも訂正している。執筆者は、昔自分が使った教科書でも見て、この地図をつくったのではないだろうか。――(h)『歴史家が読む「つくる会」教科書』(青木書店)
<22>p54
わが国では、日本という国号が定まったこの時期以来、年号が連続して使用されるようになった。一方、新羅は唐の年号の使用を強制され、これを受け入れた。日本における律令と年号の独自性は、わが国が中国に服属することを拒否して、自立した国家として歩もうとした意思を内外に示すものであった。
<コメント> 新羅については、「唐の年号の使用を強制され、これを受け入れた」と対比して記す。これは事実誤認であって、唐の軍事援助を引き出すために新羅は自ら申し出て唐年号を採用するという経緯があった。新羅の政治的戦略の産物であった。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<23>p55
平城京 律令国家の新しい都として、710(和銅3)年、奈良に平城京がつくられた。唐の都の長安に似せてつくられたといわれるが、二つの都には違いもあった。長安の都には、外敵に備える外壁があり、また城内にも、治安の維持に加えて、人民を囲い込んで監視するための内壁があった。しかし、日本はそうしたきびしい対策を必要としていなかったので、平城京には城壁がなかった。
<コメント>【平城京】では、唐の長安城と平城京、唐と奈良時代の役所の仕組み、皇帝と天皇の違いなどを比較しているが、そこで下されている評価は、同時代の新羅や渤海をも加えて論ずれば、異なる評価がなされるはずである。たとえば新羅の王都にも長安城のような城壁はなかったが、そのような新羅のありかたを視野に収めれば、「そうしたきびしい対策を日本は必要としていなかった」といえるかどうか疑わしい。
むしろそれらの諸国と比較すれば、いっそう明確になることだが、東アジア諸国が唐に起源する律令を継受して、巨視的には同様の国家体制をとりながらも、それぞれの政治的、経済的、社会的、文化的条件の下で、特色ある律令国家を形成したのであって、恣意的に、あるときは新羅と、またあるときは唐との二国間で比較して、日本の独自性を際だたせてとのような意味があるというのだろうか。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<24>p56
律令国家は、大化の改新から五十余年にわたる経験をいかして、公地公民という理想を実現しようとした。全国の耕地はきちんと区分けされ、6年ごとに戸籍が改められ、6歳以上の男女に口分田が与えられた。口分田は一生の間、耕作を認められたが、売買は禁止され、死後は国家に返す決まりになっていた。この制度を班田収受法という。
公地の支給を受けた公民は、租・調・庸という税の義務をおった。税は、かなりきびしい内容のものであった。
<コメント> 制度面では第3節「律令国家の成立」以降で、古代国家の統治理念として「公地公民制」(いわゆる土地人民の公有制)を重視し、大化改新から律令国家の成立までを、その実現過程として描いている。しかし、律令における「公−私」の概念は、いわゆる「公地公民」の「公−私」の概念と異なっている。たとえば、班田収受法において公民に班給される口分田は、「公田」ではなく、「私田」であった。また「公民」という語は律令にまったく用いられていない。実証レベルでは様々な疑問があって、近年では、「公地公民制」はほとんど議論の対象となっていない。「公地公民」という分析視角が生まれた背景については、近代日本の現実的な課題のなかで生じた近代史学のバイアスがあったことが指摘されている。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<25・26>p57
租・調・庸とは
税は田の面積に応じた租(収穫の約3%の稲)がまずあり、地方の財政をまかなった。ほかに調・庸がある。調は絹・布・糸・綿・海産物などを、庸は労働の義務であったが、実際に労働するかわりに一定量の布地を、それぞれ朝廷に納める義務であった。ほかに雑徭といって、60日を限度に地方で労働に従う義務もあった。また都の警備をしたり、北九州の海辺を守ったりする兵役の義務もあった。全部合わせると、農民にはかなりの負担であった。
<コメント> 学説への無理解は、社会経済史に著しい。たとえば、「公地の支給を受けた公民は、租・調・庸という税の義務をおった」と書かれている。律令法においては、口分田は私田であり、私地である。「公地の支給」とは、どういうことなのだろうか。さらに「租・調・庸とは」のコラムにおいて「税は田の面積に応じた租がまずあり、地方の財政をまかなった」と記されている。「地方財政をまかなう」とあるが、日本では租は課役に含まれず、「積極的な財政機能も果さなかった」(日本思想大系『律令』)とするのが通説である。「庸は労働の義務であった」という文章にいたっては、完全にまちがい。「歳役に実際に就く代わりに納める物」(『律令』)ではないのか。これほど事実誤認の教科書も珍しい。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<27>p57
聖武天皇の治世(724〜749年)になると、疫病や天災がたびたびおこり、土地を離れ逃亡する農民も増えた。朝廷は、開墾を奨励し、それまで国家の統治がおよばなかった未墾地も規制するために、743年墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地を私有地にすることを認めた。
<コメント> 墾田永年私財法は開墾を奨励するためのものであって、未墾地規制のためではないので記述は誤り。「未墾地も規制」という表現自体、意味不明である。史実についての正確な理解を欠いたまま適当に執筆されたものであろう。
※ 他社本はこのような初歩的な誤りは犯していない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<28>p58
奈良時代にまとめられた『古事記』や『万葉集』は、漢字を並べて書かれているが、漢文ではないので、中国人が読んでも意味が分からない(『古事記』は序文だけが純粋な漢文であった)。
<29>p59
古代の日本人は、日本語をあらわすさい、中国語からは音に応じた文字だけを借りた。
<コメント> この教科書は、日本語の起源や特徴について、従来の教科書以上に書かれている。日本人としてのアイデンティティを強調するためであろうか。日本列島で確実に文字が使用されていた史料として、千葉県市原市の稲荷台一号墳出土の「王賜」銘鉄剣がある。ついで埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣。ここには「獲加多支鹵」「平獲居」の人名、「斯鬼宮」という王宮名がみえる。すでに人名や王宮名に漢字の字音を利用して、和語が表記されている。しかし、「斯鬼宮」とあるように、漢字の「宮」も使用されている。単なる字音の利用だけではない。「古代の日本人は、日本語をあらわすさい、中国語からは音に応じた文字だけを借りた」というのでは、不十分であろう。また、『古事記』について「漢字を並べて書かれているが、漢文ではない<中略>(『古事記』は序文だけが純粋な漢文であった)」とある。しかし、『古事記』の本文は「散文が和化漢文体、韻文が和文体(『日本古典文学大辞典』簡約版、岩波書店)なので、これまた誤解が生じやすい記述である。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<30>p59
ヨコト点の例 漢字のどこに点を打つと何の助詞をあらわすのかを示している。(京都府 高山寺蔵)
<コメント> 「漢字のどこに点を打つと何の助詞をあらわすのかを示している」というキャプションがつく。「漢字の四周・内外などに・ ― / \(中略)等の形を書き加え、その形と位置とによって、漢字の和訓・活用語尾・助詞・助動詞、時には字音をも表した」(『日本古典文学大辞典』)という、ヨコト点の意味が理解されていない。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<31>p59
訓読の登場 一方、当時の日本人にとって、中国の律令や仏教、儒教を自分のものとするためには、漢文の内容を読むことも大切であった。もちろん漢文は中国語だから、今のわれわれが英語を学ぶように中国音で発音し、中国文の語順どおりに読み書きする練習を通じて学べばよいはずだった。ところが、当時の日本人はそうした学び方のほかに、中国語の発音を無視し、語順をひっくり返して日本語読みにする方式を編み出した。いわゆる訓読という読み方の発明だった。ここには、古代日本人の深い知恵と強い決断があった。日本人は、漢文の日本語読みを通じて、古代中国の古典を、みずからの精神文化の財産として取り込むことに成功したのである。
なお、漢文を読むとき、彼らは万葉仮名の画数を省略してふり仮名として使ったり、ヨコト点とよばれる記号を打って、助詞を補って読んだ。やがてそこから片仮名が誕生した。
<コメント1> 文化については「日本語の確立」で、「訓読み」(訓読の誤り)を取り上げているが、そこにおいて、「日本人は漢字の音を借りて日本語を表記する方法(万葉仮名)を確立した」ことが特筆され、「語順をひっくり返して日本語読みにする方式を編み出した」ことを「古代日本人の深い知恵と強い決断があった」結果とし、漢文の日本語読みを通じて、中国古典を自ら財産として取り組むことに成功したことを高く評価している。
しかしながら、同時代の新羅でも、漢字の音や訓を用いて新羅語(古代朝鮮語)を表現する吏読、郷札とよばれる表記方法があったことはよく知られている。また、このような解読法は朝鮮でも漢字やその略体字を用いた漢文解読のための記号(口訣、吐とよばれる)があって、同様の解読法が実在した。近年、書籍をはじめ金石文、木簡の発見によって、古代日本の漢字の表記法や解読法に古代朝鮮の強い影響があったことが解明されている。それゆえ万葉仮名や訓読法を古代日本の独創物のようにいうのは、きわめて不正確な見方である。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<コメント2> たとえば、「日本語の確立」を説くなかで「訓読み」(訓読の誤り)を取り上げ、日本人が漢字の音を借りて日本語を表記する方法(万葉仮名)を確立したことが特筆され、「語順をひっくり返して日本語読みにする方式を編み出した」ことを「古代日本人の深い知恵と強い決断があった」と高く評価している。これでは中国周辺諸国にあって日本列島においてのみこうした工夫が行われたように受け取れるが、広く周辺諸国のアルタイ語系民族の間で、それぞれに訓読法が行われたことは、研究者の間では常識に属する。
朝鮮半島でも、万葉仮名に相当する表記法(吏読、郷札)があったこと、さらに1973年には、本文の左右に口訣(漢字の音訓で助詞、助動詞を表記したもの)と星点(・)が付された『旧訳仁王経』が発見され、返読して訓読していたことが確認された。最近には、11世紀の『瑜伽師地論』にヨコト点に類するものが角筆で記入されている事実(角筆口訣)が確認され、日本の訓読との関係が注目されている(藤本幸夫「漢字文化」『月刊にしか』12−7)。そのほかにも金石文や木簡の発見によって古代日本の漢字の表記法や解読法、さらに木簡の利用法などから、日本の漢字文化には、古代朝鮮の強い影響があったことが解明されている(李成市『東アジア文化圏の形成』)。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<32>p60
出雲の神代神楽(島根県) 古代の神話は、現在でも人々の生活や行事の中に息づいている。
■ 神話のどの物語をもとにした神事だろか。
<コメント> 「日本の神話」の最初の写真は、出雲時代神楽である。この写真の脇に「古代の神話は、現在でも人々の生活や行事の中に息づいている」というコメントが添えられている。これでは記紀神話が、古代以来現代まで、民衆の間にずっと生きつづけてきたような錯覚を、生徒たちにあたえることにならないだろうか。
いうまでもないことだが、記紀の神話が民衆の間に語り継がれてきたという証拠は何もない。中世には、『神道集』などにみられるように、記紀とは全く別の神仏習合の神話が唱導家たちによって語られていた。そのうえ、記紀神話は古代においても民衆とは無縁の世界であったし、古代神話と中世・近世の伝承との間には、大きな断絶が存在したのである。
ここに取り上げられた出雲神楽も「神代」を主題とした各地の神楽も、私の知るかぎりでは、中世末から近世中期に京都の吉田神道が介在して、日本書記の神代巻を題材として創作されたものばかりであって、近世の民衆芸能として位置づけられるものである。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<33>p62
スサノオの命は天照大神を訪ねていくが、何しろ気性の荒いスサノオは神殿に糞をするわ、天照大神の神聖な機屋に、馬の皮をはいで落とし入れるわで、ついに天照大神はおそれて天の岩屋にこもってしまう。すると、天も地も真っ暗になり、あらゆる災いがおこった。
そこで神々は策を考え、祭りを始め、常世の長鳴き鳥を鳴かせる。アメノウズメの命が、乳房をかき出して踊り、腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから、八百万の神はどっと大笑い。
<コメント> 品性欠ける「セクハラ教科書」
「つくる会歴史教科書」を開いて仰天するのは、性の記述にあふれていることだ。
同教科書の中心的な執筆者である坂本多加雄氏は、かつて「慰安婦」問題を中学生の教科書に書く必要がない理由として、子どもの年齢から考えて「中学段階の歴史教科書に記載することへの疑念」があると述べつつ、教科書の記述には「全体としてバランス」が必要であるとしていた。そして、「慰安婦」問題をトイレの構造にたとえ、「トイレの構造の変化……(の記述)は、そうした日本史の必須の要件とはいえない」(共同通信、1997年3月31日配信)と、バランスから外れる問題であるとしていた。ずいぶんなもの言いだ。
その彼も執筆に加わった「つくる会歴史教科書」には、次のような記述が登場する「アメノウズメの命が、乳房をかき出して踊り、腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから、八百万の神はどっと大笑い」(62ページ)と。その上には、天の岩戸前で踊る絵(カラー)まで添えられている。もしこんな箇所を、中学校の教室でひとたび朗読したら、女子生徒は、顔を赤くして黙り込むか、激しく怒り出すことだろう。
自分もかかわった教科書にこんな記述を平気で載せていることからみて、「中学生段階の……」という理由が、言いわけでしかないことがわかる。ほかにも同教科書には、本文に記したが、「イザナキの命とイザナミの命の二神が性の交わりをして生まれた子供が淡路島……」という箇所もあるし、江戸時代には、「家斉は40人の妾(めかけ)をもち、55人の子供がいた」(「妾」は供給本で「側室」へと改善された)という記述などが、何の脈絡もなく登場する。
問題は、「つくる会歴史教科書」が「慰安婦」問題をまったく書かなかったことの裏側で、このように女性差別的な記述をいくらも載せていることだ。性的な表現に加えて「八百万の神はどっと大笑い」などには、女性を辱める差別的な視線がある。「妾」の語もそうだ。彼らは、「慰安婦」を書くことが嫌なのではない。それらを人権侵略や差別と見るような考えがいやなのであろう。――(j)『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)
<34>p65
また、日本古来の和歌を集めた『万葉集』が、朝廷の命によって編集された。
<コメント> 『万葉集』が数次の段階を経て成立していく過程で、部分的に持統天皇や元明天皇らがかかわったという説はあるが、それらを最終的にまとめたのが大伴家持であるというのは歴史学界、国文学界の定説である。全体の編集が「朝廷の命」によってなされたとするような記述は弁解のしようのない誤り。天皇の文化的役割を強調する意図的に犯された誤りである。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<35>p67
最古の歌集『万葉集』は、長くその後の模範とされた。
<コメント1> 文化の評価に関してもう一つふれたい。同じく【天平文化】では、『万葉集』が取り上げられ、「最古の歌集『万葉集』は、長くその後の模範とされた」と記されている。その前の【奈良時代の歴史書と文化】には、「その作者は、天皇から農民、兵士にいたるまで広い層におよぶ」とある。しかし『万葉集』に対する「天皇から……」のフレーズは1890年以降に成立したのもで、それ以前には作者層をほとんど問題にしていなかったことが近年の研究で明らかにされている。ここに記されているような『万葉集』に対する意味づけは、一体としての国民を創生しょうとした明治期の知識人たちの願望と使命感が、古代貴族の文化財に投影されて創出された時代の産物である。『万葉集』は奈良時代末期に成立して以来、千年以上、列島の住民の大部分とはまったく縁のない書物であった。一般には書名すら知られていないという状態が明治の中頃まで続いていたのである。したがって、本書の『万葉集』についての記述はまったく事実に反していることになる。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<コメント2> 『万葉集』について「奈良時代の仏教美術や、最古の歌集『万葉集』は、長くその後の模範とされた」という指摘、「国風文化」について「その(遣唐使を廃止した)結果、貴族を中心に宮廷の洗練された文化がおこり、唐文化の影響を離れて日本化していった」(<37>に該当)という記述などは、いずれも事実に反している。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<36>p70
10世紀に入り、人口が増え、新田が不足したために、班田収授が行き詰ると、朝廷は地方政治の方針を大きく転換した。
<コメント> 問題の多い記述である。
第一点。班田収授の崩壊の原因を、人口増加による新田不足に求めているが、この時代に人口増加や新田不足があったという主張は、何ら根拠がないものである。
第二点。「朝廷は地方政治の方針を大きく転換した」とあるが、10世紀はじめの延喜国制改革を指しているのか、10世紀半ばの地方政治の変化のことを指しているのか、不明な文書である。もし前者であれば、班田収授の行き詰まりも10世紀に入ってから生じた事態であるように読めるが、通説では9世紀のこととされている。また後者であれば、上記記述は、10世紀半ばの地方政治の変化の原因を、班田収授の行き詰まりに求めていることになるが、そうした歴史理解は無理である。いずれにしても、この時代の地方政治の変化についての史料も研究も知らないまま、適当に執筆したものと思われる。
※研究上でも難しい箇所であり、各社とも記述に苦労しているが、人口増加と新田不足という根拠のないことを記述している他社本はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<37>p74
9世紀に入ると唐は衰え、894(寛平6)年菅原道真の進言を受けて、日本は遣唐使を廃止した。その結果、貴族を中心に宮廷の洗練された文化がおこり、唐文化の影響を離れて日本化していった。これを国風文化とよぶ。国風文化は、藤原氏の摂関時代にもっとも栄えた。
<コメント1> たとえば、「遣隋使を派遣した。しかし、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような道はさけたかった」(<20>に該当)とか、「日本も中国文明の影響を脱した社会と文化の形成へとさらに踏み出していった」、「唐文化の影響を離れて日本化していった」というように、ことさら中国文明の受容、文化の影響を否定的に扱っていては、複雑で豊かなこの時代の文化現象を単純な理解におとしめてしまうことになろう。唐の文化が宮廷社会に、より広く定着、浸透し、その一方で唐文化の変容(国風化)が進行したとみるべきである。
そうでなければ、執筆者が唐文化の影響を離脱し「国風文化」が形成されると主張する9、10世紀に、政治構造や天皇をとりまく宮廷社会が最も唐風化するという事実が理解できなくなるであろう。この時代には、宮廷における儀礼や、年中行事などのなかに唐文化のいっそうの定着過程がみてとれるのである。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<コメント2> 74ページからは「平安の文化」となっていて、「国風文化」の項に次のようにある。「日本は遣唐使を廃止した。その結果、貴族を中心に宮廷の洗練された文化がおこり、唐文化の影響を離れて日本化していった」
またまた妄想に発する無責任な断言である。そもそも「その結果」というのは、過大表現である。遣唐使を廃止する前から、文化が「日本化していった」のはたしかだが、「唐文化の影響を離れて」というほどのことはなかった。
唐文化の影響というのは、じつに圧倒的なものであった。そのため、遣唐使を廃止したからといって、「唐文化の影響を離れて」ということにはならない。歴史の進行を手前勝手に独断で割り切ってナメてかかるのが、この教科書の顕著な特色である。唐文化の影響を、それほどカンタンに考えてもらっては困る。小島憲之の綿密な研究が、唐文化と日本文化の細部にわたる関係を証している。小島憲之の著書が厖大で、とても読めないと言うのなら、小西甚一の僅か242ページしかない『日本文学史』<弘文堂・昭和28年12月20日初版、現・講談社学術文庫>に学べばよい。
清少納言が御簾をかかげる話があるが、あれは唐の文化が溶けこんでいるゆえである。――(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
<38>p87
元寇 フビライは、東アジアへの支配を拡大する中、ついに東方に独立を保っていた日本も征服しようとくわだてる。まず日本にたびたび使いを送って、服属するように求めた。そのときの手紙の内容は、日本を見くだし、「もし言うとおりにしなければ、武力を用いることになろう」と脅すものだった。しかし、朝廷と幕府は一致して、これをはねつけた。
<コメント> モンゴルへの対応の主導権は明らかに幕府が握った。朝廷と幕府が対等な形で対応したかのような表現をするのは誤り。朝廷の存在を強調するために犯された誤りである。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<39>p90〜91
禅宗は、ひたすら座禅することによって、悟りを得ようとする教えである。鎌倉では2代将軍頼家や北条政子が支持して、鎌倉武士たちの間に広まった。
<コメント> 頼家や政子が栄西とかかわりがあったことを根拠にしているものと思われるが、頼家や政子とかかわったころの栄西は、天台宗・禅宗の双方を兼帯していた。栄西の頼家・政子とのかかわりは、天台僧としての活動の場面に限られる。したがって頼家・政子が禅宗を支持したという主張には何ら根拠はない。鎌倉武士の間に禅宗が広まるきっかけは、ずっとのちに北条時頼が蘭渓道隆を招いたことに求めるのが通説であり、記述は誤りである。
※他社本にはこのような初歩的な誤りは犯していない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<40>p93
神護寺の「源頼朝像」は、単純化された線で、人物の気品をよく表現している。
<コメント> 神護寺の「源頼朝像」を鎌倉時代の肖像画として紹介しているが、「源頼朝像」については、南北朝期の作品であり、描かれているのも源頼ではないという説得力のある学説が近年提起され、学界では扱いに慎重になっている。社会的にも話題になっている。
※帝国は記述なし。東書・教出は「「源頼朝と伝えられる肖像画」、大書・日書・日文は「伝源頼朝像」、清水「頼朝像と伝えられています。」となっており、他社本はいずれも新しい学説に対応している。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<41>p94
やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、これまで討幕勢力が不利だった形勢は一変する。
<コメント> 後醍醐天皇の隠岐脱出と戦況の変化に直接の因果関係はない。元弘3年閏2月に後醍醐が船上山に迎えられたのちもしばらくは倒幕勢力に不利な状況が続いた。状況が変化するのは足利高氏の幕府からの離反が明らかになった同年4月末のことである。後醍醐天皇の存在を事実以上に強調するために誤った記述がなされている。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<42>p95
建武の新政 後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇親政を目標として、院政や摂関、幕府をやめて、新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年、年号を建武と改めたので、これを建武の新政という。武家政権がほろび、公家政権が復活したという見方からは、建武の中興とよぶ。
<コメント> 「武家政権がほろび、公家政権が復活した」のは事実であって、見方による相違はない。「建武の中興」とは、日本では天皇中心の政治が行われるのが正しい姿である、という見方からの呼称であるから、記述の誤り。バランスのとれた記述を装おうとしたのであろうが、正確な知識を欠いていたために、誤りに陥っている。
※配慮したつもりだったが間が抜けていた、という誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<43>p95
しかし、建武の新政は公家を重んじた急激な改革で、武家の実力をいかす仕組みがなかった。また、討幕をめぐる戦乱でうばわれた領地をもとの持ち主に返し、今後の土地所有権の変更はすべで後醍醐天皇自身の判断によらなければならないとしたが、はるかむかしに失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、その方針を後退させざるをえなかった。そのため、早くも政治への不満を多く生み出すことになった。
このようなときに、足利尊氏が幕府を再興しようと兵を挙げたので、建武の新政はわずか2年余りで崩れてしまった。
<コメント> 「建武の新政」において、新政権がわずか2年余りで崩壊した原因について、(一)公家重視の急激な改革であったこと、(二)武士の実力をいかす仕組みがなかったこと、(三)土地所有の変更は、すべて、後醍醐天皇の判断によるとしたことなどがあげられている。しかし、新政権崩壊の要因の一つとして、鎌倉末期の戦乱に疲弊しきった民衆生活の安定をかえりみることなく、天皇の絶対性を誇示するために、大内裏の造営を強行しようとしたことを看過すべきではなかろう。後醍醐天皇は、大内裏造営の費用を集めるために、地頭武士らの収益の20分の1を徴収することを命じたが、これに対して、全国各地の武士たちの間にわきおこった造営費徴収反対運動、この負担を転嫁されたであろう農民諸階層の建武政権への反発こそが、新政権にとって躓きのはじまりであった。建武新政への不満は、武士階級のみならず、全国各地の農民や、政権膝下の京都においてもはっきりと見てとることができる。東寺領若狭国太良荘(現 小浜市)の農民たちは、後醍醐天皇=明王聖主の御代への期待が、年貢・公事の増徴によって裏切られたと嘆き、京都の民衆は「夜討・強盗・謀綸旨」の横行に抗議して、二条河原に落書をかかげて、建武新政権を厳しく批判したのである。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<44>p96
室町幕府は、北朝によって承認されていることをみずからの正統性の根拠にして、しばらく南朝と対立した。
<コメント> 「室町幕府は、北朝によって承認されていることをみずからの正統性の根拠にして、しばらく南朝と対立した」と記されている。約60年間にわたる南北朝の争乱の時代を、「しばらく」とは、どのような歴史認識なのであろうか。天皇から将軍、武士から民衆にいたる、あらゆる階層の人々を戦禍にまきこんで展開した内乱が、60年の長きにわたって継続した原因については、当然のごとく、全く記述されていない。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<45>p99
また、すき・くわなどの農具や刀をつくる鍛冶職人、なべ・かまなどの日用品をつくる鋳物職人もあらわれた。
<コメント> 室町時代の手工業・商業の発達に触れた箇所で、「すき・くわなどの農具や刀をつくる鍛冶職人、なべ・かまなどの日用品をつくる鋳物職人もあらわれた」とあるが、このままでは古代から存在する鍛冶あるいは鋳物師の出現自体が室町期だと受け取られてしまう。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<46>p102
また義満の保護を受けて、観阿弥との世阿弥の父子は、平安時代から民間の娯楽として親しまれた猿楽、田楽を能楽として大成した。
<コメント> 102ページの「室町の文化」の項のなかごろに、「義満の保護を受けて、観阿弥と世阿弥の父子は」とある。観阿弥が義満の保護を受けたことは伝えられていない。子の世阿弥が保護を受けたのなら多分おやっさんも一緒だろう、というアタマの働きである。――(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
<47>p104
8代将軍義政のとき、将軍家と管領家の跡継ぎをめぐり、細川勝元と山名持豊(宗全)が対立し、1467(応仁元)年、応仁の乱が始まった。
<コメント> 管領に就任しうる大名家(斯波家と畠山家)の家督の地位をめぐる争いは起きているが、「管領の跡継ぎ」をめぐる争いは起きていないから、記述は完全な誤りである。
※管領家の相続争いに触れているのは教出と帝国。教出「管領家の相続争い」、帝国「有力な守護大名や将軍のあとつぎをめぐって」となっている。誤りの生じないような配慮がなされている。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<48>p106
足利義満の死後、明との勘合貿易が中断されると、再び倭寇の活動がさかんになったが、構成員のほとんどは中国人だった。それも、16世紀後半には衰えた。
<コメント> 義満死後の勘合貿易中断期(15世紀はじめ)の倭寇と、16世紀になってから始まる後期倭寇を混同した重大な誤り。構成員の多くが中国人だったのは後期倭寇であるから、100年ほどの錯誤を犯している。朝鮮半島で乱暴を働いた日本人の数を少なく見せることを意図して犯された誤りである。
※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<49>p86 地図
<50>p110 地図
<コメント> 86ページに「13世紀後半の世界」という地図があり、「モンゴル帝国の最大領土」をピンクの太線で囲んで示している。これが正解だ、と思うのは一瞬である。よく見ると、110ページの「( )帝国の最大領土」の範囲と、86ページの「モンゴル帝国の最大領土」の範囲は大きくずれているではないか。86ページの地図によれば、モンゴル帝国の領土は西はバルト海、北はバイカル湖の北方にまで及んでいるが、110ページの地図では、西はせいぜいウクライナのキエフあたりまで、北はバイカル湖の南端あたりまでとされている。逆に86ページでは帝国の領土外とされるアナトリア(現在のトルコ共和国)西部、北西インド、ベトナム、朝鮮半島などが、110ページでは「( )帝国の最大領土」に含まれている。どちらの地図が正しいかとはいわない。どちらもいいかげんである。が、モンゴル帝国の最大版図を示すはずの二つの地図は、当然一致していなければならない。これが大きくずれているとはどういうことか。この教科書がいかにずさんなつくりになっているか、という見本である。執筆者の責任という以前に、編集者が気づくべき問題である。編集者の顔が見たい。――(h)『歴史家が読む「つくる会」教科書』(青木書店)
<51>p112地図
<コメント> 《大航海時代の世界》図中の〈バスコ・ダ・ガマ航路図〉で、西アフリカ沖合から喜望峰にかけての部分は帰路のコース(風向と海流が南東から北西に向いている)で誤り。往路は西アフリカ沖合から南米大陸寄りに大きく迫り出す形で一気に喜望峰とほぼ同じ緯度まで南下し、その緯度に近づいてからは同緯度を維持して左に進み大陸南端付近に到達する緯度渡航法による航路を描いている。
→このミスは、明治以後誤って記述している欧米の歴史地図をそのまま日本国内で通用させたもので、’80年頃に高嶋がポルトガル現地で誤りであることを確認した後に、日本国内で教科書執筆者等に是正の必要性を指摘した。’90年代にはすべての中学歴史教科書(7種)に正確な表示が登場していた。――(i)『季刊・戦争責任研究』第36号(日本の戦争責任資料センター刊、高嶋伸欣論文)
<52>p112
1450年代にポルトガルが、アフリカの西海岸を南下する航海事業にまず手をつけた。
<コメント> 「1450年代にポルトガルが、アフリカの西海岸を南下する航海事業にまず手をつけた」とあるが、ポルトガルがインド航路開拓の第一歩としてマディラ諸島の再調査に着手したのが1418年。難所のボシヤドル岬沖の通過に成功して古代以来ヨーロッパ人には未知だった西サハラ海岸に到達したのが1434年なのだから、「1450年代にまず手をつけた」などということはありえない。西尾氏は『国民の歴史』(扶桑社、1999年)の第15章で、1450年代にポルトガルが法王庁から新たな到達地の領有と貿易及び布教の独占権を得たことを“決定的に重要な出来事”としているが、それまでのポルトガルの航路開拓の実践があったからこその“出来事”でしかなく、上記の誤りは明白!――(i)『季刊・戦争責任研究』第36号(日本の戦争責任資料センター刊、高嶋伸欣論文)
<53>p113
トルデシリャス条約 ポルトガルの国王は、アフリカの南端をめぐって東回りでインドにいたる航海の途上で、到達したすべての陸地を、永久に所領とする許可を、カトリックの大本山であるローマ教皇庁から与えられた。
一方、スペイン国王も、コロンブスが北アメリカ大陸への到達に成功すると、領有の承認をローマ教皇に求めた。
1494年、大西洋上に南北に走る一本の直線が引かれた。線から東方で発見されるものはすべてポルトガル王に属し、西方で発見されるものはすべてスペイン王に属するというトルデシリャス条約が、両国の間で結ばれた。
この条約によって決められた史上初のこの大胆な領土分割線は、地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。当時のヨーロッパ人は、まるでまんじゅうを二つに割るように地球を分割し、それを自分たちの領土とみなしたのだった。
<コメント> まず、第一に、第一節「戦国時代から天下統一へ」の「ヨーロッパ人の世界進出」の最初に、どうして「トルデシリャス条約」の内容を紹介して、そこから「日本の近世」の叙述を始めるのだろうか、という疑問である。
中学校歴史的分野のこの部分は、これから高校用をも含めて他の教科書にはまず出てきそうもない「トルデシリャス条約」(1494年)を、『教科書』は窓見出しに掲げ、「この条約によって決められた史上初のこの大胆な領土分割線は、地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。当時のヨーロッパ人は、まるでまんじゅうを二つに割るように地球を分割し、それを自分たちの領土とみなしたのだった」と特筆する(113頁)。
この条約は領土分割ではなく管轄区域を定めたものだから、表現が正確でないが、東半球では「北海道の東あたり」を通るというのは大まちがい。同じページに掲げられた地図自体がそうなっていないのだからお笑いである。条約に定める「ベルデ岬諸島の西方370レグア」は西経50度あたりで、反対側では東経130度あたりとなる。「北海道の東」では東経145度以東となってしまう。
『教科書』はおそらくヨーロッパの身勝手さを強調したくてとりあげたのだろう。そのかぎりでは私も同感だが、こんな半可通では、教育の妨げになるし、地図もおざなりすぎる。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<54>p116
信長は、京都の荒廃した内裏(天皇の住む御殿[ごてん])の修理をするなど、朝廷の心をつかんだ、このような信長を将軍義昭は警戒するようになり、
<コメント> 過度な強調は、近世後半だけではない。第1節で信長について、「朝廷の心をつかんだ」と書き、すぐに「このような信長を将軍義昭は警戒するようになり、」と続けば、信長における朝廷の比重は研究史で明らかにされている以上に過度な強調を帯びる。歴史研究と連携して歴史教育を行うという常識的なルールが、かんたんに破られてしまう。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<55>p117
信長は仏教勢力にもきびしく対処した。信長は自分に反対する大名と結んだ比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の教えをもとに武装して抵抗する一向一揆と徹底的に戦い、降伏させた。信長はキリスト教の宣教師を優遇したが、それもこうした仏教勢力を嫌ったためである。
<コメント> 信長の行動について全く理解しようとしないのが、この教科書の特徴である。呆れたことに117ページ4行目から「信長は自分に反対する大名と結んだ比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の〈中略〉一向一揆と徹底的に戦い、降伏させた」と書く。これは誹謗であり罪悪視の姿勢であり貶めであり弾劾である。ここに歪曲して写し出された信長は、ヤクザの親分みたいに程度が低く、何も考えずに「反対」派を潰してまわるだけの、職業的喧嘩商売の無頼漢でしかない。比叡山と結んだ大名は誰なのか。ここでも架空のハッタリが横行している。この教科書の執筆者は、ちょうど小便がしたくなるように、定期的にウソをつきたくなるのであろうか。信長は叡山が腐敗し墜落しきっているのを確認し、世の中に上からかぶさっている不合理な中世的権威を破壊したのである。――(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
<56・57>p121
朝鮮への出兵 1世紀ぶりに全国の統一を果たして、秀吉の意気はさかんであった。秀吉は、さらに中国の明を征服し、天皇も自分もそこに住んで、東アジアからインドまでも支配しようという巨大な夢にとりつかれ、1592(文禄元)年、15万の大軍を朝鮮に送った。加藤清正や小西行長などの武将に率いられた日本軍はたちまち首都の漢城(現在のソウル)をおとし、さらに朝鮮北部にまで進んだ。しかし、朝鮮側の李舜臣が率いる水軍の活躍や民衆の抵抗があり、明の援軍もあって、戦いは日本に不利になり、明との和平交渉のために撤兵した(文禄の役)。
ところが、明との交渉は整わず、1597(慶長2)年、日本は再び14万の大軍で朝鮮に攻め込んだ。ところが、日本軍は朝鮮南部に侵攻しただけで戦況は停滞し、翌年、秀吉の死去とともに、兵を引き上げた(慶長の役)。
<コメント> 文禄の役の終盤、日本軍が「明との和平交渉のために撤兵した」とする(121頁)のは完全な誤り。実際は在陣中の小西行長が秀吉の「降表」まででっち上げて和議をまとめたが、日本軍はなお撤兵せず、軍の一部が戦線を離脱して帰国したり、朝鮮側に投降したりしたにすぎない。そして、「降表」を受けて明皇帝が発した冊封使が大坂城に来て、秀吉は真相を知り、激怒して再派兵を決断するのである。『教科書』の叙述は、秀吉軍の侵略性を薄めようとして事実をねじまげたものか。
また慶長の役について「朝鮮南部に侵攻しただけで戦況は停滞し」とするのは、戦争の目的が「仮途入明」から朝鮮南部を領土として獲得することへとすり替わっていったことを覆い隠すもので、これも同じ意図からする曲筆であろう。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<58>p121
2度にわたって行われた出兵の結果、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒れ果てた。明も日本との戦いで衰え、豊臣家の支配もゆらいだ(このころ、朝鮮の陶工[とうこう]によって陶器[とうき]の技術が伝えられ、茶の湯の発展にもつながった)。
<コメント> 慶長の役については、「明との交渉は整わず、1597(慶長2)年、日本は再び14万の大軍で朝鮮に攻め込んだ。ところが、日本軍は朝鮮南部に侵攻しただけで戦況は停滞し」と説明するにとどめる。つまり、朝鮮半島の南部4道を日本の領土化するという慶長の役の目的にはまったく触れることがない。
そして「二度にわたって行われた出兵の結果、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒れ果てた。明も日本との戦いで衰え、豊臣家の支配もゆらいだ」とあるあとに[注]として「このころ、朝鮮の陶工によって陶器の技術が伝えられ、茶の湯の発展にもつながった」と説明される。しかし、もはやこんな説明に誰が納得するであろうか。なぜなら、朝鮮の陶工は自分たちの意思で来日し、陶磁器の技術を伝えたのではないからである。連行されてきたのである。朝鮮の国土の荒廃の一つの要因はここにもあったのである。(ついでながら、「陶器の技術を伝えた」とあるが、日本はすでに陶器生産に関しては高い生産技術を持っていた。古瀬戸や備前焼をどう評価するのか。これは磁器のことだろう。あえていえば陶磁器というべきだろう)。――(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
<59>p126
江戸幕府の統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号であった。そこで、幕府は朝廷をうやまいながら同時に統制しようと努め、朝廷を財政的に支援し、大嘗祭の復興を助けたりする一方で、禁中並公家諸法度を定めて、朝廷や公家にさまざまな規制を加えた。そのため幕府と朝廷との関係はするどく緊張することがあった。
<コメント> 「江戸幕府の統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号であった」というような一文も、武家官位を公家官位とは別物にして無定員の将軍推挙制に変え、官位叙任が将軍への思頼感に向くようにしたことや、家光以降は「公卿補任」から武家叙任の記載をすべて外してしまったことなどをあわせると、作為的だと思わせるほど歴史認識を単純化している。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<60>p137
18世紀のはじめには、江戸の人口は100万を超えた。「山の手」と「下町」の区別も17世紀のなかばには生まれ、「下町」に住む町人たちは、武士の住む「山の手」を意識しながら、「いき」の感覚に支えられた独特の町人文化を築いていった。
<コメント> 「いき」は18世紀半ば以後にうまれた感覚である。17世紀の町人文化の説明で触れるのは誤りである。
※他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<61>p148
先祖伝来の家業に勤勉にはげむことが、人間としての安心立命につながるという考えが広がった。江戸初期の国土の大開発は、こうした勤勉さによってなされた。
<コメント> 江戸初期の大開発はおもには幕府や藩・武士によるものであり、町人などの新田開発はむしろ中後期が中心であるから、記述は誤り。日本人の勤勉さを強調することを意図したのであろうが、正確な知識を欠いていたために誤った記述となっている。
※他社本には類した記述はない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<62>p150
5代将軍綱吉は、武士たちが殺伐とした行動に出ないように、生類哀みの令を発して、子どもや病人を捨てることを禁じ、犬から虫にいたるまでいっさいの生き物の殺傷を禁じた(1687年)。
<コメント> 150ページに、またまた大ケッサクが登場する。心を静めてお読みください。「武士たちが殺伐とした行動に出ないように」綱吉の生類憐れみの令が出たというのである。
なんとまあ、よくもこのような突飛な歪曲を考えたものだ。こうなると、教科書をつくっているのではなく、出鱈目の冗談を出たとこ勝負に競いながら、世を茶化し人をからかい、阿呆陀羅経を唱えて遊んでいるとしか言いようがない。私には、このようなことを書く人の頭の働きの見当がつかない。ただし、誠実のかけらもない性格であることだけはわかる。
この生類憐れみの令の説明は、この「新しい歴史教科書」全巻のなかで最高のケッサクとして、歴史に残る大迷作である。この教科書が採択されたあかつきには、どうかこの部分をゴシック活字で刷っていただきたい。――(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
<63>p152
公事方御定書(部分要約)
■それぞれの刑罰がどのようなものであったか、調べてみよう。
<コメント> 高札風の絵の中に書かれているが、公事方御定書は秘書の書であり、三奉行など以外に見せることは許さないことになっていた。高札は街道筋の宿場の入り口などに立て、人々に周知徹底させるためのものであり、公事方御定書を高札にして布告するなどありえない。生徒の正確な理解の妨げとなる。
また、本文に「商業発展にともなって増大する訴訟のために」公事方御定書が出されたと述べているが、この記述は「相対済し令」と混同した完全な誤りである。
※他社本にはこのような初歩的な誤りは犯していない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<64・65>p153
こうした情勢を背景に、18世紀なかば、老中として政治の実権をにぎった田沼意次は、むしろ発展する商業・流通に着目して幕府財政を豊かにしようと考えた。彼は、商人たちの株仲間を公認し、その独占的利益を認めるかわりに、一定の運上金(営業税)を納めさせ、幕府収入の増加に努めた。また、海産物を輸出するため蝦夷地の開発を試みた。田沼の政策は斬新だったが、大商人が幕政に深くかかわり、その結果、賄賂が横行して批判を浴びるようになった。こののち浅間山噴火(1783年)による気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、数十万人もの人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発して、田沼はその責任を問われて失脚した。このように田沼意次が政治の中心にいた時代を、田沼時代という。
<コメント> 誤記の例をあげると、田沼意次のところだけでも2箇所ある。一つは、「蝦夷地の開発を試みた」とあるところで、調査隊を蝦夷地におくって開発計画を立てたが、松平定信に政権が変わって、関係者は追放されたため実現していない。「試みようとした」ならよいが、「試みた」は不正確である。また江戸の打ちこわしで、意次が失脚したとあるが、意次の失脚は打ちこわしの前年のことである。打ちこわしで倒れたのは田沼派の残存勢力であり、これによって松平定信政権が誕生した。――(f)『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
<66>p158
飢饉の発生と天保の改革 1833(天保4)年から6年間ほど、日本は凶作におそわれ、深刻な飢饉におちいった(天保の飢饉)。各地では、飢饉に対する藩当局の対策を問題にして、百姓一揆や打ちこわしがおこった。大阪でも餓死者が出たが、陽明学を学んでいた大塩平八郎は、豪商が幕府の命令で米を買い占めて江戸に送っていたことに怒り、1837年門弟や民衆をつれて豪商を襲撃した。暴動は一日で鎮圧されたが、大塩が大阪町奉行所のもと与力だったことが、幕府に大きな衝撃を与えた(大塩の乱)
<コメント> 「豪商の米の買い占めと、幕府の命令で大坂町奉行所が米を江戸に送っていたことに怒り」が正確である。誤った記述である。
※大書「大阪でも多くの餓死者が出ました。しかし、大商人は米を買い占め、幕府は大阪の米を江戸に送るように命令しました。……大塩平八郎は、奉行所や大商人が貧しい人々の救済を考えないことにいきどおり」が最も詳しくて正確。日書「大塩平八郎は、幕府の悪政にいきどおり」、清水「大塩平八郎が、ききんに苦しむ民衆をかえりみない役人や大商人に怒りをぶつけ」、日文「大塩平八郎は、幕府の政治にいきどおり」、帝国「大塩平八郎が、人々の苦しい生活を見るに見かねて」、教出「大塩平八郎が、役所や豪商が飢えた人々を救わないことにいかり」、東書「大塩平八郎は、大商人をおそって米や金を貧しい人々に分けようとしました」となっており、幕府が豪商に買い占めを命じたという誤った記述をしているのもは他にはない。――(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
<67>p166地図
<コメント> マゼラン艦隊のコースが、フェゴ島の外海側の海岸線沿いとなっている。
→ちなみに、『新編日本史』(1986年)は艦隊のコースを海峡の部分だけ削除して描いたため「トンネルをくぐったのか?」と笑われた。――(i)『季刊・戦争責任研究』第36号(日本の戦争責任資料センター刊、高嶋伸欣論文)
第 2 部(教科書 p172〜p307)<番号:68〜143> へつづく