いま中学校で使われている「つくる会」歴史教科書には、
まだこんなに多くの間違いが!!

第 2 部(教科書 p172〜p307)<番号:68〜143>   第1部(教科書 p3〜p166)<番号:1〜67>へもどる
     解 説
典 拠 目 録
(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)
(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)
(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)
(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16)
(e) 『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
(f) 『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)
(g) 『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)
(h) 『歴史家が読む「つくる会」教科書』(青木書店)

(i) 『季刊・戦争責任研究』第36号(日本の戦争責任資料センター刊、高嶋伸欣論文)
(j) 『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)
(k) 『知っていますか?君が代・日の丸一問一答』(解放出版)
(l) 『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』(明石書店)

 以下、赤字が「つくる会」(扶桑社)歴史教科書、そのうち下線部がマチガイないし訂正を要する箇所。<コメント>はその指摘。

<68>p172
 イギリスはインドを植民地として,インド人にアヘンをつくらせ,これを清との貿易の代価として利用した。イギリスは自国では決して輸入を許していないアヘンを清に売りつけることで,銀の一方的流出に悩む不均衡な貿易収支を正すと同時に,イギリスのインド支配の財政基盤も支えるという,一挙両得の政策に出たのである。
 アヘンは,衰退期に入った清に,無抵抗に受け入れられた。


<コメント1>「無抵抗に受け入れられた」と強調するが、173ページに記述されているように、政府はアへンの輸入を取り締まっているのだから、「無抵抗」というのは誤りである。アへンに犯されたのは中国側に責任があったかのような記述である。
 ※意図的に犯された誤りであり、他社本には類した記述はない。―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)

<コメント2>「無抵抗に受け入れられた」と強調するが、175頁では、皇帝や大臣のアヘンの輸入に対抗する動きを書くのだから、「無抵抗」というのは、誤解を招く表現である。―(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<69>p176〜177
 ペリーは, なぜ日本にやってきたのだろうか。日本を開国させるアメリカの目的は二つあった。一つは,中国にいたる太平洋航路を開くことだった。その中継地として日本がどうしても必要だった。アメリカは,産業革命によって工場で大量に生産されるようになった錦製品を,人口の多い中国に輸出することを狙っていた。太平洋航路が開かれれば,アフリカ回りでやってくるイギリスとの競争に勝つことができる。
 二つ目の目的は,このころ北太平洋でさかんに操業していた捕鯨船の保護だった。鯨の肉は捨てられ,脂肪分がランプ用の油として用いられた。産業革命によって生まれた工場を夜間操業するための照明用だった。

<コメント> ペリー来航の時点での米中貿易の基本は中国茶の輸入であり、たしかに輸出面では米国産の白綿布が最大の品目であったが、それは茶の輸入とバランスをとれるほどのものでなく、米国産の白綿布の輪出先もブラジル、チリなど近隣諸国が上位を占めた。綿布の中国輸出をペリー来航の背景の一に挙げる石井孝の研究(1972年)はあるが、加藤祐三の新研究、『黒船前後の世界』1985年が説得的に批判をくわえており、上記記述は誤りである。―(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<70>p181
 かつて関ケ原の戦いに敗れて領地を縮小されていた長州藩(山口県)は,幕府批判勢力の中心だった。藩の兵学者吉田松陰は,松下村塾という私塾で, 弟子たちに尊王攘夷を説いて大きな感化をおよぼしていた。松陰が安政の大獄で処刑されると,その弟子であった高杉晋作や木戸孝允(桂小五良)らが藩を動かすようになり,長州藩は一部の公家と結んで, 朝廷をはげしい壊夷論へと導いていった。


<コメント> 「高杉晋作や(中略)らが藩を動かすようになり」と記されているが、これも間違いである。高杉は奇兵隊を組織してクーデターを起こし、藩の方向を大きく変えることに成功したが、そのあと直ちに脱走し、藩の政治には一切タツチしなかった。この書き方では晋作が藩の役職についたかの如くに誤解される。高杉晋作は勝利した革命の統領が、ひとかけらの地位にも就かなかった世界で唯ひとりの清純である。これほど凄味のある無欲で清潔な英傑を持ち得たことは我等日本人の限りなき誇りである。―(g) 『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)


<71>p183
同年,幕府はもう一度長州征伐を試みたが,今度は薩摩藩がこれに反対し,諸藩も従わなかったので失敗した(第二次長州征伐)

                                    
<コメント> 幕府の長州再征の失敗について、同書が「諸藩も従わなかった」ためだとしているのは明らかに初歩的な事実誤認であり、動員された諸藩の軍隊を含む幕府軍の戦意の乏しさと装備の古さに加えて、国許での軍役反対や打ちこわしと世直し一揆の頻発という事情こそが重視されなければならない。―(e) 『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<72>p186
[日の丸の由来]…(中略)…平安時代には,太陽をかたどった金の日の丸をあしらったものが,扇などに使われていた。中世から近世初頭にかけて,白地に赤の日の丸をえがいた旗が,合戦などに用いられている。




<コメント> また、こうした陰陽思想から作られる「軍扇」もありました。那須与一が源平合戦で射落とした扇には丸が描かれていたとされますが、その頃から見られるものです。新井白石が書いた『本朝軍器考』によると、源養家(1039〜1106)が使い新田家に伝わったとされる扇を、左図のように紹介しています。それによると、表はキラキラ輝く雲母地で、紅(赤)色の地に金の丸を描いています。裏は銀の丸で、地色は記されていませんが、他の史料(「軍用記」)によると、軍扇は表地を赤、裏地を青にしていたといいますので、この源義家の扇の場合も裏は青であったと考えられます。つまり軍扇も、月−日、銀−金、青−赤の対応で陰陽を表すものであったのです。―(k)『知っていますか?君が代・日の丸一問一答』(解放出版)








<73>p187
[君が代の由来] 「君が代」の元歌は,平安時代の前期にまとめられた『古今和歌集』に,長寿を祝う賀歌(他人に幸福がくるように祈ってよむ歌)の代表作としておさめられている。
 わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで(私の敬愛するあなたさま,どうか千年も,万年も,小石が寄り集まって大きな岩となり,それに苔が生えるほど末永くお健やかに)
 これは,まもなく今の「君が代」と同じ歌詞になり(意味は同じ),中世から近世を通じて,神社や寺院の行事で歌われたり,さまぎまな物語や歌舞などにも取り入れられて,広く庶民に親しまれてきた。


<コメント> ところで、歌の最後にある「さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで」のか所は、長寿や長久への願いを古い伝説にたとえて表したものです。「さざれ石」は「小石」や「砂」を意味しますが、その小石が成長して、やがて岩となる昔話が中国の『酉陽雑狙』などに見えます。日本でも、類似した話が日本全国各地に数多く民間伝承となって残っていることを柳田国男が「生石伝説」に紹介しています。『古今集』真名序も、この歌を「砂が長じて巌となる」と解説しています。
 文部(科学)省庁舎の中庭などに、多数の砂が粘着して岩(礫岩)となったものを「さざれ石」として飾っていますが、この歌そのものは、小石や砂が成長するという不思議な故事にかけたもので、現代科学に固執する解釈であり、砂が積もってできる「堆積岩」とする解釈なども、同じ種類のまちがいです。―(k)『知っていますか?君が代・日の丸一問一答』(解放出版)


<74>p194
学制 明治政府は三つの強力な制度改革,すなわち学校制度・徴兵制度・租税制度の改革をおし進め,近代国民国家(自立的意思をもった国民によって構成される国家)としての基盤を固めた。この三つは,やがて国民の側から就学の義務,兵役の義務,納税の義務として広く一般に意識されるようになる。


<コメント> 「学制」の部分では、当初から就学の義務が、兵役・納税と並んで三大義務と考えられ、義務教育制度が「準備された」と表現されているが、就学を臣民の三大義務と述べたのは穂積八束の説で、決して正確ではない。兵役(男性の場合)納税は帝国憲法に規定された臣民の義務なのだが、教育がその憲法に規定されなかったところに、当時の特徴があったことは、今日の教育史の常識である。―(e) 『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<75>p195
これは教育を通じ,国民にいち早く平等に同じ機会を与え,より高い教育を受けた者がより出世することを保証した「能力主義」の考え方である。この考え方は江戸時代までの身分制度を壊し,近代的な平等の観念に基づく国づくりをしていく上で,決定的に重要な役割を果たした。こういった日本の義務教育制度は,当時の欧米でもまだ一般的とはいえない時代に成立した
 日本のこの新制度の大枠はフランスを模したといわれるが,フランスをはじめ西洋諸国は,いまだに階級制度のなごりをとどめる小学校教育を行っていた。上流階層,労働者階層,中間階層の区別に基づく三つに枝分かれした教育制度が,西洋では現在でもなお続いている。しかし,日本においては,アメリカをもいち早く参考にし,武士の子も町人の子も同じ教室で学ばせるという,階層差をなくして一本化した制度が早くも確立された。これは,明治維新の指導者たちの,時代の先を見抜く目の確かさを物語っている。


<コメント> 「当時の欧米でもまだ一般的とはいえない時代」に、「能力主義」による身分制的学校制度体系の否定が日本に成立したと誇らしげに語る(195頁)のだが、「米」はすでに単線型体系を作り出しており、「欧米」とくくるのは誤りである。その六行後には.「日本においては、アメリカをいち早く参考にし」云々とあるのだから、前後撞着も甚だしい。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<76>p196
日清戦争(1894〜95)の平壌占領いちばんのりとされる原田重吉一等卒は平民出身者で,国民的英雄になった。戦死したラッパ手の木口小平も平民の出身で,死んでもラッパを口から離さなかったとして,その当時,有名になった。江戸時代まで武勲とは縁のなかった平民に新しい時代が訪れた。


<コメント>  具体的な名前をもった民衆が登場する数少ない事例であるが、日清戦争のとき「平壌占領いちばんのりとされ」「国民的英雄」となった「原田重吉一等卒」や「死んでもラッパを手から離さなかった」「木口小平」らの「平民」出身の兵士像は、この基準を満たす代表者ということになる(196頁)。
 現在の研究では、このラッパ手は木口でなかったことが明らかにされているが(西川宏『ラッパ手の最後』青木書店、1984年)、こうした戦前国定教科書風の人物が「非常時には国のために尽くす」民衆像の典型として、ほこりを払って再デビューしている。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)
                 


<77>p200
日本軍艦が朝鮮の江華島で測量をするなど示威行動をとったため,朝鮮の軍隊と交戦した事件(江華島事件,1875年)をきっかけに,日本は再び朝鮮に国交の樹立を強く迫った。


<コメント1> これは「日朝間の交戦の事情が説明不足で理解し難い表現である」と検定官の意見をつけられ、修正した文章であるが、日本軍艦の行動の前提として、日本国内に「征韓論」が台頭していたことを述べないので、基本的な理解がえられない。日本の軍艦は朝鮮の西海岸を測量しながら北上したのだが、江華島では測量をおこなわず、カッターを入れたところ砲撃されたとの理由で、砲撃を加えたものである。江華島で測量をしたというのは誤りである。―(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)

<コメント2> 朝鮮の発砲を誘導した計画的な軍事作戦であったという事実等、挑発の主体、目的、経緯を隠蔽 ―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<78・79>p202
岩倉使節団と征韓論 1871(明治4)年,廃藩置県のあと,条約締結国への新政府としての訪礼と条約改正の予備交渉のために,全権大使岩倉具視をはじめとし,大久保利通,木戸孝允らの使節団(留学生を含め,総勢100人ほど)がアメリカとヨーロッパに派遣された(岩倉使節団)。彼らは,2年近く欧米文明を実地に学び取った。そして,欧米と日本との文明の進歩の差はおよそ40年とみて,なによりも近代産業の確立(「富国」)を優先して追いつくべきだと考えるようになった。
 ところが,国内では1873(明治6)年,日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして,士族たちの間に武力を背景に朝鮮に開国を迫る征韓論がわきおこった


<コメント1> まず中学校学習指導要領(平成10年12月告示)の「歴史的分野」において、経済に関して、どんな指示事項が書かれているか見てみよう。
 「政府の富国強兵・殖産興業政策の下で進展した我が国の近代産業が産業革命を経て発展したことと、その中での国民生活の変化について理解させる」、あるいは昭和初期から第二次世界大戦の終結までを対象に、「経済の混乱と社会問題の発生……」を理解させる。戦後については、「高度経済成長以降の我が国の動きを世界の動きと関連させてとらえさせ……」など、きわめて簡単なものでしかない。
 したがっで、どの教科書も経済に割り当てられたページ数はごく少なく、政治・文化の記述にくらべて見劣りがするのは否定できない。その中でも扶桑社の教科書は「富国強兵」という言葉が一切出てこない珍しい教科書である。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)

<コメント2> 朝鮮の条約締結の拒否理由を説明せず、日本の立場から偏って記述。
 日本が既存の関係を一方的に破棄しようとしたためであることを説明していない。―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<80・81・82・83・84>p209
[藩校と寺小屋] 江戸時代の学枚には・武士階級の子弟のための藩校と,一般庶民ための寺子屋の二つがあった。藩校は儒学を重んじ,武芸を大切にし,経済実用の学も少し教えた。寺子屋は読み書き算盤を主とし,男女共学で,女の先生もいた。民衆の自発的組織であって,幕府の監督もないが,補助もなかった。
(中略)…
[能力主義] 明治初期には小学校の卒業にも試験があった。能力に応じて上級学枚へ進む道が出世を約束した。さらに,身分を問わず,新たな指導者層をつくる高等教育機関も整えられた。そして,誰にでもそこに入る可能性は開かれていた。封建的身分差別は,教育による能力主義によって少しずつ壊された。日本の封建体制解体と指導者層の交代は,いい学校を出ようという新しい時代のエリートヘの自由競争によってゆっくり進み,流血の市民革命よりも穏健で,しかし根本的な変化を引きおこした。
 藩校のもつ特権をやめてしまい,武士階級の子どもだけが入れる特別のエリート学校をつくらなかったことが,日本が現在のような平等な社会になった原因である。ヨーロッパでは必ずしもそうではなく,まだ階級意識が残っている。日本の方がこの意味で, 公平な社会になった。

<コメント> コラム「明治維新と教育立国」では、江戸時代の藩校について「武芸を大切にし」とあるが(209頁)、藩校は元来儒学教授機関であり、そこで武術を教授した例は幕末に一部の藩にみられたものの、決して一般的ではない.寺子屋でもそろばんを教えたものは少数に留まるし、「男女共学」(同頁)は当てはまらない。
 「明治初期には小学校の卒業にも試験があった」(同頁)というが、進級試験制は1900年に至って全廃されるもので、明治初期に限定されるわけではない。特定身分の学校を近代日本は作らなかったというが、戦前に皇族・華族・一部の士族の子弟のみに入学を許した特権的な学習院や華族女学校(学習院女子部)、対照的に北海道での旧土人学校・西日本中心の部落学校などの存在、さらに貧農層や労働者層の子どもたちで中等学校以上に進学し得たのは極めて少数だった事実等々が、あっさりと無視されている。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<85>p214
 大日本帝国憲法は,国家の統治権は天皇にあるとし,その上で実際の政治は各大臣の輔弼(助言)に基づいて行われると定めた。また,天皇に政治的責任をおわせないこともうたわれた

<コメント> この教科書の政治制度、とくに天皇に関する制度の説明は、極端に簡略化された、不正確なものである。たとえば明治憲法の天皇権限の説明では、「憲法は、国家の統治権は天皇にあるとし、その上で実際の政治は各大臣の輔弼(助言)に基づいて行われると定めた。また、天皇に政治的責任をおわせないこともうたわれた」(214ページ)と記述されているだけである。この記述では、実際の政治決定は大臣がおこない、天皇の統治権は名目的なものとして、象徴天皇と同様に権力をもたない存在として、近代の天皇は理解されることになる。さらに問題なのは、この記述が統帥権の存在などにまったく触れていないことである。つまり統帥権や外交権などがさらに天皇大権として憲法に規定されていて、とくに統帥権は国務大臣の輔弼の範囲外とされることで、軍部の内閣からの独立性が生じたことが理解できるようには、この教科書はまったく記述されていないのである。
 こうした点について他の教科書は、「憲法では、天皇が国の元首として統治すると定められ、議会の召集・解散、軍隊の指揮、条約の締結や戦争を始めることなどは、天皇の権限とされました」(東京書籍)、「憲法は、天皇が最高の権力者であると定め、帝国議会(国会・内閣・裁判所も天皇を助けるものと位置づけた。また、天皇が軍隊を統率し、指揮するとした」(日本書籍)、「憲法では、天皇が軍隊を統率し、外国との条約の締結をするなど大きな権限をもち、憲法の規定に従って、大臣などの補佐により、国を統治するものときれた」(教育出版)など、統帥権といった生徒に難しい用語をさけながら、それぞれの観点からの工夫した記述をしている。
 「つくる会」教科書の明治憲法の記述、とくに統帥権の記述がないことがなぜ問題になるのかというと、一九三〇年のロンドン軍縮条約問題を詳しく記述するなかで、一部の軍人、野党政治家が「明治憲法に定められた天皇の統帥権をおかしたとして政府をはげしく攻撃した(統帥権干犯問題)」(二六五ページ)と書いているからである。―(h)『歴史家が読む「つくる会」教科書』(青木書店)


<86>p214
日本は,本格的な立憲政治は欧米以外には無理であると言われていた時代に,アジアで最初の議会をもつ立憲国家として出発した。


<コメント> これは「本格的な立憲政治は有色人種には無理であると信じられていた時代に」という表現を修正したものであるが、この記述に対しては、そのような意見はどの国の誰によって言われていたのか、が問われなければならない。そのような意見は一般的であったのか。「アジア最初の議会」は誤りである。―(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<87>p216
朝鮮半島と日本の安全保障 東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れて,海に浮かぶ島国である。この日本に向けて,大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時,朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば,日本を攻撃する格好の基地となり,後背地をもたない島国の日本は,自国の防衛が困難となると考えられていた。

<コメント1>  前近代史にあって、日本が大陸の文化を吸収したとき、朝鮮半島はその媒介者であり、供給者であった.朝鮮半島を乳房と見立てる見方もある。引っ越すことのできない隣国の地理的形状を日本を脅かす暴力的な「腕」と決めつける見方は、「朝鮮半島」は日本に絶えず突きつけられている凶器となりかねない位置関係にあった」という検定修正で削除された表現の思想をなおのこすものである。依然として不適切な表現である。―(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)

<コメント2> 朝鮮半島脅威説を強調し、日本の防衛の名目で韓国侵略・支配を合理化するという論理
 日清戦争ならびに日露戦争を自衛戦争として合理化―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<88>p216
おそろしい大国は,不凍港を求めて東アジアに目を向け始めたロシアだった。ロシアは1891年にシベリア鉄道の建設に着手し,その脅威はさし迫っていた。日本政府の中には,ロシアのカが朝鮮におよぶ前に,朝鮮を中立国とする条約を各国に結ばせ,中立の保障のため日本の軍備を増強しなければならないという考えもあった


<コメント1> これは、修正したテキストである。これは山県有朋の1890年の「外交政略」を指しているが、そのもとには1882年の井上毅の「朝鮮政略」があったことはたしかである。しかし、日清戦争に向かう1880年代後半から1890年代はじめの日本の対朝鮮政策の中心、基本が朝鮮中立化構想であったかのように説明するのは、正しくない。「日本政府は、…と考えた」というテキストを「これが具体的構想であったかのように誤解するおそれのある表現である」という検定官の意見をえて、「政府の中には、…という考えもあった」と修正したのだが、別の考えがあったことは説明されていないのだから、この修正は検定官の意見に正しく応えていない。井上にしても、山県にしても、ロシアに対して日本の「権益」を擁護するということが大目的であり、その手段としての朝鮮中立化政略があったのだから、この記述はバランスを欠くものである。―(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)

<コメント2> 日本政府の一角で若干論議されたことを日本の朝鮮強圧政策を打ち消す意図で記述―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<89・90>p217
1884年には、清は清仏戦争に敗れ,もう一つの朝貢国べトナムがフランスの支配下に入った。朝貢国が次々と消滅していくことは皇帝の徳の衰退を意味し,中華秩序崩壊の危機を示すものだった。そこで清は,最後の有力な朝貢国である朝鮮だけは失うまいとし,日本を仮想敵国(国防計画を立てるさいに,仮に敵とみなす国)とするようになった。
 日本は,朝鮮の開国後,その近代化を助けるべく軍制改革を援助した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは,日本の安全にとっても重要だった。

<コメント1> 朝鮮を巡る清と日本の対立を一面的に説明し、日本が清を仮想敵国にした事実を歪曲。―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)
<コメント2> 朝鮮に対する日本の影響力を植え付けようとした目的を隠し、軍事援助で朝鮮の独立に寄与したかのように叙述することで事実をごまかす―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<91>p217
1884には日本の明治維新にならって近代化を進めようとした金玉均らのクーデターがおこったが,このときも清の軍隊は,親日派を徹底的に弾圧した(甲申事変)


<コメント> 金玉均等の開化派を親日派と記述―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<92・93・94>p218
 1894(明治27)年,朝鮮の南部に東学の乱(甲午農民戦争)とよばれる農民暴動がおこった。東学党は,西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団だった。彼らは,外国人と腐敗した役人の追放を目指し,一時は首都漢城(現在のソウル)に迫る勢いをみせた。わずかな兵力しかもたない朝鮮は,清に鎮圧のための出兵を求めたが,日本も甲申事変後の清との申しあわせに従い,軍隊を派遣し,日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。


<コメント1> 「東学の乱」「東学党」という古い、不正確な呼称を復活するのは、不適切である。―(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)

<コメント2> 反封建・反外勢運動を「東学の乱」や「暴動」と表現したのは不適切であり、農民運動を宗教集団運動と限定したのは誤解の余地がある。
 「漢城に肉薄した」のではなく全州城を占領したのみ。
 日本が日清戦争を誘発する目的で計画的に派兵した事実を隠蔽し、清兵派兵に対する単純な対応措置であるように叙述
(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)

<コメント3> 日本は清の出兵に対抗して、公使館と居留民の保護を口実に出兵した。農民戦争が沈静化して、出兵の理由がなくなっても、日本は撤兵を拒否し、朝鮮の内政改革を要求し、1894年7月23日朝鮮の王宮を占領し、朝鮮兵を武装解除した。その上で7月25日に豊島沖で清軍を攻撃し、8月1日、清に宣戦を布告したのである。執筆者は、日本は戦争をする気はなかったが、成り行きで戦争になってしまったのだという印象を与えようとしているように見える。不適切な表現である。
 ※教出「日本もこれに対抗して」、帝国「日本も清に対抗して」、日文「日本は、朝鮮での指導権をとるために」、東書「これを機に、清と日本は朝鮮に出兵し」、日書「日清両国が出兵したとき、すでに農民軍と朝鮮政府は休戦していた。しかし日本は軍隊を駐在しつづけるため、改革案を朝鮮政府におしつけ、これに対する回答を不満として、朝鮮の王宮を占領した」―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)



<95>p222
 ロシアは,日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていた。ロシアは満州の兵力を増強し,朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば,ロシアの極東における軍事力は日本が到底,太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて,ロシアとの戦争を始める決意を固めた。


<コメント1> これはロシアが1903年に鴫緑江べりの平安北道龍川郡龍岩浦を租借して、木材の伐採をはじめ、そこに警備隊をおくりこんだのを、日本側がロシアが軍事拠点をつくろうとしているとして、極度に警戒心を高めたという話である。これを「軍事基地を建設した」と断定するのは正しくない。―
(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)

<コメント2> 伐木場を軍事基地と誤って解釈―(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<96>p222
 1904〈明治37)年2月,日本は英米の支持を受け,ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)

<コメント> 日本は日英同盟を結んでいたが、イギリスにあらかじめ日露開戦の支持を取り付けて、戦争をはじめたわけではない。またアメリカについては、事前に日本の対露戦に明示的に支持を与えたということはない。誤解をあたえる記述である。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<97>p223
1905(明治38)年9月,ポーツマス集約が結ばれた。この条約で日本は,韓国(朝鮮)(1897年,朝鮮は国号を大韓帝国と改めた)の支配権をロシアに認めさせ,中国遼東半島南部(のちに,日本は関東州とよぶ)の租借権を取得し,南満州にロシアが建設した鉄道の権益をゆずり受け,南樺太の領有を確認させた


<コメント> サハリン島はロシア領であったものを、ポーツマス会議の直前に日本軍が全島を占領し、ポーツマス会議では全島の割譲を要求した結果、南半のみの譲渡を獲得したのである.「領有を確認させた」というのは、誤った表現である。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<98>p223
日露戦争は,日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。日本はこれに勝利して,自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が,当時,世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは,世界中の抑圧された民族に,独立への限りない希望を与えた。


<コメント1>  しかし、日本の朝鮮への介入は、あきらかに隣国の独立を侵すものであり、「自衛」の枠を越えた、膨張主義政策であったといえる。この教科書では、このような近代日本国家の膨張主義戦略など存在しなかったかのように描かれている。幕末・維新期に日本が欧米列強の「脅成」にさらされていたことは確かであるが、日本は、その後、朝鮮半島への膨張戦略をとることによって「独立」を保持するという過剰防衛路線を歩んだことは、今日から見れば明らかな事実である。
 例えば、一八九〇年に山県有朋首相は「外交政略論」を著し、日本は「主権線」(国境線)の外側に「利益線」(勢力圏)を確保することの重要性と、朝鮮こそがその「利益線」であることを表明した。これは、ロシアに先んじて朝鮮へと膨張・進出することが<国家戦略>にすえられたことを意味している。この教科書では、当時の国家指導者の主張をそのまま伝えるというスタンスを表明しながらも、こうした日本の能動的な膨張戦略についてはまったくふれていないのである。
 日露戦争についても、この教科書は、ロシアの極東進出に対して「政府は手遅れになることをおそれて、ロシアとの戦争を始める決意を固めた」(222頁)と述べるなど、日本はロシアの脅威に対抗するための自衛戦争であったという立場をとっている。これも、明治以来の政府側の主張を基礎にした歴史認識である。
 しかし、明治政府の認識が、当時の世界史の実態ではない。おもにイギリスからの情報にもとづくロシア脅威論は、今日からみれば、本当に明治政府が喧伝したほどの「脅威」であったかどうかは疑問である。また、日本が単に受動的に戦争を強いられたわけではなく、日英同盟を締結してイギリスの世界戦略に自らを組み込むことによって、積極的にロシアに戦争を挑んだ側面をこの教科書は無視している。さらにイギリスに支えられた日本の勝利が、世界の帝国主義ブロックの再編をうながし、イギリス陣営とドイツ陣営の世界戦争をより近づけたといった、世界史的な評価も欠落している。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)

<コメント2> このような見方を主張する根拠があるとする立場からみても、日本が勝利したことは、ただちに朝鮮の安全を脅かしたのであり、朝鮮民族は独立をうしなう危機に直面したのである。この側面を無視するのは、一方的な見方であり、この記述はバランスを欠く記述である。日露戦争の過程で、日本は朝鮮の主権を侵害するような条約を押し付け、戦争終了直後、1905年11月に保護条約を強要したのである。このことに直接触れなくても、この面について述べる記述が必要である。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<99>p224
(津田)梅子は,1889(明治22)年,再び渡米し,アメリカの名門女子大に学んだ。そこで,梅子は日本で自分の理想とする女子教育にたずさわることを決意する。3年後帰国した梅子は準備に努め,1900(明治33)年,少人数の生徒への個人指導をとおして専門教育を行う私塾を開設した。
 女子への専門教育は,当時にあって画期的な試みであった。新しい試みには慎重な配慮が必要なことを忘れなかった梅子は,自分の女子教育が世間からつまらない誤解や反対をされないように,生徒たちの日常の行儀作法や言葉づかいなどにも注意し,一見保守的な雰囲気の中で,おたがいの個性を尊重しあう気風を育むことに努めた。それはかつて幼い梅子が託された任務の実現でもあった。梅子の私塾はのちに津田塾大学として発展した。


<コメント> 全体としてこの教科書は、女性についての記述の少なさがきわだっているが、そうした基調は「人物コラム」にもみてとれる。取りあげられたのが20人中の2人という点はさて措くとしても、津田梅子の場合、女性を自立させるために力を入れた職業教育はまったく無視され、「行儀作法や言葉づかいなどにも注意し」という点が強調された。与謝野晶子については、「君死にたまふことなかれ」は「家の存続」を願う歌とされ、また「大家族の主婦として、妻や母としてのつとめを果たし続けた」点が力説された。これに、日本武尊の身がわりになって夫の任務を援けた弟橘媛を加えると、男性に求められる国家への献身と対比的に、女性の役割を夫や家族への献身という分野に閉じこめようとしていることが、明白となる。(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<100>p235
 さて,日露戦争のさい,晶子は旅順攻略戦に加わっていた弟のことを思い,「あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ」という節で始まる有名な詩を発表した。この詩は当時,愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし,晶子にとってそうした非難は心外であった。
 というのも,晶子は戦争そのものに反対したというより,弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから,その身を案じていたのだった。

<コメント1> 「君死にたまふことなかれ」の説明としては極めて一面的である。当時晶子は、この歌が危険思想であると批判されたことに対して、「当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や畏れおほき教育勅語を引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申す者に候はずや」(「ひらきぶみ」『明星』1904.11)と述べている。単に弟の身を案じて詠んだということにとどまらず、当時の軍国主義的な社会風潮に対する批判が込められていたと見るべきである。
 ※他社本には類した記述はない。―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)

<コメント2> 執筆者によれば戦争なるものは、「戦争そのもの」と、特定の戦争と、二種類に分けられると言う。冗談ではない。それなら孫子やクラウゼウィッツは、「戦争そのもの」を論じているのか実戦を研究しているのか。そんな分類はヘリクツである。晶子は「戦争そのもの」をうたったのであって、日露戦争への反戦をうたったのではないなどと、よくもまあナンセンスの弁護論をひねり出したものだ。どんな偏屈であっても、こんな言い包(くる)めには賛成しないであろう。むかし務台理作という哲学の教授がいて、その講義がまことに難解だったから、洒落っ気のある学生が、ムリムタイニリクツヲツクル、と迷句を考えだして級友に喜ばれたと伝えられる。この教科書の執筆者もまたムリムタイの一派である。理論は出発点から間違っている。晶子のこの詩を素直に読みなさい。疑う余地なく日露戦争に対する反戦の詩である。反戦ではなくて実家の心配であるなどとは無理なこじつけだ。実家の跡取りが心配であるから戦争を止めろ、と言っているに過ぎない。戦争はしても宜しいけれど弟だけ無事に帰らせてくれなどと言っているのではない。疑問の余地なく反戦詩である。それで宜しいではないか。それとも「新しい歴史教科書をつくる会」では、これが反戦詩であると都合の悪いことでもあるのか。―(g)『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社、谷沢永一)


<101>p235
それれだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。実際,晶子は,大正期の平塚らいてうらの婦人運動を当初支持したが,晶子の人生観や思想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった。晶子自身は歌人として活動を続けながら,大家族の主婦として,妻や母としてのつとめを果たし続けた。

<コメント> こうした与謝野晶子評価はきわめて一面的で、歴史上の人物を多面的に理解することを妨げる記述である。明治末〜大正初期の晶子は、「女子の独立自営」(1911)、「母性偏重を排す」(1916)などの文章を発表しており、その思想は女性の個人としての独立に重きを置いたものであったことは明らかである。「(女性が)学者、官吏、芸術家、教育者、諸種の労働者としても天分を発揮し得る事を示すに到りますのはかえって女子の進歩であって…人類の幸福は単に母として妻としてのみの時よりも非常に倍加するでしょう」(「女子の独立自営」)と母・妻としてのみの生き方以上に社会的活動を重視しており、また「私は母性ばかりで生きていない」(「母性偏重を排す」)とも断言しているのである。
 ※他社本には類した記述はない。―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)


<102>p238
 日本の勝利に勇気づけられたアジアの国には,ナショナリズム(自国を愛し,国益を主張する思想や立場)がおこった。それは,トルコやインドのような遠い国では,単純に日本への尊敬や共感と結びついたが,中国や韓国のような近い国では,自国に勢力を拡大してくる日本への抵抗という形であらわれた。

<コメント> これは検定意見で修正されたテキストであるが、基本的な事実誤認をふくみ、不適切である。中国のナショナリスムは日露戦争における日本の勝利に元気づけられた面があるかも知れないが、韓国のナショナリズムは日露戦争における日本の勝利に勇気づけられておこったのではなく、日本による韓国の従属化に反発して生まれたものである。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<103>p240(キャプション)
伊藤博文は1906年に初代韓国統監となったが,1909年ハルビンで暗殺された。

<コメント> 任命は1905年12月21日であり、1906年は誤りである。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<104>p240
 韓国併合 日露戦争後,日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は,韓国の併合が,日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス,アメリカ,ロシアの3国は,朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので,これに異議を唱えなかった。こうして1910(明治43)年,日本は韓国内の反対を,武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。


<コメント1>  イギリスとアメリカが日本の韓国併合に異議を唱えなかった理由は241(239)頁にのべられているように、いずれも自分のフィリピン支配、インド支配を日本に承認させたからである。ロシアは韓国皇帝から独立支持を要請されていたが、ポーツマス条約で、日本の韓国支配を認めざるを得なかったので、その後は日本の動きに異議をとなえなかったのである。日露戦争以後、三国が朝鮮半島に勢力を拡大することを互いに警戒しあい、日本の併合に異議をとなえなかったというのは、誤りである。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)

<コメント2> 韓国併合の過程で侵略行為と強制を隠蔽し、国際的に認められた合法的なものとして記述(c) (韓国) 日本歴史教科書歪曲対策班「日本の歴史教科書韓国関連内容修正要求資料 (’01/5/8)


<105>p241
1911年,中国に辛亥革命がおこった。翌年1月,南京に革命派の代表が集まって孫文を臨時大総統に選び,中華民国の成立を宣言した。


<コメント> 孫文を臨時大総統に選んだのは、いわゆる立憲派などを含む各地の代表であって、「革命派の代表」だけが集まって選んだわけではない。
 ※他社本は革命派という語は用いていない。―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)


<106>p256
1923(大正12)年9月1日には,関東地方で大地震がおこり,東京・横浜などで大きな火災が発生して,約70万戸が被害を受け,死者・行方不明者は10万を超えた(関東大震災)。この混乱の中で,朝鮮人や社会主義者の間に不穏なくわだてがあるとの噂が広まり,住民の自警団などが社会主義者や朝鮮人・
中国人を殺害するという事件がおきた。

<コメント> これは検定後に追加された記述だが、住民だけの責任であるかのような説明は誤っている。社会主義者を殺害したのは、警察や憲兵であり、住民ではない。中国人も同じである。朝鮮人の殺害は住民の自警団によってなされたが、軍隊、警察もこれに関与した。朝鮮人は約6000人が虐殺されたと言われており、すくなくとも「多数の朝鮮人」と表現すべきであろう。一般に、この著者は外国人に日本人が殺された場合はその人数を明示しているのに、日本人が殺した場合は、具体的な人数を書かないようにしているのは、いさぎよくない。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)
   

<107・108・109・110>p258〜259
白船事件1908年3月,16隻の戦艦で構成されたアメリカの大西洋艦隊が,目的地のサンフランシスコ寄港をへて突如,世界一周を口実にして,太平洋を西へ向かって進んできた。日本には7隻の戦艦しかない。パリの新聞は日米戦争必至と書き,日本の外債は暴落した。
 日本政府はあわてた。アメリカの砲艦外交風の威嚇の意図は明らかだった。船団は白いペンキで塗られていたので,半世紀前の黒船来航と区別し,白船来航とよばれる。日本政府は国を挙げて艦隊を歓迎する作戦に出た。新聞はアメリカを讃える歌をのせ,Welcome!と書いた英文の社告をのせた。横浜入港の日,日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し,アメリカ海軍将校たちは歓迎パーティーぜめに合った。彼らを乗せた列車が駅に着くと,1000名の小学生が「星条旗よ永遠なれ」を歌った。
 日本人のみせたこの応対は,心の底からアメリカをおそれていたことを物語っている。


<コメント> この部分の記述は、以下の点で史実と異なっている。
@この艦隊は「グレート・ホワイト・フリート」と呼ばれ、当時の日本ではしばしば「(大)白色艦隊」と直訳されていた。今日では通例「ホワイト・フリート」の来航もしくは世界一周と呼ばれ、「白船事件」という呼称は本書の創作と思われる。
Aホワイト・フリートがチェサピーク湾口(アメリカ東海岸)を出航したのは、1907年12月16日。南米諸国を歴訪し、サンフランシスコに入港したのは1908年5月6日のことである。したがって、1908年3月の段階で、ホワイト・フリートが「太平洋を西へ向かって」いたとの記述は誤りである。
B「1908年3月」は、日本政府がホワイト・フリートを公式に招待した時期(3月18日)から採用したと思われる。ホワイト・フリートの横浜寄港(1908年10月18日)は、この日本政府の招待を受けたものである。『小村外交史』(外務省編)の記述に基づいた誤りと思われる。
Cホワイト・フリートの世界周航は、当時としては空前の壮挙であり・横浜を含め、世界各地で熱烈な歓迎を受けた。この歓迎が「作戦」であり、当時の日本人が「心の底からアメリカをおそれていた」とみるのは、筆者の主観的な判断であるとともに、事実の著しい歪曲である。
 ※他社本には類した記述はない。―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)


<111>p259
 ワシントン会議 1921年には,海軍軍縮問題と中国問題などを討議するためワシントン会議が開かれ,日本,イギリス,フランス,イタリア,中国,オランダ,ポルトガル,ベルギー,そしてアメリカの9か国が集まった。この会議で,米英日の主力艦の保有率は,5・5・3と決められた。また,中国の領土保全,門戸開放が九か国条約として成文化された。青島の中国返還も決まり,同時に,20年間続いた日英同盟が廃葉された。
 主力艦の相互削減は,アメリカやイギリスのように,広大な支配地域をもたない日本にとっては,むしろ有利であったともいえる。しかし,日英同盟の廃棄はイギリスも望まず,アメリカの強い意思によるもので,日本の未来に暗い影を投げかけた。


<コメント> たしかにイギリスは大戦直後には中国、太平洋における日本の野心を抑制するため、同盟の継続を望んだが、自治領、中国の反対などから、日英同盟にアメリカを加え、三国同盟にする案を出すにいたった。したがって、イギリスも同盟解消の立場になっていたのでここの記述は誤りである。アメリカは他の諸国を加えた多国間同盟に発展させることを望み、その結果、やがてフランスを加えて4国同盟に発展したのである。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<112>p262
第一次世界大戦のあと世界一の経済大国となつたアメリカで,1929年10月,株価が大暴落し恐慌がおこった。
アメリカは自国産業の保護のため,外国から輸入される商品に極端に高い関税をかけたので,1年半の間に貿易は半減し,世界恐慌に発展した。

<コメント> 「極端に高い関税」というのは、1000種類近い商品に平均40%の高関税をかけた、1930年6月のスムート=ホーリー関税を指すのだろうが、これが原因で「世界恐慌に発展した」とはあまりにも乱暴な単純化である。米国内での過剰生産と消費の縮小やフーバー政権の「手遅れの恐慌対策」、対外的にはアメリカ資本(短期の貸付資金)の欧州からの引き上げなどに触れずして、世界恐慌への発展は解けないのであって、このような単純化は許されない。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<113>p263
中国の排日運動 清朝滅亡後の中国では,各地に私兵をかかえた軍閥(軍事力を背景にした政治的勢力)が群雄割拠していた。中国国民党の指導者蒋介石は,各地の軍閥と戦い国内統一を目指した。1928年,蒋介石は北京をおさえて新政府を樹立したので,その勢力は満州にもおよぶようになった。
 中国の国内統一が進行する中で,不平等条約によって中国に権益をもつ外国勢カを排撃する動きが高まった。それは中国のナショナリズムのあらわれであったが,暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受けていたので 過激な性格を帯びるようになった。勢力を拡大してくる日本に対しても,日本商品をボイコットし,日本人を襲撃する排日運動が活発になった。


<コメント> (一)この紀述は20年代に日本軍国主義の中国拡張に対する中国人民の反対を「排日運動と称し、その原因を「暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響」にし、中国に対する日本の侵蝕と拡張が中国人民の反抗の主因である歴史的事実を隠ぺいした.
(二)「過激という言葉で日本の拡張に対する中国民衆の正義な戦いを表現し、日本軍国主義が中国の東北地域で起こした様々な卑劣行為を正当化しようとした。―(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16)


<114>p266〜267
満州事変は,日本政府の方針とは無関係に日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが,関東軍はこれを無視して戦線を拡大し,全満州を占領した。これは国家の秩序を破壊する行動だった。


<コメント> 関東軍の東北侵略を、日本政府と軍部中央が次々に追認した事実に触れず、日本政府の方針と「無関係」であるとか、政府と軍部中央は「不拡大方針を取った」というのは正確さを欠く。
 ※日書「日本政府は、当初は不拡大方針をとっていたが、しだに軍部に同調し」、清水「日本政府は、はじめは戦争の拡大をさけようとしたが、関東軍の行動をおさえることできず、のちに事変を認めていった」。東書・日文・帝国・大書は日本政府の態度にはふれない。―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)


<115>p267
1932年,満州国の承認に消極的だった政友会の犬養毅首相は,海軍将校の一団によって暗殺された(五・−五事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ,その後は世論の支持のもと,軍人や役人を中心とした内閣が任命されるようになった


<コメント> 不適切な表現である。政党内閣が終わったことが世論の支持をうけたかのような印象を与える。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<116>p267〜268
 アメリカをはじめ各国は,満州事変をおこした日本を非難した。国際連盟は満州にイギリスのリットンを団長とするリットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告書は,満州における不法行為によって日本の安全がおびやかされていたことは認め,満州における日本の権益を承認した。一方で,報告書は,満州事変における日本軍の行動を自衛行為とは認めず,日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。


<コメント>「リットン調査団の報告書は、満州における不法行為によって日本の安全がおびやかされていることは認め、満州における日本の権益を承認した」(268ページ)とする。
 リットン報告書とは、「疑いもなく中国の領土であった広大な地域が、日本軍隊によって暴力をもって押収かつ占領された」(外務省編刊『日本外交文書 満州事変[別巻]』)と結論づけたものであり、したがっで日本軍の行動を「合法なる自衛の措置と認めることを得ず」としたのであった。「つくる会歴史教科書」は、この部分にも触れているが、付属的な記述へとわい曲している。―(j)『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)


<117>p268(キャプション)
国際連盟総会 立っているのが松岡洋右主席全権。満州国否認決議に抗議して,このあと,総会から退場する。

<コメント> このとき、採択されたのは、リットン報告にもとづく対日勧告案であり、満州国否認決議というのは不正確である。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<118>p268
満州事変は,日中間の対立を深めたが,その後,停戦協定が結ばれ,両国の関係はやや改善された。満州国は,五族協和,王道楽土建設をスローガンに,日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ,中国人などの著しい人口の流入があった。


<コメント> (一) 1932年7月、関東軍本部が制定した「満州経済編制根本方策案」に、「満州の重要事業が国策上重要な意義を有し、日本国の経営を理想とす」と明記した。この背景の下で、「満鉄」と「満業」など一連の日本資本の企業が中国東北の経済命脈を完全に掌握し、直接に日本の中国拡張と侵略戦争に貢献することになった。いわゆる東北地域の経済成長は、実際には、日本の対中侵略の戦争経済の成長である。
 (二) 日本は中国の東北で大規模な略奪を行なった。統計によると、1931年から1944年まで、中国東北から2万2800万トンの石炭、1200万トンの粗鉄と大量の良質な木材が日本に運ばれ、石炭と粗鉄は当時中国東北の生産量の30%と40%を占めた。このほか、大量の戦略物資が日本軍の中国内陸部に対する侵略と太平洋戦争に直接使用された。
 (三) 日本は偽「満州国」政権と結託し、東北地域に大量に移民した。統計によると、1932年から1936年7月まで、日本は五回にわたり、東北に移民し、71.7万人の日本人、87.7万人の朝鮮人を入植し、その後も断続的に30万人を入植した。日本軍が上記の移民のために強奪した農地は当時東北の耕地全体の十分の一以上を占め、大量の中国農民を苦境に追い込んだ。いわゆる中国人が著しく東北に流入したということは、実は日本軍が強制連行や、詐欺などの手段で中国の華北地域から1200万人の中国人を東北に入れて労働力にした結果である。
 (四)日本軍は公然と国際法に違反し、東北で細菌戦の研究実験基地を作り、「731」部隊は大量の人間を人体試験に使い、無数の中国人を残酷に殺害した。日本軍は大量の化学兵器を東北に埋蔵遺棄し、今でも現地の生態環境と人民の生命と財産の安全を脅かしている。
 この教科書が以上の事実を隠蔽し、日本支配下の東北地域のいわゆる「繁栄」を極力喧伝することは、歴史的事実に対する重大な歪曲である。―(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16)


<119>p268
世界恐慌後,イギリスやフランスは,本国と植民地間の関税をさげて物資を流通させる一方,他国の商品には高い関税をかけて,これを排除するブロック経済を採用した。このため,日本の安価な工業製品は,世界各地でしめ出されていった。


<コメント> 「世界恐慌後」とは、いったい何年のことを指しているのかわからない。ただ「ブロック経済を採用した」とあるから、1932年7月、イギリスがカナダのオタワで開いた英帝国経済会議を指すのであろう。このとき世界はまだ恐慌の真っ只中にあったから、世界恐慌後というのは明らかに間違いである。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<120>p270
1937(昭和12)年7月7日夜,北京郊外の盧溝橋で,演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には,中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが,やがて日本側も大規模な派兵を命じ,国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。


<コメント> 1931年、日本は「9.18事変」を通じて中国の東北を占領した。1982年、「1.28事変」で、日本軍は上海を侵攻し、駐留した。1982年3月、日本は偽満州国傀儡政権を作り、東北を中国から分裂させようと図った。1985年、日本軍は南侵し、北平天津を脅かし、「華北五省自治」を画策した。日本が30年代から計画的に中国に対し全面的な軍事進攻を準備し始めたことは大量の歴史的事実によって明らかにされている。この教科書が「全面戦争開始のきっかけ」を二つの偶発的な事件に描いた意図は日本が計画的に中国全面侵略戦争を発動した事実を隠ぺいすることにある。―(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16)


<121>p275
 7月,日本の陸海軍は南部仏印(ベトナム)進駐を断行し,サィゴンに入城した。サイゴンは,アメリカ領のフィリピン,英領シンガポール,蘭領インドネシアのすべてを攻撃できる,軍事上の重要地点だった。危機感をつのらせたアメリカは,7月,在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で対抗した。米英両国は大西洋上で会談を開き,両国の戦争目的をうたった大西洋憲章を発表して結束を固めるとともに,対日戦を2,3か月引き伸(ママ)ばすことを決めた。


<コメント> 大西洋憲章とは、米英両国が提携し、ナチス・ドイツに対抗する意志と、「戦後」世界に関する理念を明確に表明したものである。対日戦の引き延ばしも、ナチス打倒に専念することが目的であった。日本軍の仏印進駐を契機に大西洋憲章が作られたかのような印象を与える不適切な表現である。なお、他でも大西洋憲章は登場するが(281ページ、286ページ)、憲章の理念には触れられていない。
※他社本には大西洋憲章に関する記述はない。米英の日本への対決姿勢を強調するためにあえて取り上げたものであろう。―(a) 歴史学研究会編「まちがいだらけの『新しい歴史教科書』」(’01/7/9)


<122・123・124・125・126・127>p276
大東亜戦争(太平洋戦争)
初期の勝利 1941(昭和16)年12月8日午前7時,人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを臨時ニュースで知った。
 日本の海軍機動部隊が,ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し,飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。このことが報道されると,日本国民の気分は一気に高まり,長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降,カをつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである
 同じ日に,日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し,イギリス軍との戦いを開始した。自転車に乗った銀輪部隊を先頭に,日本軍は,ジャングルとゴム林の間をぬって英軍を撃退しながら,シンガポールを目指し快進撃を行った。55日間でマレー半島約1000キロを縦断し,翌年2月には,わずか70日でシンガポールを陥落させ,ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。フィリピン・ジャワ(
現在のインドネシア)・ビルマ(現在のミャンマ)などでも,日本は米・蘭・英軍を破り,結局100日ほどで,大勝利のうちに緒戦を制した。

<コメント1> この日米開戦を叙述した「大東亜戦争」の項目をみていただければ、それが読者の戦闘気分をいかに高揚させるものかご理解いただけるものかと思う(真珠湾への攻撃には「奇襲」の語さえ欠けている)。戦中であればいざ知らず、現在の教科書に書くべき内容ではない。ここは漫画家・小林よしのり氏が書いた箇所といわれ(『週刊文春』)、彼が『戦争論』(幻冬社)で主張した「戦争の爽快感、戦争の充実感、戦争の感動」(同書210ページ)を子どもたちに直接訴える場となっている。これを読んで酔う子どもたちがもし出てくるならば、この教科書が、子どもたちをその内面からとらえることに成功したことを意味しよう。―(j) 『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)

<コメント2> さて、この「大東亜戦争」に関する記述はいろいろと問題が多い。真珠湾攻撃に関する記述のなかには「(アメリカの)檻は次々に沈没し、飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。……日本国民の気分は一気に高まり、長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降、カをつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである」(276頁・傍線は筆者、以下同)という表現があるが、これはかなりエモーショナルで、戦闘を賛美し、美化し、あるいは、その機会がきたことを喜びとしているかのような印象を与える。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)

<コメント3> 東南アジア攻撃に関する部分も、「快進撃」とか「ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩したした」(276頁)というエモーショナルな表現があり、勝ち誇った優越感が滲(にじ)み出ている。そこでは、こういった戦いを必ずしも歓迎していなかった東南アジアの民の存在はまったく忘れさられている。まさしくこのような表現の中に、この戦争はアジアのためというより、結局は帝国主義諸国間の領土の奪い合いとしての要素が強かったことが意図せずして示されている。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<128>p277 地図

<コメント> なお、地図「大東亜戦争(太平洋戦争)の展開図」(277頁)では沖縄戦の期間が「45.4〜6」となっているが、沖縄戦の開始は3月である。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<129>p277
 日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した(
戦後,アメリカ側がこの称を禁止したので太平洋戦争という用語が一般的になった)。日本の戦争目的は,自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し,そして,「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した

<コメント>
 日本政府が開戦にあたって出した詔書、勅語、政府声明において、日本の戦争目的が「アジアを欧米の支配から解放」することであるという表現はない。開戦の詔書では、「東亜の安定」のための積年の努力が水泡に帰し、「帝国の存立」もあやうくなったので、「自存自衛」のため、戦争を開始すると述べられている。同時に発表された政府声明には、「東亜の安定と帝国の存立」が危うくなったので、戦争を開始した、この戦争は「英米の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たんとする」ものだと説明している。この日、天皇が陸海軍にだした勅語には、「帝国ノ自存自衛卜東亜永遠ノ平和確立」のために戦争すると述べられている。これに対して、『読売新開』12月9日号に「日本戦争宣言」を発表した斉藤忠は、支那事変の完遂とは、「英米資本主義搾取の根を絶って、彼らが‥・鉄鎖より東亜を解放する」ことだと書いている。つまり「アジアの解放」は政府の宣言にはなく、民間の言論にあるということである。政府がアジア解放を宣言したという記述は誤りである。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<130・131>p278
 暗転する戦局 1942(昭和17)年6月,ミッドウェー海戦で,日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗北した。ここから米軍の反攻が始まった。8月,ガダルカナル島(ソロモン諸島)に米軍が上陸。死闘の末,翌年2月に日本軍は撤退した。アリューシャン列島のアッツ島では,わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず,弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け,玉砕していった。こうして,南太平洋からニューギニアをへて中部太平洋のマリアナ諸島の島々で,日本軍は降伏することなく,次々と玉砕していったのである。


<コメント1> また、日本軍が捕虜になることを禁じられていたことにふれずに、「日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していった」(278項)などとすることは、戦略・作戦の失敗を前線将兵の「勇戦敢闘」で覆い隠すものであり、戦時中の論理の無批判な繰り返しである。これは、戦争叙述の全体にいえることでもある。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)

<コメント2> さすがに検定意見がついた白表紙本のアッツ島の「玉砕」の描写は、「献身」する民衆像の自己陶酔の見本というべきだろう。見本本(供給本)では叙述のトーンはダウンしたが、民衆を「玉砕」にかりたてていった「生きて虜囚の辱めを受けず」という国家意思には一言の言及もないのである。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<132・133>p280
日本は1943(昭和18)年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。
 さらに,日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め,あわせてその結束を示すため,1943年11月,この地域の代表を東京に集めて大東亜会議を開催した。会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ,日本の戦争理念が明らかにされた


<コメント1> 形式的な「独立」政策を打ち出した目的がどこにあるかを、ビルマと「独立」条約を結ぶ直前に、東条英機は次のように述べていた。

ビルマ国は、子供というよりむしろ嬰児なり。一から十まで我がほうの指導の下にあり。それにもかかわらず(日本とビルマの)本条約が形式的対等となり居るは、ビルマ国を砲き込む手段なり。(田中伸尚『ドキュメント昭和天皇』)

 日本によるアジアの「独立」政策とは、すでに二〇世紀初頭から始まっていた植民地解放運動に押されたイギリス、アメリカやフランスなどが、自治や独立を約束し始めていた状況に対応するもので、英米仏より好条件をちらつかせて人々を引きつけるための手段(空手形)なのであった。したがって、東条は「独立」の内容についても、「大東亜圏内には外交なし」と強調していた(前出木坂論文)。たとえ「独立」させたとしても、外交権さえ持てないのである。つまり、ビルマやフィリピンの「独立」とは、国として自立した外交権をもたず、さらにその「国内」では日本軍が現地軍を支配下に置いて勝手に行動でき、現地の人々の労働力や食料、資源などを自由に徴発することができるものであった。
 こうして、日本の独立政策に期待していたビルマのアウン・サンなどは、むしろ「独立」させられる過程で、裏切られたことを知り、以後、彼は日本に対して反旗をひるがえし抗日へと変化、崩壊する日本軍を最後は追放する立場となった。フィリピンでも、日本による「独立」政府に協力した人々は、民族の裏切り者として、戦後50年余を過ぎて今もなお、名誉を失ったままである。
 実際のところ、もし日本の独立政策が本物であったなら、東南アジアを「独立」させる前に、まず台湾や朝鮮、満州国を解放したはずである。また、それを唱えた時期、中国で「三光作戦」(日本では燼滅掃蕩作戦)などという非道な戦争をやったりはしなかったであろう。「アジア解放戦争論」とは、人をだます言いぐさである。―(j)『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)

<コメント2> 1943年、「大東亜会議」の出席者は主に日本侵略軍に支えられたアジア各国の傀儡政権であり、アジアを代表することはできないし、「アジア各国の団結」を表すこともできない。この教科書の記述は読者に日本のアジア侵略はアジア各国人民の支持を得たかのように偽りの印象を与え、歴史的事実と合わない。―(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16)

<コメント3> 一九四一年八月に連合国側が発表した大西洋憲章では、建前にせよ「民族自決」原則の承認が掲げられていたのであり、民族解放は日本だけの専売特許でなかったのに、同書ではその点には全く触れずにいるのも公平を欠くものと言わざるをえない。
 その一方で、これまでの教科書がほとんど触れていなかった大東亜会議について一頁も割いており、この会議で採択された大東亜宣言を、「各国の自主独立、各国の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたう」(280頁)ものと位置づけ、高く評価している。実は、朝鮮、台湾の植民地はもちろんのこと、インドネシアやマレー、シンガポールなどの占領地も招かれなかったことを考えると、この会議が果たして、アジアの自主独立を本当に摸索するものであったかどうかは疑問である。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<134>p281
しかし,大東亜共栄圏のもとでは,日本語教育や神社参拝が強要されたので,現地の人の反発が強まった。また,戦局が悪化し,日本軍によって現地の人々が苛酷な労働に従事させられる場合もしばしばおきた。


<コメント> 日本の侵略者が「共栄共存」という隠れみのをもって、アジア各国で残酷な植民地支配を行い、各国人民の生命と財産に巨大な損害を与え、その暴行は教科書に触れた「日本語教育や神社参拝の強要」や「過酷な労働に従事させた」よりもはるかにひどいものであった。この教科書はこれをできるでけ回避し、軽々しく描き、薄めようとした。―(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16)


<135>p287
大使のジョセフ・グルーは,日本を壊滅から救うため,戦争終結の条件を示すことを考えた。7月,ベルリン郊外のポツダムに米英ソの3首脳が集まり,グルーの奔走で,日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を,米英中3国の名で発表することを決めた。


<コメント> 「グルーの奔走で」は誤り。グルーはポツダム宣言の作成に直接関係していない。ポツダム宣言の原案はスチムソン陸軍長官が作成したものである。またグルーはポツダム会議に出席していない。また、ここでポツダム宣言の内容を一切述べないのは不適切である。軍国主義勢力の駆逐とともに、日本の領土は北海道、本州、四国、九州、その他の諸小島にかぎられるとされたことに触れるべきである。つまり、これを受け入れることによって台湾と朝鮮に対する日本の植民地支配が終わったことが明示されるべきである。「大東亜戦争」によってアジア諸国の独立が進んだかのように主張するのであれば、日本の植民地の独立について明記しないのは、バランスを欠くというべきである。(b) 荒井信一他「新しい歴史教科書をつくる会が作成した扶桑社中学校歴史教科書 その誤りと問題点」(’01/4)


<136・137・138>p290
占領の開始 1945(昭和20)年8月末より,アメリカ軍を主体とする連合国軍の進駐が始まり,日本の占領が開始された。占領統治は,マッカーサー司令官が率いる連合軍総司令部(GHQ)の指令を日本政府が実行するという形で行われた。連合軍は,日本を世界の脅威にならない無力な国にすること,そして日本を民主化することを占領の目的とした。
 GHQは,9月から言論の検閲を開始した。ラジオ,新開,雑誌のすべてにわたってきびしい事前検閲がなされた。
 GHQは,10月,日本政府に対し,婦人参政権の付与,労働組合法の制定,教育制度の改革,圧制的法制度の撤廃,経済の民主化など五大改革指令を発した。このうち,婦人参政権と労働組合法の制定は,以前から日本側の用意もあってただちに実行された。

<コメント> @290頁5行目から6行目に「連合軍は、日本を世界の脅威にならない無力な国にすること、そして日本を民主化することを占領の目的とした」とある。しかし、アメリカ政府の「降伏後における米国の初期対日方針」(1945年9月22日公表、SWNCCI50/4A)や、同統合参謀本部の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する初期の基本的指令」(1945年11月3日伝達 JCSI380/15)、さらには極東委員会の「降伏後の対日本基本政策」(1947年7月11日発表)など、基本文書に記された占領「目的」には、「無力な国にする」などといった記載も内容も全くない。明白な誤りである。
A290頁9行目以降に「GHQは、10月、日本政府に対し、婦人参政権の付与、労働組合法の制定、教育制度の改革……など五大改革指令を発した」とある。しかしこの五大改革指令」の第二項にあるのは「労働組合の組織化促進」であって「労働組合法の制定」ではない。両者は同一の問題ではない。組織化促進の指示は、より広い範囲にわたる性格のものである。これも明白な誤りである。
B290頁11行目以降に「婦人参政権と労働組合法の制定は、以前から日本側の用意もあってただちに実行された」とあるが、1931年、浜口内閣時に衆議院(のみ)を通過したのは労働組合法案と、市町村議会での選挙権・被選挙権のみの「婦人公民権」法案であった。後者は、当時国政参加を意味した「婦人参政権」ではない。これも明白な誤りである。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社)


<139>p295
この東京裁判では,日本軍が1937(昭和12)年,日中戦争で南京を占領したとき,多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお,この事件の実態については資料の上で疑問点も出され,さまざまな見解があり,今日でも論争が続いている。


<コメント1> 「つくる会歴史教科書」に対する検定が、中国に対しても、ある程度の配慮をもって行なわれた形跡は見える。たとえば、白表紙本になかった1937年の「南京事件」が、二次にわたる修正をへて、日中戦争に追加された。カッコに入れられた文章で、「このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者がでた。南京事件」(270ページ)という記述が、かろうじて登場したのである。また「南京事件」は、ふたたび極東国際軍事裁判の項に登場し、「東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)」ともしている(295ページ、東京裁判における同事件に関する記述は白表紙本にもとからあったもので、そこには「20万人以上」の殺害を認定した、という記述があったのだが、右のように修正では削除された。また白表紙本にあった、「戦争だから何がしかの殺害があったとしても、ホロコーストのような種類のものではない」という記述もなくなった)。
 ところが、右の直後に、「なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」と、批判の余地があるものとして記述している。現場の教師は、この記述を使って、逆に「南京大虐殺まぼろし論」を展開することが可能となつた。―(j) 『「つくる会」教科書はこう読む!』(明石書店)

<コメント2> 前記の記述は残酷極める「南京大虐殺」を軽々しく描き、日本軍が南京城を占領した後、中国の平民と武器を放した捕虜に対して計画的に、6週間にわたる大規模な虐殺を実施した歴史的事実を隠ぺいした。
 この教科書が「この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」と強調する意図は、ごく少数の異議を普遍的な論争であるかのように騒ぎ立て、読者が「南京大虐殺」の真実性と極東国際軍事法廷がこの歴史事実について下したに結論に疑問を持たせようとすることにある。―(d) (中国側が日本側に要求した)「日本の教科書問題に関する覚え書き」(’01/5/16)


<140>p299
 1954(昭和29)年,防衛力強化の約束により警察予備隊は自衛隊に再編された

<コメント>「警察予備隊は自衛隊に再編された」とあるが、“保安隊を経て”が欠落。―(i) 『季刊・戦争責任研究』第36号(日本の戦争責任資料センター刊、高嶋伸欣論文)


<141>p306
昭和天皇(1901〜1989,第124代)

<10>(第1部)の<コメント1〜3>を参照


<142>p306〜307
[昭和天皇とその時代] 昭和天皇が即位された時期は,日本が大きな危機を迎えようとしていた。天皇は各国との友好と親善を願っていたが,時代はそれと異なる方向に進んでいった。しかし,天皇は立憲君主として,政府や軍の指導者が決定したことに介入すべきではないとの考えから,意に反して,それらを認められる場合もあった。
 ただ,天皇がご自身の考えを強く表明し,事態をおさめたことが2度あった。一つは,1936(昭和11)年の二・二大事件のときであった。事件で政府や軍は混乱状態におちいった。そうした中,天皇は反乱を断固として鎮庄すべきであると主張し,事件は急速に解決に向かった。もう一つは,1945(昭和20)年8月,終戦のときであった。


<コメント> 明治憲法体制は、実際には天皇の親政的権力行使を不可欠とする体制であったから、昭和天皇の「聖断」=親政的権力行使も二度だけではなかった。それはたとえば1929年、張作霖爆殺事件の処理で田中義一首相に不信任の意思を示し、辞職させた事件ひとつでも明らかである。ところがこの教科書では、そもそも田中義一内閣自体が記述されていない。もちろん中学の教科書であるから、どこまで詳しく史実をとりあげるかは、検討されるべき問題である。しかしこうした事実の存在や、また1033年の熱河作戦の一時差し止め、1938年の張鼓峰事件での現地軍の進撃停止措置など、統帥においては、昭和天皇の指示・発言が直接的な影響を与えていたことが、すでに研究で明らかにされているのに、なぜこの教科書では、二度の「聖断」だけを「聖断」として強調するのだろうか。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社


<143>p307
昭和天皇の人間性に感動したマッカーサーは,天皇との初めての会見について次のように述べている。
 「私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう,自分の立場を訴えはじめるのではないか,という不安を感じた。しかし,この不安は根拠のないものだった。『私は,国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任をおう者として,私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』。私は大きい感動にゆすぶられた。死をもともなうほどの責任,明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする,この勇気に満ちた態度は,私の骨の髄までもゆり動かした」(『マッカーサー回想記』より抜粋)

<コメント> 昭和天皇の、国民に対する「君主としての責任」の意識をしめすものとしてこの教科書は、『マッカーサ一回想記』に記述された天皇の発言なるもの、「私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任をおう者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」を記載している。そもそも『マッカーサー回想記』については、それが翻訳紹介された1964年に『文藝春秋』が、アメリカ陸軍の公式戦闘記録と対比して、多くの誇張・思い違い・「まったく逆」の事実が存在することを指摘していた。この『回想記』の記述する史実の信用度は、低いものであることが、初めから指摘されていたのである。さらに天皇・マッカーサーの第一回会見の通訳であった奥村勝蔵の手記になる「『マッカーサー元帥』トノ御会見録」が紹介されて(児島襄『天皇と戦争責任』所収)、はたしてマッカーサーの言うような天皇の発言は存在したのかが、問題になってきた。この「御会見録」には、こうした天皇のことばが存在しないからである。―(e)『別冊歴史読本テーマ別検証・歴史教科書大論争』(新人物往来社

第 1 部(教科書 p3〜p166)<番号:1〜67> へもどる