日本のあり方を誤る歴史教科書に反対する声明


 現在、2002年から使用される教科書に対する文部省での検定が終わろうとしています。 検定申請中の中学校の歴史教科書には、従来7社の他に、このたびから扶桑社(産経新聞系列)から出た「新しい歴史教科書をつくる会」編集のものが加わっています。昨年4月に提出された検定申請本(白表紙本)に対して検定結果の修正要求が各社に伝えられたのは、昨年末のことであったと見られています。各社ではその要求に応じて修正と行った上、本年1月には再提出したのでしょう。検定審議会の最終的な決定は近日中に出ると報道があります。
 伝えられているところでは、従来の7社の検定申請本においても、近現代史部分において、「慰安婦」に関する記述が4社のものから姿を消し、「侵略」という言葉を消してしまうものがあるなど、記述をあいまいにする傾向がふたたび現れているようです。私たちはこのことを憂慮しており、検定結果をみた上で、来年度以降の歴史教科書の再検討を求めたいと考えます。
 しかし、私たちがいま重大視するのは、扶桑社版の「新しい」教科書に対する検定の結果です。この白表紙本には、百数十ヵ所の修正要求が出たと伝えられているものの、その修正をクリアすれば、教科書自体は検定合格になると見られています。
 「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹二、藤岡信勝、坂本多加雄氏らが執筆した扶桑社版の教科書は、世上に流布した白表紙本でみるかぎり、これまでの教科書とはまったく異なり、誤った歴史認識に立つもので、植民地支配と侵略を讃美し、太平洋戦争を賛美しています。
 そこには「韓国併合」について、次のように記述されています。「朝鮮半島は・・・軍事的には不安定だった」ので、英米露三国は「統治者としての新興国・日本の登場」を「好都合」とした。1910年の日本の韓国併合は「欧米列強からの支持され」、「日本の安全と満州の権益を防衛するのに必要であったが、経済的にも政治的にも・・・利益をもたらさなかった」。併合は「国際関係の原則にのっとり、合法的に行われた。しかし韓国の国内には、・・・賛否両論があり、反対派の一部からはげしい抵抗もおこった。」
 日本の行為は列強から支持され、合法的であったことが強調され、民族の意思に反して強制された植民地支配が損害と苦痛を朝鮮民族にあたえたことを完全に無視しています。
 中国での戦争については、次のように記述されています。南満州での「日本の権益は、条約に基づくもので」あったが、「1929年ごろから中国人による排日運動が・・・はげしくなった。」、「列軍妨害、日本人学童への暴行・・・など、条約違反の違法行為は300件を超えた。」こうして「日本の権益と日本人の生命がおびやかされ、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおよんできた」ため、関東軍は全満州を占領する計画を練り始めた。「満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。・・・ところが、政府の弱腰に不満をつのらせていた国民は関東軍の行動を熟烈に支持し」、「関東軍は満州国建国を宣言し」た。外国の中国通の中には、「日本の行動を・・・自衛行為と認める者もいた。リットン調査団の報告書も日本には同情的な部分があり、満州における日本の権益が正当なものであることを認めていた。」「満州国は、中国大陸において初めて近代的法治国家を目指した。五族協和、王道楽土建設をスローガンに、満州国は急速な経済成長を遂げた。」これは満州侵略の完全なる正当化、美化の論です。
 日中戦争については、次のように記述されています。盧溝橋事件は、条約に基づいて駐留していた「日本軍に向けての何者かが発砲する事件」がおこったことで、日本軍と中国国民党軍が戦争状態に入ったものである。「上海で二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり、これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。」戦争が泥沼化したのは、中国共産党が「政権をうばう戦略として、日本との戦争の長期化を方針にしていた」ためであるかのような書き方がされています。「日本も戦争目的を見失い、際限のない戦争にひきずり込まれていった。」日本が中国を侵略したのではなく、日本は戦争に巻き込まれて行った側であるかのように書かれています。
 さらに太平洋戦争については、「帝国、米英に宣戦を布告」との開戦翌日の新聞の一面を掲げた上で、次のように書いています。開戦によって、「日本国民の気分は一気に高まり」、「陰うつな気分が一変した」、「力をつけてきた日本とアメリカがついに対決することになった。」緒戦の日本軍の作戦については、「銀輪部隊を先頭に」、「英軍を撃退しながら」、「快進撃」を行い、「わずか70日でシンガポールを陥落させ」、「イギリスの東南アジア支配を崩した」、「フィリピン・ジャワ・ビルマなどでも」「大勝利のうちに緒戦を制した」と述べ、緒戦の日本軍の勝利が東南アジア、インド、アフリカの人々にも「独立への夢と勇気を育んだ」と肯定しています。つづいて、日本政府が「大東亜戦争」の目的を「自存自衛とアジアを欧米支配から解放し、『大東亜共栄圏』を建設することであると宣言した」と書かれていますが、文章の流れからすれば、これが執筆者の結論でもあることは明らかです。
 戦争末期の戦局については、小数の負傷した兵士が「ボロボロの服で足をひきずりながら、日本刀をもってゆっくりと米軍に、にじり寄るようにして玉砕していった」と死んでいった兵士たちの苦しみを美化し、ついで「神風特別攻撃隊」をも讃美して、本土空襲の仇をうってやるから、敵艦轟沈とうたって、喜ばせてほしいというような特攻隊員の手紙を引用しています。沖縄では少年少女までが勇敢に戦って10万島民が死んだと書いてあります。結論として、「戦争は悲劇である」、「どちらかが正義でどちらかが不正という話ではない」、「国益のぶつかりあいの果てに」、「最終手段として行うのが戦争である。アメリカ軍と戦わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである」と述べ、死者の気持ちを恣意的に解釈し、あの戦争を肯定しているのです。
 当然ながら、筆者たちは、極東裁判については、「国際法上の正当性がないという説も有力である」として、その不当性を力説し、その上で、この裁判が日本軍による南京での20万人虐殺を認定したことに疑問をのべ、「戦争中だから、なにがしかの殺害があったとしても、ホロコーストのような種類のものではない」と結論しています。
 以上の記述からわかるように、日本の戦争がアジアの諸国民に損害と苦痛を与えたことに対する反省も謝罪もこの教科書にはまったくないのです。すべては過去の美化、肯定、正当化のみです。このように過去の事実を隠蔽し、全面的に美化した歴史像をもって次代の国民を教育するならば、彼らがアジアで、世界で諸国民と平和的に、人間的に理解と協力の中で生きていく可能性をうばうことになります。つまり、次代の日本の国民から未来をうばうことになるのです。
 この白表紙本は、検定の基準としての「近隣条項」、すなわち、「近隣のアジア諸国との間の近現代史の歴史事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」に、完全に反しています。また検定制度のもとで、このような作品を教科書として、合格させるならば、それは日本政府がこの立場を基本的には承認し、肯定することになるのです。日本政府は、1995年8月15日に閣議決定にもとづき、総理談話を発表しました。そこでは、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」た、このことに対して「痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明」すると述べられています。この村山総理の談話は、その後の橋本、小渕、森と三代の自民党内閣において、はっきりと継承された不動の方針です。この方針からすれば、扶桑社の検定申請本のような歴史記述は認められません。
 文部省の検定機構が出した修正要求は上にみたような記述を削除するようにもとめているのでしょうか。そして、扶桑社本の筆者たちは、その要求を受け入れて、教科書を書き直したのでしょうか。わたしたちの見るところ、問題の記述はこの教科書の筆者たちの基本的な主張から発しているものであって、筆者たちがおこなうかぎり、表現を少々和らげる程度の修正しか可能ではないと思われます。
 もしも部分的な、表面的な修正だけでこのような教科書が検定を通過し、教科書として通用することになれば、1995年以来内外に表明してきた日本政府の基本方針に大きな傷を負わせることになるでしょう。そして最近の新聞報道などが伝えるように、アジア諸国、とくに中国、韓国とのわが国の関係を極度に緊張させ悪化させることになるでしょう。韓国とは近年国民的な友好が進み、来年のワールドカップ共同開催に向かっているとき、時計を逆転させるような動きは深刻な結果をまねきかねません。
 わたしたちはこれまでわが国と隣国との良き関係のために努力してきた者です。その観点から、検定の結果を緊張して見守ってきました。扶桑社版教科書白表紙本の記述は内外に特別な不安をよびおこしています。ここに事態を深く憂慮し、訴えます。検定調査審議会は、白表紙本に対する修正要求が十分なものであったか、提出された修正が形式だけのものになっていないか、今一度検討してほしいと思います。もしも検定調査審議会が簡単に検定合格の結論を出すとしたら、1986年の『新編日本史』の場合になされたように、内閣総理大臣、官房長官、外務大臣、文部大臣がその修正テキストを検討して、「近隣条項」と1995年8月15日総理談話にてらして本当に問題はないのか、点検してほしいと思います。もしも侵略と植民地支配を美化するような記述がなおのこっているのなら、政府の責任であくまでも再修正が要求されるべきです。

2001年2月27日

署名者   荒井 信一(日本の戦争責任資料センター代表、駿河台大学教授)
板垣 雄三(東京経済大学教授)
  板坂  元(創価大学教授)
海野 福寿(明治大学教授)
加藤  節(成蹊大学教授)
小島 晋治(東京大学名誉教授)
小中陽太郎(アジア協会協議会前議長・中部大学教授)
近藤 邦康(東京大学名誉教授)
鈴木 伶子(日本キリスト教協議会議長)
隅谷三喜男(日朝国交促進国民協会副会長、東京大学名誉教授)
岩崎 宗司(津田塾大学教授)
野村 浩一(立教大学名誉教授)
藤田 省三(政治学者)
三木 睦子
水野 直樹(京都大学教授)
溝口 雄三(日中知の共同体日本側座長、大東文化大学教授)
宮田 節子(元朝鮮史研究会会長)
和田 春樹(東京大学名誉教授)