「新しい歴史教科書」に見られる初歩的な誤り



 以下は、各分野の専門的研究者から寄せられたコメントのうちの一部を書き出したものです。一面的な評価、生徒の理解の妨げとなる不親切な記述、前後矛盾する記述、稚拙な表現などは、このほかに多々ありますが省略します。
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33 邪馬台国と卑弥呼 「魏志倭人伝を書いた歴史家は、日本列島にきていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを、歴史家が記していると想像されているにすぎない。」 史書の編者が、史書に書かれているすべての事柄を自ら経験しているのではないことは常識であり、それを理由に魏志倭人伝の価値を貶めるのは正しくない。なお、この記述の文末の「想像されているにすぎない」は日本語として成り立たない。
38 朝貢 「大和朝廷の軍勢は、百済・新羅を助けて、高句麗とはげしく戦った。」 新羅と高句麗が連合して倭と戦ったこともある。すなわち、広開土王碑には、倭が新羅・百済を破ったこと(391年)、倭が新羅に侵入し、新羅が高句麗に救援を求めたこと(399年)なども記されているのである。4世紀末から5世紀初の倭が、百済・新羅を一貫して援助し、高句麗と対立していたように叙述するのは誤り。あるいは高句麗を北朝鮮に類比したうえで、高句麗のみが日本に敵対していた、という図式を無理に描こうとしたことによる記述かと推察される。
  「高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落とし、半島南部を席捲した。しかし、百済と任那を地盤とした日本軍の抵抗にあって、征服は果たせなかった。」 高句麗との戦いの中心が日本であるかのような記述はおかしい。百済と任那に恒常的な日本の政治的基地が築かれていたかのような表現も誤り。4〜5世紀の段階で「日本軍」という用語を使うのも不適当。
39 技術の伝来と氏姓制度 「これらの人々は、帰化人(渡来人)とよばれる。」 これよりあとの記述では、「帰化人」のみを使用しているが、近年の歴史学界では「帰化人」の語は使用しない。「帰化」の語には確立した国家体制が前提とされており、5〜6世紀の歴史記述において用いるのははなはだ不適切であること、また自国中心的で他地域からの移住者を貶める語義をもっているからである。
コラム 中華秩序と朝貢 「日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較し、独立した立場を貫いた。」 日本は室町期にも朝貢を行っているので、古代に限定するのは誤り。また、中国との地理的関係を考慮せずに日本と朝鮮やベトナムを比較して、日本の独立した立場を強調しても意味がないばかりか、不必要に朝鮮やベトナムを貶めることになる。
  「任那は、新羅からは攻略され、百済からは領土の一部の割譲を求められた。………562年、任那はほろんで新羅領となった。」 任那という一つの国家があったかのような記述は、否定された学説に基づいた重大な誤り。かつて「任那」と考えられていた地域が群小の国家からなる地域であったことは、すでに歴史学界、考古学界の共通認識となっている。
40 大和朝廷の自信 「6世紀になると……あれほど武威をほこっていた高句麗が衰退し始め、」 6世紀中葉、高句麗では安蔵王の殺害(531年)や安原王から陽原王への王位継承(545年)などの内紛があったが、598年以降の隋の侵攻を撃退しており、高句麗が衰退していたと簡単にいうことはできない。
44〜5 聖徳太子の外交 「太子は、607年、小野妹子を代表とする遣隋使を派遣した。しかし、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような道はさけたかった。」 聖徳太子が日本の文化のあり方についてどのように考えていたかを知りうる史料は存在しない。執筆者の希望を述べたにすぎない。
49 宮中クーデター 「豪族の頭目である蘇我氏を宮中から排除する計画を、まず最初に心に秘めていたのは、中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)であった。」 文中にある中臣鎌足をはじめ、蘇我氏以外にも豪族はおり、彼らの頭目に蘇我氏がなったことはない。蘇我氏は大和朝廷で「大臣」という職につくことによって、政治に参画していたのである。
52 亡命百済人 「(天智)天皇は……近江令を編んだ。」 現在の学界では、近江令というまとまった編目をもった法典は存在しなかったという学説が有力である。
54 大宝律令と年号 「わが国では、日本という国号が定まったこの時期以来、年号が連続して使用されるようになった。一方、新羅は唐の年号の使用を強制され、これを受け入れた。」 新羅は外交政策として、唐との外交文書に唐の年号を使用すること受け入れたのである。
55 「718(養老2)年には、藤原不比等によって、……養老律令が編まれた。」 養老令の編纂時期については養老2年説、養老年中説あるので、記述のように断定するのは不適切。
56 図版 東大寺の大仏の説明 「いくたびも戦乱による破壊にあったが、そのたびに修復され、今に伝えられた。現在の上半身は、江戸時代の補修」 江戸時代に補修されたのは頭部のみ。この記述では胴体も江戸時代のもののように誤解される。また「いくたびも戦乱による破壊にあった」とあるが、戦乱による破壊は2度だけである。大仏の文化財としての価値を貶める表現である。
57 律令政治の展開 「それまで国家の統治がおよばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、」 墾田永年私財法は未墾地規制のためではないので記述は誤り。
59 訓読みの登場 「語順をひっくり返して日本語読みにする方式を編み出した。いわゆる訓読みという読み方の発明だった。」 現代の日常語では、「訓読み」(クンヨミ)とは、通常、漢字に和語を当てる読み方のことをさし、漢文の「語順をひっくり返して日本語読みにする方法」のことは「訓読」(クンドク)といって区別している。常識を混乱させる不適切な表現。
  「漢文を読むとき、彼らは……ヲコト点と呼ばれる記号を打って、助詞を補って読んだ。やがてそこから片仮名が誕生した。」 ヲコト点や片仮名は平安文化を述べる中で扱われるべきであって、8世紀の文化を述べた箇所で扱うのは不適切である。
65 奈良時代の歴史書と文学 「『万葉集』が、朝廷の命によって編集された」 『万葉集』のうち1、2巻が勅撰であったという説はあるが、全体の編集が朝廷の命によってなされたとするような記述は誤り。
68 律令制の拡大 「桓武天皇は強い指導力を示して、………班田収授のあり方を現実に合うように改め、」  班田収授の現実のあり方がどのようになっていたかの記述がなく、その結果どのように改めたかも不明である。この文章を読んだ生徒は、桓武天皇が何を行ったのかまったく理解できないであろう。また、ここの表題「律令制の拡大」の「拡大」とは、記述を読む限りでは、律令国家の領域が拡大したことを示しているようであるが、平安初期の律令制の再編や政治改革の現実を踏まえてこの時期の国家のあり方をとらえると、「律令制の拡大」という表題は不適切である。
70 地方政治の転換 「10世紀に入り、人口が増え、新田が不足したために、班田収授が行き詰まると、朝廷は地方政治の方針を大きく転換した。」 問題の多い記述である。
第一点。班田収授の崩壊の原因を、人口増加による田地の不足に求めているが、田地が不足したから崩壊したという歴史理解は何ら根拠がないものである。
第二点。「朝廷は地方政治の方針を大きく転換した」とあるのが、10世紀はじめの延喜国制改革を指しているのか、10世紀半ばの地方政治の変化のことを指しているのか、不明な文章である。もし前者であれば、班田収授の行き詰まりも10世紀に入ってから生じた事態であるように読めるが、通説では9世紀のこととされている。また後者であれば、上記記述は、10世紀半ばの地方政治の変化の原因を、班田収授の行き詰まりに求めていることになるが、そうした歴史理解は無理である。いずれにしても、この時代の地方政治の変化についての研究状況を知らないまま執筆したものと思われる。
  「律令制度のもとでの良民と賤民の区別は、しだいにゆるやかとなり、10世紀のはじめに賤民制度は廃止された。」 10世紀はじめにいわゆる「延喜奴婢解放令」が存在したという学説はあるが、「賤民制度」が廃止されたという学説は存在しない。奴婢と賤民を同じものと考えてしまっている点は日本前近代の身分制度を考えるうえで重大な誤り。
75 仮名文字の普及と文学の発展 「宮廷の女官であった紫式部」 「女官」とは後宮に仕える女性の役人のことである。紫式部は女官ではなく中宮彰子個人の女房であるから、記述は国文学の常識に反する誤り。
76 浄土教と仏教文化 「また同じころ、日本の神は仏が仮に姿を変えてあらわれたものとする、本地垂迹説が唱えられ、仏と神をともにうやまう神仏習合がさかんになった。」 「また同じころ」がどの時期を指すのか限定されていないので不明なところもあるが、阿弥陀信仰の広がりを述べた文の次に記されているから、11世紀(もしくは10世紀も含めてか)を想定しているのであろう。しかしそれ以前にも本地垂迹説はすでにみられるので、「また同じころ」ということはできない。曖昧な表現自体も教科書の記述として問題がある。
84 図版 鎌倉幕府の仕組み   評定衆の説明として「執権の補佐」というのはおかしい。建前としては、評定衆は執権と同格で、評定衆会議の主催者が執権である。
87 元寇 「朝廷を幕府は一致して、これをはねつけた。」 モンゴルへの対応の主導権は明らかに幕府が握った。朝廷と幕府が対等な形で対応したかのような表現をするのは誤り。
91 武士の文学   『今昔物語』が鎌倉時代の文化の節で述べられているのは、信じがたい誤り。
94 鎌倉幕府の滅亡 「やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、それまで討幕勢力が不利だった形勢は一変する。幕府軍から御家人の脱落が続き、足利尊氏が幕府にそむいて、京都の六波羅探題をほろぼした。」 後醍醐天皇の隠岐脱出と戦況の変化に直接の因果関係はない。元弘3年閏2月に後醍醐が船上山に迎えられたのちもしばらくは倒幕勢力に不利な状況が続いた。状況が変化するのは足利高氏の幕府からの離反が明らかになった同年4月末のことである。「尊氏」も建武以前は「高氏」と表記するのが正確である。
95 建武の新政 「後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇親政を目標として、院政や摂関、幕府をおさえ、新しい政治を始めた。……これを建武の新政という。武家政権がほろび、公家政権が復活したという見方からは、建武の中興とよぶ。」 「武家政権がほろび、公家政権が復活した」のは事実であって、見方による相違はない。「建武の中興」とは、日本では天皇中心の政治が行われるのが正しい姿である、という見方からの呼称であるから、記述は誤り。また、建武の新政期は院政と摂関は廃止され、幕府も消滅したのであるから、「おさえ」の表現は不適当。
104 応仁の乱 「8代将軍義政のとき、将軍と管領の跡継ぎをめぐり、細川勝元と山名持豊(宗全)が対立し、」 管領に就任しうる大名家の家督の地位をめぐる争いは起きているが、「管領の跡継ぎ」をめぐる争いは起きていないから、記述は誤り。
  「民衆が団結して守護大名を倒し、自治を行うこともおこり、山城国(京都府)南部では地侍を中心とした自治が8年間続き(山城国一揆)、」 山城国一揆には地侍も参加してはいるが、主導したのは国人層の武士たちであるから、「地侍を中心とした自治」の記述は誤り。国人と地侍は階層的に異なっている。
106 戦国の社会 「おもな戦国大名には、相模(神奈川県)の北条氏、越前(福井県)の朝倉氏、駿河(静岡県)と三河(愛知県東部)を支配した今川氏、越後(新潟県)の上杉氏、甲斐(山梨県)の武田氏、安芸(広島県)をはじめ中国地方一帯から九州、四国にまで勢力をおよぼした毛利氏などがある。」 支配領域の挙げ方が恣意的。特に今川氏の支配領域として、遠江をはずして三河を挙げるのは不適切。毛利氏の支配領域を詳述する一方で、北条氏の支配領域として相模しか挙げないのもアンバランス。
106 東アジアとのつながり 「足利義満の死後、明との勘合貿易が中断されると、再び倭寇の活動がさかんになったが、構成員のほとんどは中国人だった。それも16世紀後半には衰えた。」 義満死後の勘合貿易中断期(15世紀はじめ)の倭寇と、16世紀になってから始まる後期倭寇を混同した重大な誤り。構成員の多くが中国人だったのは後期倭寇であるから、100年ほどの錯誤を犯している。
119 秀吉の全国統一 「この検地によって、それまで公家や寺社など荘園領主がもっていた田畑へのさまざまな権利は否定され、農民は土地への所有権を法的に認められた。 太閤検地の要点を理解していない記述である。荘園領主の土地に対する所有権は、太閤検地を待つまでもなく16世紀にはいるとほとんど無実化しており、秀吉にとって、荘園領主の権利を否定することが課題だったわけではない。農村社会のなかで重層的に存在していた複雑な権利関係を整理したところに、太閤検地の目的と意義がある。なお「土地への所有権」は日本語として誤っている。
124 関ヶ原の戦いと江戸幕府 「こうして、戦国大名は二つの勢力に分かれて、対立を深めていった。1600(慶長5)年、双方の軍勢は東西両軍に分かれ、関ヶ原(岐阜県)で激突し、」 すでに戦国時代は終結しているので、この段階の大名を戦国大名と呼ぶのは初歩的な誤り。関ヶ原の戦いの主要な参加者である石田三成、小西行長、加藤清正、福島正則らは、いずれも戦国大名であった経歴もない。
134 村と百姓 「(武士の)生活を維持するため、村の生産物を流通させ加工する必要があった。そのため、職人や商人も城下に集まって町人となった。町人は、冥加金や運上金とよばれる営業税を納め、有力者が町役人となり自治に当たった。」 兵農分離との関係で、武士が都市集住となり、それに従って商工業者が都市に自然発生的に集まってくる、という説明になっているが、大名はむしろ商工業者らを積極的(政策的に)に集住させた(地子免など)。また冥加・運上は、町人とは直接的な関係はないと理解するのが現在の通説。
136 諸産業の発達 「長崎の貿易では、銀や銅が日本の主要な輸出品だったので、生野銀山(兵庫県)、足尾銅山(栃木県)、佐渡金山(新潟県)などで鉱山業が発展した。」 鉱山の挙げ方が不適切な、誤った記述である。長崎御用銅ならば、第一にあげるべきは別子銅山であり、ついで秋田と南部の銅山が重要である。
143 儒教の発展と学問の発達 「水戸藩主の徳川光圀は、学者を集めて『大日本史』の編纂を始め、のちの国学を基礎づけた。」 国学は誤り。水戸学が正しい。水戸学の学風は儒学・国学・神道を融合したものと言われる。また1657(明暦3)年に編纂に着手したとき、まだ光圀は藩主ではなかった(1661(寛文1)年、家督を相続)。
148 コラム 石田梅岩と二宮尊徳 「先祖伝来の家業に勤勉にはげむことが、人間としての安心立命につながるという考えが広がった。江戸初期の国土の大開発は、こうした勤勉さによってなされた。」 江戸初期の大開発はおもには幕府や藩・武士によるものであり、町人などの新田開発はむしろ中後期が中心であるから、記述は誤り。
150 幕府政治の転換 「綱吉の政治を、文治政治という。各藩でも藩校を設け、儒学による武士の教育に努めるようになった。」 近世前期の藩校は、好学藩主の個人的意思によって先進的に創設されたものの、規模は狭小簡単、藩士一般には普及しないまま、多くは藩主の代替りによって廃絶した(岩波日本史辞典)。したがって元禄期の文治政治の例として、こうした記述をするのは不適当。寛政期以降、儒学によるカリキュラム構成をもつ藩校が叢生してくるというのが通説。
152    図版 公事方御定書 高札風の絵の中に書かれているが、公事方御定書は秘書であり、三奉行など以外に見せることは許さないことになっていた。高札にして布告するなどありえない。生徒の正確な理解の妨げとなる。
172 アヘン戦争と英国の中国分割 「アヘンは、衰退期に入った清に、無抵抗に受け入れられた。」 「無抵抗に受け入れられた」と強調するが、173ページでは、皇帝や大臣のアヘンの輸入に対抗する動きを書くのだから、「無抵抗」というのは、誤解を招く表現である。
173 「イギリス軍艦は、「自由貿易」を口実に清国沿岸に発砲し、」 「自由貿易」は目的であって、口実ではないので、記述は誤り。発砲の直接のきっかけは、広東へ赴こうとしたイギリス商船に対し、対中国圧力のため、これを阻止しようとしたイギリス軍艦が発砲したことによる。これによってイギリス商船を保護しようとした中国艦隊と交戦開始した(1839年11月)。(坂野正高『近代中国政治外交史』参照)
  「清は、屈辱的な南京条約に調印した。イギリスは香港島を占領し、中国大陸へ進出する足がかりを得た。」 南京条約以前にイギリスは香港を占領しており、条約によって正式に割譲された。(坂野正高『近代中国政治外交史』)
176 コラム ペリーが渡した白旗   明白な誤りである(口頭で説明)
178 幕府の決断と開国 「日米和親条約を結び、……下田にアメリカ領事を置くことを取り決めた。同様の条約は、イギリス、ロシア、オランダとの間でも結ばれた。」 イギリスと結んだのはスターリング協約であり、ロシア・オランダのように条約として結んだものではない。スターリング協約は、クリミア戦争遂行のため日本諸港を利用できるかどうかという問題解決のためのものであって、領事駐在規定はないから、イギリスに関する記述は誤り。
185 近代日本史の前提 「中国の服属国であった朝鮮も同様だった。」 誤解を与える表現である。「東アジアにおいて成立していた伝統的世界は、基本的には朝貢と冊封によって結びつけられた秩序」であるが、「必ずしも支配−被支配の権力的関係の貫徹するものではなかったのである」(茂木敏夫「中華帝国の『近代』的再編と日本」)という理解を欠いている。
200 清・朝鮮との国交樹立 「一方、これに先立って、日本軍艦が朝鮮の江華島で測量をするなど示威行動をとったため、朝鮮の軍隊と交戦した事件…をきっかけに、日本は再び朝鮮に国交の樹立を強く迫った。」 これは日朝間の交戦の事情が説明不足で理解し難い表現である」との検定官の意見をつけられ、修正した文章であるが、日本軍艦の行動の前提として、日本国内に「征韓論」が台頭していたことを述べないので、基本的な理解がえられない。日本の軍艦は朝鮮の西海岸を測量しながら北上したのだが、江華島では測量をおこなわず、カッターを入れたところ砲撃されたとの理由で、砲撃を加えたものである。江華島で測量をしたというのは誤りである。
200 北方の領土確定 「アメリカやイギリスは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道までうばわれるだろうと明治政府に警告してきた。さらに、朝鮮や沖縄の問題が新たに身近に迫ってきたので、新政府はロシアとの衝突をさけるために、1875(明治8)年、ロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。」 イギリス公使パークスはそのよう警告をおこなったが、アメリカ側がそのような警告を行ったということは知られていない。日本はアメリカにロシアとの仲介を依頼しているので、アメリカは中立的であったと考えられる。また、この条約が結ばれた背景に、日本としては北海道を開拓するだけでも大事業であって、樺太にまで精力をさけないという事情があったことは、多くの人によって指摘されている。
218 日清戦争と日本の勝因 「わずかな兵力しかもたない朝鮮は、清に鎮圧のための出兵を求めたが、日本も甲申事変後の清との申し合わせに従い、軍隊を派遣し、日清両国軍が衝突して日清戦争が始まった。」 日清間の開戦の事情が説明不足で、理解し難い表現である。日本は清の出兵に対抗して、公使館と居留民の保護を口実に出兵した。農民戦争が沈静化して、出兵の理由がなくなっても、日本は撤兵を拒否し、朝鮮の内政改革を要求し、1894年7月23日朝鮮の王宮を占領し、朝鮮兵を武装解除した。その上で7月25日に豊島沖で清軍を攻撃し、8月1日、清に宣戦を布告したのである。執筆者は、日本は戦争をする気はなかったが、成り行きで戦争になってしまったのだという印象を与えようとしているように見える。不適切な表現である。
221 コラム 日露条約の問題点(小村意見書) 「Aシベリアは、将来は別として、現状では経済的利益は小さい。」 原文は「満州及西比利亜」となっている。「満州」を削除するのは恣意的である。
221 コラム 日英条約の利点(小村意見書) 「B英国と結ぶと清国はますます日本を信頼するようになり、平和の利益を増進する。」 原文では、見だしは「清国ニ於ケル我邦ノ勢力ヲ増進スルコト」であり、内容も日英協約を結べば、清国は「一層深ク我邦ニ信頼スヘク、随ツテ同国ニ於ケル我利益ノ拡張、其他諸般ノ計画ヲ一層容易ニ行ハルルニ至ラン」である。これを「平和の利益を増進する」と要約するのは、史料の完全なる改竄である。
223 日露開戦と戦いのゆくえ (日露戦争における日本の勝利は)「黄色人種が将来、白色人種をおびやかすことを警戒する黄禍論が欧米に広がるきっかけにもなった。」 誤った記述である。黄禍論は日清戦争後にドイツ皇帝ウィルヘルム二世が唱えたものだが、日露戦争後には、当然ながら日本警戒論が代わって出現したのである。もとより人種的偏見が日本警戒論にも混入しているが、重点は明らかに変わっている。
241 中華民国の成立 「南京に革命派の代表が集まって孫文を臨時大総統に選び、」 孫文を臨時大総統に選んだのは、いわゆる立憲派などを含む各地の代表であって、「革命派の代表」だけが集まって選んだわけではない。
  「中国は統一性を失い、武力をもつ地方政権である大小の軍閥によって、各地がばらばらに支配されるようになった」 北京政府の存在を軽視しすぎており、正確さを欠く。
244 日本の参戦 「ドイツの植民地であった山東半島の青島」 青島はドイツの租借地であって「植民地」ではないから、記述は誤り。植民地と租借地は異なる概念である。
  「日本は、日英同盟の約束に基づいて参戦、」 イギリスが日本の参戦を望まなかった事実に触れず「日英同盟の約束に基づいて」というのは正確さを欠く。
248 ベルサイユ条約と国際連盟 「ウィルソン大統領の唱えた民族自決の理念に基づいて、東ヨーロッパではチェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアなどが独立を果たした。」 ルーマニアは露土戦争後の1878年にすでに独立しているので完全な誤り。ポーランドと間違えたか。
266〜7 仕組まれた柳条湖事件 「満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針と取ったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、全満州を占領した。」 関東軍の東北侵略を、日本政府と軍部中央が次々に追認した事実に触れず、日本政府の方針と「無関係」であるとか、政府と軍部中央は「不拡大方針を取った」というのは正確さを欠く。
293 社会の混乱 「1946年2月にはゼネストが計画されたが、GHQによって禁止された。」 2・1ストは1947年である。