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番号 |
指摘箇所 |
原文 |
指摘事由 |
修正文 |
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頁 |
行 |
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1 |
表見返 |
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埴輪は、死者をとむらうために、豪族の墓である古墳にいっしょに納められた。 |
埴輪の設置状態について、古墳の内部に収納されたかのように誤解するおそれのある表現である。 |
埴輪は、死者をとむらうために、豪族の墓である古墳の上や周りに並(なら)べられた。 |
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2 |
13 |
右下囲み |
※お申し込みは日本国有鉄道まで |
不正確である |
削除 |
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3 |
14 囲み |
6-7 |
タイムリミットの1時間15分前。2機の飛行機が空港におり立った。トルコから日本人救出のために送られた救援機だった。トルコ機は日本人215名を乗せて、成田空港へと向かった。 |
不正確である |
タイムリミットを目前にして、2機の飛行機が空港におり立った。トルコから日本人救出のために送られた救援機だった。トルコ機は日本人215名を乗せて、イラン上空を脱出(だっしゅつ)しトルコに向かった。 |
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4 |
16 |
側注A |
Aアフリカに出現した現生人類は黒い皮膚の人々だった。ヨーロッパ人やアジア人は、その後環境に適応して皮膚の色が変化した。 | 断定に過ぎ、誤解するおそれのある表現である。 |
削除 |
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4番の関連修正(側注を削除したため) |
Aを削除 |
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5 |
16 |
上地図 |
氷河のあった地域 |
「氷河のあった地域」の表記が不正確である。 |
(黄緑を凡例に加える) |
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6 |
19 |
18-20 |
自然と調和して生活した約1万年間の縄文時代は、日本人のおだやかな性格を育み、多様で柔軟な日本文化の基礎をつくった。
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日本人の性格の形成について、断定的で理解し難い表現である。 |
自然と調和して生活した約1万年間の縄文時代には、日本人のおだやかな性格が育まれ、多様で柔軟な日本文化の基礎がつくられたという側面もある。 |
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6番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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7 |
22 |
2-5 |
アフリカやアジアの大河の周辺では、大気が乾燥して砂漠が広がり、食料不足にみまわれた。そこで、これらの地域では、野生の植物を栽培したり、動物を育てるようになり、農耕・牧畜が始まった。 |
農耕・牧畜の起源について誤解するおそれのある表現である。 | 気候の変化によって植物の分布が変わり、大型の動物も減った。こうした環境の変化の中で、野生の植物を栽培したり、動物を育てるようになり、農耕・牧畜が始まった。 |
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8 |
22 |
14−19 |
多数の人々を動かす灌漑工事には、工事を指揮する指導者が必要だった。人々は指導者を選び、税を払って共同の事務を管理する書記を雇った。記録のための文字が発明され、国家とよぶことのできるしくみが整えられていった。灌漑工事や、戦い、祭りなどを指揮する指導者は、広い地域を統合するにつれて、世襲の王となっていった。 | 古代における支配の形成について誤解するおそれのある表現である。 |
多数の人々を動かす灌漑工事には、工事を指揮する指導者が必要だった。彼らは戦い、祭りなども指揮した。指導者は、広い地域を統合するにつれて、やがて王となっていった。王のもと、税が集められ、また記録のための文字が発明されて、書記が雇(やと)われた。こうして国家とよばれるしくみが整えられていった。 |
| 8番の関連修正(スペース調整のため) 【地図省略】 |
【地図省略】 | ||||
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9 |
30 |
右17-18 |
今日では、神武天皇の実在を疑う説もあり、この点についてはまだ結論が出ていない。だが大和朝廷のはじjめに、すぐれた指導者がいたことは、たしかである。 | 神武天皇の存在が、おおよそ史実であると誤解するおそれのある表現である。 | 大和朝廷がつくられるころに、すぐれた指導者がいたことは、たしかである。 |
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9番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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10 |
30 |
右27 |
建国記念日 |
誤りである。 |
建国記念の日 |
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11 |
32 |
上左 |
平壤(楽浪郡) |
楽浪郡は既に滅亡しており、不正確である。 |
削除 |
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12 |
32 |
6-9 |
このすきをついて、朝鮮半島北部の高句麗が急速に強大になった。高句麗は、4世紀の初めに、朝鮮半島内にあった中国領土の楽浪郡を攻めほろぼし、4世紀末には半島南部の百済をも攻撃しようとした。 |
3・4世紀の朝鮮半島の状況について誤解するおそれのある表現である。 | そんな中、4世紀以降(いこう)、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)がしだいに強大になった。高句麗は、4世紀の初めに、朝鮮半島内にあった中国領土の楽浪郡を攻めほろぼし、4世紀後半には半島南部の百済をも攻撃した。 |
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13 |
33 |
左上 |
百残(百済)□□新羅を破りて、 |
現在の学説状況に照らして不正確である。 |
百残(ひゃくざん)(百済(くだら))破り、新羅(しらぎ)を□□し、 |
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14 |
33 |
3-4 |
大和朝廷があえて南朝の朝貢国になったのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部の支配を認めさせるためだった。 | 大和朝廷が朝鮮南部を実際に支配していたかのように誤解するおそれのある表現である。 |
大和朝廷があえて南朝の朝貢国になったのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部とのつながりを維持(いじ)するためだった。 |
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15 |
33 |
5-7 |
6世紀になると、朝鮮半島南部に新羅が台頭した。新羅は高句麗と結んで、百済を圧迫した。 |
現在の学説状況に照らして不正確である。 |
朝鮮では三つの国が分立していたが、6世紀になると、朝鮮半島南部では新羅(しらぎ)が力をのばした。高句麗や新羅に圧迫(あっぱく)された百済はこれに対抗したが、苦しい立場におちいった。 |
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16 |
33 |
9 |
大和朝廷の拠点が置かれた任那 |
任那について誤解するおそれのある表現である。 |
削除 |
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17 |
34 |
7-8 |
589年、隋が中国全土を約370年ぶりに統一したのだ。 | 不正確である。 | 589年、隋が中国全土を約300年ぶりに統一したのだ。 |
| 17番の関連修正(整合性をとるため) P.32, L2〜3 220年に漢がほろんでからの約400年間、中国では、多数の小国に分かれたり、南北に分かれたりして争う内乱の時代が続き、周辺諸国におよぼす影響力が弱まった。 |
220年に漢がほろんでから6世紀末まで、中国では、多数の小国に分かれたり、南北に分かれたりして争う内乱の時代が続き、周辺諸国におよぼす影響力が弱まった。 | ||||
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18 |
35 |
13-17 |
その内容は、豪族が争いをやめ、人々が和の精神をもち、天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、公共の利益のために奉仕する役人の心がまえと国家の理想が示された。和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった。 |
公共の利益について説明不足であり、また断定的で理解し難い表現である。 |
その内容は、豪族が争いをやめ、人々が和の精神をもち、天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、公(おおやけ)の利益のために奉仕する役人の心がまえと国家の理想が示された。和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった。 |
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19 |
36-37 |
19-2 |
しかし、ふたたび倭王の称号にもどり、中国の属国の立場になる道を選ぶこともできなかった。それは、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うことだった。 |
説明不足で理解し難い表現である。 | しかし、ふたたび倭王の称号にもどり、中国に自国の支配権を認(みと)めてもらう道を選びたくはなかった。日本が大陸の文明に吸収(きゅうしゅう)されて、固有の文化を失うことはさけたかった。 |
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20 |
37 |
13-15 |
こうして、外国のすぐれた文化を取り入れつつ、自国の文化をすてない日本の伝統が、聖徳太子によって打ち立てられた。 | 断定的で理解し難い表現である。 | このような聖徳太子の態度は、外国のすぐれた文化を取り入れつつ、自国の文化をすてない日本の伝統につながっていったと考えられる。 |
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21 |
41 |
右下 | 数字は天皇の即位順を示す | 系図中の数字について、説明不足で理解し難い図である。 | 数字は皇統譜(こうとうふ)による天皇の即位順を示す |
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22 |
42 |
地図 |
大極殿(たいきょくでん) | 誤りである。 | 大極殿(だいごくでん) |
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23 |
48 |
1-2 |
聖徳太子は仏教を深く信仰したので、日本で初めて仏教を基礎とする文化がおこった。 | 飛鳥文化の起こりが聖徳太子にのみ起因するかのように理解するおそれのある表現である。 | 聖徳太子や蘇我氏が仏教を深く信仰したこともあり、日本で初めて仏教を基礎とする文化がおこった。 |
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24 |
50 |
右13-14 |
陸奥国(青森県) | 誤りである。 | 今の宮城(みやぎ)県(陸奥国(むつのくに)の一部) |
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25 |
53 |
側注C |
C律令制度のもとでの良民と賤民の区別は、しだいにゆるやかとなり、10世紀の初めに賤民制度は廃止された。 | 本文との関連が不適切である。 | 削除 |
| 25番の関連修正(側注がなくなったため) P.53, L15 …役人に取り立て、徴税にあたらせた。 C |
Cを削除 | ||||
| 同(関連の適当な箇所に削除内容を挿入するため) P43. 側注@ ただし、公民(良民)と賤民との区別があり、後者は人口の1割以下だったが、公民と差別されていた。賤民の中心は奴碑とよばれる人々で、所有者の財産としてあつかわれる一方、口分田をあたえられいた。 |
ただし、公民(良民)と賤民との区別があり、後者は人口の1割以下だったが、公民と差別されていた。賤民の中心は奴碑とよばれる人々で、所有者の財産としてあつかわれる一方、口分田をあたえられいた。のちの平安(へいあん)時代になると、公民と賤民の区別は次第に緩やかとなり、10世紀の初めに賤民制度は廃止された。 | ||||
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26 |
58 |
上囲み |
於(ヲ(オ)) | 誤りである。 | 於(オ) |
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27 |
59 |
左7-12 |
「紫式部」の名も、父親が式部省の役人だったことからついた、宮中でのよび名である。 | 紫式部が当時からそう呼ばれていたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 「紫式部」の名も、父親が式部省の役人だったことからついた、のちのよび名である。 |
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28 |
68 |
上左図 |
源頼朝像 | 現在の学説状況に照らして不正確である。 | 源頼朝と伝えられている像 |
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29 |
68 |
上地図 |
由井ヶ浜 | 不正確である。 | 由比ヶ浜(ゆいがはま) |
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30 |
68 |
3 |
守護は、その国の武士を指揮して、軍事・警察の仕事につき、地方の政治にも関与した。 | 御家人だけであり、不正確である。 | 削除 |
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31 |
70 |
2-5 |
モンゴル帝国は、無敵の騎馬軍団を各地に侵攻させ、またたくまに、西アジアから中国・朝鮮まで、ユーラシア大陸を東西にまたがる広大な領土を築いた。 | 朝鮮はモンゴルの領土に含まれず、不正確な表現である。 | 削除 |
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32 |
71 |
右下 欄外 | 元寇が100年早かったら、どうなっていただろうか。いろいろな面から考えてみよう。 | 100年前には元は成立しておらず、理解し難い説問である。 | 日本が武家政治の時代になっていたことと、元を撃退(げきたい)したこととの関係を考えてみよう。 |
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33 |
72 |
左16-20 |
平家に反感をもつ後白河法皇らの勢力は、各地の源氏勢力にもよびかけ、平家打倒の気運が高まった。 | 平家打倒勢力について誤解するおそれのある表現である。 | 平家に反感をもつ後白河法皇の皇子(おうじ)・以仁王(もちひとおう)は、各地の源氏勢力にもよびかけ、平家打倒の気運が高まった。 |
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34 |
72 |
左30-右2 |
…しかし、最後は平氏をたおし、武家のかしらの地位を手に入れることに成功した。 その後頼朝は、鎌倉に本拠をかまえて動かず、平家追討はいくさっ上手の弟義経らにまかせ、みずからは上総国(千葉県)、武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)などの武士団を固め、新しい武家政権づくりを始めた。 1192年、頼朝は初めて京都に行き、天皇から征夷大将軍に任ぜられ、正式に幕府を開いた。…35番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
時系列について誤解するおそれのある表現である。誤りである。 | …しかし、富士川(ふじがわ)の戦いで大勝利をおさめるなど、源氏はしだいに攻勢に転じていった。 その後頼朝は、鎌倉に本拠をかまえて動かず、平家追討はいくさっ上手の弟義経らにまかせ、みずからは上総国(千葉県)、武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)などの武士団を固め、新しい武家政権づくりを始めた。 平氏をたおし武家のかしらとなった頼朝は1192年、天皇から征夷大将軍に任ぜられ、正式に幕府を開いた。… |
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35 |
72 |
右5 |
35番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
誤りである。 | 【省略】 |
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36 |
78 |
上右図 | 足利義満とその邸宅 | この絵に描かれている邸宅は後世のものであり、義満の邸宅とするのは不正確である。 | 足利(あしかが)将軍の邸宅(ていたく) |
| 36番の関連修正(肖像のキャプションが上記変更で必要にになったため) p.78 上右図 (京都府 鹿苑寺蔵) |
足利義満像(あしかがよしみつぞう)(京都府 鹿苑寺蔵) | ||||
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37 |
79 | 上左地図 | おもな守護大名(1360年代) 【省略】 |
誤りである。 | おもな守護大名(14世紀後半) (武蔵も上杉領に河内に畠山領追加 但馬も山名領に筑前、筑後も今川領に日向の畠山を一色に) 【省略】 |
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38 |
79 | 14-17 | 16世紀の中ごろ、勘合貿易が停止すると、ふたたび倭寇がさかんになったが、その構成員は、ほとんどが中国人だった。倭寇が朝鮮半島から中国沿岸を荒らし回ったため、高麗はおとろえ、明も滅亡を早めた。 | 高麗は1392年に滅んでおり、不正確である。 | 16世紀の中ごろ、勘合貿易が停止すると、ふたたび倭寇がさかんになったが、その構成員は、ほとんどが中国人だった。倭寇が朝鮮半島から中国沿岸を荒らし回ったため、明は国力を弱めた。 |
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39 |
97 | 18-19 | 2度にわって行われた出兵の結果、莫大な費用と兵力をういやし、豊臣家の支配はゆらいだ。 | 朝鮮出兵の実態について理解し難い表現である。 | 2度にわって行われた出兵により、朝鮮の国土や人々の生活は著(いちじる)しく荒廃(こうはい)した。この出兵に、莫大な費用と兵力をういやし、豊臣家の支配はゆらいだ。 |
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40 |
98 | 9 | 城郭の内部は書院造で、華麗な彫り物や、金銀をふんだんに使った襖絵で飾られた。 | 城郭の内部の構造を書院造と呼ぶかのように誤解するおそれのある表現である。 | 削除 |
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41 |
105 | 12-14 | 1639(寛永16)年、幕府はポルトガル船の来航を禁止した。イギリスはすでに撤退しており、貿易を許されたヨーロッパ人は、長崎出島の商館を拠点とするオランダ人のみとなった。 | 1639年以前にオランダが出島に移されたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 1639(寛永16)年、幕府はポルトガル船の来航を禁止した。イギリスはすでに撤退していたので、貿易を許されたヨーロッパ人はオランダ人のみとなった。オランダ人は、その後、平戸(ひらど)から長崎出島(ながさきでじま)に商館を移して活動した。 |
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42 |
111 | 側注A | 日本の貨幣は、当時のヨーロッパの経済を支えるほどの役割を果たした。 | 日本の貨幣そのものがヨーロッパの経済を支えたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 日本の金・銀は、当時のヨーロッパの経済に影響(えいきょう)をあたえるほどの位置をしめた。 |
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43 |
113 | 10 | 他方、中江藤樹は、実践を重んじる陽明学を始めた。 | 中江藤樹が陽明学の祖であるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 他方、中江藤樹は、実践を重んじる陽明学を日本に取り入れた。 |
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44 |
114 | 右8 | 測隠 | 誤りである。 | 惻隠 |
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45 |
114 | 右25-33 | ●公共の利益のために働く● このように、忠義とは主君にただひたすら従うことではなく、主君への忠誠をこえて藩や家の存続のために最善をつくすことだった。 幕末に日本が外国の圧力にさらされでとき、武士たらが藩のわくをこえて日本の存続のために立ち上がったのは、武士道の中に公共の利益のために働くことに価値を置く忠義の観念があったことと深い関係がある。 |
武士道と公共の利益との関係について、理解し難い表現である。 | ●公のために働く● このように、忠義とは、主郡のいいなりにひたすら従うことではなく、それを越えて藩や家を守る責任をもち、その存続のために武士としての最善をつくすことを意味した。 のちに幕末になって日本が外国の圧力にさらされたとき、武士がもっていた忠義の観念は、藩のわくをこえて日本を守るという責任の意識と共通する面もあった。このような、公のために働くという理念が新しい時代を用意したともいえる。 |
| 45番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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46 |
120 | 2-4 | とくにロシアは、16世紀後半からシベリアの征服を開始したが、その勢力は18世紀末にはアラスカとカムチャッカ半島にまで達した。 | ロシアのアラスカ、カムチャッカ羊島への到達時期が不正確である。 | とくにロシアは、16世紀後半からシベリアの征服を開始したが、その勢力は17世紀末にはカムチャッカ半島にまで達した。 |
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47 |
129 | 右下段 | この地図の存在を知った西洋列強は日本の技術の高さにおどろき、日本を植民地化するのをあきらめたという。 | 148べ-ジ左7行目以下の、「もし、明治維新がなければ、日本は欧米列強の支配下に組み入れられていただろう」という記述と相互に矛盾する表現である。 | この地図の存在を知った西洋列強は、日本の技術の高さにおどろいたという。 |
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48 |
133 | 10-11 | 自由・平等・友愛をうたう人権宣言 | 不正確である。 | 削除 |
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49 |
134 | 側注@ | 1600年に設立されたイギリスの国策会社。 | 東インド会社が1600年当時から国策会社的機能を有していたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 1600年に設立され、イギリス国王からアジア貿易の独占権を与えられた会社。 |
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50 |
136 | 右上地図説明 | 当時はまだ太平洋を直接横断することはできず、イギリスの植民地にある港を経由しなければならなかった。 | 説明不足で理解し難い表現である。 | 削除 |
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51 |
141 | 右下囲み | 幕府は、なぜたおれたのか ペリーが来航し、開国を要求してから15年後に、徳川幕府は滅亡した。欧米列強がおしよせてきてから、朝鮮の李朝は44年後にほろび、清朝は、滅亡するまで72年間も生きのびた。これらに比較すると、日本の徳川幕府は、非常に短い期間でたおれたことになる。これはどうしてなのだろうか。いろいろな角度から考えてみることができる。 李朝や清朝には科挙という試験制度があり、全国の優秀な人材が中央に集められた。そのため、皇帝や国王が強大な力をもつ半面、地方の対抗勢力は弱かった。これに対し日本には、科挙の制度は導入されなかったので、各地の藩で多くの人材が養成され、地方に大きな力がた〈ねえられていた。 ・・・幕府にかわって皇室を日本の統合の中心とすることで、政権の移動が比較的スム一ズに行われた。 |
江戸幕府が倒れた理由について、説明不足で理解し難い表現である。 | 徳川幕府から明治政府への転換 ペリーが来航し開国を要求してから、わずか15年後に徳川幕府は滅亡した。朝鮮の李朝は、欧米列強が押し寄せてきてから44年続いたし、清朝は72年間もたおれなかった。これらに比較すると、日本の徳川幕府は、非常に短い期間で薩摩藩や長州藩などの勢力によってたおされたことになる。これはどうしてなのだろうか。 李朝や清朝では、試験制度によって全国の優秀な人材が中央に集められた。皇帝や国王が強大な力をもつ半面、地方の対抗勢力は弱かった。これに対して日本では、各地の藩で多くの人材が養成された。これはのちに幕府をたおす強い原動力となった。 …幕府にかわって、あらためて皇室を日本の統合の中心とすることで、政権の移動が短期間でスムーズに行われた。 |
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52 |
148 | 右16-20 | このような国際情勢の中で、中国(清朝)は、欧米列強の武力による脅威をじゅうぶん認識することができなかった。中国の服属国だった朝鮮も同じだった。アヘン戦争に衝撃を受けたのは、中国よりもむしろ日本だった。 P.42, L9 唐の服属国と位置づけられていた新羅が、 p.163, L左31〜右1 明治新政府は、政権樹立後、すぐに朝鮮と国交を結ぼうとした。しかし、中国の清朝に服属していた朝鮮は、外交関係を結ぶことを拒絶した。 |
中国、朝鮮、日本の地理的な位置関係や、朝貢・冊封関係について、説明不足で理解し難い表現である。 | このような国際情勢の中で、中国(清朝)は、欧米列強の武力による脅威をじゅうぶん認識することができなかった。中国に朝貢していた朝鮮も同じだった。アヘン戦争に衝撃を受けたのは、中国よりもむしろ日本だった。 唐に朝貢していた新羅が、 明治新政府は、政権樹立後、すぐに朝鮮と国交を結ぼうとした。しかし、中国の清朝に朝貢していた朝鮮は、外交関係を結ぶことを拒絶した。 |
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53 |
148 | 右2-3 | そのため、西洋文明から学ぼうとする姿勢が欠けていた。 | 当時の中国の実態について、誤解するおそれのある表である。 | そうしたこともあって、西洋文明を取り入れる働きは実を結ばなかった。 |
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54 |
148 | 右6-9 | それに対し、日本は江戸時代を通じて、国民の教育水準が高く、武士に責任の意識が強かったので、列強の軍事的脅威に敏感に反応した。 | 国民の教育水準や武士の責任の意識と軍事的脅威への反応との関係について、説明不足で理解し難い表現である。 | それに対し、日本は江戸時代を通じて武家社会という面があり、列強の軍事的脅威に敏感に反応した。 |
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55 |
148 | 右18-20 | こうした変化は、ヨーロッパのどの国と比較しても、いちばん徹底したものだった。 | どういう根拠で比較しているのか不明確であり、説明不足で理解し難い表現である。 | 削除 |
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56 |
149 | 左1-3 | 江戸時代を通じて武士は尊敬され、町人が武士をたおすというようなことはおこらなかった。 | 前段と後段の関係について理解し難い表現である。 | 削除 |
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57 |
149 | 左18-21 | 明治維新は、公共の利益のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちの自己犠牲によって実現した、世界み例のない改革だった。 | 明治維新と武士との関係について、説明不足で理解し難い表現である。 | 明治維新はへ公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった。 |
| 57番の関連修正(文中から自己犠牲の単語がなくなったため) p.148右,L13 ●武士の自己犠牲による改革● |
削除 | ||||
| 同(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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58 |
153 | 11-13 | 帰国した大久保利通と岩倉具視らは、日本が朝鮮に兵を出せば必ず欧米列強が介入し、日本は滅亡するとおそれた。 | 征韓論の中止について一般的な学説である内治優先に触れずに、一面的な見解を充分な配慮なく取り上げている。 | 帰国した大久保利通と岩倉具視らは、国力の充実を先にはかるべきであると考え、出兵は欧米の干渉を招くとおそれた。 |
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59 |
153 | 側注@ | こののち日本は、1875年、朝鮮の江華島沖に軍艦を派遣し、無断で周辺の沿岸を測量するなどの圧力をかけたので、軍艦が砲撃される事件がおきた(江華島事件)。これを理由に、日本は翌76年、日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させた。 | 日朝修好条規締結の実態について、誤解するおそれのある表現である。 | こののち日本は、1875年、朝鮮の江華島沖に軍艦を派遣し、無断で周辺の沿岸を測量するなどの圧力をかけたので、軍艦が砲撃され交戦する事件がおきた(江華島事件)。これを理由に、日本は翌76年、日朝修好条親を結び、朝鮮を開国させた。これは朝鮮にとって不平等な条約だった。 |
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60 |
154 | 13-15 | この政策が成功したのは、江戸時世にすでiこ技術の成熟があり、国民の勤勉さと結びついて、近代産業として発展する条件が整っていたからである。 | 江戸時代の技術について、近代工業との関連において誤解するおそれのある表現である。 | 日本は、江戸時氏にすでにみられた技術の成熟を土台に、西洋の新しい技術を取り入れ、近代産業を発展させていった。 |
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61 |
156 | 16-18 | 1883(明治16)年、政府は東京の日比谷公園のそばに鹿鳴館という洋風の建物をつくり、 | 当時日比谷公園が開設されていたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 削除 |
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62 |
157 | 15-16 | この条約では、治外法権を撤廃し、12年後に日本に関税自主権を与えることが認められた。 | 誤りである。 | この条約では、日本の内地を開放するかわりに治外法権が撤廃された。 |
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63 |
163 | 左16-28 | 古来、朝鮮半島は、中国の進んだ文明を日本に伝える通路だった。しかし、朝鮮半島全体が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本の独立はあやうくなる。日本は、中国と朝鮮半島の動向に注意を払わねばならなかった。日本が古代律令国家を形成したのも、東アジアの中で自立することをめざしたものだった。 鎌倉時代に、元冠の拠点となったのも朝鮮半島だった。そのときの恐怖の記憶は、日本人のあいだで長く伝えられてきた。反対に、豊臣秀吉が、朝鮮半島に兵を送ったこともあった。江戸時代には、対馬藩を通して、徳ill幕府と朝鮮との良好な関係が続いた。 |
日本と朝鮮半島との関係について、朝鮮の実態を考慮せずに一面的な見解を十分な配慮なく取り上げている。 | 古来、朝鮮半島からはま、中国などの進んだ文明が日本に伝えられた。しかし、同時に、朝鮮半島に日本の安全おびやかす勢力がおよんだこともあった。日本は、中国と朝鮮半島の動向に注意を払わねばならなかった。日本が古代律舎国家を形成したのも、東アジアの中で自立することをめざしたものだった。 鎌倉時代に、元冠の拠点となったのも朝鮮半島だった。反対に、豊臣秀吉が、朝鮮半島こ大軍を送ったこともあった。江戸時代には、対馬藩を通して、徳川幕府と朝鮮との良好な関係が続いた。 |
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64 |
163 | 左31-右4 | 明治新政府は、政権樹立後、すぐに朝鮮と国交を結ぼうとした。しかし、中国の清朝こ服属していた朝鮮は、外交関係を結ぶことを拒絶した。朝鮮を開国させた1876(明治9)年の日朝修好条親は、その第一条で、「朝鮮国は自主の国」であるとうたった。これは、清朝の支配から朝鮮を切りはなすねらいがあった。 | 朝鮮と清との関係について、誤解するおそれのある表現である。 | 明治新政府は、政権樹立後、すぐに朝鮮と国交を結ぼうとした。しかし、中国の清朝に朝貢していた朝鮮は、外交関係を結ぶことを拒絶した。朝鮮を開国させた1876(明治9)年の日朝修好条規は、その第一条で、朝鮮国は自主の国」であるとうたった。これは、清朝の影響から朝鮮を切りはなすねらいがあった。 |
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65 |
163 | 右13-14 | そこで日本は、朝鮮の開国後、朝鮮の近代化を援助した。 同p, 左L30 ●朝鮮の近代化を助けた日本● |
朝鮮の近代化について誤解するおそれのある表現である。 | そこで日本は、朝鮮の開国後、近代化を始めた朝鮮に対して軍制改革を援助した。 ●朝鮮の近代化と日本● |
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66 |
164 | 15-16 | 一時は首都漠城(現在のソウル)にせまるほどであった。 | 漢城近郊にまで達したかのように誤解するおそれのある表現である。 | 一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどであった。 |
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67 |
165 | 側注B | そのために、国内政治では、政府と政党が協力して政党中心の政治が前進した。 | この時期の政府と政党との関係について、誤解するおそれのある表現である。 | そのためlこ、国内政治では、政府と政党が協力するようになった。 |
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68 |
166 | 表キャプション | ロシアは満州から兵力を引かず、1902年に大連まで開通したシベリア鉄道によって兵力を増強した。 | 誤りである。 | 削除 |
| 69 | 166 | 上左地図 | 京城 p.168 右上地図 京城 |
不正確である。 | 漢城 漢城 |
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70 |
166 | 側注@ | 中国の伝統宗教の流れをくむ義和団が、外国人排斥運動をおこし、宣教師や外交官を殺害、北京の各国大使館を包囲した。… | 義和団の性格について誤解するおそれのある表現である。 | 義和団は、郷村の自衛組織を基盤とした、中国の伝統宗教の流れをくむ組織で、外国人を排斥し、宣教師や外交官を殺害、北京の各国大使館を包囲した。… |
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71 |
169 | 左18-25 | 日本海軍の連合艦隊を率いる東郷平ハ郎司令長官は、1905(明治38)年5月26日、決戦の前日決断し、北九州、対馬間にある対馬海峡に全艦隊を出動させ待ち受けた。ロシア側は遠路の航海による疲労がはげしかったのに対し、この間、日本海軍はじゅうぶん休息をとり、砲撃の猛訓練でロシアの3倍の命中率を身につけた。 | 不正確である。 | 日本海軍の連合艦隊を率いる東郷平八郎司令長官は、1905(明治38)年5月26日までに、対馬海峡に全艦隊を集結させた。ロシア側は遠路の航海による疲労がはげしかったのに対し、この間、日本海軍はじゆうぶん休息をとり、砲撃の猛訓練をつんでいたので命中率を高めていた。 |
|
72 |
169 | 右2-5 | 「天気晴朗」とは濃霧のために敵を見のがすことがないことを意味し、「波高し」は射撃能力の劣るロシア艦隊の不利を知らせる言葉だった。 | 断定的に過ぎ、理解し難い表現である。 | 削除 |
| 72番の関連修正(文章をととのえるため) 同p,L左31〜右1 …作戦参謀の秋山真之はこれに一行つけ加えた。 「本日、天気晴朗なれど波高し」 |
…作戦参謀の秋山真之はこれに「本日、天気晴朗なれども波高し」の一行を付け加えた。 | ||||
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73 |
169 | 右28-32 | なお、東郷や陸軍大将の乃木希典は、戦後、敗れたロシアの将軍の助命のためにさまざまな努力をして、それに成功している。明治の日本にも、武士道は生きていたのである。 | 東郷や乃木の行動について、誤解するおそれのある表現である。 | なお、同じく日露戦争で活躍した陸軍大将の乃木希典は、戦後、敗れたロシアの将軍の助命のためにさまざまな努力をいとわなかった。明治の日本にも、敗者になさけをかけるという武士道は生きていたのである。 |
| 73番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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74 |
170 | 6-19 | 韓国併合 日本政府は、日本の安全と満州の権益を防衛するために、韓国の併合が泌要であると考えた。日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。1910(明治43)年、日本は、武力を背景に韓国内の反対をおさえて、併合を断行した(韓国併合)。欧米列強は、イギリスのインド、フランスのインドシナ、アメリカのフィリピン、ロシアの外モンゴルなど、自国の植民地車配を日本が認めるのと引きかえに、日本の韓国併合を認めた。 韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。 |
韓国併合に至る経緯について、誤解するおそれのある表現である。 | 韓国併合 日露戦争後.日本は鞍国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。欧米列強はイギリスのインド、アメリカのフィリピン、ロシアの外モンゴルなど、自国の植民地や勢力圏の支配を日本が認めることなどと引き替えに、日本が韓国を影響下におさめることに異議をとなえなかった。 日本政府は、日本の安全と満州の権益を防衛するために、韓国の併合が泌要であると考えた。1910(明治43)年、日本は、武力を背景に韓国内の反対をおさえて、併合を断行した(韓国併合)。 韓国の国内lこは、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。 |
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75 |
170-171 | 20-1 | 韓国併合のあと置かれた朝鮮総督府は、鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始し、近代化に努めた。 | 植民地政策の一環であることが理解し難い表現である。 | 韓国併合のあと置かれた朝鮮総督府は植民地政策の一環として、鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を午行い、土地調査を開始した。 |
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76 |
171 | 上囲み | 台湾の開発に力をつくした八田與一 台湾南部の嘉南平野は、・・・ 同p, L5〜7 日本は、日清戦争のあと日本の領土となった台湾でも、台湾総督府を置いて現地の開発に力をつくした。 |
日本の植民地政策の一環であることが理解し難い表現である。 | 台湾の開発と八田與一 日本の統治下にあった台湾の嘉南平野は、・・・ 日本は、日清戦争のあと領±とした台湾でも、住民の抵抗をおさえて台湾総督府を置き、現地の開発を行った。 |
| 76番の関連修正(コラムタイトル変更のため) p.3 目次 台湾の開発に力をつくした八田與一 |
湾の開発と八田與一 | ||||
| 同(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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| 77 | 171 | 13-14 | 翌年、南京に革命派の代表が集まって孫文を臨時太総統に選び、中華民国の成立を宣言した。 | 南京に革命派の代表が集まって孫文を臨時大総統に選んだ年を1912年とするのは誤りである。 | 同年、 南京に革命派の代表が集まって孫文を臨時大総統選び、翌年、中華民国の成立を宣言した。 |
| 78 | 181 | 上右地図 | 山東出兵(1914) | この出兵の名称が「山東出兵」であるかのように誤解するおそれのある表現である。 | 削除 |
| 79 | 181 | 7-13 | いっぽう、中国はドイツに宣戦布告し、青島からの日本軍の撤退を求めてきた。それに対し日本は、1915(大正4)年、ドイツがもっていた山東管の権益の引きつぎ、関東州の租借期限の延長などを中国に要求した。中国側は、列強の介入を期待して極秘の交渉内容を内外にもらし、5つの案件に正式な要求事項でないものをふくめて「二十一か条要求」名づけたので、中国国内の反日世論は高まつた。 | 21か条要求について誤解するおそれのある表現である。 | いっぽう、中国は青島からの日本軍の撤退を求めてきた。それに対し日本は、1915(大正4)年、ドイツがもっていた山東省の権益の引きつぎ、関東州の租借期限の延長などを中国に要求した。中国側は、日本人顧問の受け入れなど、秘密とされた要求事項(希望条項)の内容を、列強の介入を期待Lて内外に知らせ、「二十一か条要求」と名付けた。イギリスとアメリカは日本に抗議したが、日本は最後通告を発して、希望条項をのぞいて受け入れさせたので、中国国内の反日世論は高まった。 |
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80 |
182 | 5-8 | レーニンが指導する共産党が武装蜂起し、他の党派を無力で議会から排除して、労働者、農民、兵士を中心に組織された代表者会議(ソピエト)による政府をつくった。実際は、共産党の一党独裁であった。 | 時系列について誤解するおそれのある表現である。 | 武装蜂起したレーニンの派は、労働者と兵士を中心に組織された代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府をつくった。その後、他の党派を武力で排除し、みずから率いる共産党の一党独裁体制を築いた。 |
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81 |
185 | 3-4 | この動きはたちまち朝鮮全土に広まった(三・一独立運動)。朝鮮総督府は、その参加者多数を検束したが、その後、これまでの武力でおさえつける統治のしかたを変更した。 | 三・一独立運動について、誤解するおそれのある表現である。 | この動きはたちまち朝鮮全土に広まった(三・一独立運動)。このとき、朝鮮総督府は武力でこれを弾圧したが、その後は武力でおさえつける統治のしかたを変更した。 |
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82 |
186 | 左上写真説明 | 議会を無視したとして、1912年に成立した第3次桂内閣に抗議し、退陣をせまる人々(1913年2月5日)。 | 不正確である。 | 1912年に成立した第3次桂内閣に抗議し、藩閥政治に反対して退陣をせまる人々(1913年2月5日)。 |
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83 |
189 | 14-18 | この混乱の中で、朝鮮人のあいだに不穏なくわだてがあるとのうわさが広まり、住民の自警団などが社会主義者や朝鮮人を殺害するという事件がおきた。 | 社会主義者が殺害された理由について、説明不足で理解し難い表現である。 | この混乱の中で、朝鮮人や社会主義者のあいだに不穏なくわだてがあるとのうわさが広まり、住民の自警団などが朝鮮人・中国人や社会主義者を殺害するという事件がおきた。 |
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84 |
189 | 側注B | B同時に、援助に来たアメリカ艦船は、恵京湾で湾の深さを測り、木造住宅の多い東京の街が火災に弱いことを調査していた。 | 断定的に過ぎ、誤解するおそれのある表現である。 | 削除 |
| 84番の関連修正(文末の表現をととのえるため) 同p,L18〜20 関東大震災のとき、アメリカは日本に、救援物資として軍用の毛布を送り、日本人に感謝された。 B |
この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けた。 |
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85 |
192 | 14-17 | ロシア革命後、共産主義圏となったソ連門は、レーニンの死後、スターリンの指導のもとに、1928年から5か年計画が実行され、重工業の建設や農業の集団化が進められた。その過程で、スターリンは秘密警察や強制収容所を用いて、数百万の人々を処刑した。 | 1928年からの第一次5か年計画の時期のことであるかのように誤解するおそれのある表現である。 | ロシア革命後、共産主義国となったソ連では、レーニンの死後、スターリンが権力をlこぎった。スターリンは、重工業の建設、農業の集団化を進め、秘密警察や強制収容所を用いて、数百万の人々を処刑した。 |
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86 |
193 | 1-4 | 世界各国の共産党は、コミンテルンの支部と位置づlナられ、モスクワの本部の指示を無条件で実行し、各国の政府に対する破壊活動に専念した。 |
コミンテルン及び各国共産党の活動内容について,誤解するおそれのある表現である。 | 世界各国の共産党は、コミンテルンの支部と位置づけられ、モスクワの本部の指示を実行し、各国の政府を打倒しようとした。 |
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87 |
194 | 4-5 | 中国統一の動きは、日本が権益をもつ満州にも近づいてきた 。 | 1928年段階で、満州を含めた中国の統一がなされていないかのように誤解するおそれのある表現である。 | 中国統一の動きは、日本が権益をもつ満州にも到達した。こうした働きに対し、日本は、居留民保護を名目に3度にわたり山東地方に出兵した。 |
| 87番の関連修正(宇敷調整のため) 同p,L8〜10 …暴力によって革命を実現したソ連の共産王蓑思想の影響も受けており、過激な性格を帯びるようになった。 |
…暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受け、過激な性格を帯びるようになった。 | ||||
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88 |
194 | 10-11 | 日本に対しても、日本商品をポイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になった。 | 日本側の行動に触れずに記述しており、誤解するおそれのある表現である。 | 勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をポイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発こなった。 |
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89 |
194 | 16-20 | いっぽう、中国政府は、1928年、日本を含めた各国との不平等条約の無効を一方的に通告できるとする方鉾をかかげ、これを革命外交と称した。このため日本では軍部を中心に、国際協調の精神で中国に対処するのはむずかしいと考える人もあらわれ、幣原の外交を軟弱外交として批判する声が強くなった。 | 革命外交と日本との関係について、説明不足で理解し難い表現である。 | しかし、中国の排日運動はおさまらなかった。日本では軍部を中心に、中国に対する内政不干渉政策で対処するのはむずかしいと考える人もあらわれ、幣原の外交を軟弱外交として批判する声が強〈なった。 |
| 89番の関連修正(「革命外交」の単語がなくなったため) p.230 事項さくいん 革命外交・・・…194 p.195 囲み 中国の革命外交に対する幣原喜重郎の見解 |
削除 削除 |
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90 |
196 | 6-9 | 国民党による中国統一がせまるにつれ、中国人によぶ非日運動もはげしくなり、列車妨害や日本人学童への迫害などが頻発した。さらに日本にとって、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおよんできた。 上図 満鉄沿線で発生した事件の件数 |
排日運動の原因とその後の経緯について、理解し難い表現である。 | 関東軍が、満州の軍閥・張作霖を爆殺するなど満州への支配を強めようとすると、中国人による排日運動もはげしくなり、列車妨害や日本人への迫害などが頻発した。さらに日本にとって、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおよんできた。 こうした中、関東軍の一部将校は満州を軍事占領して問題を解決する計画を練りはじめた。 図・キャブシヨンとも削除 |
| 90番の関連修正(スペースの調整のため) p.197地図 満州事変と満州国の建国 【省略】 |
p.196 右上に移動 【省略】 |
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91 |
196 | 18-19 | 1932(昭和7)年3月、関東軍と現地人政治家によって満州国が建国され、のちに清朝最後の王であった溥儀が満州国皇帝の地位につけられた。 | 満州国建国の実態について誤解するおそれのある表現である。 | 1932(昭和7)年3月、関東軍は満洲国建国を実現し、のちに清朝最後の皇帝であった溥儀を満州国皇帝の地位につけた。 |
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92 |
197 | 8-9 | リットン調査団の報告書は、日本の安全と権益がおぴやかされていた事実は認めつつも、日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。 | 日本全体の安全がおびやかされていたかのように誤解するおそれのある表現である。 | リットン調査団の報告書は、満州に住む日本人の安全と権益がおびやかされていた事実は認めつつも、日本車の撤兵と満州の国際管理を勧告した。 |
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93 |
197 | 12-15 | 満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより急激な経済成長をとげた。中国人などの著しい人口の流入もあって、満州国建国はしだいに既成事実となっていった。 | 滴州国の実態について誤解するおそれのある表現である。 | 満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより経済成長をとげ、中国人などの著しい人口流入もあった。しかし実際には、満州国の実権は関東軍がにぎっており、抗日運動もおこった。 |
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94 |
198-199 | 16-1 | 共産党軍は圧倒的な兵力をもつ国民党軍に追いつめられ、消滅寸前の状態にあった。 これを救ったのは、満州地方の軍閥で、関東軍に追い出されひそかに共産党と結んだ張学良だった。張は、それまで忠誠を誓っていた蒋介石を、1936年、西安で監禁し、蒋介石に共産党と妥協し、日本と戦うよう要請した(西安事件)。 |
西安事件について誤解するおそれのある表現である。 | 共産党軍は圧倒的な兵力をもつ国民党軍に追いつめられた。 満州地方の軍閥で、関東軍に追い出された張学良は、蒋介石に共産党の討伐を命じられていたが、内心は共産党の抗日のよびかけに賛同していた。張学良は1936年、蒋介石を生産で監禁し、共産党との内戦をやめ、一致して日本と戦うことを認めさせた(西安事件)。 |
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95 |
199 | 1-3 | 共産党は息を吹き返し、共産党員が国民党の内部に入りこみ、日本を戦争に引きこむための破壊・挑発活動を活発に進めるようになった。 P.199, L4〜6 日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5干人の軍を駐屯させていた。 |
日中の開戦直前の状況について誤解するおそれのある表現である。 | 削除 一方、日本軍は満州国の維持や資源確保のために、隣接する華北地方に親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まった。また日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5干人の軍を駐屯させていた。 |
| 95番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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96 |
199 | 7-11 | 1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の廬溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝こも、中国側からの発砲が続き、戦闘状態になった(廬溝橋事件)。事件そのものは、ささいな摩擦にすぎず、現地解決がはかられたが、日本側との衝突事件が続発し、解決を困難にした。 | 事件について誤解するおそれのある表現である。 | 1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の廬溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおきた。これをきっかけに、翌日には中国軍と戦闘状態lこなった(廬溝橋事件)。事件そのものは小規模で、現地解決がはかられたが、日本側も大規模な派兵を決定し、国民党政府もただちに動員令を発した。こうして、以後8年間にわたる日中戦争が始まった。 |
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97 |
199 | 側注A | のちの東京裁判(→p.215)では、このとき日本軍が多数の中国人民衆を殺害したと認定された(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。 | 南京事件の実否について誤解するおそれのある表現である。 | このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。なお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。 |
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98 |
199 | 18-20 | しかし、蒋介石は奥地の重慶に首都を移し、抗戦を続けた。こうして、以後8年間にわたる日中戦争へ発展した。 | 日中戦争の開始時期および長期化の原因について、誤解するおそれのある表現である。 | 削除 |
| 98番の関連修正(日中戦争に関する記述を移動したため) p.199、L4廬溝橋事件 同p、L12 日中全面戦争へ |
廬溝橋事件から日中戦争へ 削除 |
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99 |
200 | 13-17 | そのころ、広大な植民地をもっていたイギリス、フランスなどは、本国と植民地との経済的な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自給自足をはかりつつ、他方で、高い関税をかけて圏外の商品をしめ出す政策をとった。これを、ブロック経済という。 | ブロック経済化が1930年代後半から始まったかのように誤解するおそれのある表現である。 | 一方、1933年ごろから、広大な植民地をもっていたイギリス、フランスなどは、本国と植民地との経済的な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自給自足をはかりつつ、他方で、高い関税をかけて圏外の商品をしめ出す政策をとっていた。 これを、ブロック経済という。 |
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100 |
201 | 2-7 | アメリカは、門戸開放、機会均等を唱えていたが、中南米地域については、他国の介入を許さなかった。他方、アメリカは、日本が独自の経済圏をつくることを認めなかった。日中戦争では、アメリカは表面上中立を守っていたが、近衛声明に強く反発し、それ以後、中国の蒋介石を公然と支援するようになった。日米戦争にいたる対立の一因は、ここlこあった。 | アメリカの政策および政策変更の要因について、誤解するおそれのある表現である。 | アメリカは、門戸開放、機会均等を唱えて、近衛声明に強く反発し、日本が独自の経済圏をつくること認めなかった。日中戦争では、アメリカは表面上中立を守っていたが、この前後から、中国の蒋介石を公然と支援するようになった。日米戦争にいたる対立の一因は、ここにあった。 |
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101 |
201 | 側注 | ソ連のスパイだったドイツ人のゾルゲは、近衛内閣の側近とつながりをもち、日本政府の政策が北進論から南進論に転換したことをいち早くソ連に通報した。これによって、ソ連はヨーロッパ戦線に戦力を回すことができた。 | 断定的に過ぎ、理解し難い表現である。 | ソ連のスパイだったドイツ人のゾルゲは、近衛内閣の側近とつながりをもち、日本政府の政策が北進論から南進論に転換したことをいち早くソ連に通報した。これによって、ソ連はヨーロッパ戦線に戦力を回すことができたともいわれている。 |
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102 |
202 | 地図 | アイルランドの部分の色分け 【地図省略】 |
不正確である。 | 中立国扱いで訂正する 【地図省略】 |
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103 |
203 | 上囲み | その背景には、人権差別に反対してきた日本政府の基本方針があった。 | 日本政府の方針について、誤解するおそれのある表現である。 | 削除 |
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104 |
203 | 4-12 | 1947年7月、日本の陸海軍はサイゴン(現在のホーチミン)に入った。これを南部仏印進駐(@)という。サイゴンは、日本の南進の拠点となる軍事上の重要地点だったので、危機感をつのらせたアメリカは、すぐに在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で報復した。8月、米英両国は大西洋上で会談を開き、大西洋憲章を発表して、領土不拡大、国境線不変更、民族自決など、両国の戦争目的をうたった。悪化した日米関係を打開するための日米交渉が、ワシントンで行われたが、進展はなかった。 | 日米交渉の時期について、誤解するおそれのある表現である。 | 1941年4月、悪化した日米関係を打開するための日米交渉がワシントンで始まったが、交渉lままきまらなかった。7月、日本の陸海軍はサイゴン(現在のホーチミン)に入った。これを南部仏印進駐(@)という。サイゴンは、日本の南進の拠点となる軍事上の重要地点だったので、危機感をつのらせたアメリ力は、すぐに在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で報復した。8月、米英両国は大西洋上で会談を開き、大西洋憲章を発表して、領土不拡大、国境線不変更、民族自決など、両国の戦争目欲をうたった。日米交渉は続けられていたが、進展はなかった。 |
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105 |
203 | 側注@ | @フランス領インドシナのこと。現在のべトナム。 | 不正確である。 | @フランス領インドシナのこと。現在のベトナム、ラオス、カンボジア。 |
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106 |
204 | 3-5 | これは、太平洋の制海権を獲得し、将来、東南アジアから日本へ石油などの物資を輸送する船の安全を確保するのが目的だった。 | 真珠湾攻撃の目的について、誤解するおそれのある表現である。 | この作戦は、アメリカの主力艦監を撃破して、太平洋の制海権を獲得することをめざしたものだった。 |
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107 |
206 | 8-17 | 日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、合わせてその緒東を示すため、1943(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開催した。この会議には、満州、中華民国(南京政府)(@)フィリピン、タイ、ビルマの代表と、自由インド仮政府のテャンドラ・ボースが参加した。 会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言が発せられ、各国の自主独立、相互の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたいあげた。この会議以降、日本は、欧米勢力を排除したアジア人による「大東亜共栄圏」建設を戦争の名目としてかかげるようになった。 |
大東亜会議に至る経緯及び大東亜共栄圏構想が出され た時期について、誤解するおそれのある表現である。 | 日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、合わせてその結束を示すため、1943(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開催した(@)。 会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言が発せられ、各国の自主独立、相互の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたいあげた。この会議以降、日本は、欧米勢力を排除したアジア人による大東亜共栄圏(←p.201)の建設を、戦争の名自としてより明確にかかげるようになった。 (大東亜共栄圏の太字とカギをはずす) |
| 107番の関連修正(本文の内容を側注にうつし、経過を明確にするため) 同p,側注 @日本は重慶の国民堂政府に対抗して、南京に日本に協力的な政府をつくっていた。 同p,下キヤプシヨン チャンドラ・ポース p.200, L20 .大東亜共栄圏(→p.206) |
@大東亜会議の出席国のうち、南京政府は、重慶の国民堂政府に対抗してつくられた日本に協力的な政府のこと。また、1943年、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、自由インド仮政府を承認した。 チャンドラ・ポース 自由インド仮政府の代表として大東亜会議に出席した。 大東亜共栄圏(太字に) |
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108 |
206-207 | 18-12 | アジア諸国と日本 日本は、占領した各地で軍政をしいた。現地の独立運動の指導者たちは、欧米 諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力した。 しかし、日本の占領地域は、日本に対する反発もあった。連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動もおこり、日本軍はこれにきびしく対処した。また、現地の人々に対して行った徹底した軍事訓練が不評をかうこともあった。とくに、戦争末期になり、日本にとって戦局が不利になると、食糧が欠乏したり、現地の人々が過酷な労働に従事させられる場合もしばしばおきた。 のちに日本が敗戦し、・・・参加する者もいた。日本の南方進出は、もともとは日本の「自存自自衛」のためだったが、アジア諸国が独立するにいたるまでの時計の針を早める効果をもたらした。 |
108 日本の占領地域の実態について、誤解するおそれのある表現である。 109 日本の戦争目的について、誤解するおそれのある表現. である。 110 アジア諸国の独立の経緯について、誤解するおそれの ある表現である。 |
アジア諸国と日本 この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えた。とくに中国の丘士や民衆には、日本軍の侵攻により多数の犠牲者が出た。 日本は、占領した東南アジアの各地では軍政をしいた。現地の独立運動の指導者たちは、欧米諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力した。 しかし、日本の占領地域では、日本語教育や神社参拝などをしいたことに対する反発もあった。連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動もおこり、日本軍はこれにきびしく対処し、一般市民も含め多数の犠牲者が出た。また、.戦争末期になり、日本にとって戦局が不利になると、食糧が欠乏したり、現地の人々が過酷な労働こ従事させられる場合もしばしばおきた。 (A) のちに日本が敗戦し、…参加する者もいた。日本の南方進出は、もともと資源の獲得を目的としたものだったが、アジア諸国で始まっていた独立の動きを早める一つのきっかけともなった。 Aこのため、敗戦後になって、日本は、これらの国々賠償を行った。そして、大東亜共栄圏の考え方も、日本の戦争やアジアの占領を正当化するためにかかげられたと批判された。 |
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208 | 14-18 | 朝鮮半島では、日中戦争開始後、日本式の姓名を名乗ることを認ぬる創氏改名が行われ、朝鮮人を日本人化する政策が進められていた。戦争末期には、徴兵や徴用が、朝鮮や台湾にも適用され、多数の朝鮮人が、日本の鉱山などで、きびしい、条件のもとで働かされた。 |
戦時下の植民地などの実態について、誤解するおそれのある表現である。 | 朝鮮半島では、日中戦争開始後、日本式の姓名を名乗らせる創氏改名などが行われ、朝鮮人を日本人化する政策が強められていた。戦争末期には、徴兵や徴用が、朝鮮や台湾にも適用され、現地の人々にさまざまな犠牲や苦しみをしいることになった。また多数の朝鮮人や中国人が、日本の鉱山などに連れてこられ、きびしし、条件のもとで働かされた。 |
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209 | 3-13 | 空襲の被害 P.211, L15 ・・・明治以後、日本の国民が初めて体験する敗戦だった。 |
学習指導要領に示す「内容」(5)の力「また、大戦が人類全体に惨禍を及ぼしたことを理解させる」に照らして、日本人の被害のみが記述されており、扱いが不適切である。 | (指摘箇所については変更なし) …明治以後、日本の国民が初めて体験する敗戦だった。 日本の降伏によって第二次世界大戦は終結した。大戦全体の戦死者は2200万人、負傷者は3400万人とも推定されている。 (また、p206に中国の犠牲、p207に東南アジアの犠牲を上の検定対応に合せて加えた。) |
| 112番の関連修正(字数調整のため) p.210、L18 そうとは知らずに |
そうとは知らず |
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210 | 10 | 5月、連合軍の侵攻を前にヒトう一は自殺し、ベルリンは廃墟となり、ドイツは無条件降伏した。 |
自殺の時期が誤りである。 | 連合軍がドイツに侵攻すると、ヒトラ一は自殺し、ベルリンは廃墟となり、5月、ドイツは無条件降伏した。 |
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211 | 上囲み | グルーの奔走で発表されたポツダム宣言は、日本を壊滅から救う助け船だった。 | 断定的に過ぎ、誤解するおそれのある表現である。 | グルーなどの努力もあり発表されたポツダム宣言によって、日本は壊滅をまぬかれた。 |
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212 | 15-17 | 民主化とよばれたこれらの改革は、すでiこ日本政府が計画していたものと合致し、矢つぎばやに実行されていった。 | 五大改革指令が、すべてすでに日本政府が計画していたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 民主化とよばれたこれらの改革のいくつかは、すでに日本政府が計画していたものと合致し、矢つぎばやに実行されていった。 |
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116 |
213 | 側注B | B占領軍が占領した国の憲法を変更させることは、ハーグ陸戦法規(→p.214)で禁じられたことだった。 | ハーグ陸戦法規の解釈について、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げている。 | 削除 |
| 116番の関連修正(側注がなくなったため) 同p, L5〜6 …憲法の根本的な改正を強くせまった。 B 同p. L7および側注C C |
削除 B |
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214 | 左13-右15 | 実際には、戦争で、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなく、日本も例外ではなかった。 ●空襲・原爆投下とシベリア抑留● 第二次世界大戦末期には、… |
第二次世界大戦に関わる惨禍と日本との関係について理解し難い表現である。 | 実際には、戦争で、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなかった。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して、不当な殺害や虐待を行った。 ●空襲・原爆投下とシベリア抑留● 一方、第二次世界大戦末期には、… |
| 117番の関連修正(上記の修正で地域にルビがついたため) P.214, L右27 地域 |
地域 |
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214 | 右29-32 | ファシズムと共産主義の犠牲者は、その数において、20世紀におこった二つの世界大戦の死者をはるかに上回ることを忘れてはならない。 | 犠牲者数の比較について断定的に過ぎ、誤解するおそれのある表現である。 | 二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしたが、その一方で、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な数の犠牲者を出したことも忘れてはならない。 |
| 118番の関連修正(スペース調整のため) 【省略】 |
【省略】 |
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215 | 右2-4 | GHQは、占領直後から、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、言論に対するきびしい検閲を行った。 p.200, L4 …1938(昭和13)年、国家総動員法が成立した。これによって政府は、議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限をあたえられた。 |
きびしい検閲が占領下でのみ行われたかのように誤解するおそれのある表現である。 | (指摘箇所は変わらず) …1938(昭和13)年、国家総動員法が成立した。これによって政府は、議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限をあたえられた。また、この時期には言論の統制や検閲なども強化された。 |
| 120 | 218 | 19 | ソ連は、キューバ対決の敗退後、1979年のアフガニスタン侵攻までのあいだは、西側の緊張緩和政策に同調しつつ、軍備増強に専念した。 | キューバ危機について誤解するおそれのある表現である。 | ソ連は、キューバ危機のあと、1979年のアフガニスタン侵攻までのあいだは、西側の緊張緩和政策に同調しつつ、軍備増強に専念した。 |
| 120番の関連修正(ソ連がキューバ対決にやぶれたことを先に明確にするため) 同p.L10 …米ソの間に核戦争がおこりかけた(キューバ危機)。 |
…米ソの間に核戦争がおこりかけたが、アメリカの強い姿勢を前に、ソ連はミサイルを撤去した(キューバ危機)。 | ||||
| 121 | 219 | 右囲み | 1954 鳩山一郎@〜B 日ソ平和条約 | 日ソ平和条約が締結されたかのように誤解するおそれのある表現である。 | 1954 鳩山一郎@〜B 日ソ共同宣言 |
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223 | 12-16 | 共産主義陣営の崩壊によって、世界規模の戦争の危険は去ったが、民族や宗教の対立をもとにした地域紛争はなくなりそうにもない。東アジアには、まだ共産主義の国家、あるいは共産党一党独裁の国家が残っており、この地域も大きな危険をかかえている。こうした中で、… | 説明不足で理解し難い表現である。 | 共産主義陣営の崩壊によって、世界規模の戦争の危険は去ったが、一部に共産主義の国家が残り、また民族や宗教の対立をもとにした地域紛争もなくなりそうにもない。 こうした中で、… |
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223 | 下欄外 | 1990年の湾岸戦争 | 誤りである。 | 1991年の湾岸戦争 |
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234 | Yahoo! JAPAN きっず http://kids.yahoo.co.jp/ | 特定の営利企業の宣伝になるおそれのある表現である。 | 削除 | |