誤った戦争観と「皇国史観」による歴史教科書
はじめに
一、骨格としての「自衛とアジア解放の戦争」という歴史認識
朝鮮植民地支配の位置づけ
中国への侵略とアジア解放戦争論
「アジア解放戦争論」のウソ
アジアの人々の独立への努力を無視
民衆の被害の位置づけと戦争責任
二、 「皇国史観」の復活
神話の大幅な登場
神話はロマンか?
皇国史観という大国主義
教育勅語を高く評価
おわりに
はじめに
文部科学省は、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)の歴史教科書に対して、先に述べたように「通すための検定」を行った。そのため、同書は多数の問題カ所を抱えたまま、教科書として認知され、学校現場で採択される名乗りをあげた。
「つくる会」の教科書が、とくに近現代史の部分で、検定によってかなり修正を受けたことも事実である。ところが、不徹底に終わっている場合が多いうえに、教科書の記述の骨格にあたる構成にはまったく手が付けられていない。語句の修正だけでは解決できない根本的な欠陥を、この教科書は抱えているのである。
さまざまな問題があるが、その最大のものをあげるとすれば、第一に、「自衛とアジア解放の戦争」という戦争観を主張していること、第二に、「皇国史観」に基づいて全般的な記述がなされていること、といえよう。以下、順を追って説明したい。
一、骨格としての「自衛とアジア解放の戦争」という歴史認識
朝鮮植民地支配の位置づけ
今回の検定は、「つくる会」教科書に対するアジアからの批判を受けて、ある程度改善された姿をみることができる。たとえば江華島事件の記述に、日本側の示威行動を原因とするニュアンスを盛り込ませたり、これをきっかけに結ばれた日朝修好条規についても「朝鮮側に不平等な条約」とする記述を挿入させた。韓国併合については、注意深く第三次修正まで行って手を加え、もとあった「東アジアを安定させる政策として欧米列強から(韓国併合を)支持され」「合法的に行われた」などの記述は完全になくなり、「日本は韓国内の反対を、武力を背景に押さえて断行した」という表現へと手直しされた。
ところが、かなり重大な未修正カ所があることに加えて、わずかな手直し程度では、全体的な記述の流れに置くとき、大きな問題となって立ち現れてくる場合がある。右の韓国併合のカ所についていえば、「日本政府は、韓国併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた」という表現を最終的に残すことを許した。これだけ読むと、あまり問題ないようにみえるかもしれない。しかし、日本の安全のために韓国併合の必要があったというこの「日本政府」の主張は、「つくる会」教科書の全体を通じて否定されていないどころか、逆に日本列島と朝鮮半島との地理的関係を論じる次のカ所と結びついて、大きな意味をもってくる。
つまり、『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』(五九ページ)でも批判したが、「朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器」という記述が白表紙本にあった。そのため日本は朝鮮を支配しなければならなかった、という主張なのだが、さすがにこれは検定によって削除された。ところが、「日本に向けて大陸から一本の腕が突き出ている。それが朝鮮半島だ。朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難となる」(52項)という記述が、そのまま残されたのである。このため、とくにロシアとの関係において、朝鮮の植民地化は日本の安全と防衛にとって必要であるという論理が、強調される構成になっている。
白表紙本にあった考え方を「朝鮮半島凶器論」と呼ぶならば、残されている考えは、「朝鮮半島吹き抜け通路論」(西尾幹二・藤岡信勝『国民の油断!』PHP研究所)とでも呼ぶべきものである。たとえば「朝鮮半島が、南下するロシアの吹き抜けの通路にすぎないことにも、日本は脅威を感じていました」(同書八〇ページ)などど書かれている考え方である。これは、大国の前に、朝鮮の人々をまったく無力とする見方であり、現実に朝鮮の人々が日本とロシアに対して自立した行動をとり続けてきた事実がまったく抜け落ちる。日本の側からしても、ロシアとの関係で韓国の中立政策を進めたり、同盟関係を確立するなどの方策をとりえたのだが、この考え方では、そうした政策の選択可能性も、したがって反省の方向性も見えてこない。
「朝鮮半島吹き抜け通路論」は、朝鮮半島に住む人々を主体性の欠如したものとする差別的な見方であり、歴史的にもアメリカやフランス、また日本の侵略などに対して、粘り強く抵抗を繰り返し、多く成功を遂げてきた事実を抹殺するものである。そして何よりも、右の朝鮮半島の中立化にさえ反対し、一貫して侵略政策を進めてきたのがほかならぬ日本であった事実を逆転させ、侵略を自衛と偽り、加害者を被害者と言い換え、歴史を歪めるものである。
中国への侵略とアジア解放戦争論
「つくる会」教科書に対する検定が、中国に対しても、ある程度の配慮をもって行われた形跡は見える。たとえば、白表紙本になかった一九三七年の「南京事件」が、二次にわたる修正をへて、日中戦争に追加された。括弧に入れられた文章だが、「このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者がでた。南京事件」という記述が、かろうじて登場したのである。また「南京事件」は、ふたたび極東国際軍事裁判の項に登場し、「東京裁判では、日本軍が一九三七(昭和一二)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)」ともしている。(東京裁判における同事件に関する記述は白表紙本にもとからあったもので、そこには「二〇万人以上」の殺害を認定した、という記述があったのだが、右のように修正では削除された。また白表紙本にあった、「戦争だから何がしかの殺害があったとしても、ホロコーストのような種類のものではない」という記述はなくなった。)
ところが、右の直後に、「なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」と、批判の余地があるものとして記述している。現場の教師は、この記述を使って、「南京大虐殺まぼろし論」を展開することが可能となった。とくに「教師用指導書」と呼ばれる分厚い「虎の巻」が、教科書には必ず付属する(完成は来春)。多くの教師がこれを使って授業を組み立てているのが実際である。指導書に検定はまったく加えられず、「つくる会」の教科書の執筆者たちは(これまでの彼らの主張によるかぎり)、ここぞとばかり南京事件への批判を書くことが予測される。
満州事変について、「つくる会」教科書はどのように記述しているのだろうか。要約すればこの場合も、中国との関係で日本を「被害者」とみて、「自衛戦争論」を主張しているといってよい。たとえば、「日本の運命を変えた満州事変」(「中国の運命を変えた…」ではない!)という表現(65項)がなされている。その意味するところは、その直前の項で「中国の排日運動」が書かれ、「中国に権益をもつ外国勢力を排撃する動きが高まった。それは中国のナショナリズムのあらわれであったが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響を受けていたので過激な性格を帯びるようになった」とする。これについて「日本は中国に対してもっとも寛大な態度をとった」が、蒋介石が不平等条約撤廃の革命外交などを仕掛けたため、「日本では軍部を中心に、国際協調の精神で中国に対処するのは難しいと考える人も出てきた」とするのである。つまり責任は、あくまで中国にあるというニュアンスである。
そして、「満州にはすでに二〇万人以上の日本人が住んでい」て、「北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおよんできた」と、ソ連と国民党の「脅威」のもとで、柳条湖事件が起こったとする。同事件については、さすがに「関東軍がみずから爆破したものだった」と書いてはいるが、「リットン調査団の報告書は、満州における不法行為によって日本の安全がおびやかされていることは認め、満州における日本の権益を承認し」たとする。
リットン報告書とは、「疑いもなく中国の領土であった広大な地域が、日本軍隊によって暴力をもって押収かつ占領された」(外務省編刊『日本外交文書 満州事変(別巻)』)と結論づけたものであり、したがって日本軍の行動を「合法なる自衛の措置と認めることを得ず」としたのであった。「つくる会」の教科書は、この部分にも触れているが、付属的な記述にしている。
そして、もっとも肝心と思われることは、先の南京事件や右の満州事変、そして日中戦争を記述した直後に、「つくる会」教科書は次のように書き、当時の日本政府そのままに主張していることである。「一九三八年、近衛文磨首相は東亜新秩序の建設を声明し、日本・満州・中国を統合した経済圏を作ることを示唆した。これはのちに東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンに発展した」と。
「つくる会」の教科書は、それまで日本がカイライ国家である「満州国」をうち立て、中国を侵略する戦争をつづけてきたことを、ここで新たに「大東亜新秩序のための戦争」の中に位置づけ、「アジアを解放するための戦争」へと結び付けていくのである。こうなると、南京事件をふくむ中国の被害はそのための犠牲にすぎないことになり、アジア解放という戦争目的のもとに組み込まれ、軽視されていくことになる。
対米戦争も、右と同じ基調で語られている。アメリカが「日本が(満州・中国を含めて)独自の経済圏を作ることを認めなかった」ことがまずあり、次に「日米戦争にいたる対立は、直接にはここ(大東亜新秩序の構想にアメリカが反発すること)から始まった」とする。そして、「日本を経済的に追いつめるABCD包囲網が形成」された中、右の目的のもとに「力をつけてきた日本とアメリカがついに対決」したのが日米開戦であり、「日本政府は…日本の戦争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、『大東亜共栄圏』を建設することであると宣言した」と、高らかに述べる。戦中であればいざ知らず、現在の教科書に書くべき内容ではない。
こうした反米姿勢は、『いらない!…』でも明らかしたように、「つくる会」の教科書の随所に見られ、検定によってトーンが落ちている面はあるが、日本の戦争がアメリカから「自衛」するためであったという論調は消えていない。
「アジア解放戦争論」のウソ
では、日本による戦争は、本当にアジア解放戦争だったのか?
「つくる会」の教科書は、「大東亜戦争」の語を使用する。この言葉は、一九四一年(昭一六)から四年間の日本による戦争の呼称として使用されたものだが、足掛け一五年にわたって継続する中国との戦争も、右のように最後の時期はそこに加えられた。この言葉は、当時日本が「大東亜新秩序」をめざす戦争であるとしてそう呼んだにすぎないもので、本来の目的そのものがあいまいであった。「つくる会」の教科書は、これが現実にアジアの独立を目的としたものであり、またそれを実現したとも明言する。そして、これが戦後のアジアの独立の刺激になったとも主張している。そのため、「つくる会」の教科書の見解を「アジア解放戦争論」とここでは呼び、それと現実の戦争の実態を比較することにしたい。
「つくる会」の歴史教科書に「アジア解放戦争史観」がもっとも典型的に登場するのは、「大東亜会議とアジア諸国」の項(69)であろう。「大東亜会議」といえば、今日の歴史研究では、日本の戦争目的が虚構であることを示す「茶番」とさえ言われる。それをわざわざ大きく項目を立てて取り扱い、一九四一年の日本軍の緒戦の勝利がアジアの人々を勇気づけたのみならず、人々の期待に応えビルマ、フィリピンなどを独立させ、各国の自主と経済協力、人種差別撤廃などが「日本の戦争理念」であったと記述してはばからない。
右は検定前の白表紙本ではない。検定を受け、より悪化した典型的なカ所である(文部省は、白表紙本に対して検定意見は付けるものの、代わりにどのような文面にすべきかを通常は指示しないため、執筆者の書き換えが再提出されてこのようなことが起こる)。こうした記述を検定官が素通りさせたことは驚きですらある。歴史事実においても、またその評価においても、こうした記述の正当性を維持することは不可能であろう。
たとえば、まず当時の日本の戦争目的を示す公文書には、そのどこにも「アジアの放」を意味する文言は見られない。反対に、開戦の直前の一九四一年一一月二〇日には、一般国民には知られないように、戦争目的を示す次のような極秘文書(「南方占領地行政実施要領」)を作成していた。
占領地に対しては、差し当たり軍政を実施し、治安の回復、重要国防資源の急速獲得、および作戦軍の自活確保に資す……国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民生に及ぼさざるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ……独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす
つまり、戦争目的の第一に、石油やゴムなど戦争のために資源を獲得することと、日本軍による現地支配の安定と自活がうたわれている。日中戦争と対米英戦争を支えるために資源を確保し、現地の負担の上で日本軍をアジア各地に配備することが目的なのであった。これをはじめとして、当時の日本軍の戦争目的に、アジア解放を示すものは一つも見つかっていない(木坂順一郎「日本軍の東南アジア侵略と『独立』政策」『アジアの声』第一三集)。
ところが、戦局が不利になり、アジアの人々の協力が必要になると、一九四三年「大東亜政略指導大綱」を作成し、アジアの人々がもつ独立・解放への意欲を利用するため、形式的な「独立」政策を打ち出した。これにもとづいて、先の「大東亜会議」を開くいっぽうで、マラヤやインドネシアなどは、しっかり日本の「帝国領土と決定し、重要資源の供給地として」保持しつづけることを確認、後者は部外秘とした。
右の形式的な「独立」政策を打ち出した目的がどこにあったかを、ビルマと「独立」条約を結ぶ直前に、東条英機は次のように述べていた。
ビルマ国は、子供というよりむしろ嬰児なり。一から十まで我がほうの指導の下にあり。それにもかかわらず(日本とビルマの)本条約が形式的対等となり居るは、ビルマ国を抱き込む手段なり。 (田中伸尚『ドキュメント昭和天皇』)
日本によるアジアの「独立」政策とは、すでに二〇世紀初頭から始まっていた植民地解放運動に押されたイギリス、アメリカやフランスなどが、自治や独立を約束し始めていた状況に対応したもので、英米仏より好条件をちらつかせて人々を引きつけるための手段(空手形)なのであった。したがって、東条は「独立」の内容についても、「大東亜圏内には外交なし」と強調していた(前出木坂論文)。たとえ「独立」させたとしても、外交権さえ持たせないのである。つまり、ビルマやフィリピンの「独立」とは、国としての自立した外交権をもたず、その「国内」で日本軍が勝手に行動でき、現地の人々の労働力や食料、資源などを自由に徴発することができるものであった。
こうして、日本の独立政策に期待していたビルマのアウンサンなどは、むしろ「独立」させられた結果、裏切られたことを知り、以後、彼は日本に対して反旗をひるがえし抗日へと転進、崩壊する日本軍を最後は追放する立場となった。フィリピンでも、日本による「独立」政府に協力した人々は、民族の裏切り者として、戦後五〇年余を過ぎて今もなお、名誉を失ったままである。
実際のところ、もし日本の独立政策が本物であったなら、東南アジアを「独立」させる前に、まず台湾や朝鮮、満州国を解放した筈である。また、それを唱えた時期、中国で「三光作戦」(日本では燼滅掃蕩作戦)などという非道な戦争をやったりはしなかったであろう。「アジア解放戦争論」とは、子どだましの言いぐさである。
こうした虚偽の記述は、本来ならば近隣諸国条項に抵触するものとして、素通りさせるべきでなかった。だが、日本のおかげで「独立」させられたというビルマやフィリピンなどは、あたかも配慮すべき「近隣」には属さないかのようである。
アジアの人々の独立への努力を無視
ただ、「つくる会」教科書が、東南アジアをふくめてアジアの被害について、まったく触れていないわけではない。先の記述に続いて「日本語教育や神社参拝が強要された」、あるいは「過酷な労働に従事」などの表現もわずかに見られ、「このため、敗戦後になって、日本は、これらの国々に賠償を行った。そして、大東亜共栄圏の考え方も、日本の戦争やアジアの占領を正当化するためにかかげられたと批判された」ともしている。
ところが、最後に大きくスペースを割いて、次のように記述する。「日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し、一九四九年独立を達成した」「日本軍と協力した…インドは一九四七年、イギリスから独立した。そのほかにも、ビルマは戦後、植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った」。そして、「日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった」と締めくくる。「結果として良いこともやった」という「結果解放論」を主張しているのである。
しかし、戦後のアジアの独立とは、アジアの人々がそれぞれの宗主国と困難な中で戦い、勝ち取った成果であることを基本的な見方としなければならない。たとえばインドネシアでは、まず戦争中は、オランダと日本の双方が戦争していることを利用している。時には日本につき、陰ではオランダに協力して、自らの力を蓄える方針(日本による戦闘訓練を勝ち取ったことも含め)をとった。「日本によって訓練された」のでなく「日本に訓練させた」のである。日本が連合国に負けても、民衆は落胆するどころか、逆に、スカルノに対して即座に独立宣言を行うよう圧力をかけて、オランダとの戦いに突入する。もし、「つくる会」の教科書がいうように、インドネシアの人々の独立への意欲が日本軍のおかげであるとするならば、人々は日本の敗戦により落胆して立ち止まり、さらなる独立への動きをやめていたはずであろう。
その後、インドネシアの人々は、オランダとのあいだで、日本軍の占領期間の三年半より長い四年間もの流血の独立戦争を戦った。とはいえ、困難な戦いは、敗北する直前まで追い込まれていった。そこに、アメリカと国連がオランダに強い圧力を加えたのである。これにより、インドネシアは最終的に独立を勝ち取ることができたのである。戦後アジアの背後には、こうしたアメリカのアジア政策を見なければならないし、何よりもそれを引き出した、インドネシアの人々の戦いの成果なのであった。
もし仮に、日本軍が敗北せず、インドネシアに居座り続けたならば、どうなっていただろうか? 日本の「領土と決定し、重要資源の供給地」と決めていたインドネシアが独立することは、絶対にありえなかったのである。ただし、その後日本は、さらに戦局が窮地に陥ると、ついにインドネシアをも形式的に「独立」させようとしたのも事実である。これは、日本の敗戦により実現しなかったが、この場合も、日本が軍事的に完全に追いつめられたため、インドネシアの人々の独立への意欲を日本の戦争へと「抱き込」もうとする窮余の一策であった。
また、万が一、日本がアメリカや連合国に戦争で勝利していたなら、戦後にオランダと戦って敗色濃かったインドネシアの独立勢力が、アメリカの働きに助けられるようなことも、もとよりありえなかったことになる。つまり「結果解放論」も、まったく成り立たないのである。(この項に書いたことは、拙稿「アジア解放戦争論の系譜」『季刊・戦争責任研究』二六号に詳しい)
民衆の被害の位置づけと戦争責任
「つくる会」の教科書は、植民地の人々や日本人の被害について、少しは触れている。台湾や朝鮮からの徴用や徴兵についても、検定の結果、少し記述されるようになった。戦時下の耐乏生活や勤労動員、学徒出陣、玉砕、特攻隊なども記されている。しかし、それらは、「多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」と、戦争への協力と位置づける構成になっていて、沖縄については、「ひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦っ」たと、事実に反することまで書いている。これらは、「自衛とアジア解放の戦争」への協力として、その犠牲が位置づけられていることに注意すべきだろう。戦争そのものを疑問視したり、それに反対する方向性はここには皆無である。
また、右の被害の記述に関連して、戦争を容認したり推進していった軍部や天皇、また政府の中枢などの責任について、ほとんど触れていない。逆に昭和天皇は、二・二六事件を鎮圧し、終戦の聖断を行ったという、「美談」の主として、二度登場するだけである。そして民衆は、たとえば満州事変について、「政府の弱腰な外交方針に不満をつのらせていた国民は関東軍の行動を熱烈に支持し…関東軍は満州国建国を宣言し」た、と結論づけ、その責任を民衆に押しつける方向さえ打ち出している。関東大震災における「社会主義者や朝鮮人・中国人を殺害」したのも、すべて「住民の自警団など」の責任とし、大杉栄の虐殺や亀戸事件をはじめ、社会主義者の殺害における憲兵や警察・軍隊の今日明らかな役割さえ記していない。
二、 「皇国史観」の復活
神話の大幅な登場
「大東亜共栄圏」という言葉は、一九四〇年に近衛内閣が基本国策要綱を公表した際、松岡洋右によって使われたもので、同要綱には次のように書かれていた。
皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく)の大精神に基づき…皇国を核心とし日(本)満(州)支(那)の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するにあり
「八紘を一宇とする」とは、天皇が世界を一つの家にするという意味で、「肇国の大精神」とは、『日本書紀』に、九州の日向から神武天皇が東征し、奈良・橿原の地で、最初の都を造り、国を肇(はじめ)るよう命じた神話にみえるものである。
ところで、この「神武東征」神話が、「つくる会」の教科書に丸一ページを使って登場した。これを大東亜戦争観の復活と合わせて考えるとき、大きな意味をもってくる。そのほかにも、神話が全体で七ページ、解説も含めると九ページにおよんでいることは、『いらない!…』でも紹介した。しかも、その配置は、歴史事実と交互に読み進むよう構成されており、神話と史実を混同しかねない構成になっている。今回の検定は、この神話の大量の登場そのものと、記述上の構成にはほとんど手をつけなかった。昭和天皇は、神武天皇から数えて「第124代」とさえ紹介された。
右の「神武天皇の東征」の神話は、「神功(じんぐう)皇后の三韓征伐」の神話とともに、戦前の教科書にはかならず登場したもので、日本にかんする神がかった傲慢な考え方や、海外を侵略することの正当性を、子どもたちの頭脳に焼き付けるうえで、はかりしれない大きな働きをしたものである。今回はさすがに、新羅・高麗・百済の「三韓」を征伐し、日本を神の国として朝貢させるようにさせたとするする「神功皇后神話」は登場させなかったが、これだけ大量の神話記述があふれた教科書が認められた以上、次回の検定申請時には、加えられる可能性が出てきたといえる。
神話はロマンか?
神話が教科書に全面的に登場したことは、はなはだしく危険な性格を持っている。戦前への反省に立ち、戦後の教育が、「史実と神話とを混同したような歴史的な記述を排斥し、厳格に事実に基づかなければならないという方向で歴史教科書の編纂を致さねばならない」(一九四六年九月、貴族院での田中耕太郎文相の発言)としてきたことを清算するものだからである。今回検定を通過した他の七社の教科書は、先史時代について、考古学の成果などを積極的にとりいれ、大きく写真や地図などを使い、文字のない世界を視覚で補うことにより、迫力ある古代史像を提供しようとしている。こうした歴史学の蓄積を基礎にしたほとんどの教科書と、「つくる会」の復古的で貧しい神話イメージによる教科書の対照的な差は、手にとれば歴然としている。
神話の登場を、「ロマン」などと感じるむきもあるかもしれない。しかし、その内容をつぶさに読むとき、右のような海外への差別意識のみならず、女性や障害者などへの強い差別意識が貫かれていることを見逃すことはできない。今回の教科書にも登場した、「イザナキの命とイザナミの命の二神が性の交わりをして生まれた子供が淡路島…本州だった」という神話は、もとはその前に、女性であるイザナミが先に男性であるイザナキに声をかけて夫婦の交わりをしたため、障害者(「蛭子」)が産まれたという話がある。これが障害者と女性への差別であることは、すでに多方面から指摘されている。私たちはこうした視点から、改めて神話の意味そのものを再検討する必要があろう。
皇国史観という大国主義
皇国史観とは、天皇を中心とする国家主義的な歴史観のことであるが、その特徴は、右のように海外に対しては尊大であり、国内では弱者や民衆一般に対して差別的である。戦前においては自国を「万邦無比の国体」と呼んで侵略戦争をすすめるとともに、国内では非民主的な国家主義を支えるものとなっていたことは、あまり説明を要しないことかもしれない。ただ、「つくる会」の教科書が、右の神話の復活にとどまらず、さまざまな事例を通じて皇国史観にもとづいて記述されたことは、大きな特徴である。
「三韓征伐」などにみられるアジアへの蔑視は、日本に古くから見られるもので、律令制などを当時の中国から輸入する過程で、日本の天皇制は大国主義的な考え方も輸入したのである。したがって当時、周辺諸国や民族を「蕃国」や「夷狄」などと侮辱する考え方が、多くみられる(上田正昭『帰化人』第四章)。神話はその表れの一つなのである。「つくる会」教科書が、「日本列島では、四大文明に先がけて一万年以上の長期にわたって続いていた、『森林と岩清水の文明』があった」とか、「縄文文明」などと大言壮語して笑いものになったが(『いらない!…』第一章)、こうした誤った尊大な自己意識も皇国史観の特徴である。
検定は、さすがに右の「縄文文明」を「縄文文化」に、「森林と岩清水の文明」を「森林と岩清水の生活文化」へと改めさせた。しかし、「四大文明はいずれも、砂漠と大河の地域に発展した。それに対し、日本列島では、森林と岩清水に恵まれた地域に一万年以上の長期にわたる生活文化が続いていた」と、四大文明と日本の「生活文化」とを対比・比肩させる考え方は残している(これは「皇国地政学」とも呼ばれる)。そのため、すでに『いらない!…』の第一章でも指摘したが、仁徳天皇陵の広さを、それより三〇〇〇年以上も前に造られたピラミッドと比べたり、秦の始皇帝陵から兵馬俑をはずして墓部分とだけ比較させて、「大きかった」とする詐欺まがいの「墓くらべ」の記述(6項)も残した。今後このカ所は、国際的な笑いものとなり、文部省は赤恥をさらすことになるだろう。
教育勅語を高く評価
教育勅語の全文を掲載した上で、高い評価を与えたことも、皇国史観の表れである。この点は、戦前の教育への回帰という意味からも非常に問題が大きい。戦後直後に、衆議院は「教育勅語等の排除に関する国会決議」をあげ(一九四八年六月)、勅語の「根本理念が、主権者並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、かつ国際信義に対して疑点を残すもととなる」とされた。参議院も同じく「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行い、以後は勅語の謄本などを学校現場から回収することになったのである。
教育勅語が、「朕惟うに、我が皇祖皇宗、国を肇むること…」と八紘一宇の建国神話から始まり、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壤無窮の皇運を扶翼すべし」と、危急の際(戦争を含む)には天地無限にひろがる天皇の働きを助けるよう命じていることに注目すべきであろう。衆院の議会決議が「国際信義に対して疑点を残す」としたのは、的を得ている。この観点からすれば、本来、教育勅語も近隣諸国条項にもかかわるものである。
しかし今、「教育勅語には良いところもある」という意見が散見せられる。似たような議論は、右の当時もあった。国会決議に大きく寄与した羽仁五郎議員(歴史学者でもある)が、議会での発言において、神がかり的な教育勅語の奉読風景を思い起こさせつつ、「この(教育勅語の)ため、国民があることを正しいことであるか、間違ったことであるか…自分で判断する習慣を失うことが非常に有害であった」と批判したことは注目される。彼がそれについて、ある高校で講演した際、「羽仁先生は教育勅語は非常に有害なものであったといわれるけれども、あれに書いてあることは、兄弟は仲良くしろ、父母は大事にしろ、夫婦は愛し合えということだし、少しも間違っていないじゃありませんか」という質問を、ある教師が寄せたという。これに対して、羽仁は、相手が数学の先生であったので、「それじゃあなたは『朕思うに三角形の内角の和は二直角である』というふうになってもいいんだね」と尋ねたという。「それはちょっと違う」と口ごもったところへ、羽仁は次のように答えたという。
三角形の内角の和が二直角というのはたしかに正しい。しかし、その上に『朕思うに』がつくと問題は別になってしまう。『父母に孝に、夫婦相和し、朋友相信じ…』というのは、三角形の内角の和は二直角というのと同じようなものだ。そして、これらの道徳を守れと天皇が命令しているのだ。
(和仁廉夫『歴史教科書とナショナリズム』)
教育勅語は、天皇(朕)が国民に対して「我が臣民」「なんじ臣民」「朕の忠良の臣民」などと臣民の語を繰り返し、天皇が一方的に命令する形式をとっている。天皇を神とし、国民はそれに仕える「臣民」に位置づけられ、「兄弟・夫婦は仲良くする」ことまで天皇が命じるものである。これは確かに、先の衆議院決議や羽仁五郎がいうように、国民の基本的人権を侵害し、主権在民の原則に反するものであろう。語られている「良いこと」にしても、文脈として、危急の際は天皇を助けるという目的へと結びつけられていることが問題である。また、男尊女卑の当時にあって「夫婦相和」すことがどのような負担を女性に強いるものであるかなど、社会的な文脈からも批判されねばならないだろう(高嶋伸欣『教育勅語』岩波ブックレット)。
今回の検定は、「つくる会」の教科書が教育勅語の全文を掲載したことにまったく手をつけなかった。勅語が「近代日本人の人格の背骨をなすものとなった」と、高く評価した本文の記述に対して、その直前に「一九四五(昭和二〇)年の終戦にいたるまで」という期間を限定する語句が加えられただけで、勅語への高い評価は変わっていない。むしろ戦後は「人格の背骨」が崩壊したとさえ読める。現実に後書きでは、「日本人は自分の足でしっかりと立たなくてはいけない時代なのだが、残念ながら戦争に敗北した傷跡がまだ癒えていない」と結論づけている。
おわりに
「つくる会」の教科書への検定をつぶさに吟味するとき、検定を合格したことへの怒りを通り越して、感慨に近いものを抱いてしまうことがある。以上述べた二つの大問題以外にも、もともと歴史教科書として「支離滅裂」であり、「よくこんなものを検定官が認めたものだ」と感じるからである。
その一端は、「歴史を学ぶとは」と題される同書の序文にあたる基本的な執筆上の原則を示すカ所にある。「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである」と、断言することからそれは始まる。
右の主張が意図するものは、今日から見ると空想にすぎない「神話」や、後になって考えてみれば「侵略戦争」にすぎなかったものを、その当時の人々が「事実」と錯覚したり、「聖戦」と信じていたことを、教科書に肯定的に書くための枠組み作りである。
また、「歴史は民族によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではない」とも書く。つまり、歴史に普遍的な基準はない、と主張しているのである。この記述の意図するところは、アジア諸国と日本との植民地や戦争に関する認識の違いを正当化することなのであろう。
検定は、序文のこうした記述にまったく手を付けなかった。(ただ、「歴史は科学ではない」とあった一文を削除し、他にあまり重要でない一カ所に、わずかに手を入れただけである。)
ところが、「つくる会」の教科書の本文には、右の原則に反することばかりでてくる。たとえば「原始と古代の日本」とか「律令国家の成立」などの用語が(当然にも)頻出する。しかし、原始時代に「原始時代」の言葉はもちろん、「日本」さえなかった。「律令国家」などという用語も、当時の人々は使わなかった。これらはすべて、「今の人がどう考えているか」というところから出てくる記述である。
当然のことである。E・H・カーが述べるように、歴史とは「現在と過去との(間の)尽きことを知らぬ対話」(『歴史とは何か』岩波新書)であり、現在からの視点を排除して歴史を描くことはできない。
しかし、「つくる会」の教科書は、自分に有利になったり、逆に都合が悪くなると、が然、序文に掲げられた原則を破ってはばからない。たとえば、「飛鳥・奈良時代の仏像には、風土や宗教を超えた普遍的な人間の姿が表現された」と、急に歴史における「普遍的な基準」を登場させたり、東京裁判についても、「今日、この裁判については、国際法上の正当性を疑う見解もある」と、現在からの評価を前面に押し出す。
支離滅裂とはこのことであろう。矛盾に満ちたこの教科書は、本文の大半に改訂を加えるか、あるいは序文という教科書のもっとも基本となる執筆原則を変えるしかないのである。それはつまるところ、これが教科書として、基礎的で基本的な要件を欠いており、もともと検定を通るような教科書でなかったことを意味しているのである。
了
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