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ニュースペーパー2009年4月号

2009年4月 1日

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【インタビュー・シリーズ その33】
光州闘争から韓国の自由と人権、民主化はじまる
「全羅南道庁保存のための共同対策委員会」活動家に聞く

 

【韓国・全羅南道庁保存のための共同対策委員会】
 1980年5月18日~27日の10日間にわたって、韓国南西部の全羅南道・光州市では、民主化を求める市民、学生、労働者たちと軍(戒厳令軍)の壮絶な闘いが繰り広げられました。その後、韓国では民主化が勝ち取られ、今でも光州は民主化運動の聖地とされています。しかし、光州民主化闘争で投入された軍隊に対して市民が最後の抵抗拠点とした「全羅南道庁舎」(日本でいう県庁)は、現在、再開発(国立アジア文化センターの建設計画)により取り壊されようとしています。そのことに対して、当時そこに立てこもり抵抗した人々を中心に庁舎の保存が訴えられ、「全羅南道庁保存のための共同対策委員会」が結成され、庁舎前での座り込みなどが続けられました。このたび、平和フォーラム・原水禁の招きで、同委員会の活動家4人が来日し、各地で交流会がもたれました(2月28日~3月7日)。その4人に話を聞きました。《写真右から》▽金起光(キム・キクァン)=1962年生。当時高校3年生。現在、共同対策委員会・実務幹事、▽金公休(キム・コンヒュ)=1960年生。当時大学2年生。現在、共同対策委員会・代弁人、▽安盛玉(アン・ソンオク)=1963年生。当時高校2年生。現在、共同対策委員会・対外協力局長、▽李載春(イ・ゼチュン)=1959年生。当時現役軍人身分。現在、共同対策委員会委員長(インタビューは4人に行いましたが、構成上、まとめました)。

──まず、1980年5月の闘争体験からお話しください。
 当時はまだ幼かったので、政治とか政府に対して無関心だったのですが、偶然にも街に出て、大学生や兄たちが闘う姿を見ました。それに対して戒厳令軍の兵隊があまりにも残酷に鎮圧したりすることを目撃し、これはおかしいと思って参加することになったのです。闘いの主な要求は、戒厳令撤廃と金大中氏の釈放、そして全斗煥軍事政権の退陣などでした。
 当時、光州市の人口は70万でしたが、若者は市民軍として銃を持ち、おばさんはおにぎりを作ったり、年寄りの人は交通整理をしたり、ほとんどの市民は何らかの形で闘争に参加したと思います。「自由光州」としてある種のコミューンも生み出され、無政府状態なのに、犯罪率がほぼゼロでした。それは今でも誇りに思っています。

──しかし、最終的には軍に押しつぶされ、多くの犠牲者が出て、皆さんも逮捕されました。
 政府などは、「死亡者154人、行方不明者70人、負傷者3,208人、連行者・拘禁者1,628人など合わせ約5,000人の被害が発生した」としていますが、少なくても、死亡者は500人から1,000人くらいではないかと思います。私たちは最後まで闘うことを決め、道庁に立てこもりましたが、5月27日の朝8時ごろ、戒厳軍に逮捕されました。牢屋に入れられ、生涯経験できないような拷問を受けました。棍棒で頭や手足を殴られたり、水の中に顔を押しつけられたりしました。他のところへ移送されると、また新しく拷問を受けました。今でもその傷が手や頭に残っています。その後、軍法裁判を受けて、1,500人くらいが刑務所に入りました。

──その光州闘争から30年近くなるわけですが、皆さんにとってあの闘いは何だったのでしょう。
 あそこで亡くなった人たちのことを考えたら、今でも胸が痛いです。亡くなった人たちは何も言わないけれど、私たちを見て何を言いたいのだろうかといつも考えるんです。当時は軍事政権による暗鬱な時代だったのですが、市民共同体として、一致団結して立ち上がりました。その市民の精神があったからこそ、いま私たちが共有しているこのような自由の権利が得られたと思います。以前は夜は通行禁止、男は髪も長くできなかったし、女性はミニスカートもダメでした。海外に出るのも自由ではなかったのです。
 光州の闘いを契機として自由と人権、民主化を勝ち取ったことはすごい誇りですし、犠牲になった人々のおかげだと思います。私たちの子孫たちに、そういう痛ましい歴史を繰り返させてはならないと思っています。だから、今でも人権弾圧に対しては怒りを覚えます。

──それにしても、その後の皆さんは大変な苦労をされたのでしょう。


全羅南道庁舎に掲げられた取り壊し反対の横断幕
(08年12月撮影)
 人生のパターンが変わったと思います。闘った当事者たちは、その後も差別を受け、経済的にも社会的にも生活レベルは3割ぐらい低いと思います。非常に衝撃的な事件に接して、その記憶が精神を支配して、正常な社会生活をするのが非常に難しいのです。家庭的にもつらい生活をしてきました。そのため、事件の真相究明、虐殺者の処分、5.18特別法の制定などを要求して、闘ってきました。金大中政権(1998年~2003年)になってから、ようやく名誉回復しました。

──そうした中で、拠点となった全羅南道の元庁舎が開発のために取り壊されようとしています。
 光州闘争の遺跡地が26ヵ所あるのですが、ほとんど開発などのために壊されてきました。代表的なのが犠牲者の墓地で、旧墓地は原型がなくなってきています。当時の原型が唯一そのまま残っているのが全南道の庁舎です。ですからこのまま保存しなければいけないという歴史的な使命を感じています。それは、闘いで亡くなった人たちの遺志でもあると思います。
 しかし、政府は「アジア文化センター」を作るために、道庁の一部を壊そうとしています。それに抗議をして、庁舎の前で7月23日から座り込みをしてきました。もし強制的に壊すのだったら、屋上から飛び降りる人もいるだろうし、焼身自殺する人もいると思っています。
 ただ、庁舎周辺の開発は光州市にとっては最大規模の事業ですし、街の活性化のためには必要なものだということもわかっています。ですので、私たちは計画の一部を変更して、建物を残すような開発を求めています。文化センターの大部分は地下に作られるので、多くの建物は残されるだろうと思います。まもなく、その結論が出されようとしています。 

──今回、日本に来られて、広島や長崎などを回られますが、目的は何でしょうか。
 ひとつは、韓国の民主化と光州民主化闘争を広く知ってもらうためです。日本では当時、かなり報道されたと聞きましたが、日本の若い方々にも、ぜひ、この闘いとその後の韓国民主化の歴史を知ってもらいたいと思います。
 もうひとつは、全南道庁舎の保存運動を進めるにあたって、原爆の被害にあわれた広島や長崎で、どのように歴史が残され、記憶されようとしているかを学ぶことです。原爆ドームのように、一度は壊されそうになったものを市民の熱意で残すことができました。それが、いまは世界遺産となって、平和教育の現場となっています。そういうつらい歴史の遺産をなぜ残したのか、日本人の歴史認識を学んで、道庁保存の正当性を市民に説明したいと思います。そして、道庁舎を不幸な歴史を繰り返さないための教育の現場にしていきたいのです。

──日本の平和団体へのメッセージがありますか。
 実は、道庁舎の建物は1925年に日本の植民地のもとで造られたもので、日本とも関わりが深いのです。また、来年は日本による韓国併合100周年と光州闘争30周年でもあります。毎年、5月には記念行事を行っていますが、来年は特に盛大に行われます。ぜひ、光州に来ていただきたいと思います。それまで、庁舎を保存していくためにがんばっていくつもりです。金大中元大統領の言葉に「行動しない良心は偽善である」というのがあります。考えているだけでは勝利はありません。日本の皆さんの声援を受けることができて、また勇気がわいてきました。

〈インタビュ─を終えて〉
 光州民主化闘争の闘士たちである。高校2年生であったアンさんはデモに対する全斗煥(チョン・ドゥファン)の弾圧の酷さを目の当たりにし、その怒りから闘争に加わったという。そして金大中の言葉として、「闘わない良心は偽善である」というのを紹介してくれていた。彼らの話を聞けば聞くほど、私たちが忘れかけている何かを思い出させてくれる。彼らから学ばなければならないのは、闘争に対する「覚悟」なのだろう。
(福山真劫)

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韓国の元統一部長官 丁世鉉さん講演会開く
朝鮮半島の新たな転換へ─日本の建設的役割を
日朝国交正常化連絡会 代表/事務局長 石坂 浩一


集会で講演する丁世鉉元統一部長官
(2月26日・東京・韓国YMCA)

 米国のオバマ政権発足で、朝鮮半島情勢の前進に期待が集まっています。しかし、こうしたまたとない機会を生かそうとする姿勢が日本政府には見られないまま時間が過ぎようとしています。  そこで、「東北アジアに非核・平和の確立を! 日朝国交正常化を求める連絡会」(日朝国交正常化連絡会)では、韓国の金大中・盧武鉉政権にわたって統一部の長官(大臣)をつとめ、韓国が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と和解政策を進める上での経験をお持ちの丁世鉉(チョン・セヒョン)さんをお招きし、「東北アジアの平和と日本の役割」と題した講演を聞く会を、2月26日に東京で開催しました。

多国間安保機構を設けて東北アジアの協力を
 丁世鉉元長官は、北朝鮮が核のカードをもって米国に対し外交攻勢をかけるのは、体制の不安を取り除こうとするためであり、東北アジアにおける冷戦構造がいまだに解体されていないことが根本的背景として存在することを指摘されました。したがって、朝鮮半島の平和のためには、圧迫政策ではなく、六者協議を発展させ多国間安保機構を設けて、東北アジアの協力を進めることが求められており、日本政府はアジアの最貧国である北朝鮮を経済的に支援することで、拉致問題を含めた懸案を解決していくべきではないかと提案されました。
 また、連絡会の顧問である和田春樹東京大学名誉教授との質疑では、特に日本で問題とされている拉致問題について、自分たちだけに強いカードがあると一方的に思い込んで、相手を屈服させようとするような姿勢で北朝鮮と向き合っていては解決できず、南北の離散家族再開でもさまざまなケースがあったように、柔軟な解決方法を冷静に探っていくことが解決の早道ではないかと問いかけました。
 丁世鉉元長官はこの日の午後、民主党の川上義博衆議院議員らの朝鮮半島問題議員連盟や、社民党の福島みずほ党首などとの懇談を持ち、日本の国会議員とも貴重な意見交換をされました。

北朝鮮の「人工衛星」迎撃は日本の軍備増強に
 この間、北朝鮮が公式に人工衛星発射を予告したのに対し、日本政府はこれをミサイルと同じだと主張し、「日本の安全のために迎撃する」(河村建夫官房長官)ことまで公言しています。しかし、これは事態を自国の軍備増強に利用するものだと批判せざるをえません。
 韓国の『京郷新聞』は3月14日付社説において、韓国政府は衛星発射でも国連決議1718号違反だと主張するが、決議は「弾道ミサイル」と明示しており中ロの合意は得られないだろうとしつつ、いったん北朝鮮の説明を受け入れた上で発射を中止させる対策を多様に検討すべきだと指摘しています。これはまさに日本政府に対しても当てはまる指摘ではないでしょうか。
 クリントン米国務長官は3月11日、記者会見において、ボスワース北朝鮮政策特別代表がアジアを歴訪中に訪朝する準備ができていたのに、北朝鮮が招請しなかったと遺憾を表明しました。私たちは、日本政府はもちろん、関係国が早く対話のテーブルにつくことを促していきたいと思います。
 そのために、どのように条件作りをして何を求めていくか、運動内部できちんと議論することが求められています。全国の仲間との討論の場については連絡会での議論を経てお知らせしていく予定です。この機会を生かして平和への一歩を進めることができるようにがんばりましょう。

 ※連絡会では、4月に日本政府がまたもや北朝鮮に対する制裁を延長することに反対し、今後の運動の方向性を議論するため、3月18日に討論集会をもつ予定でしたが、準備が不足しているため中止させていただくこととしましたことをお詫び申し上げます。

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「'06教育基本法」を具現化した新学習指導要領
主権者である子どもたちに「ゆたかな学び」を
日本教職員組合 中央執行委員 豊福 明子

競争原理で学力の向上をはかる
 学校は、子どもたちがともに学び社会の主権者として育っていくところです。私たち日教組は「子どもたちにゆたかな学びを」を重視して取り組んでいます。ゆたかな学びとは「社会を築くために必要な知識・感性・判断力」であり「将来に対する夢や希望、自己肯定感、思いやり」であると考えます。
 その学びの基本である学習指導要領が変わります。その内容や問題点は、日本の教育に大きな影響を及ぼすにもかかわらず、あまり表に出てきません。しかし、今回の学習指導要領改訂は、新自由主義の下での競争原理と国家主義を基本にした「'06教育基本法」の理念を具現化したものとして問題の多いものとなっています。
 新しい学習指導要領は、これまでの「自ら学び考える力」という言葉に象徴される「ゆとり教育」の路線から転換し、授業時間増と学習内容の増を基本に、基礎学力の向上と個性を活かす教育の名のもとに、競争原理で子どもたちの学力向上をはかろうとするものです。
 小泉内閣から安倍内閣、そして麻生内閣へ、この間、新自由主義の波は社会のあらゆる部分に大きな影響を与えました。勝ち組・負け組といった言葉や考え方は、子どもたちにどうのように響いているのでしょう。社会の競争原理は、子どもたちの心を徹底して疲弊させてきました。いじめや不登校といった今日的な教育課題は、そのような状況の中から生まれてきたものと言えます。
 新自由主義が破綻し、競争社会が格差を広げてきたという認識が広がっている今日、今回の学習指導要領の改訂は、時代に逆行するものと言えるのではないでしょうか。

国家主義的な道徳教育の重視


個性あふれる子どもたちの絵(福岡県内の小学校)
 また、新しい学習指導要領は、「改正教育基本法」の国家主義的色彩を色濃く反映し、道徳教育を重視するものになっています。「豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造をはかるとともに、公共の精神を尊び、民主的な社会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする」という道徳教育の目標には、人権尊重を基本にした民主主義社会における主権者を育てるという教育の本質は見えてきません。  私たちは、子どもたちの「ゆたかな学び」を保障するために、以下の視点から教育課程を自主的に考える必要があると考えます。

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クローン家畜の肉が食卓に!?
死産などが多い不安定な技術
日本消費者連盟 事務局長 山浦 康明

親と同じ遺伝子を持つクローン
 牛や豚の多くは人工授精によって生まれています。家畜改良のため、親と遺伝的に同じ子をたくさん作り出そうと、80年代に受精卵の分割を利用する技術が普及し、90年代には受精卵クローン技術が開発されました。これは受精卵の細胞が分割し始めた時に、それらをばらばらにして、その一つの核を取り除いた未受精卵に挿入してクローン家畜を作り上げるものです。
 この技術をさらに効率的にしようとして体細胞クローンが生まれました。1996年にイギリスで生まれたクローン羊「ドリー」が世界初で、日本でも98年に2頭の牛が生まれ、08年9月までに557頭が生まれました。この技術は、提供する親の遺伝子は皮膚や筋肉などの体細胞を使い、遺伝情報が入っている核を未受精卵に挿入してクローン家畜を作り上げるもので、優秀な親の性質が完全に伝わり、しかも大量に生産できるというのです。
 しかし、この技術は、死産などの発生率が高いという重大な欠陥をもっています。日本でこれまでに生まれた557頭のうち、78頭が死産、91頭が生後直死、136頭が病死し、生存しているのは82頭だけというさんたんたる状況です。

食品安全委は流通の認可へ


家畜改良センターにいる体細胞クローン牛
(08年7月・福島県内)
 08年4月、厚生労働省は内閣府食品安全委員会(食安委)に体細胞クローン家畜由来の食肉・牛乳などの安全性評価を諮問しました。食安委は検討を開始し、09年3月12日に、「普通の肉やミルクと安全性は変わらない」とする評価書をまとめました。しかしその評価は手法においても科学的検討内容においても問題だらけです。
 まず、評価の手法はクローン家畜と、その子孫(後代)の家畜の食肉・乳製品の安全について、従来のものと比較検討しただけです。しかも、死産や奇形が少ないとされるマウスやラットを使った給餌試験だけで評価しています。
 クローン家畜の健全性の評価をするというものの、世界の研究成果(900ほどの文献)のリストアップとその要約を行ったにすぎず、しかも都合の悪いデータは評価の際に無視しています。日本で、死産や病死の原因究明をみずから行っているわけでもありません。
 死産や生後直死が多いのは、受精卵が成牛に成長するためのすべての遺伝情報を備えることができず、内臓異常や呼吸機能異常を起こしているからだと思われます。その他、胎盤肥大、過大子などの結果をもたらすのはこの技術の欠陥だと思われます。
 しかし、食安委の評価書では、生まれて6ヵ月以上生き残ったものは健全で、後代家畜へは異常は伝わらないはずだと断定しています。羊の「ドリー」で指摘された体細胞クローン家畜の寿命は短いという報告を無視し、寿命の懸念はデータ不足だと切り捨てています。「異常のある個体は淘汰されるから問題ない」などと無神経な発言をする食安委の委員さえいました。
 こうしたなか、このままでは食安委は、パブリックコメントを受けた後、「体細胞クローンの肉やミルクは安全だ」とする答申を行い、市場流通を認めるおそれがあります。

反対する消費者・生産者
 多くの国民にとって、体細胞クローン家畜を作るメリットはまったくありません。消費者は不安があるものは食べたくないでしょうし、畜産・酪農家にとっても、消費者が受け入れず、コスト高で、肥育の手間は従来と同じ牛を育てる気にはならないでしょう。銘柄牛の場合は風評被害が起きることも考えられます。
 こういう中で、体細胞クローン家畜由来の食品の安全性を宣言するのは、昨年米国で市場化が認められたクローン家畜由来食品が日本で違法とならないようにするためとしか考えられません。アメリカではクローン家畜由来食品の表示は義務化されていません。そのまま日本に入ってきたら、私たちの選択権はなくなります。こうしたクローン家畜の生産は認められません。
 私たちは、農民団体や平和フォーラムとともに、集会を開くとともに、食安委や厚生労働省、農水省と交渉を行いました。今後もブックレットの発行などを行って、反対運動を続けていきます。

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10月3日は東京・明治公園に集まろう!
NO NUKES FESTA 2009
エネルギー政策の転換を求める全国集会へ

大電力消費地の東京で訴える
 2月14 日、東京・千駄ヶ谷区民会館に、全国から多くの脱原発や消費者・市民運動の活動者が集まりました。鎌田慧さん(ルポライター)や、おすぎさん(映画評論家)、湯川れい子さん(音楽評論家・作詞家)などが呼びかけて、10月3日(土)に東京・明治公園で脱原発運動や環境・エネルギー問題を取り組む市民の一大結集をはかる全国集会を行うための第1回目の全国実行委員会が開かれたのです。
 実行委員会では熱気あふれる討議が行われ、10月3日の大集会と、前日の2日に政府・関係機関への交渉や交流集会などを開催することを確認し、集会の名称を「10.3 NO NUKES FESTA 2009─放射能を出さないエネルギーへ」とすることが決まりました。
 これまで東京では、88年の脱原発集会で日比谷公園に2万人を集め、その後03年にも代々木公園で3,000人の全国集会がもたれました。特に、88年の集会は、チェルノブイリ原発事故の後とあって、これまでの最大規模となりました。その後は、大規模な集会はもたれませんでしたが、今回、脱原発などの運動にはずみをつけるため、全国からの総結集をめざしての集会を開催することになりました。
 東京は電力の大消費地であり、原子力政策の方向を決める政治や経済の中心地です。その中心地であらためてエネルギー政策の転換を求め、脱原発へかじをきることを訴えることはとても重要です。また今年は、衆議院選挙が行われます。麻生政権の支持率は低下しており、これまでの自公政権から民主党・社民党を中心とした政権交代も予想されます。まさに政権交代とともに、これまでの政策を転換するチャンスです。この機をとらえて、原子力政策の転換を訴えていくことが重要となっています。

プルトニウム利用政策を変えよう


脱原発に市民も立ちあがる(08年4月・東京)
  プルトニウム利用施策の転換は、今年から来年にかけて最も重要な課題となっています。青森の六ヶ所再処理工場は、高レベルガラス固化施設での試験の失敗で再開へのめどが立っていません。トラブルや耐震問題で再稼働への動きが大きく遅れている、福井の高速増殖炉もんじゅとともに、その存在意義を大きく問うことが必要です。
 原発の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出して再利用するプルサーマル計画は、佐賀の玄海、愛媛の伊方、静岡の浜岡原発で今秋以降に実施に向けて動きだそうとしています。まさに、この秋からプルトニウム利用政策の動きが焦点化していきます。
 その動きを前にした集会は、全国の脱原発への流れの総結集をはかり、政策転換の必要性を強くアピールするものとして位置づけられるものです。昨年、原子力空母の横須賀母港化反対で、横須賀に全国各地から1万5千人が結集しました。それと同じように、全国各地からの総結集により、私たちの意志を表わすことが、政治的にも大きなインパクトになるはずです。
 同時に、全国から集まった参加者が、各地の状況を知り、お互いが元気を分け合うことができるような集まりにしたいと実行委員会では確認されました。全国各地の運動を互いに確認し、人々のエネルギーが、次の運動の力になるような集会が求められています。
 すでに、山口県の上関原発の着工問題では、最近、推進側の動きが活発化しており、それに対抗して反対運動を全国化することにしています。そのための全国署名を展開し、10月2日に政府への提出・交渉を行うことを決定しました。各地でも10月3日の結集に向けて、取り組みの強化が重要になっています。本誌でもこれから随時、各地の動きを紹介していきます。

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仏から日本へ空前の大量プルトニウムを輸送
原爆225発分にも相当 使用済み核燃料再処理のツケ

 プルトニウムを1.8トンも積んだイギリス船パシフィック・ピンテール号とパシフィック・ヘロン号の2隻が、地球を半周して日本へと向かっています。3月5日、フランスのシェルブールを出港した2隻には、武装警官が乗りこみ護衛することになっていますが、原爆225発分にも相当する大量の核物質を防護するにはあまりにもおざなりです。9.11同時多発テロ以降、核テロの脅威が憂慮されているなか、輸送ルート沿岸諸国や世界の市民の神経を逆なでするような行為です。
 青森・六ヶ所再処理工場の計画ができる前から、日本各地の原発で使われた核燃料は、イギリスとフランスの再処理工場へ輸送されてきました。原発から出る使用済み核燃料問題に取り組まずに、いつまでも実現しない核燃料サイクルに固執し、エネルギー問題を解決すると言われた高速増殖炉の幻想を国策としてきた問題のツケが、今後も次々と帰って来ます。

簡単に核兵器への転用が可能に


シェルブール港に停泊中の輸送船と警備艇(仏)
 日本は1992年に、フランスからプルトニウム1.5トンという初めての大量海上輸送を強行しました。輸送した「あかつき丸」には海上保安庁の護衛艦が同行しました。しかし、自国の経済水域内の進入を防ぐため軍艦を出動させた国を含め、数十ヵ国がこの危険な輸送に懸念を表明、CARICOM(カリブ共同体)、PIF(太平洋諸島フォーラム)などの地域機構や南米諸国も反対を表明しました。
 それにもかかわらず、その後も1999年、2001年にもヨーロッパからのプルトニウム輸送が続けられました。このときから、プルトニウムとウランを混ぜた混合酸化物燃料(MOX燃料)として輸送されています。「あかつき丸」で運ばれた酸化プルトニウムとは違い、MOX燃料に加工することによって、核兵器に転用可能なプルトニウムが分離されにくいとする主張が、原発業界や日本政府からたびたび行われています。
 しかし、専門家の間では、簡単な装置で分離可能なことが知られており、国際原子力機関(IAEA)の定義でも、MOX燃料から核爆発装置の金属構成部分に転換するのに要する時間は1~3週間程度とされています。原子炉級プルトニウムを使って高威力の核兵器を作ることができることは、IAEAの事務局長を含め多くの専門家が指摘しています。

今後も無責任な輸送繰り返す恐れ
 このように、深刻な安全保障上のリスク、核テロの脅威があるにもかかわらず、日本の使用済み核燃料から再処理されて取り出されたプルトニウムがヨーロッパにまだ38トンもあることから、今後も無責任なプルトニウム輸送が繰り返される可能性が高くなっています。また、海上輸送のみならず、ヨーロッパでの加工工場などとの陸上輸送時の危険性や、今回はソマリア沖などの海賊襲撃の多い地域を避けるとして、喜望峰沖を通る遠まわりのルートにしたことにより、影響を受ける地域が増大するなど、深刻な問題は山積みです。
 さらに、輸送容器の安全性についても疑義があります。2007年10月にアメリカ・フロリダで開かれた専門家による「放射性物質の輸送容器と輸送に関する国際シンポジウム」(PATRAM2007)で、輸送容器の落下による燃料棒の変形によって臨界事故が起こる可能性があることが指摘されました。今回の安全審査も、本来なら審査のやり直しが行われるべきものです。
 これほどのリスクをかけて運んでくるMOX燃料には経済性が全くありません。5月後半に日本に到着した後、九州電力(玄海)、四国電力(伊方)、中部電力(浜岡)の3社の原発で使用されることになっています。しかし、これまで輸送されたMOX燃料については、検査データの改ざんや地元の反対、原発事故などでまったく使用されていません。今回、九州電力は、佐賀の玄海原発3号機で次期定期検査中の9月下旬~10月上旬にMOX燃料を装荷する計画を明らかにし、国内最初の導入をめざしています。しかし、このように危険で経済合理性もないものを、余剰プルトニウムのつじつま合せだけに強行することは許されません。

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オバマ米大統領の中東・アジア外交(2)
アフガン、北朝鮮問題を考える

展望が見えないアフガン情勢
 オバマ政権の対話を基調とする外交がいよいよ動き始めました。オバマ政権の海外における緊急な課題は、まず第1にアフガニスタン問題であり、次いで中東・イラン問題、そして朝鮮半島の非核化問題でしょう。
 オバマ大統領は2月27日にアフガンへの1万7千人の米軍増派を承認しました。しかし、アフガンではいくら兵員を増強しても、すでに兵站補給ができない状況に陥っています。米や北大西洋条約機構(NATO)軍の軍需物資補給は主としてパキスタンから、月2,000台もの車両によって行われていましたが、今年2月3日にパキスタンからの唯一の補給路に架かる北西部カイバル峠の橋が爆破されました。そして翌4日には中央アジアからの補給基地だったキルギス共和国内のマナス空港について、キルギス政府が使用停止を決定しました。
 新しい補給路の確保が緊急に必要であり、米政府はロシアからとイランからのルート開設を模索してきました。ロシアは食料などの非軍事物資の輸送を認めていますが、軍事物資まで輸送するには、東欧のミサイル防衛(MD)基地建設の断念が求められるでしょう。
 さらに深刻なのは、アフガンのカルザイ政権が汚職にまみれ機能を失っているなかで、タリバンの支配地域がこの1年間で急速に拡大していることです。永続的な支配地域が54%から72%に増大し、実質的な活動地域21%を加えれば、実にアフガンの93%をタリバン・反乱勢力が支配しています。米・NATO軍が自由に動ける地域はカブール周辺の7%にしか過ぎないという報告が、昨年末、アフガン戦争支持のICOS(治安と発展に関する国際会議)から出されているという状況があります(大阪に事務局を置く「リブインピース」の翻訳報告)。  3月6日、NATO外相理事会に出席したクリントン米国務長官は、3月31日にアフガン問題に特化した国際会議を国連が主体となって開くため、アフガン支援国のほかイランなど近隣諸国も招くよう調整していると記者会見で語りました。
 米国がイランに対してアフガン問題への協力、さらに核兵器計画に進まないことを求めるならば、逆に、イスラエルの核兵器への対応や、同国の原子炉への国際原子力機関(IAEA)の査察、さらにIAEAが提唱する中東非核化構想を米国が支持するのかが問われることになります。

北朝鮮の「人工衛星」打ち上げの影響
 朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)は3月12日に、試験通信衛星「光明星2号」を運搬するロケット「銀河2号」の打ち上げを通報したことを明らかにしました。発射は4月4日~8日とのことです。
 クリントン米国務長官は北朝鮮のミサイル発射の動きが明らかになるなか、「北朝鮮が完全で検証可能な形での核計画の放棄を行う用意があるなら、オバマ政権は米朝の国交正常化や朝鮮半島の休戦協定の平和協定への転換、経済支援に前向きに応じる」と北朝鮮に自制を求めました(2月13日)。しかし、北朝鮮はその後、「打ち上げ準備は宇宙ロケットである」と発表してきました。ミサイルとロケットは軍事用かどうかという以外、構造的にはほとんど同じです。
 国連安保理事会は06年の北朝鮮の核実験後、制裁決議とともに「弾道ミサイル計画に関連するすべての活動」停止を要求する決議を行っています。しかし、日本が4機の衛星を打ち上げていて、北朝鮮を毎日偵察していることや、米国やロシア、中国が多くの軍事衛星を使って他国に驚異を与えている状況が許されて、北朝鮮に対してだけ決議違反だ、新たな制裁だという態度は、6ヵ国協議が現在到達している立場とは大きく離れるというべきでしょう。
 さらに米韓では、昨年よりも期間を2倍にした合同軍事演習を、北朝鮮の強い中止要求を無視して実行しているのです(3月9日~20日)。
 北朝鮮は衛星を実際に発射するのでしょうか。これまでクリントン米国務長官は冷静に対応しており、できれば米朝の対話が実現し、衛星発射に至らないことを私たちは望みます。
 もし北朝鮮が衛星発射を実行したならば、その後どのような事態が生まれるのか、現時点ではわかりません。6ヵ国はもちろん国際社会も、北朝鮮が核計画を完全に放棄することを求めています。そのことを考えるなら、1日も早く6ヵ国協議再開の条件を整え、北朝鮮の核計画放棄第3段階に具体的に進めるべきです。新たな制裁決議や日本独自の制裁追加は事態を難しくするだけです。
 日本は中国、朝鮮半島を含めた東北アジアの友好・協力関係を6ヵ国協議のなかで作っていくことが、いま選択すべき最善の道でしょう。そしてその基礎は、05年9月19日の朝鮮半島の非核化に向けた6ヵ国の「共同声明」にあるといえます。

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【本の紹介】
「在日一世の記憶」
小熊英二/姜尚中 編著


集英社新書
 韓国併合から来年で100年を迎える。私たちは、希有な侮辱と差別の事蹟を積み上げてきた。今も昔も、そのことに対しては日本社会に本質的な違いはない。日本語の強要、神社への強制参拝、徹底した皇民化教育、そして創氏改名。「先祖から伝わる姓を日本式に変えることはもっとも大きな侮辱でした」(ペク・ジョンウォンさん)──この言葉に対して、私たちは未だ真摯に向き合っていない。
 この異例の700ページを軽く超える厚さの新書には、在日一世52人の、それぞれの言葉で異なった人生がぎっしり詰められている。多くが70~80歳代である。李仁夏さんらすでに亡くなった人も多い。そこにあるのは魂の叫び、何の虚飾もない言葉の数々である。自らに責任のない過酷な人生を生き抜いた、その記録である。決して忘れてはいけない歴史であるとともに、生き抜いていく力強い哲学である。
 「恨」という語は、辞書によると「韓国民衆の被抑圧の歴史が培った苦難・孤立・絶望の集合的感情」を表わすのだという。しかし、それだけではおよそ言い表わすことのできない感情の集積がそこにある。過酷な労働の中を生き抜いてなお、「この足がな。糖尿あるから骨がひっつけへんいうて、手術もでけへん。そんなせえへんかったら、いまでもどっか働きにいけますがな」(リャン・ウィホンさん)と言わせる人生は何なのか。
 過去に朝鮮半島が日本の植民地であって、過酷な支配があったことすら今の日本人は忘れている。いわんや、「在日一世」などと言う言葉にイメージを膨らませることもできない。本書の序で姜尚中さんは、マルク・ブロックの言葉を引用しながら、「在日一世という、現在を生きている人々の存在すら知らないか、知っていてもどんな人なのか、まともな像すら浮かばないとしたら、過去を理解しようとしても無駄ではないのかとさえ思えてならない」と言っている。
 日本の侵略戦争を美化しようとする発言が相次いでいる。過去の過ちに真摯に向き合おうとしない国に将来はない。
(藤本 泰成)

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【映画評】
「アメリカばんざい ~crazy as usual」
(08年/藤本幸久監督)

 アメリカばんざい」って? 映画の題名を初めて聞いた多くの人が持つ疑問です。反戦と知らされたら「どうして」と思う人も少なくないでしょう。
 実際この映画「アメリカばんざい~crazy as usual」は、2005年に反戦映画「Marines Go Home~辺野古・梅香里・矢臼別」を作成させた藤本幸久監督が、2年以上の歳月をかけて多くの若い米兵を取材して完成させた本格的なドキュメンタリー反戦映画です。
 「アメリカばんざい」は、若い兵士たちを戦場へと送り出すときの声です。かつて戦前の日本では「天皇陛下ばんざい」、ナチスドイツでは「ハイル・ヒットラー」といって戦場に送り出したのと同様のことが、アメリカではベトナム戦争でも、その後のコソボやアフガニスタン、イラクでも続いています。この映画は、「アメリカばんざい」の声で送り出された若者たちが、なぜ兵士になったかを語るとともに、その後どうなったかを赤裸々に描いたもの。いわば戦争の入口と出口をドキュメントしています。
 格差社会と貧困のなか、兵士になれば大学の学費や技術を入手できるなどの甘言で幻想を持たされる若者たち。軍隊入隊後、殺人訓練を受けていく...。そして、戦死した兵士、帰国後ホームレスとなった退役軍人(ホームレスの4割を占める)、PTSD(外傷後ストレス障害)で人格を失い社会復帰できずに苦しむ者。しかも、その社会復帰施設すら制限し切り捨てる格差社会の残酷な施策。これに対する兵士の母や老人による徴兵阻止運動、元兵士たちの高校生への働きかけなど、地道な取り組みが映像に映し出されます。
 日本の自衛隊では、いまでも自殺者が増大しています。アメリカの戦争政策に追随して海外派兵や戦争参加が促進されたら、日本もこうなるのではないかと訴えるものではないでしょうか。
 英語のスピーチで字幕部分が続く点はつらい部分もありますが、ロバート・ムーア監督の作品とあわせて、アメリカ社会を知る必見の作品です。全国各地で平和・市民団体が上映運動を進めています。詳しくは下記ホームページ参照。
(五十川 孝)

 http://www.america-banzai.com/

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【投稿コーナー】
64年も放置された台湾被爆者
1日も早い被爆者手帳の交付を
フォトジャーナリスト 小林 晃

最初の被爆者手帳申請者の王文其さん
 2008年12月15日に施行された改正被爆者援護法により、外国人被爆者や海外で居住するようになった日本人などいわゆる「在外被爆者」が、居住国の在外公館などで被爆者健康手帳を申請することができるようになりました。来日しなければ申請できないという、なんとも被爆者泣かせの来日要件が撤廃されました。
 私は2月10日、「在外被爆者支援連絡会」共同代表の平野伸人さんなどとともに、改正法施行後の台湾で最初の被爆者手帳の申請者となった台湾南部の嘉義市に住む王文其さん(90)に面会し、被爆時の実情を伺い、被爆者手帳取得とその後の手当申請などについて懇談しました。
 嘉義市は台湾南部の人口30万ほどの市で、高速鉄道も停車します。元医師である王文其さんの旧病院(今は閉院となっている自宅)は、在来線の駅近くの古い街並みの繁華街の通りに面してありました。訪れるとすぐに娘さんに支えられた王文其さんが奥さんの素櫻さん(88)とともに出迎えてくれ、私たちは、ここでおよそ2時間ほど話をさせていただきました。
 王文其さんは1945年8月9日、爆心地から700メートルの長崎医科大学病院二階の産科教室予診室で被爆しました。当時27歳。そのとき十数人いた同僚は全員死亡し、王さん一人が生き残りました。王さんはその時、右脇腹と右手首そして口の辺りに大きな傷を負いましたが、市民の助けを受けながら命からがら、3日前に爆心地に近い山里町から疎開した王さん一家(奥さんと二人の息子)が住む肥前長田の尾首集落(現諫早市)にたどり着きました。それから4ヵ月、王さんは高熱、血便、脱毛、皮下出血で生死の境をさまよいました。その後王さん一家は敗戦後の翌年4月、下関から船で台湾に帰りました。

「私は日本国民だったのに、何も援護がない」


被爆者健康手帳の交付を待つ王文其さん
(台湾・嘉義市)
 台湾では手首の傷のため産婦人科をあきらめ、内科と小児科の医院を開業し、妻と男5人、女2人の子どもを育てました。日本での医師の資格を生かし、比較的めぐまれた生活を送られたようです。しかし、王さんは「被爆で台湾帰国後も苦しんだ。日本人には援護があることを知っていた。当時台湾は日本の植民地であり、私は日本国民だった。それなのに日本政府からは何も援護がないのはおかしいと思っていた」と語りました。王さんに台湾でいまも生存している被爆者の存在を尋ねたところ、「何人かはいた模様だが生存しているかどうかわからない」と言います。64年という歳月の壁はやはり厚いものがあります。

問われる日本政府の非人間的な行政  王さんの被爆確認証は2004年11月に長崎県より下りていました。三男の王柏林さんが申請書類を取り寄せ、王さんが記入し郵送で取得したものです。しかし、被爆者手帳の申請には来日要件が邪魔をしていました。被爆者手帳の交付申請は今年2月5日で、息子の柏林さんが財団法人交流協会高雄事務所で行いました。この協会は台湾と日本の間に正式な国交がないため総領事館の代替として政令や施行規則で指定されているものです。しかし、本人の直接申請でないため、今後長崎市が出張審査し、その後手帳交付という手続きを踏むことになります。さらに、被爆者手帳交付があっても月33,800円の健康管理手当を支給されるには、支給申請を提出しなければなりません。申請主義はどこまでも被爆者を困惑させています。
 在外支援連絡会は2月19日に長崎市に対して、早急に本人確認を行い、高齢の王さんに一日も早く被爆者手帳を交付するよう要請しました。連絡会は今後オーストラリア、ブラジル、そして国交は無くても380人ほどの被爆者がいると推定されている北朝鮮などの在外被爆者への支援も惜しまないと言っています。
 それにしても、こんなにも長く被爆者を放置してきた日本政府、厚生行政の無責任かつ非人間的なあり方が問われています。

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