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三、運動内部の混乱

2010年01月01日

原水禁運動内部の意見の対立
 保守陣営からの妨害工作と時を同じくして、運動内部にも意見の対立がおこりはじめた。当初は、軍事基地などの平和問題に関連する課題を原水禁運動のテーマに採りあげるか否か、という意見の対立が表面化してきた。

 いわゆる「筋幅論争」である。それは、“平和運動と軍事基地は関連があるから原水禁も基地反対運動を採りあげよ”というものであり、“筋を通す”ことが重要だという意見と、それよりも“原水禁運動は広範な国民の参加する運動から、その幅を大切にせよ”という意見の対立である。

 第4回大会(1958年)では、学生たちの間から原水禁運動は「勤評問題を採りあげよ」という主張がでてきた。さらに第5回大会(1959年)では「平和の敵明らかにせよ」とか「原水禁運動が安保反対そのものを採りあげよ」などという主張がでてきたが、このときは「あらゆる党派と立場をこえた、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的運動」という原則をつらぬきとおして、これらの提案を採りあげなかった。

 だが、1960年の安保論争を契機にして、原水禁運動の組織的危機は深まってゆく。次第に党勢を拡大してきた日本共産党は日本原水協の中でも発言権を増大させてきた。60年安保では、日和見主義戦術をとっていた共産党も、彼らのかかげる綱領、つまり「二つの敵論」をあらゆるところで主張しはじめていた。第6回原水禁大会では、あらゆる分科会、分散会で「反米・反帝」という一面敵主張を展開、「平和の敵を明らかにする」ことを迫った。このため原水爆問題は無視され、さながら政党の綱領の宣伝の場となった観すら呈したのである。

 第7回原水爆禁止世界大会(1961年)になるとこのような混乱はさらに強まった。共産党系諸団体が、(1)平和の敵・アメ帝打倒、(2)中ソ軍事同盟は平和のための防衛条約、(3)軍事基地・民族独立闘争を原水禁運動の中心にせよ、と主張し、党派に属しない人びとのひんしゅくをかった。

 社会党やその他の団体は(1)原水禁運動の敵は核実験、核政策そのものである。(2)一党派の政治的主張や、特定のイデオロギーをおしつけるな。(3)一致できない活動は、各団体の独自活動で補強せよ、という意見と真っ向から対立した。

 結局、共産党系の多数決によって「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」という決議を採択するに至った。ところが大会終了後間もない8月30日、ソ連が核実験再開を発表、10月には50メガトン水爆実験を強行した。日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが“人類の敵”として糾弾はしなかった。さらに日本共産党はこの核実験を支持し大々的なキャンペーンを繰り広げた。

 日本共産党の“ソ連の核実験支持”運動は異常なものであり、『アカハタ』は連日、ソ連の核実験の正しさの論証にこれ努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないように打電し、……原水協でさえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、……湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」(61年9月9日『アカハタ』号外)と書き、「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という手段に訴えるのはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かすというのはこのことです』(野坂議長談『アカハタ』9月9日)と主張した。ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の実験)を断固支持する立場に立っている。われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」(『アカハタ』9月16日)と力説したのであった。

 こうして、日本原水協の会議は連日のように“ソ連核実験をめぐる”議論に明け暮れ、まともな運営もできず、運動機能は事実上マヒしてしまったのである。

ソ連の核実験をめぐる対立の激化
 こうした運動内部の対立と混乱をなくし、運動を正常化するため、社会党・総評・日青協・地婦連の4団体が、原水協の体質改善を求める「四団体声明」を発表し「基本原則・運動方針・組織方針・機構改革」の四大改革を要求した。

 この改革案について中央・地方で6ヶ月にわたる討議がかさねられ、1962年3月の全国理事会では120対20という圧倒的多数で、次のように決めた。

「原水爆禁止運動は、原水爆の禁止・貯蔵・実験・使用・拡散について、また核戦争準備に関する核武装・軍事基地・軍事研究その他各種の軍事行為について、いかなる場合もすべて否定の立場をとる。この場合にたつ原水爆禁止運動が現実にその目的を達成するためには、原水爆政策や核戦争準備について、たんに表面的な現象をとらえるにとどまらず、その根源を客観的に深く究明し、国民大衆とともにその真実を明らかにしなければならない」。こうした内容を中心とした「原水禁運動の基本原則」を決定したのであった。

 しかし日本共産党は、自らの代表が参加し、最高決議機関で圧倒的多数で決めたこの「基本原則」を“原水禁運動でしばりつけ、しめつけるもの”として否定し、無効を主張しつづけた。

 そのためこの「基本原則」も運動を正常化する土台とはならなくなってしまった。

「いかなる国の……」をめぐっての運動の混乱
 こうした情勢のなかでむかえた原水禁第8回世界大会は、統一と団結を守る配慮から“(1)いかなる国の核実験にも反対する。(2)真実を究明し、核実験の根源をとりのぞく”ことを基本とした「基調報告」を主な内容として開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた。

 ところが日本共産党は、大会直前にいたり突如「基調報告」に反対し“(1)平和の敵・アメ帝の打倒、(2)社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する、(3)軍事基地反対、民族独立、安保反対闘争”を原水協の中心課題にせよ、と主張しはじめた。折りしも大会第2日目(8月5日)にソ連が核実験を行ったため、これをめぐって抗議するか否かで大会は大混乱に陥り、多数によって「抗議しない」ことになったため、社会党・総評・日青協・地婦連など13団体が退場、大会は宣言・勧告を報告するにとどめ、いっさい決議しないまま流会し、日本原水協の機能は全くマヒするにいたった。

統一への努力も虚しく
 約6ヶ月、空白がつづいたが、中央・地方を通じて運動の統一を望む多くのうごきがあり、1963年2月、日本原水協担当常任理事会(執行機関)が開催された。

 この担当者常任理事会はそれまでの経過から、あらためて運動の性格と原則を確認することにし、慎重な討論の結果、満場一致で、(1)いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる、(2)社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ、(3)多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる、ことを骨子とした「2・21声明」を決定、これと同時に実務的「協定事項」を確認した。

 この「2・21 声明」と「協定事項」を基礎として、「3・1 ビキニ集会」は招集された。

 ところが、3・1ビキニ集会に先立って開かれた2月28日の全国常任理事会では、共産党系団体出身の常任理事が「2・21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても異議を唱えたため会議がまとまらず、さらにスローガンについては「あらゆる国の核実験反対」を挿入せよという総評、社会党と共産党の意見が対立、ついに安井郁理事長も収拾不可能と判断、辞意を表明し、担当常任理事会も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。

 日本原水協の担当常任理事は当然日共党員も入っており、最初はこの「2・21声明」に賛成したのであった。だがこの決定を日共本部に報告するや、彼らは党のイデオロギーからみてこれを拒否することを決めた。この日共本部の決定により、この大衆団体内部で決められたことはいとも簡単にくつがえされてしまった。つまり日本原水協という大衆団体の論理はつねに日共の党派の論理に従属しなければならないという発想がそこにはみられる。これでは大衆団体の決定は重みをまたないことになる。団体内部の民主主義は否定されざるを得ない。


原水禁運動の歴史と教訓 ――核絶対否定の理念をかかげて――(1978年6月発行)

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