「5・15平和行進」が7100人の参加で大成功
米軍基地撤去と安保反対を訴え5コースを歩く
■日時:5月14日から17日
■場所:沖縄県内各地


 沖縄県では今年も、沖縄平和運動センターなどの主催で、「5・15平和行進」が行われました。日程は5月14日から17日までの4日間です。14日午後には那覇市県立武道館アリーナで「全国結団式」を開催し、15日・16日・17日の3日間は沖縄本島内の西・東・南の3コースに、宮古・八重山の2コースを合わせた5コースで平和行進を実施、17日午後には宜野湾市の海浜公園野外劇場で「平和と暮らしを守る県民大会」を開催しました。平和行進には3日間で延べ7100人が参加、また17日の県民大会には3500人が参加しました。

 いま沖縄の米軍基地をめぐる状況は緊迫しています。 
 今年2月には、日本政府と米国政府が「海兵隊グアム移転協定」に署名しました。この協定の中身は、日本政府が在沖海兵隊のグアム移転費用を負担することと、名護市辺野古に普天間基地の代替施設を建設することを、米国政府に約束するものです。衆議院での可決と参議院での否決の末に、同協定は5月13日に条約として承認されました。
 その名護市・辺野古では、防衛省による環境影響評価(アセスメント)が進んでいます。防衛省は復帰の日・5月15日をアセスに対する住民意見書の締切日に設定しました。
 米軍北部訓練場のある東村・高江では、ヘリパット(ヘリコプター着陸帯)の新設に反対して地域の人々が阻止行動を行っています。防衛省は反対派住民を訴えて裁判を起こしました。7月頃には、判決が出ると思われます。
 嘉手納基地では「暫定配備」という名目で、F22戦闘機の実質配備が進もうとしています。
 4月には米海軍の掃海艇が、市長や市議会の反対を押し切って石垣島に強行入港しました。この強行入港と同じ時期に、那覇市の繁華街では酒酔い運転の米兵が、ひき逃げ事件を起こしています。
 こうした中で、今年の「5・15平和行進」は実施されました。県内外の参加者は、まっ黒に日焼けしながら、「米軍基地撤去」を訴えて、歩いたのです。
 以下の文書は、今年の「5・15平和行進」のレポートです。


「5・15平和行進」とは!?
 皆さんは、なぜ、毎年5月15日に平和行進を行っているのご存知でしょうか。
 アジア・太平洋戦争末期の1945年、米軍は3月26日に慶良間諸島へ、4月1日には沖縄本島への上陸作戦を開始しました。6月23日には日本軍による組織的な抵抗は終わり、沖縄は米軍の占領下に置かれることになりまた。日本も同年8月15日にポツダム宣言を受諾し敗戦、連合国軍は日本全土を占領しました。
 1951年、連合国と日本はサンフランシスコ講和条約を締結し、日本は独立を回復します。しかし同条約の3条で、沖縄は本土から分断され米軍の施政下に置かれることになったのです。沖縄の人々は日本本土と平和憲法への復帰を求め、粘り強く運動を続け、1972年5月15日には沖縄の本土復帰が実現しました。このとき、復帰に関する日米間の合意は「核抜き・本土並み」とされていました。しかし実際には、復帰後も多くの米軍基地が残り、沖縄の人々にとっては復帰前と変わらぬ日々が続くことになったのです。
 こうした中で1977年から、沖縄の本土復帰の日である5月15日に、本土復帰後も続く米軍による占領状態に抗議し、基地の撤去を訴えて沖縄全土を歩く平和行進が、沖縄県内の労働組合や革新政党が中心となって始まりました。
 最初は県内のみの取り組みでしたが、やがて本土からも参加するようになり、平和行進は今回で32回目をむかえたのです。


09年の平和行進コース

●東コース 
 5月15日 辺野古〜宜野座村役場〜キャンプ・ハンセン〜金武町グランド
 5月16日 (嘉手納基地1週) 沖縄市役所〜嘉手納基地・第2ゲート〜安保の見える丘で抗議行動〜嘉手納町役場〜嘉手納基地・第1ゲート〜北谷町商工ホール
 5月17日 コザ運動公園野球場前広場〜石平司令部〜北中城村若松公園〜普天間交差点〜伊佐交差点〜県民大会
●西コース
 5月15日 本部町旧軍滑走路跡〜本部町多目的公園 読谷村役場〜残波岬ロイヤルホテル
 5月16日 (嘉手納基地1週) 嘉手納町役場〜砂辺馬場公園〜嘉手納基地・第1ゲート〜北谷町商工ホール〜嘉手納基地・第2ゲート〜安保の見える丘で抗議行動
 5月17日 北谷町役場〜安良波ビーチ〜北前交差点〜伊佐交差点〜県民大会
●南コース
 5月15日 那覇市役所〜豊見城市〜西崎運動公園〜ひめゆりの塔
 5月16日 糸満市・平和祈念公園・平和の火〜八重瀬町役場〜南城市中央公民館〜大里農村環境改善センター〜南風原陸軍病院壕跡
 5月17日 浦添市役所〜西原入り口〜米国総領事館〜嘉数高台公園〜普天間基地真江原ゲート〜森川公園〜県民大会





【沖縄5・15平和行進 写真報告 その1】
■5月14日
復帰37年 第32回 5・15平和行進全国結団式

5月15日の午後、那覇市にある沖縄県立武道館アリーナで、「5・15平和行進 全国結団式」が開かれました。平和運動センター議長の崎山嗣幸さん(沖縄県議会議員・社民党)が主催者を代表してあいさつしました。


全国結団式には、本土各地から沖縄にやってきた1000人が参加しました。3日間の行進に参加した本土参加者は2000人を超えました。



●政党からのあいさつ  社会大衆党副委員長 糸数慶子さん(参議院議員)
 全国から結集された平和を願う仲間のみなさん、本当にご苦労様です。沖縄社会大衆党副委員長で参議院議員の糸数慶子です。沖縄が直面している基地問題の中で、とりわけ重要なものが海兵隊のグアム移転協定です。参議院では否決しましたが、衆議院では十分な議論もないままに可決されてしまいました。そうしたこの国の現状に腹立たしく思いながら、国会で無所属の「平和の1議席」として奮闘しています。
 37年前、沖縄県民はどのような本土復帰を望んだのでしょうか。沖縄の100万県民が望んだのは、「平和憲法の下への復帰」だったのです。しかし現実には、憲法9条の平和主義が脅かされ、25条の生存権さえ守ってもらえない。そうした日本政府に対して、政治を変えていくしかないと考えています。戦争に加担する全てのものに心から反対する、そうした国を作るためには、みなさんが3日間沖縄を歩く中で、それぞれの課題を深く胸に留めていただきたいと思います。
 南コースの各地では、いまでも不発弾が爆発して若者がけがをしています。東・西のコースが向かう嘉手納基地では、F22が配備されようとしています。辺野古ではジュゴンの住む海を埋めて、新基地を建設しようとしています。こうした実態から、「沖縄の負担軽減」を見いだすことはできるでしょうか。これまであった沖縄の基地は全て、敗戦の結果として作られたものでした。これから先は、新しい基地は絶対に作らせないという強い決意の元に、みなさんと一緒に闘っていきたいと思います。
 沖縄の米軍基地に反対する運動と、本土各地の米軍基地に反対する運動を思いを一つにして、37年前の復帰の原点に立って、みなさんとがんばりたいと思います。



●政党からのあいさつ 社会民主党 多和田栄子さん(那覇市議会議員)
 5・15平和行進にお集まりのみなさん、お疲れ様です。社民党で那覇市議会議員の多和田栄子です。連帯のあいさつをいたします。今年は復帰から37年目です。復帰以前の27年間、米軍支配の間には、土地闘争、復帰闘争など、沖縄の人々の人間性を回復するための闘争が行われました。
 私は宜野湾市の出身です。宜野湾市には普天間基地があります。私自身も生まれたときから、目の前にフェンスがあることを、当たり前のこととして過ごしてきました。復帰後37年たっても、フェンスは張り巡らされたままです。
 その現状をおかしいと思ったのは、中学・高校に進んでからでした。それが、私が政治の道を志した原点でもあります。
 昨日国会では、海兵隊グアム移転協定が承認されました。海兵隊8000人の移転と引き換えに、日本側の財政負担は28億ドルです。憤りを感じます。外国軍隊の移転に血税を使うことは、許すことができません。
 社民党は護憲の立場から、反安保の運動を強く推し進めて行きます。会場には平和行進に参加するために、県内から多くの同志が来ています。社民党は最後まで、全国のみなさんと連帯してがんばります。






■5月15日 
平和行進1日目 西コース

 西コースの1日目は、本部町豊原の米軍飛行場跡から出発しました。この飛行場は、沖縄戦中に米軍によって占領・建設され、本土復帰後は自衛隊がP3C対潜哨戒機の通信基地を建設しようとしました。地域の住民は、21年に及ぶ反対運動で、自衛隊に基地建設を断念させたのです。

○主催者あいさつ 松田寛さん(平和運動センター副議長)
 おはようございます。天気予報では曇りとのことでしたが、晴天です。歩くにはきついかもしれません。水分補給をしっかりお願いします。
 さて、ここ本部町豊原区には、1987年に防衛庁がP3C対潜哨戒機の送信所の建設を発表しました。その後、21年間に渡る反対闘争が行われて勝利した場所です。西コースは2年前には辺土名から、その前年には伊江島から行進をスタートさせました。節目節目の闘いの地をスタート地点にしています。一方、東コースは、現在の米軍再編にあわせたコースを歩きます。南コースは、沖縄戦の実相をたどるコースです。  この3つのコースを歩きながら、体験しながら、みなさんに問題意識を獲得していただきたいと思います。最後までがんばりましょう。



○連帯のあいさつ 喜納政豊さん(P3C阻止対策委員会・前委員長)
 会場のみなさん、ご苦労様です。人類にとって、平和より尊いものはありません。第2次世界大戦から60年以上過ぎた今日でも、まだまだ戦争の傷跡があります。数百万人の人々が犠牲になり、文化的な遺産や個人の財産も灰塵に帰す被害を受けたのです。
 この飛行場は、上陸した米軍が、突貫工事で建設したものです。ここに住んでいた住民は避難所に追いやられて、帰ってきたら金網が張られて入ることもできませんでした。その後、飛行場に弾薬が保管されることになって、さらに遠くへ強制的に移動させられました。戸数にして250戸、人口にして1000人近くいました。半数以上が、那覇を中心に移動し、ばらばらちりじりになってしまったのです。残った70戸で、現在までの復興を行ってきたのです。
 さらに87年、自衛隊が送信所を作る決定をしました。例え自衛隊であろうと、戦争につながる基地はいりません。それから21年間の闘いが続きました。その末に、自衛隊は基地建設を断念したのです。そこには日ごろからの皆さんのご協力と、地元住民の一致した力で、断念に追い込んだのだと思います。
 皆さんのご健闘をお祈りします。



発言者の話に聞き入る参加者のみなさん。


対策委員会のみなさんに見送られて、平和行進に出発です。




飛行場跡地


雑草の中に、防衛省の杭が残っています。


「5・15平和行進北部実行委員会」のパンフレットより
 1987年2月防衛庁(現防衛省)は、突如として本部町豊原区の旧上本部飛行場跡地に、P3C対潜作戦センター送信基地建設計画を発表した。88年7月、豊原区民は区民総会で建設反対を決議。反対運動は町中へ広がる。しかし、町長の受け入れや町議会多数派の予定地「町道廃止」可決など那覇防衛局の誘導により既成事実が積み上げられる。そして、92年7月29に胃施設局は現地測量に入り、住民により阻止される。以降、連日にわたる監視・阻止行動が展開され、闘いが継続されてきた。
 21年目の2008年7月9日、防衛省は町役場への一片の文書によって「建設断念」を通知して来た。『盗人たけだけしい』とはこのことだ。「計画の断念」ではなく、「住民がかちとった阻止闘争の勝利」である。
 昨年9月13日の勝利集会では、辺野古・高江への「勝利の連鎖」が確認された。今5・15平和行進も「勝利のロード」を歩き、沖縄から、アジア・世界から軍事基地を撤去させるため、断固として画期的歴史的な一歩を踏み出そう。


政府は「跡利用」に責任をとれ!住民に苦難を強いた基地建設計画を謝罪せよ!
 P3C基地予定地は、もともと沖縄戦で米軍が占領、豊原一帯を1945年に強制接収―1947年拡張接収して「上本部飛行場」を建設した跡地です。幅50m、長さ1500mの滑走路と、誘導路・駐機場を備え、弾薬や軍需物資集積場としても使われ、60年代ベトナム戦争時代にはヘリや戦車の演習地として使われました。
 米軍は、69年と71年、2回にわけて返還。住民の復元補償要求にもスズメの涙にもならない金額しか支払わず、日本政府も「復帰前の返還」を理由に補償要求に応じませんでした。
 住民を強制的に立ち退かせて造った飛行場は、戦前「桃原」といわれた豊かな土地を破壊し、深さ5m〜10mものコーラルが敷き詰められ、個人の力ではとても復元不可能な状態であり、また地籍も不明なままでした。
 土地の利用ができない状態の中で、住民の多くは生活の糧を求めて中南部への移住を余儀なくされます。今回のP3C基地建設計画に際して、防衛庁(現防衛省)は、この「不在地主」を逆利用し、建設予定地の契約を強行してきたのです。本当にワジワジする!
 地元住民は、沖縄戦と戦後体験から教訓を導き出し、「通信基地といえども軍事基地」「戦争の道具たる基地建設は絶対反対」の立場を固め、「復帰」後初の自衛隊新規基地建設を阻止しぬきました。
 政府・防衛省は、自らの反省を認めて、飛行場跡地の跡利用・復元補償をきっちりとやる責任と義務があります。そして謝罪せよ!


行進団の先頭は、長崎県平和運動センターの皆さんです。


こちらは宇都宮地区労のみなさん。


白地に赤で「基地撤去」のゼッケンは、自治労神奈川県本部のみなさん。


70年代風の大きな赤旗を先頭に元気よくシュプレヒコール。自治労大阪のみなさん。


行進の各所で、地域の実行委員会のみなさんが、飲み物や黒砂糖を用意してくれます。


午後の行進は、読谷村役場前からスタート。かつては米軍の飛行場だった場所を村民の手に取り戻し、役場をはじめとした公共施設を建設しました。


コンクリートの部分は飛行場の跡地、後ろに見えるオレンジ色の屋根の建物が役場です。


元読谷村長で今は参議院議員の山内徳信さん。この土地を取り戻した立役者です。いつも私たちに、さまざまな実力行使と訪米しての直接交渉など、土地を取り戻すまでの闘いを語ってくれます。


さあ!午後の行進のスタートです。先頭を歩くのは、沖縄同様に米軍基地と闘う神奈川のみなさん。


もちろん沖縄県内からも、多数の組合員が参加しています。


九州のみなさんは、原水禁大会に向けた「非核・平和行進」の一環としても、沖縄平和行進に取り組んでいます。


宇都宮地区労と、横浜屠場労組のみなさん。まだまだ元気です。


山口県平和運動フォーラムと岩国市職のみなさん。岩国にも米海兵隊岩国基地(飛行場)があり、日米政府は神奈川県の厚木基地から空母艦載機部隊を移転させようとしています。市長選挙では移転容認派の候補に敗れましたが、岩国の闘いはまだまだ続きます。



平和行進を支えるレンジャーたち
平和行進の参加者は、3日間でおおよそ50キロを歩きます。炎天下での行進は、それだけでも大変です。その行進団の中で、特に大変なのが交通責任者(レンジャー)のみなさんです。平和行進では、警察のパトカーが先導につきますが、交通整理は全て自主的に行います。沖縄平和運動センター加盟組織の青年部と、本土参加団体の青年部が、その任務にあたります。レンジャーのみなさんは、行進団の前後を行ったり来たり歩き、走るため、一般参加者の1・5倍くらいは動いています。








もうすぐ今日の終点です。お店のシーサーがお出迎え。


きょうの行進は約18キロ。みなさん、お疲れ様でした。


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