本文エリアにスキップ サイドバーエリアにスキップ

トップ  »  朝鮮半島の今  »  石坂浩一連絡会事務局長「朝鮮半島情勢の前進、そして日朝国交正常化」

石坂浩一連絡会事務局長「朝鮮半島情勢の前進、そして日朝国交正常化」

2008年12月31日

ソーシャルブックマーク : このエントリーをYahoo!ブックマークに追加 このエントリーをニフティクリップに追加 このエントリーをはてなブックマークに追加 このエントリーをlivedoorクリップに追加 このエントリーをBuzzurlに追加 このエントリーをイザ!ブックマークに追加 このエントリーをFC2ブックマークに追加 このエントリをdeliciousに追加

朝鮮半島情勢の前進、そして日朝国交正常化

石坂浩一日朝国交正常化連絡会事務局長

教訓を学ばなかった米国政権が引き起こした朝鮮半島の2度の核危機

 2008年12月の6カ国協議が終了して、ブッシュ政権の朝鮮半島をめぐる多国間交渉は締めくくられました。2006年の核実験以降は、たしかに進展はあったものの、ブッシュ政権の8年間は一体何だったのでしょうか。ひとことで言って、朝鮮政策でクリントン政権の誤りを繰り返したものだといえるでしょう。
 クリントン政権は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)を米国に挑戦する危険な勢力とみなし、1994年には北朝鮮への武力攻撃も考えたといいます。その後、いったん危機は回避され、北朝鮮が核活動を停止する代わりに米国から軽水炉を提供するいわゆる枠組合意で、米朝は関係改善の方向性を見きわめたかのように思えました。けれども、当時北朝鮮の指導者であった金日成(キム・イルソン)主席が死去したことで、米国は遠からず北朝鮮が崩壊するものと速断し、軽水炉提供の実行にあまり熱心ではありませんでした。
 一方で、1998年には韓国において金大中(キム・デジュン)政権が成立、粘り強い包容政策で2000年6月に初めての南北首脳会談を実現します。紆余曲折を経てクリントン政権も、米朝関係の本格的改善を進めようとしました。しかし、同年10月に趙明禄(チョ・ミョンロク)国防委員会第一副委員長の訪米、オルブライト国務長官の訪朝が行なわれながら、米大統領選の混乱でクリントン政権の交渉は時間切れとなってしまいました。
 ブッシュ政権は、クリントン時代の政策を否定するところから出発しました。そのため、朝鮮半島についてもクリントン時代の教訓をまったく学ぼうとしませんでした。2002年1月にはブッシュ大統領自身が北朝鮮をイラク・イランと合わせて「悪の枢軸」と決めつけ、同年10月にはウラン濃縮による核疑惑を北朝鮮につきつけて、対決状況を進んで作り上げました。北朝鮮は12月にクリントン政権との約束で停止していた核施設の再稼動を宣言、2003年1月には核拡散防止条約(NPT)からの脱退を表明しました。ブッシュ政権は強硬に対応し、朝鮮半島はまたもや核をめぐる危機状況に入りました。
 米国が米朝の2国間交渉を嫌ったことから、2003年8月には南北に米日中ロの4カ国を加えた6カ国による朝鮮半島の非核化、平和のための協議が始まりました。そして2005年9月19日に6カ国は、北朝鮮が核を放棄する代わりに軽水炉を提供し米日が関係を正常化することで合意しました。ここから迷うことなく非核化へと向かえばよかったのですが、ブッシュ政権は金融制裁で北朝鮮を揺さぶり、効果があったと判断してか、これを長期化させたために、北朝鮮は2006年10月、核実験に踏み切ることになります。ようやくブッシュ政権は、米朝の2国間協議を重視せざるをえないと判断し、任期内に朝鮮半島の平和体制移行を本気で構想し始めたのでした。

オバマ政権は朝鮮半島に積極的関与政策をとる

 クリントン、ブッシュ両政権が朝鮮半島に対してとった政策から読みとれる教訓は何でしょうか。それは、北朝鮮は強硬策をとれば強硬に抵抗する、崩壊すると思って待っていても崩壊はしない、ということでしょう。北朝鮮が崩壊しないという事実は、北朝鮮が国際的緊張関係のなかで団結を強めてきた国家であるという内部的要因とともに、急激な変化を望まない周辺国の韓国や中ロの姿勢も関わっています。
 2007年2月13日の6カ国協議合意においては、北朝鮮が核活動を停止する代わりに経済エネルギー支援を行なう「初期段階の措置」の実行と「次の段階」の大枠(北朝鮮による核施設の無能力化と核計画の申告、それに対する重油100万トン相当の経済・エネルギー支援)が示されました。そして、同年10月3日には、初期段階の終了を受けた第2段階を具体化した合意が発表されたのでした。
 元来、朝鮮半島非核化の第3段階は相当に時間がかかるものなので、そこにいたる第2段階までは迅速に進めるだろうと予測されていました。けれども、2007年の2・13合意以降も、協議は思いのほか時間がかかりました。2007年末までに締めくくる予定だった第2段階について、結局2008年12月にも決着をつけられなかったのは、周知の通りです。時間切れによる政策実践の未完成という前轍をブッシュ政権は踏んだ結果になりました。
 ブッシュ大統領は、北朝鮮への核拡散を許した外交上の失策を残してホワイトハウスを去ることとなりました。核廃棄に明確な道筋をつけられれば、核活動の中断にとどまっていたクリントン政権よりも前進した面があるといえたでしょうが、中途半端な結末だったといわざるをえないでしょう。
 では、2009年に発足するオバマ政権の朝鮮半島政策はどのようなものになるでしょうか。クリントン政権時代に国務省に勤務し1994年の米朝枠組合意の交渉にも当たった経験があるジョエル・ウィット元米国務省北朝鮮担当官は、今回の米大統領選においてオバマ陣営で北朝鮮問題を担当するブレーンでした。ウィット元担当官は、韓国のインターネット新聞『プレシアン』への寄稿を通じ、北朝鮮が核を放棄するならば経済の現代化を支援するインセンティブを与える積極的な関与政策をとるべきではないかと提起しました。
 オバマ政権の国務長官がヒラリー・クリントン上院議員であることを考えても、クリントン政権の教訓は生かしつつ朝鮮半島政策が練り上げられることが予想されます。もちろん、民主党政権は伝統的に人権問題では厳格ですし、核廃棄についても具体的な協議になればシビアな交渉がなされるでしょうが、積極的姿勢を示すことは期待できるでしょう。

朝鮮半島の非核化、李明博政権の対応は

 韓国の国家安保戦略研究所の趙成烈(チョ・ソンニョル)首席研究委員は、韓国の時事週刊誌『時事IN』(2008年12月27日号)で、オバマ候補が5月に「北朝鮮と対話をしなかったことが北朝鮮の核開発につながった」という見方を示した事実をあげつつ、NPT体制強化を図るなかで北朝鮮に核廃棄を迫るだろうと展望しています。趙成烈研究委員は、2008年11月20日に公表された米国の国家情報委員会の報告書などで、北朝鮮が核保有国として記述されていることに注目し、まず核保有の現実を認めその不拡散を約束させ、次に核廃棄に至る、2段階の核問題解決方式としてのパキスタンモデルを採るのではないかと指摘しました。米国は早期に北朝鮮と低い段階の国交正常化を実現し、2009年のうちにも双方で外交代表部を設置、各種制裁を解除するなかで6カ国協議を通じ北朝鮮への軽水炉提供など経済支援を行ない、その代わりに北朝鮮に対しては、NPT復帰、国際原子力機関(IAEA)追加議定書と包括的核実験禁止条約への署名・批准、核のNPT体制での管理を実行させるというのが、その流れです。さらに、米朝関係改善と並行して、シリアとの核における連携説やウラン高濃縮疑惑の追跡を行なうだろうといいます。これをパキスタンモデルというのは、戦略の核心が相手国の親米化にあるからだと、趙成烈研究委員は説明しています。
 趙成烈研究委員は、韓国がこうした米国の非核化戦略をどのように受け止めるかを課題としてあげています。現在、韓国の李明博(イ・ミョンバク)政権は、2回の南北首脳会談における合意を受け継ぐことを拒否して、北朝鮮との関係を悪化させています。現政権与党であるハンナラ党は、前政権を担った「開かれたウリ党」(現民主党)の北朝鮮政策は宥和的すぎる、北朝鮮のいいなりだ、などの批判を繰り返してきました。とはいえ、金泳三(キム・ヨンサム)政権以前の政権ができなかった業績を金大中、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が実現してきたことは誰も否定できません。2008年に入って、離散家族再会がまったく行なわれなかったほか、7月の韓国観光客に対する銃撃死亡事件で金剛山観光も中断、12月以降は南北間の鉄道や道路の往来も閉ざされてしまいました。かろうじてつながっている開城工業団地の関係者の往来も、いつ中断されるかわからず、経済状況が悪化するなか、関係者は不安をつのらせています。
 いま、対話の糸口を見出せない韓国政府は、強硬策に傾きがちで、ますます南北関係が悪化する悪循環に陥っているのではないでしょうか。これは、ブッシュ政権がクリントン政権の業績を否定しようとして、北朝鮮との関係設定に失敗し、結局北朝鮮が核実験をする結果を招いたことの繰り返しのように見えます。

時代錯誤の日本政府、在日朝鮮人を圧迫し排外主義を強める

 2006年以降、ブッシュ政権の対北朝鮮政策が現実的になっていったのに対し、政策の目的もわきまえず強硬策をとり続けているのが、ほかならぬ日本政府ではないでしょうか。日本政府は2006年のミサイル発射と核実験に対して制裁措置を実施し、それを2008年末まで延長し続けています。しかし、核とミサイルに対して実施された制裁措置なのですから、6カ国協議で合意された非核化の措置が進んでいることを考えれば、制裁が緩和ないし解除されてしかるべきでしょう。あたかも、日本政府の制裁措置は日本人拉致問題に対するものであるかのように印象付けられていますが、正しい認識ではありません。
 制裁措置は、中国や韓国が北朝鮮の現体制の漸進的変化を望んで、さまざまな面から支えている状況では、意義を持ちえないものです。むしろ、日本の国内的に朝鮮民族に対する反感や敵愾心をあおり、在日朝鮮人を排除・圧迫すると同時に、軍備や統制の強化を図っているのではないかと疑わしくなります。朝鮮半島の非核化や平和体制への移行は、当然ながら東北アジアの軍縮、平和につながります。朝鮮戦争が1953年以来、半世紀以上にもわたって休戦状態であることの異常さこそ、日本社会でもっと広く認識され、平和実現に向けて何をなすべきかが論議されるべきです。
 それにもかかわらず、自民党拉致問題対策特命委員会は2008年11月21日、北朝鮮に対する追加制裁を含む北朝鮮人権法改正案をまとめ、早ければ今年2009年の通常国会に提出する予定だといいます。その内容は、日本単独でのテロ支援国家指定や北朝鮮が国際金融機関に融資を求めた際に反対することの義務化など、時代錯誤としか言いようがないものです。また、日本国内の北朝鮮および関連団体の資産凍結、朝鮮総連への法執行の強化など、在日朝鮮人への圧迫としか思えない内容も含まれています。
 6カ国協議においても、日本政府は北朝鮮へのエネルギー支援を拒否して、協議の進展を妨げてきました。交渉を進めようとする米国のヒル次官補に対し、日本政府は非公式の行動で抵抗を続けてきたと韓国のマスコミでも指摘されています。2008年12月に行なわれた6カ国協議首席代表会合では、日本政府が北朝鮮の核プログラム検証についてサンプル採取を強く主張、韓国政府はこれまで核施設の無能力化と連携させていた経済エネルギー支援を検証と連携させることを提起し、協議を複雑にしました。韓国政府の対北政策が後退し、一見して歩調が合っているように見えますが、状況が変われば時代錯誤の日本政府の政策が見捨てられるのは明らかです。日本政府はいまだに、北朝鮮の政権を圧迫し打倒したい、あるいは崩壊に導きたいと考えているように見えます。この誤った政策をいまこそ転換すべきです。

日朝国交正常化に向けて世論を作っていこう

 1991年に日朝国交正常化交渉が始まってからすでに18年がたちます。日韓会談の14年を上回る年月です。日朝交渉が遅れている理由として、日本ではしばしば拉致問題があげられます。けれども、これまでの経緯を見れば、拉致問題で被害者や家族の帰国実現のような前進をなしとげたのは、小泉純一郎首相の訪朝という積極的な働きかけがあったときに限られています。日朝国交正常化に向けた積極的な交渉の過程でこそ、拉致問題についても率直に話し合い、解決の糸口を見出すことができるはずです。
 オバマ政権が成立する2009年はむしろ、話し合いにより朝鮮半島、東北アジアの平和を実現するための転換点となりうるチャンスではないでしょうか。
 私たち、朝鮮半島の状況に関心を持ち平和や和解をめざして運動してきた者たちは、平和フォーラムなどを中心として2008年7月に「東北アジアに非核・平和の確立を!日朝国交正常化を求める連絡会」(以下、日朝国交正常化連絡会)を結成、7月と9月に集会を行ない、日本政府の北朝鮮に対する制裁の解除、人道支援の即時再開、エネルギー経済支援への参加を主張しました。同時に、在日朝鮮人団体への不当な人権弾圧にも反対を表明してきました。日朝国交正常化連絡会はあらゆる国の核保有に反対する立場から、北朝鮮に対しても核を放棄し平和的政策をとるよう求めながら、日本政府をはじめとする各国に東北アジアにおける平和の実現を訴えていきます。
 とりわけ、2010年は日本が朝鮮半島を植民地化してから100年目を迎える年です。日本人がアジアの人びとと共存していくためには、平和の実現のためにしかるべき役割を果たすことで周辺国の信頼を得て、歴史的な責任を果たすことが欠かせないのではないでしょうか。2010年までに日朝国交正常化のために決定的前進を勝ちとり、日本社会をより開かれた方向へと作り上げていくことを私たちはめざしたいと考えています。
 日朝国交正常化連絡会は2月26日の夜に東京の韓国YMCAで、韓国の元統一部長官である丁世鉉(チョン・セヒョン)さんをお招きして講演会を開催し、朝鮮半島情勢と日本政府の役割について考えていく場を持つ予定です。世界的には、朝鮮半島の平和体制移行の必要性は共通認識にほかなりませんが、まだ日本社会ではそのことが根付いていないようです。日本政府の朝鮮半島政策を転換させ、日朝関係を敵対から友好へと前進させるために、ともに運動を進めていきましょう。

このページの先頭へ

同じカテゴリの記事