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日本社会が容認する「体罰」(暴力)=いじめ

2013年3月 1日

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 大阪市立桜宮高校バスケット部主将の自殺事件や女子柔道ナショナルチームに所属する選手らの日本オリンピック委員会(JOC)提訴などで、「体罰」(暴力)が問題視されている。しかし、この問題は今に始まったことではない。教育現場だけではなく、日本社会の中に「体罰(暴力)」を容認する空気がないだろうか。「強いチームをつくるためには体罰(暴力)も必要」という桜宮高校の顧問、「おれが厳しく指導してきたから、勝ったのだ」という女子柔道の園田隆二監督の言葉も、スポーツ界の多くの人々に共通する考え方なのではないだろうか。このことは、古い体質という言葉で済ませてはならない。日本社会がどう進んでいくかの大きな試金石になるのだと思う。

 「兵隊やくざ」という映画を幼いときに見た記憶がある。軍隊を描きながら全く戦闘シーンのないこの映画は、代わりに軍隊内の不条理と暴力、いじめを描いている。大宮二等兵(勝新太郎)の直情的な正義感と大暴れだけを覚えている。「おまえたちの代わりは、一銭五厘(葉書一枚の値段)でなんぼでも集まるんだ。でもな、馬は葉書一枚じゃこないんだよ」という言葉に象徴される軍隊内のいじめと暴力の肯定。私には、今の「体罰」(暴力)問題に共通するものを感じさせる。戦闘に勝つという目的に邁進する軍隊は、勝つために人の命を使い捨てる、個人の尊厳を無視するところにしか存在しない集団だ。そして、そこには階級という絶対的なヒエラルキーが存在する。それらをベースにして「体罰」(暴力)=いじめが存在する。

 安倍晋三首相は、自らを「再チャレンジ」の結果と評したが、勝利する者は少ない。競争社会には必ず勝者と敗者が存在し、プロセスを問わない勝利は、侮蔑に満ちて敗者へのエールを送らない。日本社会全体に、勝利至上主義が蔓延する中で、「公益と公の秩序」(自民党改憲案に頻出)を求め個人をないがしろにする社会は、そのこと故に「体罰」(暴力)=いじめを容認することになる。改憲論者が主張する「行き過ぎた人権」という言葉は、詰まるところ「暴力」肯定の社会なのだ。

 戦後、軍隊内でのいじめや暴力が問題にされたとは聞かない。戦前の警察権力などによる多くの弾圧事件も、国としての真相解明と名誉回復などの措置が執られたわけではない。日本社会は、戦前の社会の「負」と「闇」の部分を曖昧に、戦後を生き抜いてきた。改憲論議が続く中で、もう一度しっかりとそのことを見つめ直すことが必要ではないか。

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