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熱狂の中の虚無─戦争を考える

2018年12月 1日

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 「戦争とは、相手を我々の意志に従わせるための、暴力行為である」。これは「戦争論」を著したクラウゼヴィッツの「戦争」に関する定義である。クラウゼヴィッツは「戦争は決闘と同じ」と述べている。相手を完全に屈服させるには、手段は問わない。そのために古代から様々な兵器が開発されてきた。確実にしかも大量に敵を殺すその集大成が核兵器と言える。そこには、人間の命の尊厳から生まれる倫理観はもはや存在しないし、相手を理解しようとする理性も失われていく。屈服するかしないか、そこには二律背反の意思が横たわる。徹底した憎悪、怒り、そして自らを鼓舞する強い思い、人々は戦争へ踊り出し、そこに度し難い様々な悲劇が、敵・味方なく生まれてくる。クラウゼヴィツがいう戦争の定義ゆえの悲劇は、計り知れない。

 ある雑誌の対談で、作家の五木寛之は「軍部が大陸で暴走を続け得たのは、国民が熱狂的に支持してくれていると感じていたから」と述べている。「僕は、国民は戦争のサポーターだったと思う」そう言いながら、1937年12月の南京陥落の祝賀行事、花電車、花火、提灯行列、その町中の熱狂の中に、五木は「虚無感がある。あのリオのファヴェーラの貧民街からみんな下りてきて一夜限り熱狂するカーニバルの最終盤、悲哀に満ちたたまらない寂寥感、それと同様の虚無感がある」とも言う。やるかやられるかの緊迫した状況にあって、国民は戦争の勝利を確信して踊り出すのだ。

 1944年10月29日の朝日新聞は、敗戦に向かう日本軍が絶望的に編み出した最初の特攻作戦「敷島隊」を「神鷲の忠烈、萬世に燦たり」と大見出しをつけた。何の戦果もない特攻作戦でも、後戻りのできない悲劇は、勇壮で美しく感動的でなければならない。決してペシミズムであってはならないのだ。五木は「特攻を考え出した人間は愚かだと言ってしまうのは簡単だが、ただ愚かなのではない。特攻には、国民への『パブリシティー』と対米デモンストレーションの2つの効果があった」と述べている。

 単に「無駄死」とも言えない悲劇は、しかし戦争の本質を表している。そして、靖国による「殉国の美化」は、五木が述べる熱狂と虚無感へのひとつの答えでもある。『不死身の特攻兵』を書いた作家で演出家の鴻池尚史は、新聞報道に対して「こういう記事を書いた方が国民が喜んだ。売れたから書いたと考えた方がいいだろう」と述べている。勝たざるを得ない戦争で、勝つことを望みながら、一方でその戦争の悲劇を垣間見つつ、人々は何を考えるのか。熱狂の中の虚無は、私たちの平和へつながるのか。戦争というものを、もう一度捉え直すべきだ。
(藤本泰成)

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