2015年、ニュースペーパー

2015年06月01日

ニュースペーパー2015年6月



平和といのちと人権を! 5.3憲法集会
 安倍政権が解釈改憲で集団的自衛権行使を可能にし、戦争をする国づくりを進めようとする中、5月3日の憲法記念日に横浜市の臨港パークで「平和といのちと人権を!5.3憲法集会~戦争・原発・貧困・差別を許さない~」が開かれました。作家の大江健三郎さんや瀬戸内寂聴さん、憲法学者の青井未帆さん、法政大学総長の田中優子さん、歌手の小室等さん、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんなどが呼びかけ人となって、集会実行委員会の主催で開かれたもの。
 晴天のなか、広い会場は約3万人の市民で埋め尽くされ、大江健三郎さんは「安倍はアメリカで安保法制を進め、憲法を変えると言ったが、日本の人々は賛同していない。はっきりと声をあげていこう」と呼び掛けました。精神科医の香山リカさんは「時代は変わっても、平和は真理だ。今の憲法を使い尽くしていない。そんな政権に憲法に手をつける資格はない」と訴えました。
 各党の代表からも、政府・与党が進めようとしている戦争法案(安保法制)に反対し平和憲法を守る決意が表明されました。その後、様々な市民団体などがリレートークを行い、辺野古新基地建設問題や原発再稼、歴史認識、教科書問題、貧困や労働、女性問題などでも発言が相次ぎました。最後に参加者全員で”憲法イエス””改憲ノー”とコールを行いました。(写真撮影今井明)

インタビュー・シリーズ:101
憲法9条を外交政策に活かす取り組みを
ピースデポ 副代表 湯浅一郎さんに聞く

湯浅一郎さん

ゆあさ・いちろうさんのプロフィール
1949年東京生まれ。71年からの女川原発をはじめ、瀬戸内海汚染問題など多くの公害反対運動に関わる。84年のトマホーク配備反対を契機に反戦・平和運動に関わり、ピースリンク広島・呉・岩国(89年)結成に参加。現在、NPO法人ピースデポ副代表。著書に「海・川・湖の放射能汚染」(緑風出版)、「科学の進歩とは何か」(第三書館)、「平和都市ヒロシマを問う」(技術と人間)など。

─さまざまな社会運動で活躍されている湯浅一郎さんですが、運動に携わるきっかけはなんですか。
 僕が東北大学に入った1969年はある意味、政治の時代で、その一環として科学技術の社会的意味やありようについて問い返していくという姿勢が、入学した理学部のみならず当時の学生たちにはありました。特に宇井純さんから影響を受けたといってもいいでしょうが、水俣を通して専門家が自ら行動していくという姿勢に遭遇し、大学の中に学部横断的に作られていた反公害闘争委員会に関わり、具体的には女川原発反対闘争に関わりました。当時、女川原発の予定地は水道もないところで、原発建設工事を進めるのに、町から送水管を埋設する工事をしなくてはならない。そこで僕らはこの送水管埋設が事実上の着工だということで、非暴力直接行動で止める闘争を3ヵ月くらいやりました。反対運動をしていた漁師さんとの交流も含めたここでの経験が、その後の人生を規定していったなと感じます。科学技術の社会的な意味とか科学に携わる人間の自己をどう問うていくのか、今でも中心的なテーマですね。
 75年に広島県呉市にある地域工業技術試験所に就職しました。そのころ頭に描いていたのは、専門が海洋物理学だったので、瀬戸内海の汚染問題を住民の一人として関わっていきたいということと、そばに広島があるということで、核兵器問題は避けられないと思っていました。芸南地域に火力発電所の集中立地の問題がありまして、大型石炭火力発電所の立地に反対する現地の運動に77年から関わり、84年頃まではそれが僕の中心的な活動でした。
 一方、職場は元海軍工廠の跡地にあったんです。机に座ると窓の外にはアメリカ陸軍の弾薬庫があり、中でトラックがどのように動いているか判り、いつも気になっていました。そんな問題意識もあって、当時のアメリカのレーガン政権が、核トマホークを配備するという戦略を打ち出してきたとき、これに反対する反トマ全国運動という市民運動のネットワークができ、呉にも「トマホークの配備を許すな!呉市民の会」という運動体を作りました。これが僕にとって反戦反基地運動のスタートとなりました。

─ピースデポはどのような経緯で設立されたのでしょうか。
 きっかけは、84年の核トマホーク配備に反対する運動です。その中で、海の軍備撤廃キャンペーンを通じて、グリーンピースなどの欧米の市民運動が情報公開というものを生かしながら、アメリカ政府が持っている情報を入手して、それを分析することによっていろんなことがわかってくるということに気づかされたんです。エポック的な意味があったのは、アメリカの空母「タイコンデロガ」が、沖縄沖で水爆を積んだ戦闘機を海に落とすという事件です。このようなことがあったらしいということはアメリカ政府の広報でわかっていましたが、どの船でいつ起こったのかは全然わからなかったんです。それで、グリーンピースのジョシュ・ハンドラーという専従スタッフが、米艦船の航海日誌をアメリカの公文書館で調べまくった。その結果、空母「タイコンデロガ」が、何年の何月何日に落としたというくだりが出てきたわけです。これは日本の核政策にとって非常に重要な事実で、沖縄沖で落とした後、「タイコンデロガ」はそのまま横須賀に入港しています。文字通り核兵器が持ち込まれていることを証明することになり、大きな問題になったのです。
 欧米の市民運動は、それぞれの市民社会に対して議論となる材料を提供し、事実を示して、皆さんどう考えますかという問題提起をするわけです。そんな取り組みは日本にはありませんでした。そもそも国の情報とは誰のものか、政治家や官僚のものではなく市民のものではないのかと考えていくようになり、日本でも情報を集めて分析し、市民に提供できるような組織の必要性について、80年代後半から90年代前半にかけて反トマ全国運動のなかで議論が繰り返されました。そして91年、平和資料協同組合準備会という組織を作りました。
 アメリカの情報公開法は、国の持っている情報は市民のものであるという原則がきちっと位置づけられています。日本と比べると雲泥の差です。日本でも今は情報公開法はあるけれども、例えば艦船の航海日誌なんかはほとんど公開されない。表紙はあるけれども、実態のところは全部まっ黒です。けれども在日米軍の問題とかを考えるときに、アメリカの情報公開法を使うことができるわけです。入手した資料を分析して、日本の安保政策、防衛政策に対して、事実に基づいた問題提起ができる。努力して集めるわけですけれども、その日常の地道な活動を積み重ねていく仕事が必要じゃないかと思って始めたわけです。
 95年には「核兵器・核実験モニター」という月2回刊の冊子も創刊しました。ちょうどフランスが核実験を行った時期と重なり、大きな反響となりました。その結果、お金がそこそこ集まったこともあり、これを原資にして専従スタッフの見通しもついて、平和資料協同組合準備会から平和資料協同組合(ピースデポ)として1998年にスタートしました。

─私たちと、防衛・外務省との政府交渉などを共同で行っていますが、オスプレイの配備問題の課題や今後の運動の方向などでどんなことを考えていますか。
 94年に高知県の早明浦ダムへの米軍機の墜落事故がありました。当時、反トマ全国運動は名前を変えて「キャッチピース」と言っていたんですけれども、キャッチピースとして日米地位協定の問題をどのようにとらえていくか、その具体的なテーマとして低空飛行問題があるということで、400位の自治体にアンケート調査をしました。170位の自治体から回答があって、各自治体や住民はどのような情報を持っているのかということを大体イメージできました。低空飛行問題というのは、米軍基地がないところに住んでいる住民にとっても、米軍の直接的な脅威を具体的に実感できるものなので、安保の問題を考える上でも、重要な素材になると思っていました。
 オスプレイは24機が沖縄・普天間基地に配備されましたが、沖縄以外では低空飛行訓練を行うことが環境レビューで示されています。欠陥機といわれるオスプレイが基地の外で勝手な訓練をするということを日本政府は容認しているわけですから、その事実を国民がもっと知ることによって、理不尽さを知るきっかけになるんじゃないかと思います。
 残念ながら今のままだと、ここ数年のうちに、米海兵隊と米空軍と自衛隊で合わせて50機の態勢になる予定だし、木更津の自衛隊駐屯地に整備場ができれば、東京湾の上空をもっと飛ぶという状況になるわけで、今から十分に対策を準備していくことが必要です。さらに米空軍仕様のCV-22の横田配備が年末には出てくるのではないかと思われるので、周辺の自治体への働きかけなども進めていく必要があると思います。

─安倍政権下で日本は岐路に立たされていると思いますが、私たちの運動のあり方についてどのようにお考えでしょう。
 あまりにも物事が進んでいくスピードが速いという危機感を覚えますけれども、ただもう少し広い視野で考え、違った視点も必要かなとも思っています。一つ僕が思うのは、日本国憲法の9条はまだ堅持しているわけで、それを世界的にみると、やはり日本の平和主義は突出しているんですね。常に「普通の国」へ引きもどそうとする力が働いている。そのことを私たちはあまり自覚できていなかったのではないかという気がします。憲法9条の精神を外交政策に反映させるような提案がもっとあるべきです。ピースデポは発足当時から「北東アジア非核兵器地帯」の設立ということを言い続けていますが、これは憲法9条を外交に反映させた具体的な提案でした。こうした提案をしていく努力が、非常に弱かったという反省があります。
 モンゴルの例を挙げます。モンゴルは周りをロシアと中国に囲まれているわけですね。両方とも核兵器保有国です。それで92年にモンゴルは、自らの国を非核兵器地帯と位置付けて外交努力をするわけです。そして98年12月、国連総会の決議で一国の非核兵器地帯地位が認知された。これは核兵器を持たない、作らないということを通して、モンゴルは軍事によって物事を解決するのではない道を選ぼうとする意思表示であると思います。
 日本の国内ではそうした外交政策はほとんどできてなかった。まだ憲法9条はあるのです。安倍首相の暴走はわかりますが、安倍政権が10年続くとは思えないし、今の市民社会の世論からいうと憲法9条を明文的に変えていこうという流れにはならないと思うのです。今、安倍政権が押し進めている政策に対する取り組みはすべきですが、一方で、もう少し長いスパンで考えていく取り組みも重要なのではないでしょうか。そこで大切なのが憲法9条を外交政策に反映させるような努力であると思います。そうした観点の運動が人類全体に対しても意味を持つという気がしています。

インタビューを終えて
 社会運動に科学的、実証的な裏付けを加えることに努められた湯浅一郎さん。本年1月に立ち上がった「オスプレイと米軍機飛行に反対する東日本連絡会」の代表世話人の就任を薦められたのも、このような湯浅さんの知見に依るものに相違ありません。東日本連絡会の結成から4ヶ月。東京の横田基地にCV-22米空軍オスプレイの配備が公式に発表されました。「オスプレイ配備は、集団的自衛権の具体的な現れ。機体そのものが持つ危険性を分かり易く関係自治体に伝えることが大切。このような形で安保法制改悪反対の一翼をになう」。東日本連絡会での湯浅さんの静かな口調の決意が記憶に残っています。
(道田哲朗)

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 安倍政権「戦争法案」を閣議決定
私たちは戦前と戦後のどちらを選択するのか
フォーラム平和・人権・環境 事務局長 藤本 泰成 

 2015年5月14日、安倍内閣は、昨年7月1日の集団的自衛権行使を容認する閣議決定を受けて、「国際平和支援法案」と、10の現行法を改正する一括法案である「平和安全法制整備法案」を閣議決定しました。この法案が可決・成立すれば、自衛隊が世界のどこにいても戦闘に参加することが可能になります。


「許すな戦争法案5.12集会」で
プラカードを掲げる参加者
(5月12日・日比谷野音)

戦争できるようにすることが安全を保証?
 日本は、未曾有の惨禍を引き起こした先のアジア・太平洋戦争の反省から、日本国憲法の前文において「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」と記載し、加えて第9条において「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」としました。長きにわたった戦争から解放された日本は、この憲法を圧倒的賛意をもって受け入れました。だからこそ、日本政府は「憲法9条は、個別的自衛権は認められるが、集団的自衛権は認めない」という憲法解釈をとり続けてきました。その結果、日本は戦後70年にわたって戦争に参加せず自ら戦争をすることなく、平和主義を守り続けてきたのです。安部晋三首相は、閣議決定後の記者会見で「この不戦の誓いを将来にわたって守り続けていく」と発言していますが、一方で「もはや一国のみで、自らの安全を守ることのできない時代」だから、「限定的に集団的自衛権を行使できることにした」と主張しているように、今回の法案が、自衛隊を戦場に送り、かつ武器を持って戦闘に参加する、ないしは自ら戦闘を行うためのものであることは間違いありません。安部首相は戦争をできるようにすることが自国の安全を保証すると主張しています。
 しかし、米国を支援する軍事行動はテロの危険性を呼び込むだろうと指摘されています。それは、9.11同時多発テロとその後の米国を見れば明らかです。国際平和支援法が想定する平和のための国際貢献も、武力で相手を叩きのめすことに他なりません。国際貢献には、人道的支援など選択肢は数多く存在します。安部首相は「積極的平和主義」を主張していますが、そのこと自体が国際貢献の幅を大きく制約することとなります。
 イラク・アフガン戦争の後、イスラム社会は大きく混乱しました。その混乱は何がもたらしたのか、そのことを考えなくてはなりません。私たちは「武力で平和はつくれない」と主張してきました。戦争は、人の命を奪い、勝者と敗者を生みます。そのことによって、憎悪は連鎖を繰り返し拡大の一途をたどるのです。そこに真の平和は存在しません。

日米安全保障条約の枠を超えるガイドライン
 閣議決定された法案は、日本の自衛隊が派遣され集団的自衛権行使が容認される安全保障に関わる事態をいくつかに分類しています。他国からの攻撃を受けた場合(武力攻撃事態)、密接な関係のある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される危険がある場合(存立危機事態)、そのまま放置すれば日本に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(重要影響事態)などです。
 これでは、他国が日本を攻めるという武力攻撃事態以外、言葉によって規定される事態がどのようなものであるか想定できません。曖昧模糊として、時の政府の恣意的運用を可能にするものといえます。安部首相は、「中東・ペルシャ湾のホルムズ海峡が機雷で封鎖されれば、原油が輸入できず国民生活に深刻な影響が出る」として、このことを存立危機事態と主張していますが、与党である公明党は反対しています。経済的利益の確保に武力が行使されるのであれば「満蒙は日本の生命線」として15年戦争に突入した過去の歴史をあまりにも軽視するものです。
 これらの法案の決定以前に合意した日米防衛協力協定(ガイドライン)は、極東の安全に限定する日米安全保障条約の枠を超えるものです。そして、70年にもおよぶ日本の安全保障のあり方を根底から覆すもので、憲法の平和主義に反するものです。自衛隊は生死に関わる大きなリスクを背負わされることとなります。国民的議論無くして決定することは、政治的暴挙です。
 今こそ、1945年8月15日の前と後を、国民全体でとらえ、どちらを選択するのかを考えなくてはなりません。安部首相の作り出した歴史の転換点は、日本社会を大きく変貌させることでしょう。そのことを、国民全体の意思として阻んでいくことが、将来の日本への、現在を生きる者の責任であるといえます。
(ふじもとやすなり)

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辺野古への新基地建設反対!沖縄で平和行進
安倍政権の戦争法案にも対決

 「基地のない平和な沖縄を作ろう」と、毎年、5月15日の本土復帰の日に全国からの参加者を含めて行われている「5.15平和行進」は、今年で38回目を迎え、5月14日の結団式、15~16日の行進、17日の県民大会参加の日程で行われました。沖縄平和運動センターが主催、平和フォーラムが協力しました。
 今年は、安倍内閣が名護市辺野古への新たな米軍基地の建設強行、集団的自衛権行使、戦争できる国に向けた戦争法案の国会提出などの暴挙に対する闘いとして位置付けて取り組まれました。


基地建設予定地の大浦湾を歩く参加者(5月15日)

辺野古と普天間基地周囲を行進
 行進1日目は、昨年7月から米軍基地建設が強行されていることに抗議し、新基地建設地を臨む瀬高海岸に1200人が集結。福元勇司・副実行委員長は「国土の0.6%しかない沖縄に、74%の米軍基地が押しつけられている。そこにさらに新基地を作ることは許せない。絶対に阻止しよう」と力強く訴えました。
 参加者は、横断幕やプラカードを持ち、「辺野古新基地建設反対!」「大浦湾の埋め立てをするな!」など、シュプレヒ・コールを繰り返し、基地建設予定地の大浦湾の周りを行進して、キャンプ・シュワブのゲート前に再結集。ゲート前では、すでに300日を超える抗議の座り込みが行われており、多くの市民が出迎えて、さらに拡大してのシュプレヒ・コールや現地集会、座り込みが夕方まで行われました。


平和行進の集約集会に2600人参加(5月16日)

 2日目の5月16日は、2600人が沖縄県宜野湾市の中心部にある「世界で最も危険」と言われる米軍普天間飛行場を取り囲むように行進しました。飛行場のフェンス沿いを行進した参加者は「危険な普天間基地は即時返還せよ!」「辺野古新基地建設反対!」と声を上げました。宜野湾市役所で開かれた出発式で、連帯挨拶に立った藤本泰成平和フォーラム事務局長も「この普天間基地は米軍が銃剣とブルドーザーで奪い取った地だ。行進で沖縄の人たちの思いを学ぼう」と呼びかけました。南北2つのコースに分かれた参加者は、横断幕やプラカード、団体旗をもち、基地ゲート前や、米軍ヘリ墜落事故が起きた沖縄国際大学前などを通り、シュプレヒ・コールを繰り返しました。
 両コースの参加者は、宜野湾海浜公園の屋外劇場で合流し、集約集会を開き、「戦後70年の節目と、辺野古新基地建設強行、戦争法案の審議が始まる重大な時に平和行進を成功させることができた。この成果を、17日の県民大会や全国に広げよう」(福元勇司・副実行委員長)と確認しました。

「決して屈しない」─県民大会に3万5千人
 「沖縄県民は決して屈せず、新基地建設を断念させるまでたたかうことを宣言する」と、「止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が、5月17日、那覇市のセルラースタジアムで開かれ、3万5千人が参加。
 主催者として各界の共同代表が「安倍政権は歴史を省みない。基地は沖縄経済の最大の阻害要因だ」「辺野古基金はすでに2億円を超えた。この問題は日本全体に広がっている」「沖縄戦で多くの人が犠牲になった。二度と沖縄を戦場にしてはならない」と訴え、稲嶺進・名護市長は「普天間基地問題が解決しないのは政治の責任だ。市長として絶対に辺野古基地建設は止める」と決意を表明しました。
 辺野古現地からの報告を、ヘリ基地反対協議会代表の安次富浩さんが行い「闘いは18年間にも及ぶ。歴代政府は普天間問題を放置してきた。沖縄の基地は我々が撤去し、未来は私たちが決める」と力強く呼びかけました。
 最後に、翁長雄志沖縄県知事が登壇し「安倍首相の言う”日本を取り戻す”中に沖縄は入っているのか。沖縄はこれまで自ら基地を提供したことはない。日米両政府は辺野古が唯一の解決策というが、新基地建設を阻止することこそ解決への政策だ。あらゆる知事の権限をもってして、辺野古に新基地は作らせない」と、声高らかに決意を表明。5月末には大会決議文を持って、アメリカに出向くことも報告されました。
 最後に、参加者全員でメッセージボードを掲げ、「辺野古新基地NO!」「われわれは屈しない!」とコールを繰り返しました。

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TPP交渉 国民の合意なき妥結に強く反対
何が「国益」? アメリカに従うだけの日本

 環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉は、最終的な山場を迎えようとしています(5月15日現在)。来年11月の米大統領選挙までの政治日程から、夏前までには大筋合意ができなければ、交渉は長期間漂流することになるからです。

コメの輸入拡大を無理強い 車はメリット無し
 4月19~20日に東京で、甘利明TPP担当大臣とフロマン米通商代表との閣僚級協議が行われました。合意は持ち越されたものの、米国産米の輸入拡大が露骨に持ち出されました。現在、日本は毎年77万トンものコメを輸入し、そのうちアメリカからは36万トン前後を輸入しています。これだけでも優遇されているにも関わらず、さらに主食用米17万5千トン、加工用4万トンもの輸入を迫ってきました。日本が必要としないコメを買い続け、しかもその大部分がなぜ米国産なのか。これ一つ取っても、いまの交渉が自由貿易とは言えない、一部の権益のための談合交渉だと言えます。
 その一方、自動車部品などの関税の即時撤廃を求める日本に対し、長期間での撤廃をアメリカは主張して応じません。その上で、原産地規則を厳しく設定するよう求め、TPP参加国でない国からの部品供給を受ける日本車は対象にしないとしています。多くの部品や現地組み立てを中国やタイと取引している日本車のほとんどは「日本産」といえなくなります。これは自動車に限らず他の製造業にも適応される可能性もあります。
 自動車はTPPにおいて日本の「攻めの分野」のはずでしたが、これでは何のメリットもありません。日本政府は何を「国益」と位置付けているのでしょうか。もはやこれは「交渉」と言えず、一方的な「日本の切り売り」です。日米ガイドラインや集団的自衛権とともに、アメリカの属国となって、中国に対抗するための茶番劇というしかありません。

問題が多い米国の貿易交渉権限の法案
 日米交渉に先立ち、4月16日に米国議会に、大統領へ貿易交渉権限を与えるとされる「TPA法案」が提出されました。これまでTPP交渉が進展しなかった理由の一つが、「貿易交渉権限が議会にあって大統領にはない」ということでした。交渉が妥結をしても米国議会で内容が覆され、再交渉も考えられることから、各国は、TPA法が成立するまでは詰めた交渉はできないとの態度をとってきました。その意味では、TPA法案が目下の注目の的です。しかし、その内容をよく見ると、大統領に権限を無条件に与えるのではなく、(1)貿易交渉における米国にとっての優先順位を議会が規定し、(2)国会議員への情報公開を徹底させるという条件のもとで大統領に一定の権限を与えるというものです。
 さらに、「為替操作禁止条項」という、日本が円安操作をして輸出を伸ばした場合は制裁を科すことも盛り込まれています。アベノミクスの致命傷にもなりかねない内容が盛り込まれた法案であるにも関わらず、甘利大臣はTPA法案を「歓迎する」とし、日本のメディアも本質を報じていません。法案が通ったとしても、決して「安心して交渉に臨める」ことなどできないのです。
 しかも、TPA法案には多くの反対があります。アメリカのナショナルセンターの「米国労働総同盟・産業別会議(AFL-CIO)」など多くの労組は、これまで自由貿易協定によって雇用が破壊されてきたとして、TPA法案に強く反対し、米国の民主党議員の多くも反対を表明しており、成立の見通しは立っていません。


TPP交渉に反対する座り込み行動
(4月24日・国会前)

情報開示でも米国の都合を優先
 さらに、交渉内容の開示をめぐる議論も活発になってきました。TPP交渉の内容について政府は、交渉参加時に保秘義務契約を結んだとして、極めて限定的にしか明らかにしません。しかし、米国は2012年以降、厳しい条件つきとはいえ、国会議員に交渉テキストを閲覧させています。また政府が任命する「貿易アドバイザー」(多くは企業関係者)には閲覧させています。5月4日、TPP交渉を担当する内閣府の西村康稔副大臣は「日本でも協定案の閲覧を国会議員に認める」意向を示しましたが、すぐに撤回をしました。他国に厳しく、自国内では都合によって解釈や運用を変えるというアメリカのダブルスタンダードによる不平等性こそTPPの持つ本質と言えます。日本政府がこのような不平等ルールについてまったく指摘をしてこなかったことも大きな問題です。
 2013年4月のTPP交渉参加にあたっての国会決議で、情報開示に関して「国会に速やかに報告するとともに、国民への十分な情報提供を行い、幅広い国民的議論を行う」とされています。しかし、これまで国会はもとより、国民的議論に足るような情報開示はされていません。交渉内容の徹底的な開示を求め、国民の合意なき妥結に強く反対していくことが必要です。
(市村忠文)

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原水禁発足50周年に思う(5)
あきらめることは許されない
群馬県平和運動センター 神垣 宏

60年代、ソ連の核実験をめぐる混乱・分裂
 原水爆禁止日本国民会議にとっては前史ということになるが、日本原水協の分裂直前、初めて参加した原水爆禁止世界大会は第8回大会(1962年)だった。大会開催中(8月5日)に行われたソ連の核実験を巡り、大会は大混乱に陥った。混乱した会場の様子は、今でも忘れられない。
 当時は、分裂はなんとしても回避したいという強い思いをもって大会会場に入ったが、会場の状況は、そんな甘い思いをいっぺんに吹き飛ばした。席を同じくするにはあまりにも無理があり過ぎる二つの流れが激しくぶつかり合う大会だった。多数決でソ連の核実験に対して「抗議せず」とした大会に抗議し、社会党・総評・日青協・地婦連・日本山妙法寺など13団体が退場した世界大会は分裂状態となり、原水協は機能停止。党派の決定や利害を優先し、大衆運動を引きずり回す日本共産党のやりかたが、原水協と世界大会を翻弄することになった。
 群馬に戻って、中央における分裂状況を何とか修復しようと一定の努力が払われたが、結局無駄に終わり、第9回大会(1963年)を目前にして、群馬県原水協の石黒寅毅事務局長を中心に、県評・社会党と群馬母の会その他の市民団体代表が協議の上、群馬県原水協再建大会を開いて、「いかなる国の核実験にも反対し・・・」など後述の2・21声明に添う運動の原則を確認、新たな一歩を踏み出した。結局、この再建大会は、共産党系諸組織を除名、群馬県原水協も完全に分裂することとなった。
 中央では、第9回大会を控えて、社共両党間の合意に基づき、2月に「原水禁運動は、原水爆の製造・貯蔵・実験・使用・拡散を禁止」し、「命を守る」ため、「いかなる国の原水爆にも反対し、完全禁止をはかる」とする、いわゆる「2・21声明」が、担当常任理事会の名で発表された。
 しかし、この声明に共産党系の理事が猛反対、常任理事会を大混乱させ、3・1ビキニ・デー集会を中止に追い込んだ上、第9回大会の基調報告で「いかなる・・・」を基調とすることに反対する共産党系諸団体の反対と、同じ8月に調印された部分的核実験禁止条約の評価をめぐる対立が加わり、大会は完全に分裂状況に追い込まれた。大会は、共産党系団体によって強行開催され、社会党・総評などはこれをボイコットし、別会場で独自大会を開く結果となった。当時、広島に入っていた群馬代表団でも、大会参加をめぐってかなり深刻な議論があったが、独自大会参加を決めたことを記憶している。
 この分裂は、今日まで続いており、群馬には二つの原水爆禁止群馬県協議会が今も存在している。ただし、混同を避けるため、ある時期から当方は原水爆禁止群馬県協議会(原水禁)と名乗っている。

加害責任の自覚に立った反核運動
 この分裂は、私たちの原水爆禁止運動に二つの新たな視点を獲得させる結果を生んだ。
 一つは、原水禁運動の被害者運動からの脱皮である。
 広島・長崎の原爆被爆を原点とし、ビキニ水爆実験による第五福竜丸などの被爆を起点に、全国に大きく燃え広がった原水禁運動は、当初から被害者運動としての性格を強く持ってきた。
 しかし、朝鮮人被爆者をはじめとした外国人被爆者問題への取組みや核実験に伴う放射能による人と環境の汚染への取組み、そして何よりベトナム反戦闘争への関わりを通して、分裂後の原水禁運動は被害者運動としての枠を取り払い、加害責任の自覚に立った反核運動として再生することができたように思う。個人的には、広島の詩人・栗原貞子さんの詩集や長崎大学の岩松繁俊教授(前原水禁議長)の著書に大きく影響され、啓発された。
 もう一つは、原発を中心とした核エネルギー利用に対する視点である。これも、原水協時代にはもちえなかったもので、分裂後に原水爆禁止日本国民会議の運動の中に欠くことのできない課題として位置づけられ、反原発・脱原発運動として発展させることができたように思う。群馬では、隣県の新潟・柏崎刈羽原発や同じ関東の東海原発の存在が、問題意識を維持させ、新潟への核燃料輸送に対する取組みなどを通じて、群馬の運動を活性化させてきたことは否定できない。
 振り返ると、群馬県平和運動センター・群馬原水禁は、総評・県評の解散、連合の発足時に解体の危機に見舞われた。窮状に追い込まれながらも、運動の継続をめざす有志労組・民主団体や有志個人の協力で組織を維持し、今日まで運動を継続し、まがりなりにも群馬における平和・民主主義、自由・人権の運動の一端をささやかながら担う役割を果たしてきた。
 被曝70年、原水禁結成50年を迎えた今、己が造り出した16,000発もの核爆弾の存在に怯えながら、これを克服できない人間の愚かさを痛感する。また、大勢の市民に困難な避難生活を強いた上、いまも収束せず、原因究明も出来ない東京電力福島第一原発の過酷事故を経てもなお、「経済」の名の下に、再稼働や輸出に走る政府・財界・電力と、彼らに同伴する学者・文化人の存在にあきれると同時に、憤りを抑えることが出来ない。
 しかし、「あきらめること」は許されないことを肝に銘じて、これからもあがき続けていこうと思う。
(かみがきひろし)

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核拡散防止条約の国際会議に代表派遣
核兵器開発の原点からNPTの再検討へ

 4月21日~29日に、同月27日から始まった核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けて、原水禁は総勢25名をアメリカに派遣しました。

ニューメキシコのウラン採掘現地を視察
 特に、今年が被爆70周年にあたることから、広島・長崎の原爆投下に先立って世界で最初の核爆発実験を行い、その後の核実験・核開発の中心地のひとつとなったニューメキシコを訪れ、NPT再検討会議に向けてあらためて核を考えるきっかけにしました。ニューメキシコはアメリカ最大のウラン埋蔵地帯で、多くの採掘跡や今後も採掘が予定される地域があります。ウラン採掘は、核開発の過程で軍事利用にも平和(商業)利用にもつながるもので、最初の段階から被曝が付きまとい、そこでの被曝労働なしには、核兵器も原発も成り立たない構造があります。特にウラン埋蔵地帯は、先住民が数多く居留する地域や聖地と言われる山々に存在し、核被害が集中して発生しているところです。22日は、3年前の被爆68周年原水禁世界大会に海外ゲストとして来日された活動家のレオナ・モルガンさん(アメリカ・ウラン採掘反対東部ナバホ・ディネ)から、ウラン鉱山の汚染問題と先住民の核被害の現状についてのレクチャーを受けました。
 23日に訪れた国立核博物館では、広島・長崎へ投下された原爆「リトルボーイ」や「ファットマン」が実物大で展示され、「原爆投下が戦争終結を早め、多くのアメリカ兵の命を救った」という、投下した側の論理が語られていました。博物館は、アメリカが戦後開発した様々なタイプの原爆やミサイル、起爆装置などを所狭しと展示していました。まさに核兵器のショーウインドウのようです。そこでは核兵器=善という核大国の論理が展開されていました。多少、広島・長崎の被害の状況が展示されていても、それは核兵器の威力を示すかのようでした。ただ、広島の原爆被爆者の佐々木貞子さん(原爆の子の像のモデル)の話が展示されていたのは意外でしたが、原爆の負の側面には言及が少ないようです。一貫して核エネルギー(原発も含めて)は正しいという構図が貫かれていました。売店では、広島・長崎に投下された原爆のキーホルダーなどのグッズも売られ、複雑な気持ちにさせるものでした。


木が生えないウラン残土の巨大な山(ニューメキシコ州)

日本企業も開発に関わる─不十分な先住民への補償
 その後、世界最大のウランの露天掘り鉱山であるジャックパイル鉱山跡を見学。広大な大地を掘り続け、大量のウラン残土が無造作に積み上げられ、いまも放射能を出しつつけている様がみられました。その山からウランの飛散や地下水が汚染されていることなどの核被害についての説明をうけました。
 24日は、ウラン鉱山に挟まれたレッドウォーターポンドロードという先住民の集落を訪れました。住民たちはこれまでウラン鉱山による汚染のため3度も移住させられ、子どもたちへの影響を心配していました。また、近くに日本の住友商事も関わる新たなウラン鉱山ロカホンダの鉱山開発計画の話も持ち上がっており、新たな核被害が心配されていることが話されました。日本の企業がウラン資源開発に投資し、地元の人々を苦しめることは、広島や長崎、福島と核被害を受けてきた日本が、今度は加害者の側に回ろうとすることであり、許されることではありません。
 ただ、地元では目ぼしい産業が無い中で、あらたな仕事先として歓迎する意見もあり、先住民の置かれている社会的、経済的な厳しさの中で、「経済」を求めざるをえない状況があります。しかしウラン鉱山の開発は、先住民の信仰対象である聖地としての山や自然環境が破壊されることになり、文化的にも精神的にも大きな被害を生み出していることが指摘されました。また、放射能汚染による補償問題が生じていますが、少数民族の先住民族への関心も薄く、補償そのものも十分に満足いくようなものになっていないことも指摘されました。

軍事利用だけでなく商業利用も課題に
 26日からはニューヨークへ移動して、NPT再検討会議に向けた「核兵器のない世界のための国際デー」として、集会やマーチ〈デモ〉、「平和のためのフェスティバル」に参加しました。集会には、世界各地の反核団体・平和団体から約7500人が参加。日本からも広島・長崎の両市長をはじめ1500人近くの人々が参加したようです。この間の取り組みについては、別掲の金子哲夫さんの報告をご覧下さい。
 短い期間でしたが、核の現場や世界の活動家との交流などから、核は、軍事利用や平和利用を問わず、様々な問題を引き起こすことが改めて明らかになりました。NPT体制では、軍事利用を中心にその規制をしていますが、ウラン採掘現場で見たように「平和利用」そのものも問題にしなければなりません。NPT条約そのものも問うていくことが重要です。
(井上年弘)

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NPT再検討会議:核拡散と日本の再処理政策

 核不拡散条約(NPT)再検討会議開催中のニューヨーク国連本部で5月7日、原水禁を始めとする日本の4つの反核・平和団体が、安倍首相に対し、日本のプルトニウム保有量に関する正確な情報を発表すること及び、六ヶ所再処理工場運転開始計画を中止することを求める要請文を国連日本政府代表部に送付しました。また、同日、国連本部内の会議室で日本のプルトニウム問題についての説明会を開きました。


核情報の英文チラシ「NPTの時間です。
日本は自国のプルトニウムが
何処にあるか知っていますか」
─米国の夜間外出禁止令の際に
テレビで流された呼びかけ
「夜の11時です。お子さんがどこにいるか
知っていますか?」のパロディー

国連本部で日本の再処理政策を説明
 再検討会議開催で世界の関心が核拡散問題に向けられている中、日本は六ヶ所再処理工場を2016年3月に完成させようと計画しています。非核兵器国の中で唯一の産業規模のこの再処理工場は、毎年8トンのプルトニウムを分離する能力を持っています。この問題に焦点を当てるために4団体(原水禁、原子力資料情報室、ピースデポ、ピースボート)がニューヨークで発表した安倍首相宛書簡で要請したのは、次の3点です。

 (1)日本の使用済み燃料の再処理を2006年に終えている英国でさらに1トンのプルトニウムが日本のものとして割り当てられる予定であることを国際的に公表すること(2013年末の日本の保有量として発表されている47トンと合わせると48トンになる)。(2)少なくとも、この合計量48トン(1発当たり8kgというIAEAの計算方法で核兵器6000発分)が大幅に減り、たとえば、「需要量」1年程度にならない限り、六ヶ所再処理工場を運転してさらにプルトニウムを分離するようなことはしないと発表すること。(3)日本の保有プルトニウムに関する透明性を高めること。

 世界各国のNGOがNPT再検討会議に合わせて各種会合を開いている国連本部会議室での説明会には、4団体を代表してピースボートの川崎哲さんと原子力資料情報室の松久保肇さんの二人が出席しました。また、フランスで活動する世界的に著名なエネルギー・原子力政策の専門家マイケル・シュナイダーさんと共に、筆者も参加して書簡提出の背景を説明しました。
 本誌4月号で述べたとおり、日本の原子力委員会事務局は、昨年9月16日の同委員会定例会議で、英国における日本のプルトニウム保管量が2013年に2.3トン増えたと発表しました。ところが英国における日本の使用済み燃料の再処理は2006年1月に終わってます。それにもかかわらず2013年に急増があったのは、契約では、英国に送られた使用済み燃料に含まれるプルトニウムの全量が最終的に日本に割り当てられるが、各年の割当てはその年に実際に日本の使用済み燃料を再処理して分離したプルトニウムの量とは関係ない形で実施されることになっているからです。だとすると、ではまだ割当てが残っているのかという疑問が生じます。2014年11月13日、原子力委員会事務局は阿部知子議員室に対し、英国では日本分の割当て量がさらに約1トン残っていることが判明したと認めました。つまり、日本のプルトニウム保有量は実質的に48トンに達しているということです。
 原子力発電の経済性問題に詳しいシュナイダーさんは、この問題を議論する際にはプルトニウムは「資産」ではないという理解から出発することが重要だと強調しました。プルトニウムは、元々、発電をしながらプルトニウムを増やす増殖炉の初期装荷燃料として使われるはずでしたが、この増殖炉計画は頓挫しています。本来の使い道のなくなったプルトニウムを普通の原子炉での「プルサーマル」で無理矢理燃やそうというのが現在の計画です。実際、英国は、日本が十分なお金を払えば英国にある日本のプルトニウムを英国で処分してもいいと申し出ています。

日本こそ透明性を高め、再処理の中止を
 川崎さんは、日本が保有量を明確にしないまま再処理を進めようとしている状況について、透明性の原則は、核兵器国だけでなく非核兵器国にも適用されるべきだと述べ、核セキュリティ・サミットが高濃縮ウランとプルトニウムの使用及びストックの最小化を呼びかけていると指摘しました。松久保さんは、核拡散との関係について次のように説明しました。「再処理・ウラン濃縮技術を持つ国は、NPTを遵守している場合でも、その意図について隣国から疑いの目で見られ、これが緊張関係をもたらす。だから、日本が核のない世界を求めるなら、六ヶ所再処理工場の運転を始めるべきではない」。
(田窪雅文:「核情報」主宰)

《投稿コーナー》
原水禁代表団など「核兵器廃絶」をアピール
原水爆禁止広島県協議会代表委員 金子 哲夫

 5年に一度開催される核拡散防止条約(NPT)再検討会議が、4月27日、米ニューヨークの国連本部で5月22日までの4週間の会期でスタートしました。原水禁国民会議は、今回の再検討会議にも長崎の被爆者1名、被爆二世2名を含む25名のNPT再検討会議派遣団(団長・小西清一原水禁副議長)を派遣しました。

盛り上がりに欠けるNPT再検討会議の動き
 4月25日にニューヨークに到着した派遣団は、26日午後1時から市中心部の公園でNGO団体が主催して開催された「核兵器のない世界のための国際デーinNY行動」の集会やデモ行進に、連合やKAKKINの代表団とともに参加しました。公園で行われた出発式では、広島で被爆した日本被団協の中村雄子副事務局長(83歳)が、自らの被爆体験を証言するとともに、動員先で命を奪われた下級生の犠牲を訴え、「原爆は無残に命を奪うこと」を強く訴えました。
 原水禁派遣団も、国連本部前のダグ・ハマショルド広場に向けてのデモ行進で、「核兵器廃絶」「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー」をニューヨーク市民にアピールしました(写真・左2人目が筆者)。さらにデモ行進の終着点で行われた平和フェスティバルでは、福島原発事故の写真を展示し「さようなら原発1000万人署名」への協力を呼び掛けNPT条約の柱の一つとなっている「平和利用」の危険性を告発しました。
 しかし、今回の集会・デモ行進への参加者は約7500人にとどまっただけでなく、沿道からの声援も少なく、従来に比して盛り上がりに欠けるものとなりました。その要因として考えられることは、2010年の合意事項が全く履行されておらず、「核兵器の非人道性から『核兵器禁止条約』の制定をめざす非保有国」の動きが強まる一方、「段階的な核軍縮を主張する核兵器保有国」との間に大きな意見の相違があり、最終文書の合意が危ぶまれていることがあげられます。こうした時期だけに被爆国としての役割が期待される日本政府は、核兵器の違法化には消極的(27日の外相の国連演説でも「核兵器禁止条約」には全く触れず)であり、国内外からの批判が強まっています。
 原水禁派遣団は、27日、米国の反核団体・ピースアクション(毎年原水禁世界大会に代表を派遣)との交流セミナーを実施しました。その中でピースアクションからは「核兵器の近代化政策を進める米国の核政策、任期があと1年半余りとなったオバマ政権、上・下両院で共和党が多数を占める米国内の政治情勢が、米国内の関心を低める要因の一つとなっている」と、今回のNPT再検討会議をめぐる認識が示され、「被爆70周年の今年、米国内でも様々の活動を進めたい」と原水禁への協力を求める声も出されました。
 なお、昨年4月から連合、原水禁、KAKKINの三団体が協力して取り組んだ「核兵器廃絶を求める」718万余の署名は、4月24日に国連本部で三団体を代表して古賀伸明連合会長からエリアソン副事務総長に提出されました。

ウラン開発の現地視察 住民への被害も懸念
 原水禁派遣団は、ニューヨーク入りに先立ち、22日~24日まで独自の行動として、米国・ニューメキシコ州を訪れました。3年前の原水禁大会に参加した先住民のレオナ・モルガンさんから、1981年以来ストップしていたウラン採掘が再開されようとしていることや、住民の健康被害、水の汚染問題など、現地の現状や運動の課題の報告を受けました。訪れた「国立核博物館」では、入口に展示された「リトルボーイ」と「ファットマン」の実物大の模型が目を引きます。しかし、広島、長崎の被爆写真と思わるものはわずかに4枚しかなく、しかも原爆被害の惨状を伝える写真は全くありません。
 ウラン開発の現地視察では、世界最大の露天掘りのジャックパイル鉱山跡や、現在、先住民の人たちの最大の課題となっている住友商事が4割出資して進めようとしている「ロカホンダウラン鉱山」の開発予定地を遠望しました。日本の原発再稼働の動きと合わせるかの計画で、私も参加した1987年の第1回核被害者世界大会で報告された「精錬所(チャーチロック)残滓の池ダム決壊による大量の放射能漏れ事故」の現地でした。まさか28年もたってその地を訪れることができるとは思いませんでした。野積みにされたウラン残土の山と隣り合わせで住むレッドウォーターポイントロード村の現地訪問と住民との交流も意義深いものがありました。
 弱者を犠牲にして進む核社会。「核と人類は共存できない」─この言葉の持つ深い意味を再確認できた訪問となりました。
(かねこてつお)

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〔本の紹介〕
『日米<核>同盟原爆、核の傘、フクシマ』
太田昌克著2014年岩波新書

 核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれている今年、あらためて日本における核の問題を考えるために本書を開いた。本書は「日米核同盟」を、二つの側面から説いていく。一つは「核持ち込み」に関する密約。この「核密約」について、歴代政府は2009年(民主党の政権奪取)まで一貫して存在を否定してきた。民主党政権時にその存在を明らかにし検証委員会で調査・報告されたが、それでも十分に解明されない部分を、膨大な公文書と関係者への取材によって、この「密約」をさらに鮮明にしていった。
 外務省関係者の証言では、核密約に関する「メモ書き的な紙」が残されており、歴代事務次官がそれを引き継ぎ、それを信頼できる首相、外相のみ(選別して)に密約について説明していたことなど、驚くべき事実が報告されている。特定秘密保護法が施行された今、ますます国民に隠されようとする「秘密」についてあらためて考えさせられる。
 二つ目には、原子力(原発)政策に関して、1953年の国連総会での「アトムズ・フォア・ピース」の演説以降、米国は同盟国・友好国に「原子力の平和利用」を導入させ、夢の「核燃サイクル」が語られた。核燃料サイクルは現在、行き詰まっているが、日本が保有する民生用”余剰”プルトニウムは約45トン(現在は47トン)に達し、核爆弾5000発分以上に当たる。その不良債権ともいえる核燃料サイクル政策を方向転換させようと、経済産業省の若手官僚が「19兆円の請求書」と題した資料を作り、政治家や関係者に配布したことは有名であるが、その経緯をあらためて取材し報告している。
 しかし、政治・官僚機構の中で「行政の無謬性へのこだわり」「誤りを認めない」などのムラ社会の論理の上で、潰されていったことを検証している。そのことは原発の安全神話と同様、福島原発事故にもつながる病理でもある。
 著者は、共同通信社入社後、広島支局、大阪社会部、高松支局、政治部、外信部、ワシントン支局を経て、現在は共同通信編集委員。夏の原水禁世界大会を控えて、ぜひご一読を勧めたい。
(井上年弘)

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〔映画の紹介〕
『圧殺の海-沖縄・辺野古』
藤本幸久・影山あさ子監督(2015年/森の映画社/109分)

 2014年7月1日、安倍首相が集団的自衛権を閣議決定した同じ日に、辺野古の新基地建設が着工された。沖縄県民は、何度、NO!の声をあげたことだろう。名護市長選、沖縄知事選、衆議院総選挙。これほど民意を反映して、あらゆるデモクラシーの手段を尽くしても、ついにその声を日米政府がかえりみることはなかった。
 北海道在住の藤本幸久監督は、夕張の炭鉱閉山をテーマとした作品「闇を掘る」(2001年)で国際映画賞などを受賞し、アメリカ海兵隊を取材した「アメリカばんざい」(2008年)などの作品を発表している。2004年より継続して沖縄を撮影し、影山あさ子さんとともに「辺野古」を追っている。
 この映画では、辺野古の海で繰り広げられていることの本当の姿を映そうと、最前線のカヌー隊のヘルメットに小型カメラをつけてもらい撮影を行った。そのため、映画館では「画面が揺れるので、あまり近くでは見ないように」と、わざわざ注意がある。それだからこそ、海上保安庁の巡視船やゴムボート、特殊警備艇などで埋め尽くし、反対する人たちを力ずくで抑え込みながら、工事をすすめる様が鮮明に描かれる。また、陸上でもゲート前で機動隊が報道機関も排除し、怪我人を出すほどに猛り狂う姿を捉えている。それでも、沖縄の人々のたたかいは続く。炎天下の日中も、台風前の雨の中も、ゲート前に座り続ける人びと。両手を広げて工事用のトラックの前に立つおじぃやおばぁたち。カヌーに乗り、体一つで海へこぎ出す人びと。屈しない人たちがいる。見ていて、目頭が熱くなるのを禁じ得ない。
 この作品は、キネマ旬報の文化映画ベストテン7位に選ばれた。藤本監督はインタビューで「これは本当に見てもらいたい。マスコミを遠ざけた中で、本当に何が行われているか」「1人1人は本当に小さい。小さな力、弱い力しかもっていないけれども、その人たちの声が広がっていけば、大きな力も変えていく可能性が生まれてくるんじゃないか」と語る。そして、今も「沖縄ニューズリール速報辺野古の闘い」として、刻々の状況をDVDにまとめて出し続けている。
(市村忠文)

全国での自主上映など詳しくはこちらへ
http://america-banzai.blogspot.jp/

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核のキーワード図鑑


「戦後」70年、それは「戦中」70年でもあった

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とめよう!戦争法案「戦争させない・9条壊すな!
総がかり行動」6月の国会行動

 安倍政権の戦争法案に反対し、衆議院段階における審議の山場と予想される6月中旬から連続して行動します。多くの方の参加を呼び掛けています。
 また、下記以外に「木曜連続行動」として、毎週木曜日の18時30分から1時間程度、衆議院第2議員会館前を中心に、「とめよう!戦争法案国会前木曜連続行動」の取り組みも行なわれます。

(1) 6.14国会包囲行動
日時:6月14日(日)14時~15時30分
場所:国会周辺

(2) 連続座り込み行動
日時:6月15日(月)から24日(水)にかけての平日10時~17時※12時~13時には昼集会を行います。
場所:衆議院第二議員会館前

(3) 6.24国会包囲行動
日時:6月24日(水)18時30分~20時
場所:国会周辺

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