ニュースペーパー

2020年08月01日

8月6日 広島は地獄に変わった

被爆証言
切明 千枝子さん

現在90歳となる切明千枝子(きりあけ ちえこ)さんの被爆体験を広島県原爆資料館の会議室においてインタビューさせていただきました。

県立高等女学校4年生、15歳の時、学徒動員で、たばこ工場に勤務をしていて、8月6日は工場から外科病院へ通院の途上、比治山橋東詰で被爆しました。この日は猛暑だったため、一休みしてから橋を渡ろうと思い、近くの建物の軒下に入った途端、閃光とともに爆風により地面に叩きつけられて気絶しました。気がつくと、建物の下敷きになっていたので、必死で外へ這って出ると、辺りは真っ暗でした。渡って行く予定の橋の向こうは火の海で、大勢の人が悲鳴をあげながら逃げてきます。川岸で疎開作業中だった学生たちが、燃えながら私の前を通り過ぎました。一瞬にして、広島は地獄に変わったのです。幸いにも私は、軒先を借りた建物が陰になってくれたので火傷はまぬがれ、頭や首筋、手指にガラス破片が刺さったのと、建物の下敷きになった際の打撲傷のみで助かりました。もし橋を渡っていたら…、もし一休みして建物の陰にいなかったら…、きっと命はなかったと思います。

私は、何とかたばこ工場に帰り着き、クラスメイトに会い、一緒に学校へと戻りました。しばらくすると、建物疎開に動員されていた下級生と東練兵場の畑に動員されていた下級生が、ひどい火傷や外傷を負って戻ってきました。指先から皮膚が垂れ下がり、皮膚を引きずりながら、歩いてくる姿にどうしていいかわからなかったのですが、先生がその足の先に引きずる皮膚を破いたのです。すると下級生は「痛くて歩けなかったの、ありがとうございます」と言ったのです。その後、薬もなく、医者もいない中で下級生たちは死んでいきました。死体がつみあがってく様を見て、本当にかわいそうでたまりませんでした。それは地獄でした。下級生のご遺体を荼毘に付し、遺骨を拾ったことは今でも思い出します。

切明 千枝子さん

証言活動を始めたきっかけは何ですか。

正直、忘れたいと思っていました。でも、そう思いながらも、年を経ていくごとに、忘れちゃいけない、黙っていてはいけないという思いが強くなっていきました。このまま黙っていることは、死んでいった人たちが無かったことになってしまうのではないかと思ったのです。人間というものは愚かな生き物ですから、どんなにひどい目にあっても、そのことを忘れるとまた同じ過ちを繰り返してしまうものです。わが子の顔、孫の顔を見ていると、あの時の過ちを繰り返してはいけない、そのように強く感じてきたのです。

私の身近に原爆症の方がいて、障害をもったお子さんを産んだ方もいました。私も被爆者、夫も被爆者ということもあって、私たちは結婚するときに「子どもを産まない」という約束をしたのです。周りを見ていて、もし子どもを産んだら、その子にかわいそうな思いをさせてしまうかもしれない、そんな恐怖心を抱いていました。ところがある日、いつもお世話になっている内科の先生に聞かれたのです。「結婚から何年も経っているのに、あんたたちは子どもをつくらないのか」と言われて、私は思っていたことを伝えたのです。「障害のある子どもが産まれたらいやだから、私たちは子どもをつくらないと決めているのです」と言った途端、その先生に怒られたのです。近藤先生といって、今はすでにお亡くなりになっていますが、息子さんが後を継いで、内科の病院をされています。先生から、「障害のある子が産まれたらいやだなんて思うってことは、あなたたちが障害を持っている人に対して差別意識を持っているという証拠ではないか。」って怒られたのです。その当時、私たち夫婦は、差別問題を是正するように求める雑誌の編集や刊行などに関わっていました。先生はそのことを知っておられたのです。子どものことに対して、差別意識があるようなことを言っているのでは、私たちの仕事は嘘をついているようなものだとはっきり言われたのです。そこでハッとさせられて、子どもを産まないということは辞めて、一男一女を産み育てることができました。被爆を体験したものの、今は、子どもだけでなく、孫たちもいます。これも、近藤先生のあの時のことばのおかげだと思います。

被爆証言をしていて、若い人たちに思うことはありますか。

私はまだ、高校生平和大使の皆さんに会ったことがないので、ぜひ会ってみたいと思います。

福山盈進高校の皆さんが、私の被爆証言を書き起こして下さって、一冊の本にしてくれたのです。今は、英訳の作業に取り組んでくれています。若い人が平和のために活動してくれるのは、とてもうれしいことですね。今は新型コロナウイルスの影響で、修学旅行など延期や中止になっていて、被爆証言をする機会がほとんどありません。被爆証言をすると、他県から来る学生さんたちは本当に熱心で、帰ってからも反応がとてもすごいのです。お手紙を書いてくれたり、読み切れないほどの文集を作って送ってくれたりします。この子たちに伝わったのだと感じて、とてもうれしくなります。幼い時に聞いた話っていうのは、その人の心に残るのですよ。大人になっても、心の中に残っていて、大事な要素になると私は思います。だから、小学生が熱心に話を聞いてくれているのがとてもうれしく感じています。残念なことに、広島県内の子どもたちに対しては、被爆証言をする機会がほとんどありません。被爆の話を聞き飽きたと思われているのかも知れませんが、広島の子どもたちこそ、しっかりと理解しておく必要があると思います。

学校教育の場でも平和教育をしっかりとやってほしいと思います。子どもの時のことって、大人になった今でも忘れていません。先生が言ってくれた一言は、今も覚えているものです。教育は本当に大切なものです。私がまさにそうでしたが、軍国主義っていうのはすぐに浸透して、軍国少女が誕生します。私は被爆当時、学徒動員で広島地方専売局のたばこ工場で働いていましたが、配属が決まった時は、「たばこ工場で働いても、御国の役は立てません」なんて、先生に抗議したものです。今、改めて考えてみると、敵の飛行機から直接狙われるようなところではなく、先生たちは考えて配置してくださったのだろうと思います。

軍国少女だった切明さんでも、当時、戦争に対して違和感を持ったことはありますか。

この戦争はどうなっているのだろうと考えたことはあります。学徒動員で、色々なところに配置されましたが、陸軍被服支廠(注:軍人の軍服などを作る施設)に行ったときに、倉庫の中が空っぽだったことがありました。別の場所に新しい軍服が1万2,000着保存されていたらしいのですが、私が行ったところは何もなく、古着を洗濯させられたのです。ボロボロで、穴が開いていて、血も付いていたので、もしかしたら亡くなった兵隊さんの軍服をひっぱがして持ってきたのかな、なんて今になっては思いますが。その古着を洗濯していたときは、もしかしたら戦争に負けるのではないだろうかと思いまして、先生に「こんなんで日本は大丈夫ですか」と聞いて、怒られたこともありました。

また別の機会で、陸軍兵器廠(注:大砲や鉄砲、その弾丸などを作る施設)に行ったときのことです。土嚢で囲われている弾薬庫があるのですが、火薬を測って鉄砲の弾を作るのです。そこにいた時に、見ず知らずの男性から、「恐ろしいところに子どもを入れているな」と言われたことがありました。よく考えると、火薬なんて火がついたり、爆発したりしたらそれで終わり、とても危険なところにいたわけです。でも、先生方も軍の力が強くて、子どもたちに弾薬庫に行かせることを拒否できなかったのだと思います。

もう一つ、38式歩兵銃を整備させられたことがありました。さび落としをするようにいわれて磨きました。どうして、「38銃」というのだろうと尋ねたところ、明治38年製の鉄砲だからだとわかりました。昭和の時代に古い銃を出してきて使おうとしていたのです。新しい銃を作る余裕もなかったのかと思うと、なんとも言えない気持ちになりました。

今の日本に思うことはありますか。

心の底から思うことです。戦争なんて2度としてはいけないし、ましてや核兵器を使うなんてこと、人類の破滅につながることなので、許せないことだと思っております。日本が唯一の戦争被爆国だからこそ、「戦争はだめ、核武装はだめだ」と叫んでほしいと思います。それなのに、安倍さんはそういう様子でもないし、どうやら日本を核武装したいと思っているのではないかと疑われる節があります。だから、広島の被爆者の務めは終わっていないし、これからもっと動きを大きくしていかなくちゃいけないと思いますが、直接被爆の被爆者は減っていきます。この声を伝承してくださる方が一人でも増えて、反戦反核につながればありがたいと思います。胎内被爆の方でも、75歳ですから、被爆者がこの世からいなくなるのは目に見えています。だからこそ、若い人に広島の惨状を伝えて、2度とヒロシマやナガサキが繰り返されないようにしていかねばならないと思います。

でも、これからのことがとても心配です。日本は憲法9条で、武器は持たない、戦争には関わらないって宣言したのだから、それを絶対に守ってほしいです。安倍さんの在任中の目標の憲法改憲について、広島は黙っていてはいけないと思います。

今、当時のことを思い返すのもつらいです。フラッシュバックするので、悲しくなってしまう。それでも、黙っていてはいけないと思って、命ある限り、被爆体験を語り続けようと思います。

インタビューを終えて

梅雨に入ったことで、広島は生憎の雨。切明さんが、前日に体調を崩されたと聞き、不安で迎えた当日、心配を吹き飛ばすほどに気丈に、はっきりとした口調で被爆証言をお話ししてくださいました。インタビュー前半の「被爆証言」は、被爆75周年原水爆禁止世界大会公式YouTubeでも公開しています。後世に伝えるべき、被爆の実相を是非ご覧ください。 (北村智之)

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