2026年、出版物案内
2026年01月14日
「未来をきりひらく平和学習」二次元バーコード資料
平和フォーラムはこのたびパンフレット「未来をきりひらく平和学習」を刊行しました。その際、紙幅の都合により割愛した解説や資料を整理し、ここに掲載しています。ぜひご活用ください。
はじめに
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第1章
資料① 「生きる力」
文科省の「生きる力」は、「知」(確かな学力)、「徳」(ゆたかな人間性)、「体」(健康・体力)のバランスの取れた力としている。一方、日教組・一部の民間団体では、教員の主体性と子どもの主体性がぶつかり合う場こそ、ゆたかな学びの場となり、そこから「生きる力」が育まれるとしている。自らの頭で考え自らの言葉で自らの意見を形成する。この力こそ「生きる力」ではなかいだろうか。その結果獲得する力は知能(すばやく物事を処理し結論を出す力)ではなく、知性(中長期的・客観的・相対的に物事を考える力)である。子どもに育まれた「生きる力」は教員にも影響し、教員の教育実践力を高めてくれ、子どもひとり一人の持ち味を引き出す力量を教員は獲得するのであろう。
資料② 主権者意識
主権者教育という名で遵法精神が位置づけられ国家に従順な人間の育成をめざすことはあってはならず、そうなると「国民」主権ではなく「国家」主権となってしまう。国家が憲法を踏みにじって暴走するときには、主権者である国民は連帯して憲法の基本原理を国家に対し守らせなければならない。そのようなときに「どうせ自分が言ったって…」という態度は主権者としての権利を放棄したことになる。
社会の矛盾や政治の腐敗そして国家権力の暴走などに対して、自分の頭で考え判断して表現できるつまり主権者意識をもつ人間を育てることに平和学習=主権者教育本来の主旨がある。よりよい社会への変革をめざす主体性、主権者意識を育てることが求められている。自分の頭で考え、何ができるかを考え、そのうえでグループ討論する授業こそが今求められている。
第2章
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第3章
資料➀ 南京大虐殺事件の教科書記述―2024年検定済み教科書
2025年から使用される中学校社会科歴史教科書にはどのように記述されているであろうか。
〈東京書籍〉
本文「日本軍は、1937年末に首都南京を占領し、その過程で女性や子どもなど一般の人々や捕虜をふくむ多数の中国人を殺害しました(南京事件)」
側注「この事件は『南京大虐殺』とも呼ばれます。被害者の数については、さまざまな調査や研究が行われていますが、いまだに確定していません」
〈帝国書院〉
本文「日本軍は中国南部からも侵攻し、上海や当時国民政府の首都だった南京を占領しました。南京では、兵士だけでなく多くの民間人が殺害されました(南京事件)」
側注「この事件は諸外国から非難されましたが、戦争が終わるまで、日本国民に知らされませんでした。死者数を含めた全体像については、調査や研究が続いています」
〈教育出版〉
本文「12月に占領した首都の南京では、捕虜や住民を巻き込んで多数の死傷者を出しました」
側注「このできごと(南京事件)は、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で明らかにされました。犠牲者の数などについては、さまざまな説があります」
〈山川出版〉
本文「日本は大軍を投入し、1937(昭和12)年12月には、国民政府の首都である南京を占領した」
側注「この際、日本軍は略奪、暴行をくり返したうえ、多くの捕虜や一般の人々(女性をふくむ)を殺害した(南京事件)」
〈日本文教出版〉
本文「日本軍は、各地ではげしい抵抗にあいながらも戦線を広げ、12月に占領した首都南京では捕虜のほか、多数の住民を殺害しました(南京事件)」
側注「当時、この事件は日本国民に知らされませんでした。戦後、極東国際軍事裁判に当時の調査資料が提出され、その後の研究で、部隊や将兵の日記にもさまざまな殺害の事例が記されていることがわかりました。ただし、知られていない殺害がどれだけあるのか、全体像をどうとらえればよいのかなどさらに研究が必要な部分もあります」
〈育鵬社〉
本文「日本軍は、12月に首都・南京を占領しましたが、蔣介石は重慶に本拠を移し、アメリカ、イギリス、ソ連の援助を受けて徹底抗戦を続けました」
側注「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今でも論争が続いている」
〈自由社〉
本文「日本軍は国民政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月に南京を占領しました」
〈令和書籍〉
本文「ところで、終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で、南京占領期間中に日本軍が20万人以上の住民を虐殺したと認定されました(南京事件)。現在の日本の学界では、虐殺の人数について、10数万~20万人、4~5万人、1万人前後、捕虜などの不法殺害は2万人近くだったが民間人の殺害は数千人、といった学説が示されていますが、定説はありません。これに対して中華人民共和国政府は、30数万人以上の虐殺があったと主張しています。/当時、国民革命軍の軍人の多くが民間人に扮して便衣兵と呼ばれるゲリラ兵となって民間人を人質に立て籠り、あるいは敵対行為をしていました。これは国際法違反でした。逮捕され処刑された便衣兵も多く、これを『虐殺』と指摘されている可能性もあります。/また、日本軍入城時の南京の人口は20万人程度でしたので、30万人を虐殺することは不可能です。また、日本軍が南京を占領してから1カ月後には人口が5万人増加していますが、大虐殺の直後に5万人が移住してくるわけがなく、30万人大虐殺の根拠にはいまだ示されたことはありません」
※全20行を使って「南京大虐殺」否定論を記述しているが、すでに南京事件研究の第一人者の笠原十九司都留文科大学名誉教授が「否定論」を論破している。
〈学び舎〉
本文「日本軍は12月、南京を占領しました。このとき、国際法に反して大量の捕虜を殺害し、老人、女性、子どもをふくむ多数の市民を暴行・殺害しました。日本では、南京占領を祝う行事が盛大に行われました」
資料「南京市に住んでいた夏淑琴(当時8歳)の話」(笠原十九司「体験者27人が語る南京事件」より一部要約)
側注「捕虜についての国際法/ハーグ陸戦条約では、捕虜は『人道をもって取り扱うべし』とされ、『兵器を捨て、また自衛の手段が尽き、投降を欲する敵を殺傷すること』を禁じていた。日本はこの条約を1911年に批准した」
資料②「南京事件」に関する日本政府見解
外務省ホームページに「歴史問題Q&A」(2021年7月13日)があり、歴史認識に関して日本政府の見解がわかる。その問6に「『南京事件』に対して、日本政府はどのように考えていますか」があるので、その回答の核心部分を見てみよう。
1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
被害者数は諸説あるとしているが、日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」と南京事件を明確に事実と認めている。従って、学校教育現場では南京事件に関して躊躇することなく授業実践することができることは明らかだ。
資料③子どもたちは何を考えたであろう―南京大虐殺事件から学んだことを書こう。
(1) 南京大虐殺事件から学んだことを書こう。
●日本人は中国に対して、取り返しのつかない本当に最低なことをしたと学びました。同じ日本人として本当に申し訳ないし、どうしたらいいのか正直、言葉にできません。日本がこんな国だと知らなかったのでショックでした。でも、このことは私たち日本人が知っておかなければいけないことです。過去の過ちを反省しきれないほどに受け止め、もう二度と繰り返さないためにも知っておかなければいけないと思います。「日本人最悪」と思って終わらせるのではなく、ではこれから私たちに何ができるのか、一人ひとりがしっかり考えなければだめです。みんな仲良くたのしい幸せな世界になって欲しい。
●南京事件という名前だけは知っていたけど、内容をよく知らなかったから最初わからなかった。でも、授業を受けているうちにだんだんわかってきて、ひどい事件だと思った。しかも、政府はそれを国民に知らせないのも腹が立った。歴史は悪いところを学んで、汚点をふやさないためにあるものだと思っていたのに、教科書にもほんの少ししか書いてないのはおかしいと思った。先生が見せてくれた写真もすごく悲しい気分になって思わず目を背けてしまったけど、そういう自国の悪い所から目を背けず向き合うことこそ大切なことなのかなと思った。日本の協調性の高さは常にいいことだけでなく、リーダーが一人大きな声を出すとどんなことがあろうと、それについていってしまうのだと知り、もしこの中に自分がいたら、心では嫌でも一緒になってやってしまうのではないかと少し怖いです。
※これを同調圧力といいます(中條)
●今まで学んできた平和学習は日本の負けている部分(東京大空襲、沖縄地上戦、広島・長崎原爆投下、日本の敗戦)を学んできて、本当に悲しくなりましたが、この南京大虐殺事件の授業を受けて、日本(当時)の上官たちは何をしているんだと腹立たしくなりました。関東大震災のときの朝鮮人虐殺が「文明史に残る一大汚点」ならば、南京大虐殺もそれにそうとうするものだと思いました。
●「日本人はありえないことをしてしまいました」その言葉は今だから言える言葉だと思います。その当時はそのようなことを言ってしまったら殺されてしまいました。「昔のことだから」ではなく「昔のことだからこそ」という言葉をこの南京大虐殺事件で学びました。今だからこそ学ぶ必要があります。これからの人たちに伝え、「絶対に同じことをくり返さない」ということを心に決めたいと思います。
(2)ふだんは善良な市民がなぜ虐殺に走ってしまったのであろうか。
●ひとを平気で殺すことは何があろうと絶対にいけないことです。当時は、社会がもうおかしくなっていたのだと思います。ぶれない、自分の心をしっかり持っていればこんなことにならかったと思います。
※「ぶれない、自分の心」、これが難しいのだろうね(中條)
●明治維新以降の政府の教育が一つの原因だと思う。学校や両親などから征韓論などを言われ続け、刷り込まれてしまったことやおかしいと思っても大逆罪などで捕まる恐怖心などからも虐殺などの事件は起こってしまったと思う。
●私は普段どれだけ良い人でも必ず多かれ少なかれ闇があると思います。その闇は自分でおさえている力の期間が強く長いほど噴き出した時の勢いはすごくなると思います。それがこの時の虐殺だったのではないでしょうか。勢いよく出た水をおさえるのは、難しいようにこの時もとめるのは難しかったと思います。
●政府・上官たちがやっていることは、すべて正しいと思っていたので、人格が突然変異してしまったのではないかと思います。自分が生き残るためだと思います。自分を守るためには他の人を殺せることは絶対にあってはいけない。
資料④ 日中共同声明」全文
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。
田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。
日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。
日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。
日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。
一 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
四 日本国政府及び中華人民共和国政府は、千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
六 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
七 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
八 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
九 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
千九百七十二年九月二十九日に北京で
日本国内閣総理大臣 田中角栄(署名)
日本国外務大臣 大平正芳(署名)
中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名)
中華人民共和国 外交部長 姫鵬飛(署名)
〈注〉
「中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」」
①中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府である、②台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である、③日本が台湾(中華民国)と結んだ平和条約(日台条約)は不法で無効であり、廃棄されなければならない、
「ポツダム宣言第8項」
8、カイロ宣言の条項は履行されるべきものとし、また、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。
資料⑤ 南京大虐殺事件(南京事件)のプリント教材
社会科たより 南京大虐殺から学ぶこと
あなたは南京大虐殺事件を知っていますか?
映画『南京1937』
映画『南京1937』(原題「南京大屠殺」1995年香港・中国・製作 呉宇森)の上映妨害事件が、1998年6月にありました。横浜の映画館で、右翼団体構成員が突然スクリーンを切り裂いたのでした。男は現行犯逮捕されたものの、上映妨害はその後もつづきました。
そこで中学校三年生の授業(2005年4月)でこの上映妨害事件に触れ、知ることと学ぶことにタブーはないことを確認しつつ、この映画をあなた方と一緒に視聴することにしました。あなた方の意見・感想をいくつか紹介しましょう。
感想として「ひどい」、「悲しい」。「悪魔」、「極悪非道」、「日本の汚点」という言葉が多くでてきて、ある生徒は次のように語ります。
「反対する人がいなかったからもっと悲しい」
「正義とは何なのか、どうして罪のない人を殺せたのかやっぱりわからなかった」
「何のために南京を占領したのか、どうして罪のない人を殺せたのか、やっぱりわからなかった」と頭をかかえています。
しかし、あなた方の意見はそれだけで終わりませんでした。
「二度としないようにしなくてはならない」「時間をかけてつぐなっていくべきだ」
同じ過ちを繰り返さないために歴史をに学びぶことに触れて、未来志向でこれからのことを述べていました。さらに友好的になった中国認識は両国の未来につながりますね。
朝霞と南京大虐殺
放火、掠奪、強姦、殺害がくりひろげられた南京大虐殺につながる南京攻略戦に、朝霞の地名の由来となった皇族の朝香宮(あさかのみや)鳩彦(やすひこ)王中将も参加していました(朝香→朝霞)。「朝香宮殿下・南京攻略戦に御参加」(1937年12月11日、東京日日新聞)と写真付で報じられたように、松井(まつい)石根(いわね)大将と南京攻略の時に行動を共にし、12月17日の南京入場式にも参加していました。
ところで、なぜ朝香宮鳩彦王中将は「南京陥落」(12月13日)直前の12月2日に松井石根大将にかわって上海派遣軍司令官となったのでしょうか。国内での南京陥落祝賀ムードにあおられて、「世紀に輝く入場式」にするために皇族を南京入場式に参加させたのでした。
なお、松井石根大将は、戦後の東京裁判においてA級戦犯で絞首刑となりました。朝香宮鳩彦王中将は戦犯を免れ、1947年に皇籍離脱、1981年に93歳で亡くなっています。A級戦犯が合祀されている「靖国神社参拝」が、近隣諸国から批判され外交問題になっていることもこれから勉強していきましょう。
資料⑥ 日本軍「慰安婦」の教科書(2024年検定済み)記述
2025年から使用される中学校社会科歴史教科書にはどのように記述されているであろうか。記述されている教科書は山川出版と学び舎の2社のみである。ただし、両教科書とも「従軍慰安婦」記述はない。山川出版側注は従来文末に記述されていた(いわゆる従軍慰安婦)が今回(2024年)の検定で削除された。令和書籍は「日本軍が朝鮮の女性を強制連行したという事実はなく、また彼女らは報酬をもらって働いていました」(コラム「蒸し返された韓国の請求権」)と歴史をわい曲している。
<学び舎>
本文「1991年の勧告の金学順の証言をきっかけとして、日本政府は、戦時下の女性の暴力と人権侵害についての調査を行った。そして、1993年にお詫びと反省の気持ちをしめす政府見解を発表した」
資料「河野洋平官房長官談話」(1993年/一部要約)の中で「調査の結果、長期に、広い地域に、慰安所が設けられ、数多くの慰安婦が存在したことが認められる」
なお、強制連行の記述は山川出版1社のみである。以下の一文の側注が前述の「慰安施設」である。
<山川出版>
本文「多くの朝鮮人が日本に徴用され、占領地の中国人も強制連行されて、鉱山や工場などで過酷な条件の下での労働を強いられた」
側注「戦地に設けられた『慰安施設』には日本・朝鮮・中国・フィリピンなどから女性が集められた」
資料➆ あなたは日本軍「慰安婦」を知っていますか(2013年)
5回目の授業でも、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」(「河野談話」)を、生徒とともに多角的に学び、考えることをめざした。過去の歴史を直視して近隣諸国と友好関係をつくるにはどうしたらよいか、女性に対する人権問題(女性蔑視、性暴力)をどう考えるかと同時に新たに「表現の自由」についても考える場をめざした。授業展開での発問・とりくみは以下の通り(〈〉内はその教材)。
① 詩人石川逸子さんの詩「少女」(詩集『たった一度の物語』所収)を読んで、あなたは何を考えましたか?〈元日本軍「慰安婦」の少女像の写真とNHKニュース視聴〉
② 朴永心(故人)ハルモニの証言記録を読んであなたは何を考えましたか?〈「63/234」(元「慰安婦」生存者の割合)と「86」(生存者平均年齢)の数字を提示〉。現在は、前述した通り認定された元「慰安婦」238人で生存者8人の平均年齢は95歳(『中央日報』日本語版2024年9月8日)。
③ 来日された金福童ハルモニの講演録を読んであなたは何を考えましたか?<講演録音テープとテープ起こし文>
④ 記事「元慰安婦写真展会場提供命じる」〈「朝日新聞」2012年6月23日〉を読んでわかったことを書こう。
⑤ 韓国人写真家安世鴻さんにお手紙を書こう。〈インタビューの録音〉
⑥ 「過去の歴史を直視する」とはどういうことか、あなたの考えを書こう。〈「河野談話」と「手紙」〉
④⑤が「表現の自由」という基本的人権にかかわる問題である。中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」ハルモニを撮影した写真展(新宿)が、開催直前になって中止に追い込まれそうになった件だ。仮処分申請によって使用許可となったが、ガードマン立会いの物々しい中での開催となった。過日、私はその写真家にインタビューを試み、教材化したその録音テープと記事をもとにある生徒は次のような手紙を書いた。
「安さんの写真は、従軍慰安婦を一枚で物語っているようで考えさせられました。『重重』というテーマが深い意味を持っていて、まだ中学生の私には理解しにくいところもありました。慰安婦について批判する人もいるけれど、私は信じます。写真を見て、これがウソだなんてとうてい思えませんでした」
閑静な山あいにある「ナヌムの家」(「分かち合いの家」大韓民国)に二度訪れたことがある。日本軍「慰安婦」歴史館に掲げられてある絵画の中で、金順徳(故人)ハルモニの作品『咲ききれなかった花』を忘れることはできない。その説明板には「朝鮮女性の受難の歴史を象徴的に表現したものである」と書かれてある。
どの国の歴史にも、それをひも解けば、明るいページがあれば暗いページもある。それらをすべて受け入れ、丸ごと自分の国を愛することが大切なのであろう。明るいページだけ又は暗いページだけを読んでいたら、国の歴史の全体像は見えない。そんなことを考えていたら、「慰安婦」問題について「現在のモラルでは間違いだが、戦争をしているどの国でもあったことだ」と述べたNHK会長の就任会見が問題になった。そして、ある卒業生が「中学生の時は先生の話されていることがよくわかりませんでしたが、成人した今やっと先生の伝えたかったことがわかりました」と語ってくれたことを思い出した。学びの連続性を実証してくれた卒業生の成長はたのもしく、授業者の真剣さをその卒業生が誠実に受け止めてくれていたことに喜びを感じた。昨春、「歴史を直視するとは真実と向き合うこと。大人は真実を次の世代へ伝えていくべきです」と語り、母校を巣立っていった卒業生の成長にも期待したい。
資料⑧ 日本軍「慰安婦」のプリント教材
社会科たより ペ・チュンヒハルモニに会いました
あなたは「ナヌムの家」を知っていますか?
閑静な山あいにある「ナヌムの家」(大韓民国京畿道)に二度訪れたことがあります。「ナヌム」とは「分かち合い」という意味です。2008年9月にその「ナヌムの家」に研究者仲間と一緒に訪問した時のことをあなた方にお話します。
資料館を見学した後に、偶然ペ・チュンヒハルモニ(ハルモニとは親しみをこめた「おばあさん」という意味)にお会いすることができました。その時にお願いをして撮影した記念写真が、今でもなつかしい思い出の1枚(筆者提供)となっています。
しかし、2014年6月9日に、前日の8日に老衰のため死去という訃報記事が飛び込んできました。1942年に挺身隊への募集だとだまされて旧満州(現中国)に連れていかれ、旧日本軍の慰安婦として働かされたと証言され、93年に韓国政府に慰安婦であったことを申告されました。97年から「ナヌムの家」で共同生活をされていたことを伺ったことが思い出されました。日本に住んでいたことから、日本語で演歌を隣に座りながら聴かせてもらいました。
<故ペ・チュンヒハルモニ略歴>
1923年 慶尚北道ソンジュで生まれる
1942年 19歳のときに詐欺で強制動員され旧満州で4年間「慰安婦」生活を強いられる
1945年 日本の敗戦。朝鮮の解放をむかえる。戦後日本に渡りアマチュア歌手で生活。
1980年 日本から韓国へ帰国
1993年 韓国政府に被害者登録。97年から「ナヌムの家」で共同生活をはじめる。
2014年 6月8日ペ・チュンヒ ハルモニ逝去(老衰)。享年91歳
ペ・チュンヒハルモニの死亡で政府に登録された慰安婦被害者238人中生存者は54人(国内49人、海外5人)に減ってしまい、ナムヌの家には生存者のうち9人だけとなりました(2014年当時)。
1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、ここ日本大使館前ではじまりました。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ソウルの日本大使館前に設置された碑文「平和の礎」(元日本軍「慰安婦」の少女像)が建立されました。
あなた方中学生とほぼ同世代の少女像は現代に生きる私たちに黙って何を訴えているのでしょうか?
上海軍直轄の慰安所に掲げられた「慰安所規定」
一、本慰安所ニハ陸軍々人軍属(軍夫ヲ除ク)ノ外入場ヲ許サズ
入場者ハ慰安所外出証ヲ所持スルコト
一、入場者ハ必ズ受付ニオイテ料金ヲ支払ヒ之ト引替ニ入場券及「サック」一個受取ルコト
一、入場券ノ料金左ノ如シ
下士官・兵・軍属金貮圓
一、入場券ノ効力ハ當日限リトシ若シ入室セザルトキハ現金ト引替ヲナスモノトス
但シ一旦酌婦ニ渡シタルモノハ払戻セズ
一、入場券ヲ買ヒ求メタル者ハ指定セラレタル番号の室ニ入ルコト、但シ時間ハ三十分トス
一、入室ト同時ニ入場券ヲ酌婦ニ渡スコト
一、室内ニ於テハ飲酒ヲ禁ス
一、用済ミノ上ハ直チニ退室スルコト。
(以下略)
(麻生徹男『上海より上海へ』石風社より)
第4章
(なし)
第5章
資料① 「在日朝鮮人、在日コリアン」
日本に住んでいる旧植民地・朝鮮半島出身者の呼称には、在日朝鮮人、在日韓国・朝鮮人、在日コリアン(英語では南北問わずKoreanと呼ぶ)などがある。日本の植民地時代は朝鮮は1つの国で、朝鮮人は日本国籍とされた。日本の敗戦と朝鮮半島の開放後、GHQによる外国人登録令により戸籍に朝鮮と記載された。その後、1952年のサンフランシスコ講和条約によって、日本に住んでいた朝鮮半島出身者は日本国籍を失った。条約締結当事は、朝鮮半島は南北に分かれて戦闘状態(朝鮮戦争)にあったが、南側の韓国政府の要請により日本在住の朝鮮半島出身者は韓国籍を取得できた。そのため、韓国籍を取得した人と、外国人登録令のまま(朝鮮籍)の人が存在するようになった。日本政府は、朝鮮籍を「朝鮮半島出身者およびその子孫等で,韓国籍をはじめいずれかの国籍があることが確認されていない者」と定義し、朝鮮籍が朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の海外公民とは認めていない。それぞれの当事者のアイデンティティーを尊重して、ここでは在日朝鮮人・在日コリアンを併用して使用した。
資料② 「植民地支配」
自国の経済的利益のために、他国を政治的・経済的に支配すること。支配する国を宗主国、支配される国を植民地と呼ぶ。多くの植民地が、経済的搾取、社会的・人権的弾圧、文化の喪失などを経験している。国連は、2001年9月に南アフリカのダーバンで「人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に反対する世界会議」を開催し、植民地主義は「いつ、どこで起ころうとも非難され、再発は防止しなければならない」とした。
資料③ 「国民徴用令」
戦争時に徴兵によって起こった労働者不足を補うために法によって強制的に人々を動員するための勅令(旧憲法下で天皇が出す命令)。日中戦争の本格化と長期化に対応するため、国家の人的・物的資源を政府が統制することを目的として1938年(第1次近衛内閣)に出された「国家総動員法」に基づくもの。当然として植民地であった朝鮮半島・朝鮮民族にも適用された。
学生・生徒に対しては、国家総動員法や国民徴用令に先立って、文部省が「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を各学校に通達し、長期休業中の勤労奉仕(学徒勤労動員)を義務づけている。敗戦間近の1945年4月には、1年間の授業停止と学徒勤労動員が決定された。沖縄県では、14歳から16歳の少年で構成する鉄血勤皇隊や女子師範や第一高女の生徒で構成されたひめゆり学徒隊などが動員され、日本兵と行動を共にし多くが亡くなった。
資料④ 「松代大本営」
1944年にサイパン島での日本軍敗北により、本土空襲が頻繁に行われるとともに、本土決戦が現実的になった。そのため、空襲から軍事施設や軍需工場を守る目的で全国に大規模な地下壕が掘削されていった。大本営(陸軍と海軍を含む日本軍の最高統帥機関)は、本土決戦に備え防備の難しい東京から、皇居や大本営、その他重要政治施設、放送や通信の機能を長野県松代町(現長野市松代地区)に移転する計画を立て、東条内閣が閣議決定する。建設された地下壕は、象山、舞鶴山、皆神山に別れ延長10キロメートルに及ぶ。工事は1944年11月から開始されたが、敗戦によって中止された。現在象山地下壕の一部が一般公開されている。全国の地下壕では、労働者不足から植民地より強制連行された朝鮮人労働者が使役された。
資料⑤ 「サンフランシスコ講和条約」
1951年に、サンフランシスコで締結された第二次世界大戦の講和条約。日本と連合国48カ国の間で締結された。これにより、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の日本支配が終了し主権を回復した。ロシア(旧ソ連)は、日本への米軍駐留が継続されることに反対して調印しなかった。中国も会議に招聘されず調印していない。主要な交戦国2カ国が調印していないところから「片面講和」などとも呼ばれた。
本条約で、日本は朝鮮半島の独立を認めた。同時に朝鮮半島出身者は日本国籍を失い無国籍状態となった。現在、在日朝鮮人は、1991年(平成3年)11月1日に施行された「日本国との平和条約に基づく日本民族を離脱した者等平等管理に関する特例法(管入特例法)」に基づく、「特別永住者」となっている。このことから、朝鮮半島出身者には、様々な差別と偏見がのしかかっている。
資料⑥ 「江華島事件」
明治政府は、朝鮮を大陸進出の足がかりと考え、高宗(コジョン)の実父大院君の治世下で攘夷を掲げる朝鮮へ、1967年以降数度にわたって開国を要求する国書を送ったが、朝鮮政府は受け取りを拒否した。膠着した日朝外交を切り開こうと明治政府は、1875年軍艦雲揚号を派遣し首都漢城(ソウル)の近く漢江の河口に位置する江華島付近で測量を行うなど、武力を背景にした圧力を加えた。江華島などに設置された朝鮮砲台は、雲揚号の振る舞いに砲撃を開始し交戦状態となった。雲揚号に乗船する日本軍は、一事砲台を占領した。明治政府は、江華島事件の事後交渉によって、朝鮮との交易を開始するための日朝修好条規の締結を強要した。条約は、日本の領事裁判権を認め朝鮮の関税自主権を否定するもので、欧米諸国と明治政府の課題である不平等条約を朝鮮に押しつけるものであった。
資料⑦ 「不平等条約」
江戸幕府は、1639年から長らく鎖国政策(対外関係制限政策)を採り続けてきたが、産業革命・市民革命以降の諸外国の海外進出政策の中で、江戸中期以降、異国船の来訪に動揺することとなった。1853年にペリー提督率いる米艦隊が来航し開国を迫ると、1940年のアヘン戦争などで欧米列強の軍事力を知る江戸幕府は、その圧力に屈して翌年に「日米和親条約」を結び、1858年には「日米修好通商条約」を締結する。その後幕府は、英仏蘭露を含めて5カ国と通商条約を結ぶ(安政の五カ国条約)。彼我の力関係で結ばされた条約は、日本の知識不足もあって、領事裁判権の承認(治外法権)や関税自主権の欠如など、きわめて不平等なものだった。結果として、明治新政府では不平等条約の改正が大きな課題となった。改正交渉は長きにわたり、領事裁判権の廃止は1894年、関税自主権の回復は1911年まで待たなくてはならなかった。
資料⑧ 「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」
明治政府は、1904年日露戦争中、朝鮮半島の戦闘でロシア軍に勝利したことを受けて、第一次日韓協約(韓日外国人顧問傭聘に関する協定書)を朝鮮に強要し、日本人を外交顧問に据えた。日露戦争後の1905年には、米国の特使タフトとの間で密約としてので「桂タフト協定」を結び、米国のフィリピン支配権と日本の朝鮮支配権を確認した。このようにして始まった日本の朝鮮保護国化は、日露戦争後の1905年11月に「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」を結ぶことで確定的となった。第二次日韓協約は、朝鮮の外交権を奪うもので、朝鮮を日本の保護国とした。背景には、日露戦争の勝利とポーツマス条約によってロシアが日本の朝鮮での優越性を認めたことや桂タフト協定があった。
資料⑨ 「ハーグ密使事件」「第三次日韓協約」
第二次日韓協約に反発した韓国皇帝高宗(コジョン)は、1907年にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議へ、協定の無効を求める使者を秘密裏に送った。しかし、米国やロシア、日本と同盟を結んでいる英国など、国際的な思惑から使者は拒絶された。高宗は責任をとって退位させられ、韓国統監府の設置、司法権や警察権の統監府への移行、朝鮮軍隊の解散などを内容とする第三次日韓協約の締結を強制された。このことは、1910年の韓国併合条約につながり、朝鮮での日本の植民地支配に道を開いた。
資料⑩ 「自警団」
市民が自らの安全を守るために組織された集団。戦争時、大災害時、植民地における自己防衛組織として認知される。1923年の関東大震災発生時には、朝鮮人が放火や毒物の投入、略奪、暴行などを行っているとの流言蜚語を信じた在郷軍人や市民などによって組織されていた「自警団」が、多数の朝鮮人を殺害した。日本政府は、朝鮮人虐殺の事実を否定しようとしているが、多くの資料が、警察、軍隊、自警団による虐殺を物語っている。
資料⑪ 「政府の流布した流言蜚語」
関東大震災では、朝鮮人を不逞鮮人と呼称し、爆弾を携帯している、井戸に毒物を投げ入れたなどとの流言蜚語が横行した。全国の新聞は「宇都宮全市民の暗殺を図る 是も不逞鮮人の所業 全市大騒動で湧返る」(室蘭民報)「不逞鮮人侵入 宇都宮水源地に毒薬投入」(東奥日報)「信越線の列車に爆弾投下を企つ鮮人」(小樽新聞)など、事実に基づくこと無く不逞鮮人の所業として衝撃的に報道した。新聞報道は、震災前からことあるごとに「犯人は鮮人」「怪鮮人を引致取調中」「鮮人の大運動会 主義者も集つて其筋大警戒に」など、朝鮮人が犯人のような憶測記事を流していた。
震災時の流言がどこから生まれたのかは、今となっては定かではないが、警視庁警保局長名で、海軍省船橋通信所から「東京付近の震災を利用し,朝鮮人は各地に放火し,不逞の目的を遂行せんとし,現に東京市内に於て爆弾を所持し,石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に,各地に於て充分周密なる視察を加え,鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし」との電文が、全国に送信された。
流言蜚語が政府によって真実とされ全国に流布されたことは明らかだ。政府は、事態が深刻となった9月7日、「流言浮説を流した者は10年以下の懲役などに処す」との勅令を出したが、それまでの朝鮮人犠牲者は6600人以上と考えられている。(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺-その国家責任と民衆責任」より)。
資料⑫ 「藤岡事件」
震災直後の9月3日、群馬県藤岡町(現藤岡市藤岡)では、多野郡長の指示で藤岡町や藤岡警察の指導の下、在郷軍人会、消防組、青年団など自警団が組織された。埼玉県北部で朝鮮人が殺されたことを受けて、藤岡警察署には17人の朝鮮人男性が保護を求めた。周辺住民や自警団は、警察が朝鮮人をかばっているとして、群衆1000人以上が前橋署を取り囲み、一部群衆が竹やりや鳶口、棍棒、日本刀など凶器を手に署内に突入、朝鮮人17人のうち16名を惨殺した。県警は37人を殺人罪と騒擾罪で検挙、前橋地裁で公判が行われた。検事の論告は朝鮮人の虐殺よりも警察署への乱入をとがめるものであった。地裁は36人の内25人を実刑としたが、控訴・上告の後、2人が懲役2年、他7人が執行猶予とされた。
震災の混乱を逃れて中山道を避難した朝鮮人は、高崎線沿線の神保原駅、本庄駅、又熊谷などでも自警団によって殺戮された。埼玉県から群馬県にかけての虐殺事件は、藤岡事件の引き金となったとも考えられる。
資料⑬ 「強制連行を徴用とする閣議決定」
日本維新の会の馬場伸幸衆議院議員は、「『強制連行』『強制労働』という表現に関する質問主意書」(2021年4月16日付)を、政府に提出した。質問内容は、強制連行では無く徴用を用いるべきではないかということと、「強制労働」させられたとの見解があるが政府はどう考えているかの2点である。
当時の菅義偉内閣は、答弁書(2021年4月27日付、内閣衆質二〇半島からの労働者の移入については、これらの法令により実施されたものであることが明確になるよう、『強制連行』又は『連行』ではなく『徴用』を用いることが適切であると考えている」「強制労働ニ関スル条約(昭和七年[ママ]条約第十号)第二条において、「強制労働」については、「本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ」と規定されており、また、「緊急ノ場合即チ戦争ノ場合・・・ニ於テ強要セラルル労務」を包含しないものとされていることから、いずれにせよ、御指摘のような「募集」、「官斡旋」及び「徴用」による労務については、いずれも同条約上の「強制労働」には該当しないものと考えており、これらを「強制労働」と表現することは、適切ではないと考えている」と回答している。
「国民徴用令」という法律に基づくものであろうが、本人の意志にかかわらず強制的に働かされた事実は、多くの証言や資料から明らかだ。また、植民地の朝鮮民衆は政治的な意志決定権を持たず、強制連行されたと考えざるを得ない。植民地支配を行った側からのこのような発言は、「歴史修正主義」と捉えられるもので、国連の「ダーバン宣言」の趣旨からも逸脱している。
資料⑭ 「小池東京都知事による朝鮮人虐殺追悼式典への追悼文の送付拒否」
関東大震災が起こった9月1日には、1974年から毎年朝鮮人犠牲者追悼碑前で虐殺犠牲者の追悼式典が開催され、美濃部亮吉都知事以降、歴代の知事が式典に追悼文を送ってきた。しかし、小池百合子都知事は、就任翌年の2017年から「犠牲となった全ての方々に哀悼の意を表しており、個々の行事への送付は控える」として、都知事の追悼文送付を拒んでいる。2022年には、都が委託した人権企画展における朝鮮人虐殺を事実とした場面のある映像の上映について、都の人権施策担当職員が、知事が朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文を送っていないことに触れて、上映には懸念があることを伝えていたことが発覚している。追悼式典を主催する団体は、毎年追悼文送付を要請しているが小池都知事は応じていない。「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」(代表:田中優子法政大学名誉教授)は「天災の犠牲と、加害による殺人は違う。安心できる都をつくるためにも都知事が発信すべき」として要請を行った。東大大学院総合文化研究科の外村大、市野川容孝両教授や名誉教授ら83人の連名で東京大学教職員有志も、知事の態度は「評価が定まった学説への信頼を毀損している」と批判し、追悼文送付を要請している。送付を止める直前の都議会において自民党議員が、追悼碑文の「あやまった策動と流言蜚語のために六千余名にのぼる朝鮮人が尊い命を奪われました」との記述は事実に反するので追悼文送付は止めるべきとの発言を行っており、小池都知事はこの要請に応じた形となっている。市野川容孝東大教授は、「震災時に朝鮮人らが虐殺されたのは疑う余地のない歴史的事実というのが、東大の公式見解」と発言しており、小池都知事の対応は「歴史修正主義」と非難されるべきものと考えられる。
第6章
資料① 「戦時国際法」
戦争状態(宣戦布告のない交戦状態を含む)において、軍事組織が守るべき事項を規定した国際的な取り決め。主に、軍事上必要とされる事項と人道的視点から必要とされる事項とによって構成される。1907年のハーグ陸戦条約や1949年のジュネーブ条約および追加議定書などによって具体化され、その内容は多岐にわたる。
資料② 「重慶爆撃」
1937年12月、日本軍による南京陥落を目前にして、中国国民政府は、内陸部の四川省重慶に首都を移した。陸路で部隊をすすめることが困難とみた日本軍は、重慶への爆撃を1938年末から約3年にわたって繰り返した。爆撃は無差別に行われ、1万から2万人とも言われる中国民間人犠牲者を出した。当時重慶は重要都市であり外国機関が集中していた。218回(中国側資料)にもおよぶ執拗な爆撃は、国際的非難を浴びるとともに、東京大空襲や原爆投下を招来したとの指摘もある。
資料③ 「ゲルニカ爆撃」
1936年、スペインは人民戦線政府とフランコ将軍率いる反乱軍との間で内戦状態となった。戦局の打開を図るためフランコ将軍は、工業地帯であるバスク地方への侵攻を企図し、ドイツ空軍に爆撃を依頼した。1937年、ドイツ空軍はバスク地方の文化的中心都市であったゲルニカを爆撃した。犠牲者の数は様々ではっきりしないが、歴史上初の無差別攻撃であり、市民の戦意をそぐことを目的としている。この報道に接したスペインの画家パブロ・ピカソは、反戦画「ゲルニカ」(スペイン国立ソフィア王妃芸術センター所蔵)を作成し、同年7月のパリ博覧会のスペイン館を飾った。
資料④ 「国民社会主義ドイツ労働者党」
1920年に結成されたドイツの政党。略称ナチス党またはナチ党。アドルフ・ヒトラーの党首の下で勢力を拡大し、1933年2月の国会議事堂放火事件後の「全権委任法」をもって、ワイマール憲法の下で独裁を確立した。汎ゲルマン主義による民族共同体を主張、反ユダヤ主義、反共産主義を中心に据える。ゲルマン民族の優越性を主張しアウシュビッツ収容所のガス室などに象徴されるユダヤ人の組織的な撲滅作戦(ホロコースト)を行い、約600万人とも言われるユダヤ人の命を奪った。1939年9月にはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦を勃発させた。1945年のドイツ敗戦後、連合国側によって党は廃止され再建も禁止された。
資料⑤ 「核分裂」
自然界の物質は全て元素から成り立っており、その元素は、陽子と中性子からなる原子核とその周りを取り巻く電子から形成されている。核分裂とは、この原子核が、複数に分裂することを言う。この核分裂は、様々な物質で起きるが、特に起きやすいのがウラン(原子番号92:番号は陽子の数)。ウランは陽子の数が92だが、中性子の数が違う同位体が複数存在する。ウラン238は、地球上のウランの約98%を占めるが核分裂がしにくく、ウラン235は、約0.7%と稀少だが核分裂しやすく、核分裂性物質と呼ばれる。核分裂時には、大量のエネルギーを放出する(核エネルギー)ために、ウラン235は原子爆弾や原子力発電の燃料として利用された。この核分裂の際には、α線、β線、γ線という放射線を放出する。放射線は、人間の遺伝子を傷つけて癌細胞の発生など、様々な健康被害を起こす。原子爆弾は、核エネルギーを瞬時に放出させるが、原子力発電は徐々に核エネルギーを放出させ、その熱で蒸気を発生させタービンを回し電気を起こす。核エネルギーそのものは、核分裂によって得るもので基本的に変わらない。
ウランの陽子の数は92だが、ウラン238は陽子数92に加えて中性子が146で、質量は238となる。一般的には陽子数が偶数で質量が奇数の物質が核分裂を起こしやすく、ウラン235は陽子数が92で偶数、中性子は143で、質量は235の奇数、よって核分裂しやすいこととなる。同じく原爆の燃料であるプルトニウムは、陽子数が94で中性子が145、質量は239となり、核分裂性物質となる。プルトニウムは、ほとんど自然界に存在せず、ウラン238が中性子をもらうとウラン239となって、その後2度のβ崩壊(中性子が陽子に変化すること、陽子数は変化するが質量数は変わらない)を繰り返してプルトニウム239となる。原子力発電所の原子炉内では、この反応が起こりプルトニウムが生成される。
資料⑥ 「米国での核兵器開発計画」
ユダヤ系物理学者のレオ・シラードと同じくアルバート・アインシュタイン(どちらもナチス支配から逃れて米国へ亡命していた)が、書簡をルーズベルト米大統領に送ったのは、1939年8月15日。当初、ルーズベルトは原爆開発を重用視していなかったが、イギリスでの核開発の進展を聞いたルーズベルトは、英国とケベック協定を結び、英国の研究成果を受け入れ1941年に核開発計画に本格的に着手した。テネシー州オークリッジに高濃縮ウラン精製工場を、ワシントン州ハンフォードにプルトニウムの生産工場、ニューメキシコ州ロスアラモスに原爆の組立等の研究所を、現地住民を退去させて秘密裏に立ち上げた。研究のリーダーは、ロバート・オッペンハイマー、本部をニューヨークのマンハッタン地区に置いたことで「マンハッタン計画」と呼ばれる。オッペンハイマーのリーダーシップのもと研究・開発は瞬く間にイギリスを追い越し、1945年7月16日にはニューメキシコ州アラモゴードの実験場で、世界初の核実験が行われた。TNT換算で25ktになる凄まじい爆発は、閃光と熱風、高度10㎞を超えるキノコ雲、残された300mを超えるクレーター、どれをとってもこれまでに比べるもののない威力であった。オッペンハイマーは、その後、使用物質(高濃縮ウラン235とプルトニウム239)と起爆装置(ガンバレル〔砲身〕方式とインプロージョン〔爆縮〕方式)の異なる二つの原子爆弾を用意した。これが、広島と長崎に落とされた。実験から21日後のことだった。
資料⑦ 「真珠湾攻撃」
日米開戦の火ぶたを切った日本海軍の奇襲攻撃。1941年12月8日、日本海軍は、ハワイ島のパールハーバー(真珠湾)にあった米海軍太平洋艦隊を突如として攻撃し、戦艦8隻中4隻を撃沈、航空機188機を破壊した。日本の在米大使館による宣戦布告が遅れたため(あるいは意図的に遅らせたか)、「だまし討ち」との非難を浴びた。日本軍は同時にマレー半島にも上陸し、英国との戦争も開始した。日本軍は当初大きな戦果を挙げていったが、物量に勝る米国は、反転攻勢に転じ1942年6月にはミッドウェー海戦で日本の空母4隻を撃沈、制空権を奪還した。その後、1943年のアッツ島の玉砕に始まり、44年のサイパン島、ペリリュー島、テニアン島、硫黄島、沖縄と次々と日本軍は敗北していった。特にサイパン島が玉砕し米軍の支配となると本土への空襲が頻繁に行われるようになり、日本の敗戦は決定的となった。
日米開戦の背景には、1937年からの日中戦争と1939年のドイツと英仏の開戦、日独伊の同盟によって、日本が資源確保のためにフランス領インドシナ(ベトナム北部)に侵攻したことで、米英との対立が決定的になり、米国による経済制裁が発動したこと、それによる軍事的影響などがあった。この日本政府の決断は、多大な被害を国民に与えたことを忘れることはできない。
資料⑧ 「国体護持」
大日本帝国憲法(旧憲法)の下での天皇に国家の大権(司法権・立法権も含む統治権全般を指す)があるとする国家体制を「国体」と称し、終戦交渉に当たっては、その国体の継続を基本に据えることとし、それを国体護持と呼んだ。特に軍部が強く主張したことにより、終戦工作に大きな影響を与えた。ドイツ帝国の憲法を範とした旧憲法は、天皇の権限が強く市民革命以降の国民主権の近代憲法(英米仏などの憲法)とはかけ離れたものだった。美濃部達吉を中心とした日本の憲法学者は、近代憲法との整合性を考えたドイツ法学者の「国家法人説」の影響を受けて、「天皇は法人国家の機関の一つであり、内閣の輔弼を受けて国家を統治する」との「天皇機関説」を唱えた。旧憲法第11条では「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」として陸海軍の最高指揮権は天皇にあるとされており、軍部は、議会政治の影響を排除することを狙い、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃した。美濃部は貴族院議員を辞し、著作は発禁処分とされた(1935年:天皇機関説事件)。その後、軍部は、岡田啓介内閣に圧力をかけて、天皇機関説を排除し「大日本帝国では、天皇が統治権の主体である」とした「国体明徴声明」を出させた。
資料⑨ 「沖縄戦での学生の戦闘参加」
沖縄戦は、日本の敗戦が濃厚となった1945年3月26日から6月23日にかけて行われた、日本本土での本格的地上戦である。日本軍は、来るべき本土決戦の準備期間の確保を前提に、米軍を沖縄本島内陸へ引きこんでの地上戦を画策した。戦闘は激烈を極め、20万人を超す戦死者を出した(日本軍関係者9万4136人、県民約9万4000人、米軍1万2520人)。日本軍は、「軍官民共生共死」を方針として、一般県民を巻き込んでの戦闘を画策した。兵力不足を補う目的を持って、15~60歳の県民の疎開を制限し、義勇隊への参加を義務とした。日本軍は1945年3月までに、大規模な防衛招集を行い2万人を集めた。
また、沖縄戦では、日本軍の補助要員として、師範学校や旧制中等学校(中学校、高等女学校、実業学校)など21校から14歳から19歳までの男子生徒約1500人、女子生徒約500人が動員された。男子生徒は、鉄血勤皇隊として陣地構築、物資運搬、伝令、立哨などの戦闘補助任務、電話線や橋梁の修理や雑役などに就き、中には弾薬を持って戦車への特攻に就いた者もいた。女子生徒は学校ごとに、ひめゆり隊、白梅隊、瑞泉隊、梯梧隊、積徳隊などと呼ばれ、野戦病院などでの看護補助を目的に軍と行動を共にした。当時の法制度上は17歳未満や女子には動員根拠がなかった。招集された約2000人学徒隊(正確な数字は不明)のうち、男子生徒約800人、女子生徒約200人が犠牲となった。中には集団自決した者もいた。
読谷村史は、沖縄戦について「追い詰められた日本軍は、住民スパイ視、そして虐殺、食糧の略奪、避難壕からの住民追い出し、マラリア有病地への住民の強制移動をしただけでなく、住民が米軍の捕虜になった場合の日本軍の秘密がもれるのを恐れて、住民が肉親、友人、知人同士で殺しあうよう誘導し、命令した。「集団自決」はまさにそうした社会的状況と軍の方針の結果であり、軍事的他殺といえよう」と記載している。
資料⑩ 「特攻」
太平洋戦争の末期、物量に勝る米国の猛攻に敗退を重ねた日本軍が、最後に考え出した作戦。爆弾を積んだ戦闘機や魚雷を、戦闘員一人が操縦し敵艦に体当たりする特別な攻撃。若年の搭乗員がほとんどで、陸海軍双方で約6000人が犠牲になった。最初の特攻は1944年10月、海軍戦闘機零戦に250キロ爆弾を吊り下げて、フィリピンレイテ島の米艦船に体当たり攻撃を行った。敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の4隊の24人で、総称して「神風特攻隊」と呼ばれた。特攻隊を戦意昂揚のために利用しようとして、大本営は戦果を過度に強調したが、戦果が挙がったのは当初のみで、成功率は13%にすぎないという数字もあり、ほとんどが高射砲攻撃などで撃墜されている。戦闘機による航空特攻の他、人間魚雷などと呼ばれる「回天」、ベニヤ板でボート状に簡易に作られた「震洋」などによる水上特攻も存在した。
これら特攻は、死ぬことが前提で行われおり、帰還は許されなかった。特攻作戦が実施された以降、その悲惨さに米兵の精神疾患率が上昇したとの報告もある。
資料⑪ 「タイプの違う二つの原爆」
原子爆弾は、8月6日8時15分に広島に、8月9日11時2分に長崎に投下された。この二つの原爆は、資料⑥で指摘したように、使用する物質と起爆装置に違いがあった。広島へは、高濃縮したウラン235を爆薬として使用し、起爆装置にガンバレル方式(砲身方式)を使用した爆弾(通称リトルボーイ)を、長崎へはプルトニウム239を爆薬として使用し、起爆装置にインプロージョン方式(爆縮方式)を使用した爆弾(通称ファットマン)を落とした。米国は、違うタイプの原子爆弾を作り、投下してその威力などを実験したことになる。原爆投下以降は、広島型の原爆は作られなくなった。理由は、ウラン235がウランの約0.7%しか存在せず稀少であること、また臨界に達するためには90%まで濃縮しなくてはならず費用がかかること、一方でプルトニウム239は、地球上のウランの約98%を占めるウラン238から原子炉内で生成できること、臨界量も6kgと少なくて済むことなどだった。いずれにせよ、広島・長崎での原爆投下には、実験という意味合いも少なからずあったのだ。
資料⑫ 「東西冷戦」
第二次世界大戦に勝利した米国とソ連は、大戦後の世界において、資本主義陣営と共産陣営に分かれてそのイニシアチブ獲得の争いを繰り広げることになる。トルーマン米大統領は、「トルーマン・ドクトリン」各国の共産主義拡大を抑圧するための資金援助の実施を決めた。一方ソ連のスターリン首相は、チェコの共産主義クーデターを支援するとともに、東ベルリンの封鎖を実施し東西ベルリンの分割を決定づけた。対立する両陣営は、ヨーロッパでの覇権争いを繰り広げ、1949年に米国が相互防衛同盟として「北大西洋条約機構」(NATO)を、西欧諸国を中心に米国を含め12カ国で結成した。対抗するソ連は、1955年にソ連を含む東欧8カ国で「ワルシャワ条約機構」を設立した。こうしてヨーロッパを舞台にした米国主導の資本主義陣営とソ連主導の共産主義圏対立は、世界的に拡大し、朝鮮戦争やベトナム戦争など代理戦争を引き起こし、南米やアフリカ、アジアや中東での政治的紛争、内乱などに介入した。
米国のジャーナリスト、ウォルター・リップマンはこのような情勢を「冷戦」と呼び、その中心を担う国や地域から「米ソ冷戦」とか「東西冷戦」と呼ばれるようになった。この冷戦構造は、1989年の東欧諸国の革命やベルリンの壁の解放により崩壊し、1991年のソ連崩壊によって決定的となった。
資料⑬ 「中距離核戦力全廃条約」
米国やロシアなどが相手国の首都・政治中枢を破壊する目的で使用する核戦力、いわゆる大陸間弾頭ミサイル、長距離ミサイルが「戦略核」と呼ばれ、戦場で兵士が使用する核兵器を「戦術核」と呼んでいる。中距離核戦力は、その中間に当たる射程距離500~5000km程度のミサイルを指している。1977年、旧ソ連が中距離ミサイルSS-20を開発、東欧に配備を始めると、西欧諸国にとって大きな脅威となった。米国は、1987年に同様のパーシングⅡはこの条約に限られる。
しかし、トランプ米大統領が「ロシアが中距離核を開発するなど条約は機能していない」として2019年2月に条約破棄を宣言し、2019年8月に条約は失効した。その後、残念なことに米露の両国は中距離核戦力の開発を急いでいる。
資料⑭ 「戦略核兵器削減交渉」
第二次大戦後、米国と旧ソ連邦は、東西冷戦の主体として覇権争いを展開し、核兵器競争を繰り返した。1980年代後半のピークには、世界に約7万発の核兵器が存在し、その90%は米国(2万3317発)とソ連(4万0159発)が保有していた。際限の無い核兵器競争には、世界中が懸念を抱き、核兵器を削減していく交渉についた。戦略核兵器削減交渉は(Strategic Arms Reduction Treaty)を略してSTARTと呼ばれる。 両国は、東西冷戦が終了した1991年7月に、ブッシュ米大統領とゴルバチョフソ連書記長との間で、第一次戦略兵器削減条約(START I)が締結された。よって、戦略核弾頭の上限を両国ともに制限し、削減に向けての交渉が約束された。
STARTは2009年に失効したが、翌2010年には、オバマ米大統領とメドベージェフ露大統領との間で、新STARTが締結された。新STARTは、2021年5月に期限を迎えたが、トランプ米大統領とプーチン露大統領の間で、5年間の延長が決められた。長期にわたる交渉の結果、現在世界の核兵器数はピーク時の17%、1万2121発に減少し、米国は5044発、ロシアは5580発となっている。
しかし、混迷する世界情勢は「新冷戦」などと呼ばれ、米露の対立はウクライナ戦争などで深刻になっている。2023年、プーチン露大統領は、延長した新STARTの履行停止を表明し、履行停止を定めた法律に署名している。NPT再検討会議も、米露の対立から核兵器削減へのプロセスを示す「最終文書」を出すことができず、核兵器禁止条約が発行した今になって、核兵器廃絶の道は暗礁に乗り上げた格好となっている。
資料⑮ 「核兵器禁止条約」
1982年6月、ニューヨーク国連本部で開催された「第2回国連軍縮特別総会」の席上で、長崎の被爆者山口仙二(被爆当時14歳)は、自らのケロイドの写真を掲げながら、「核兵器による死と苦しみを たとえ一人たりとも許してはならないのであります」と演説し、「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ ノーモア・ウァー ノーモア・ヒバクシャ」と締めくくった。初めての被爆者の訴えから、その後多くの被爆者が世界で声をあげ続けた。その努力が、被爆の実相と被爆者の存在、原爆の非人道性を世界に伝えた。国際社会は、核不拡散防止条約(NPT)や包括的核実験禁止条約(CTBT)など核兵器競争を抑制しようとする条約を生み出してきたが、しかし、核兵器保有国による覇権争いの中で、一向に核兵器廃絶への歩みは進まなかった。そのような状況を打破し、核兵器のない世界へ進むことを目的に、2017年7月国連総会で、国連加盟の国・地域193のうち122カ国が賛成して「核兵器禁止条約」(TPNW)は採択され、2021年1月22日、50カ国の批准を以て発効した。条約は、核兵器が非人道的兵器であると認定し、核兵器の開発、生産、使用など、その取り扱いの全てを禁止している。
しかし、核兵器保有国はこの条約を無視し、米国の核の傘の下に自国の安全保障をおいている北大西洋条約機構(NATO)諸国や日本なども、同様の態度をとりつづけている。
資料⑯ 「平和のための抑止力」
スウェーデンの科学者で実業家のアルフレッド・ノーベルは、自らが発明したダイナマイト(ニトログリセリンを主材とする爆薬で、それまでの火薬と比べ圧倒的に威力が大きい)が、威力が大きく多くの人々を犠牲にするために、逆に戦争を抑止する力になると考えたが、実際には戦争を激化させるものとなった。ノーベルがノーベル賞に「平和」を掲げた理由がそこにあった。ダイナマイトに比べるまでもなく莫大なエネルギーを有する原子爆弾は、それが使用されるかもしれないと言うことを以て、戦争を抑止すると考えられ、日本政府も、同盟国米国の核の傘の下で、安全保障が保たれていると主張してきた。しかし、核保有国であるロシアは、ウクライナ戦争において、核の使用をほのめかすことによって、他国の戦争介入を許さない状況を作っている。核兵器が、戦争を抑止するのでは無く、戦争を継続する、自国の戦闘行為に他国を介入させない材料として使用されている。ウクライナ戦争は、核兵器が戦争を抑止するものではなく、戦争を継続するものであることを示唆している。核兵器が、平和をつくりだすとの幻想は、いわゆる平和のための抑止力と言う考えは崩壊している。
資料⑰ 「原水爆禁止日本国民会議」
旧総評(日本労働組合総評議会)系労働組合(自治労、日教組、私鉄総連、全水道、全農林など)と市民団体などで構成する、原水爆禁止を目的とした組織。1954年3月1日のビキニ事件(日本のマグロ漁船第五福龍丸[現在、東京都江東区の夢の島公園内にある都立第五福竜丸展示館で保存]が、米国のビキニ環礁での水爆実験で被爆し、無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。また、捕獲したマグロから放射能が検出され多量に廃棄された)から、日本全国で取り組まれた核兵器廃絶の原水禁運動を担う。1955年8月6日に、広島で初めて原水爆禁止世界大会を開催する。その後、旧ソ連の核実験の評価をめぐって、原水爆禁止日本協議会(原水協:共産党系)と原水爆禁止日本国民会議(原水禁:社会党系)とに分裂した。原水禁は、全ての核実験に反対するとともに、核と人類は共存できないとの核絶対否定の考え方の下、核の商業利用(平和利用とも呼ばれる)である原子力発電にも反対を続けている。
おわりに
資料➀ 『新しい憲法 明るい生活』と『あたらしい憲法のはなし』
A『新しい憲法 明るい生活』(1947年5月3日)の「新憲法の特色」
新憲法が私たちに与えてくれた最も大きな贈りものは民主主義である。民主主義政治ということを一口に説明すれば「国民による、国民のための、国民の政治」ということである。民主的な憲法のもとでは国民が政治をうごかす力を持ち、政府も、役人も、私たちによってかえることができる。多数のものが望むこと、多数のものがよいときめて法律で定めたこと、これを実行してゆくのが民主主義である。(1ページ)
B『あたらしい憲法のはなし』(1947年8月)の「四、主権在民」
みなさんは、日本国民のひとりです。主権をもっている日本国民のひとりです。しかし、主権は日本国民全体にあるのです。ひとりひとりがべつべつにもっているのではありません。ひとりひとりが、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。みなさんは、主権をもっている日本国民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい国民でなければなりません。(14~15ページ)
資料② 『うれうべき教科書の問題』による教科書攻撃
パンフレット『うれうべき教科書の問題』の中で、「これらの『赤い』教科書は、日教組教育研究集会の講師団に属する学者先生たちによって書かれたものである」、「なかでも『あかるい社会・6年の上』はとくに偏向」であるとし「ソ連と中共を礼賛している」と教科書偏向キャンペーンが始まった。
まずは同書編集委員のうち、宮原誠一(東京大学教授、当時・以下同じ)・日高六郎(東京大学助教授)・長洲一二(横浜国立大学助教授)・羽仁説子(自由学園、幼児教育)・周郷博(御茶の水女子大学教授)ら新進気鋭の研究者が日教組全国教研講師団であったことを誹謗している。教科書記述では「奈良の都は、中国の唐の都をまねて作られたものです」、「学生や僧も、中国へわたって……日本にかえって、中国のすすんだ文化を伝えました」などが「中共を礼賛」していると中傷している。
ただちに、編集委員は連名で日本民主党に事実誤認、誹謗と中傷にみちたパンフレットの撤回を求め、さらに日本学術会議も「学問・思想の自由を犯すおそれがある」と警告した。
資料③ 「近隣諸国条項」
侵略・加害を歪曲する教科書検定に対する韓国・中国などからの抗議により、教科用図書検定基準の中に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」、「近隣諸国条項」(近隣のアジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること)が追加される。
資料④ 2021年「従軍慰安婦」を「慰安婦」、「強制連行」を「徴用」、「動員」の閣議決定
政府は2021年4月27日、日本維新の会の馬場伸幸衆院議員が提出した質問主意書に対し、当時の文献や法令などを根拠に「従軍慰安婦」を「慰安婦」、日本の植民地だった朝鮮半島からの強制連行は「徴用」や「動員」とするのが適切との答弁書を閣議決定、政府の統一見解となった。もう少し、閣議決定の内容を詳しく見てみよう。
「『従軍慰安婦』という用語を用いることは誤解を招くおそれがある」
「単に『慰安婦』という用語を用いることが適切である」
「朝鮮半島から内地に移入した人々(中略)について、『強制連行された』若しくは『強制的に連行された』又は『連行された』と一括りに表現することは、適切ではない」
「『強制連行』又は『連行』ではなく『徴用』を用いることが適切である」
などとする2通の答弁書を閣議決定したのである。
その後、国会審議では、教科書における「従軍慰安婦」「強制連行」等の記述について「今後、そういった表現は不適切ということになります」等の政府答弁がなされた。これを受け、同年10月までに教科書会社8社が訂正申請を行い「従軍慰安婦」「強制連行」等計41点にわたって記述の削除や表現の変更が行われていずれも承認された。
資料⑤ 茨城県常陸大宮市教育委員会が自由社歴史教科書を「単独採択」
自由社の教科書採択と愛国心教育
茨城県常陸大宮市教育委員会が「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが執筆した自由社の歴史教科書を採択したのは全国の公立中学校では2009年の横浜市以来、15年ぶりのことだ。
常陸大宮市教委は2024年6月以降、7人の教員が9つの会社の教科書を調べ、7月にはその調査内容を学識経験者ら9人が確認し、7月末に教育長を含む教育委員5人が「内容に配慮や工夫が見られる」などとして全会一致で決定した。教育長は、「故郷のこと、茨城県、日本がどうつながっているのか丁寧に説明され、とても評価できる。ここに生まれてよかったと思えることは大事だ」と述べ、「故郷を愛し、故郷を慈しむ」などを基本理念にする市の教育大綱に合っているとした。弁護士や市民の団体は「自虐史観からの脱却を唱え、太平洋戦争における日本の加害責任について曖昧な記述しかしていない。憲法に対する見方があまりにも一面的で教育基本法や学習指導要領に照らしても問題」と採択のやり直しなどを求めて文書で抗議している。
常陸大宮市も前回までは5市町村の「共同採択」をとってきたが、県教委に単独採択を申請し、今回から認められた経過があり、そこに「はじめに結論ありき」の疑念をぬぐえない。郷土愛から愛国心へとつなげる愛国心教育を受けなければならない子どもたちの将来が不安でならない。
日本は立憲君主制ではない
愛国心教育以外に、日本国憲法の三大原理のひとつである「国民主権」がないがしろにされていることも問題である。どういうことか。日本は国民主権の立憲民主制でありながら、自由社の歴史教科書の巻末「重要用語解説」の「立憲君主制」(291頁)では以下「日本国憲法下の戦後の日本も、立憲君主制の政治形態に入れることができます」(太字は筆者)となっている。
「君主の権力が憲法によって制約されている政治形態。君主制には専制君主制と立憲君主制の二つの類型があります。専制君主制は、君主一人の意思によって政治が行われる制度をさします。それに対し、立憲君主制では国家元首として君主をいだきながらも、政治の実際は憲法に基づき国民の間の民主的な手続きによって行われ、君主はそれを承認し権威づける立場にいます。/この制度はイギリスで最初に成立し、大日本帝国憲法下の日本も、日本国憲法下の戦後の日本も、立憲君主制の政治形態に入れることができます。国民を統合する君主制の利点と民主制の長所を組み合わせたすぐれた制度であると評価されることもあります。」
「国民主権」は民主主義の根幹でありながら、天皇を国家元首とみなす立憲君主制を子どもたちに教える教科書はあまりにも非民主的である。
資料⑥ 「トンデモナイ閣議決定」も!
2006年10月 「戦後50年村山談話」骨抜きの閣議決定
10月6日、「侵略戦争」と「戦争責任」の定義についての福島瑞穂社民党党首(当時)の質問主意書に対して、安倍第一次内閣は「『侵略戦争』及び『戦争責任』という概念について、国際法上確立されたものとして定義されているとは承知していない」という政府答弁書を閣議決定。「戦後50年村山談話」を骨抜きにする始まりであった。
2014年7月 「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定
政府は7月1日の臨時閣議で、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を限定容認することを決定した。「日本と密接な関係にある国が攻撃された場合、①日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由と幸福の追求権が根底から覆される明白な危険がある、②日本の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない、③必要最小限の実力行使にとどまる、という3条件を満たせば、集団的自衛権は「憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」としている。
その後、日本の防衛費増大、軍拡路線が本格化していくことになる。
2015年4月 自衛隊を「わが軍」と表現した安倍晋三首相の発言を閣議決定
4月3日、安倍首相(当時)は安保法制が審議された参院予算委員会で、自衛隊を「わが軍」と呼んだ。「自衛隊は軍隊ではない」とする従来の政府解釈との矛盾が指摘されると、国会答弁を訂正するのではなく、答弁書「自衛隊は、憲法上自衛のための必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものであると考えているが、(中略)国際法上、一般的には、軍隊として取り扱われるものと考えられる」を閣議決定し、以後、自衛隊が軍隊とも考えられることになった。
2015年8月 安倍首相「戦後70年談話」の閣議決定
8月14日に、安倍晋三首相(当時)の「戦後70年談話」が閣議決定、発表された。
「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」は、その後の政府の歴史認識の公式見解となった。この閣議決定によって、「戦後80年談話」が見送られたとも考えられる。
2016年11月 「土人発言」を閣議決定
10月18日、沖縄県のヘリパッド建設予定地で、抗議で集まった市民に対して、大阪府警機動隊員が「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」、別の機動隊員が「黙れ、こら、シナ人」と怒鳴った。11月18日、この「土人発言」について鶴保庸介沖縄担当相(当時)の「差別と断定できない」とする発言を容認する答弁書を閣議決定。金田法務大臣(当時)は、本件発言について「大変残念で許すまじき行為である」としつつ、「差別的意識に基づくものかどうかというのは、事実の詳細が明らかでない状況の中ではお答えは差し控えたい」と述べた。「土人」、「シナ人」は新聞、放送では差別用語として禁じている。
2017年3月 「首相夫人は私人」を閣議決定
政府は3月14日、「首相夫人は公人ではなく私人である」とする答弁書を閣議決定した。「公人とは一般に公職にある人を意味する」としたうえで、「私人とは一般に公人の対義語として用いられる」と説明した。安倍晋三首相の昭恵夫人が2015年に学校法人「森友学園」が運営する幼稚園で講演したことに関し、首相夫人が私人か公人かが国会審議の論点にあがっていた。
2017年3月 「教育勅語の教材使用を認める」を閣議決定
安倍内閣は3月31日、戦前・戦中に道徳や教育の基本方針とされた「教育勅語」について、「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定した。教育勅語は、1948年に、日本国憲法や教育基本法に反するとして、軍人勅諭とともに衆議院で排除に関する決議、参議院で失効確認に関する決議が行われている。今回の閣議決定は、衆・参両院の決議と、憲法に違反する決定である。
「教育勅語」は天皇主権の大日本帝国憲法、天皇を頂点とする家父長制度の下で「臣民」(天皇の赤子)に対して親孝行、友だちを大切に、夫婦仲良くといった守るべき徳目を「朕」(天皇)が説いたものだ。さらに問題なのは、「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と、天皇のために命をかけて戦うことを美徳として求めていることだ。排除、失効決議された「教育勅語」が道徳教材として学校教育現場で使用されることはあってはならない。
2018年5月 「セクハラ罪っていう罪はない」の閣議決定
5月18日、麻生太郎・副総理兼財務相(当時)は、財務省で発覚した福田淳一・事務次官(当時)の女性記者へのセクハラ問題について、「セクハラ罪っていう罪はない」と庇って批判を浴びた。政府は「セクシュアル・ハラスメントが、刑法第176条(強制わいせつ)等の刑罰法令に該当する場合には、犯罪が成立し得るが、その場合に成立する罪は、(中略)強制わいせつ等の罪であり、お尋ねの「セクハラ罪」ではない」と「現行法令において『セクハラ罪』という罪は存在しない」を閣議決定した。
2018年11月 「移民政策とることは考えていない」を閣議決定
政府は11月2日午前に閣議決定した出入国管理法改正案に関連し「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人を家族ごと期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策をとることは考えていない」とする答弁書を決定し、「事実上の移民政策」との見方を否定した。安倍晋三首相は10月29日の衆院本会議で立憲民主党の枝野幸男代表の質問に答え、外国人労働者の受け入れ拡大に向けた入管法改正案について「移民政策」ではないことをあらためて強調。「深刻な人手不足に対応するため、即戦力になる外国人材を期限付きで受け入れるものだ」と説明した。
2019年10月 「セクシー」発言の閣議決定
10月15日の閣議で、小泉進次郎環境相(当時)が「セクシー」という発言の真意を記者に問われ「説明すること自体がセクシーでない」と述べた。この発言に対して、「妥当でないとは考えていない」とする答弁書を決定した。小泉環境相は9月22日の記者会見で、気候変動問題に取り組むことは「楽しく、クールでセクシーだ。若い世代がキーになると思う」と述べた。答弁書によると、過去5年間で閣僚が「セクシー」という単語を用いて政策を評価した事例はないという。「正確な訳出は困難であるが、例えば、ロングマン英和辞典(初版)によれば、「(考え方が)魅力的な」といった意味がある」といった政府の正式な解釈まで閣議決定された。
2019年12月 「反社会的勢力」の定義を閣議決定
12月10日、「反社会的勢力」の定義について「その時々の社会情勢に応じて変化し得るものであり、限定的・統一的な定義は困難だ」とする答弁書を閣議決定した。「桜を見る会」で菅義偉官房長官(当時)が、反社会的勢力と目される人物と写真に写っていた疑いがあった。
2021年4月 「従軍慰安婦」と「強制連行」をめぐる閣議決定
政府は2021年4月27日、日本維新の会の馬場伸幸衆院議員が提出した質問主意書に対し、当時の文献や法令などを根拠に「従軍慰安婦」を「慰安婦」、日本の植民地だった朝鮮半島からの強制連行は「徴用」や「動員」とするのが適切との答弁書を閣議決定、政府の統一見解となった。もう少し、閣議決定の内容を詳しく見てみよう。
「『従軍慰安婦』という用語を用いることは誤解を招くおそれがある」、「単に『慰安婦』という用語を用いることが適切である」、「朝鮮半島から内地に移入した人々(中略)について、『強制連行された』若しくは『強制的に連行された』又は『連行された』と一括りに表現することは、適切ではない」、「『強制連行』又は『連行』ではなく『徴用』を用いることが適切である」などとする2通の答弁書を閣議決定したのである。
その後、国会審議では、教科書における「従軍慰安婦」「強制連行」等の記述について「今後、そういった表現は不適切ということになります」等の政府答弁がなされた。これを受け、同年10月までに教科書会社8社が訂正申請を行い「従軍慰安婦」「強制連行」等計41点にわたって記述の削除や表現の変更が行われていずれも承認された。
2014年4月に教科書検定基準改定で「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には、それらに基づいた記述がされていること」との規定が加えられ、閣議決定=政府統一見解が教科書記述に与えた悪影響は大きい。
2022年9月 国葬閣議決定
9月22日、安倍晋三・元首相の国葬(国葬儀)を27日に東京・日本武道館で行うことを閣議決定した。名称は「故安倍晋三国葬儀」とし、岸田首相が葬儀委員長を務める。 首相経験者の国葬は1967年の吉田茂氏以来で、戦後2例目。政府は国会に事前にはかることなく開催を決定し、12億円の国費が投じられたことに多くの批判が出された。
2022年12月 安保関連三文書の改定の閣議決定
政府は12月16日、「国家安全保障戦略」、「国家防衛戦略」、「防衛力整備計画」の新たな安保関連3文書を閣議決定した。「国家安全保障戦略」では相手国のミサイル発射拠点などを攻撃する反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有を明記した。「防衛力整備計画」では、防衛費を国内総生産(GDP)比で2%に倍増する方針を打ち出した。集団的自衛権の容認に続く、安全保障・外交政策の大幅な変更がなされてしまった。
2023年9月 関東大震災時の朝鮮人虐殺「記録なし」の見解崩さず(松野官房長官)と1924年1月21日の閣議決定
松野博一官房長官は9月1日の記者会見で、関東大震災当時の朝鮮人虐殺について「政府内において事実関係を把握する記録は見当たらない」とした8月31日の見解を崩さなかった。
立憲民主党の石垣のり子氏が「(文書の)内容は虐殺の事実を示した文書ではないのか」と問うと、松野官房長官は「指摘いただいた閣議決定文書注はあるが、記載以上の内容を把握できない」などと答弁した。国立公文書館所蔵の文書が「保存期間満了後に移管された特定歴史公文書」であることや、同館が独立行政法人であることを指摘し、政府内の文書かどうか答えることは困難だとした。
政府はこれまでも「政府内に(虐殺の)事実関係を確認できる記録が見当たらない」との答弁を繰り返している。
この答弁に反して、公文書である内閣府の中央防災会議報告書(2009年3月)では、「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセント」と明記している。震災の死者105385人から計算すると、最小1053人から最大9484人の朝鮮人が虐殺されたと考えられる。現時点では、約1万人またはそれ以上の朝鮮人が虐殺されたとみるのが妥当なのかもしれない。
(注)1924年1月関東大震災時の朝鮮人への「殺傷行為」「特赦手続き」閣議決定文書の存在
1924年1月21日の閣議決定では、「震災当時における混乱の際、朝鮮人犯行の風説を信じ、その結果自衛の意をもって誤って殺傷行為を為したる者」を対象に、「特赦手続き」をとることを記している(国立公文書館所蔵)。この閣議決定からでも「殺傷行為」の事実関係を確認できる。
2023年2月 「GX(Green Transformation)実現に向けた基本方針」が閣議決定
2月10日政府は「足元の危機を乗り切るためにも再生可能エネルギー、原子力などエネルギー安全保障に寄与し、脱炭素効果の高い電源を最大限活用する」を閣議決定。
この閣議決定を受けて、2024年12月17日に経済産業省は、国の中長期のエネルギー政策の方針「エネルギー基本計画」の改定案を公表した。2011年の東京電力福島第一原発事故以降掲げて来た「原発依存度を可能な限り低減する」との表現が削除され、原発の建替えを認める原発回帰を鮮明にした。
2024年3月 「国際共同開発する防衛装備品の第三国輸出容認」が閣議決定
政府は3月26日、英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機の日本から第三国への輸出を解禁する方針「国際共同開発する防衛装備品の第三国輸出容認」を閣議決定した。「防衛装備移転三原則」の運用指針を改定して、2023年末の弾薬や弾道ミサイルなどの輸出緩和に続き、高い殺傷能力を持つ戦闘機の解禁は、武器輸出を抑制してきた日本の安全保障政策を大きく変質させた。




