人権コーナー

2008年12月29日

金子匡良高松短期大学専任講師「世界人権宣言60年と日本の人権課題- とくにCSRをめぐって」

世界人権宣言60年と日本の人権課題- とくにCSRをめぐって

金子匡良(高松短期大学専任講師)

人権問題の推移と現況

 1948年12月、世界人権宣言が第3回国連総会で採択されました。「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という条文から始まるこの宣言は、世界の人びとに共通して保障されるべき自由や平等、および社会的・文化的権利を30カ条に渡って定め、その後に続く各種の人権条約の礎となりました。ここに挙げられた人権を世界中で実現することこそが、国連結成の目的といっても過言ではありません。
 他方、世界人権宣言が採択された前年の1947年には、日本国憲法が施行されました。日本国憲法も第3章で「国民の権利と義務」を定め、31カ条に渡って種々の人権を保障しており、その内容は世界人権宣言の規定とほぼ重なります。(なお、憲法の人権規定には「国民」という文言がたびたび出てきますが、人権は「国民」のみに保障されるものではなく、外国人や無国籍者にも、その人権の性質上可能な限り、保障が及ぶというのが学説や判例の立場です。ただし、判例は外国人の人権を狭く解釈する傾向にあり、その点は学説から批判を受けています。)
 このように、世界人権宣言と日本国憲法はほぼ同時期に誕生し、世界と日本における人権保障の指針となってきました。両者とも、人間でいえばすでに還暦を迎え、老成の域に達すべきところですが、日本においても、また世界各国においても、深刻な人権侵害が後を絶たず、世界人権宣言や憲法が規定するような人権が真に実現するには、まだまだ多くの努力を必要としています。
 日本に限っていうならば、戦後しばらくは警察官、役場役所の職員、教員などの公務員による差別や虐待が大きな問題となっていましたが、その後、公務員による人権侵害は次第に少なくなり、むしろ私人間の人権侵害がクローズアップされるようになっていきました。とくに1960年代以降、企業内における差別、日照や騒音などをめぐる近隣紛争、学校でのいじめ、病院や介護施設内での虐待・暴行、マスメディアによる名誉侵害やプライバシー侵害などに代表されるような、私人間における人権侵害が問題視されるようになりました。最近では、インターネット上の差別書き込みや、携帯サイトを使ったネットいじめなど、匿名性の高い陰湿な事件も増えています。
 もちろん、現在でも公務員による人権侵害が解消されたわけではありません。最近の志布志事件などでも問題になったように、警察による見込み捜査や不当な捜索・逮捕などは今日でも問題となっていますし、また、狭山事件の石川一雄さんように、冤罪事件によって無実の罪をきせられたまま、いまだに救済されない人びともいます。
 加えて、小泉政権が唱道した過度の「自由競争礼讃主義」は、「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)を害するような社会格差や地域格差を生み出し、社会の分裂と対立を深刻化させ、鬱屈した抑圧感を蔓延させました。こうした時代状況が、陰湿な人権侵害を助長しているという面も否定できないでしょう。

人権救済機関の必要性

 上で述べたような人権侵害の被害者に対する救済制度としては、主として裁判所による救済と行政機関による救済の2つがあります。しかし、両者とも被害者に満足のいく解決をもたらしているとはいえません。
 まず、裁判による救済は、時間がかかる上に、弁護士費用など経済的な負担が伴います。また、日本では裁判所はまだまだ敷居の高い場所ですので、心理的な負担も相当なものです。さらに、そうした負担をはねのけて裁判を起こしたとしても、満足のいく結果が得られるとは限りません。裁判では訴えた側(=人権侵害の被害者)に証拠を提示する責任(挙証責任)があるため、被害者は自分の受けた被害を証拠に基づいて立証しなければなりませんが、これを行なうことはけっして容易なことではありません。とくに、会社における差別や病院内での虐待などでは、証拠を集めること自体に大きな困難が伴います。こうした点から見て、裁判は人権救済制度としては多くの問題を抱えているといえます。
 では、行政機関による救済はどうでしょうか。日本では、人権救済の専門行政機関として、1948年に法務省人権擁護局が設置され、その下に全国で約1万4,000人の人権擁護委員が民間ボランティアとして配置されています。また、労働委員会などの行政委員会や、婦人相談所や児童相談所といった機関も、それぞれの分野で人権救済の役割を果たしています。
 しかし、こうした行政上の救済機関は、それぞれバラバラに配置されているため、被害者が満足のいくような包括的な救済ができないという問題があります。なかには、権限や人員が少ないために、活動そのものが低調なところも少なくありません。本来であれば、そのような場面でこそ、法務省人権擁護局が前面に出て積極的な救済を行なうべきですが、残念ながら縦割り行政のなかにあっては、法務省にそこまでの権限はありません。加えて、人権擁護局は予算・人員ともに限られており、行政改革の声が高まるたびに、何度も廃止の検討対象になるなど、「弱小セクション」の地位に甘んじています。このような状況ですので、行政機関による人権救済は、全体として機能不全に陥っているというのが実情です。
 こうした状況を打開するために期待されているのが、国内人権機関の創設です。国内人権機関とは、人権救済を専門に扱う独立性の高い行政機関であり、諸外国の例では人権委員会といった委員会型の機関が多く設置されています。日本でも、2002年に人権委員会の設置を盛り込んだ人権擁護法案が国会に提出されましたが、各方面から批判をうけ、翌年の衆議院解散に伴って廃案になってしまいました。
 人権擁護法案は、マスメディアの取材行為を規制対象に含むなど、たしかに問題の多い法案でしたが、だからといって、実効性のある人権救済機関が必要とされていることに変わりはありません。既存の救済機関が機能不全に陥っている陰で、多くの被害者が泣き寝入りを強いられている現状を考えれば、日本でも早急に人権委員会を整備する必要があるでしょう。

企業と人権 – CSRという新たな概念

 世界人権宣言や日本国憲法ができた当時と比べて、人権をとりまく環境のなかで大きく変化したのは、企業の存在感がきわめて大きくなったということです。かつて企業は、国のなかだけで活動していたため、そこで生じる人権問題も国内問題として対処することができました。しかし、人・モノ・資本・サービスが国境を越えてやりとりされ、それに応じて企業も世界を股にかけて活動するようになった今日では、企業活動に伴う人権問題も、単に一国の問題ではなく、国際問題として対処すべき大きな問題となっています。とくに発展途上国において、先進国の大企業が引き起こしている種々の問題は、深刻な事態を招いています。外国企業による乱開発と環境破壊、現地住民とりわけ児童労働の搾取、独裁的な政権と外国企業との癒着、外国企業からの賄賂による政治腐敗などなど、例を挙げれば枚挙にいとまがありません。
 こうした問題に対処する一つの方法は、企業に対して法的規制をかけることです。つまり、生産・流通・販売などの各場面において、企業が守るべき一定の基準を法律や条約で設定し、それを破った者には制裁を課すという方法です。たとえば、労働者の労働条件を定めることや、環境汚染物質の排出基準を設定することなどがこれに当たります。しかし、本来、経済活動は自由に任せられるべきものであり、そこに多くの規制をかければ、経済の活気を失わせ、「良いモノをより安く」という企業のやる気を失わせることになりかねません。
 そこで、近年注目されているのが、CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)という概念です。CSRは、企業も経済的価値や短期的な営利を追い求めるだけではなく、社会的な存在として、環境や人権といった非経済的な価値の維持・増進のために責任を果たさなければならないという新たな責任概念です。
 CSRは、企業がその社会的責任を自覚し、自ら率先して人権保障や環境保全にとりくむことを要請しますが、これは企業だけの問題ではなく、政府や民間団体、あるいは個々の市民もそれぞれの立場でCSRの推進にとりくむ必要があります。たとえば、政府はCSRを促進する環境を整備したり、CSR活動にとりくむ企業を支援したりすることができます。民間団体や市民は、企業によるCSRの実践状況を監視したり、CSRに積極的な企業の商品やサービスを購入することによって、間接的に企業のとりくみを促すことができます。
 CSRは、いまや国家に匹敵する存在となった企業が、その社会的責任を自覚し、人権や環境といった普遍的価値を実現できるように、社会全体でとりくむことを必要とします。この分野でどれだけ効果的なとりくみが行なえるかが、今後の日本および世界における重要な人権課題といえるでしょう。

CSRの実現方法

 CSRは単なる理念ないし目標に過ぎないため、どのような企業になればCSRを果たしているといえるのかという具体的な判断基準が必要となります。その一つとして提示されているのが、SA8000という評価基準です。これは、アメリカにあるSAI(Social Accountability International)というCSRの評価機関が1997年に定めた基準であり、児童労働の撤廃、強制労働の撤廃、労働者の健康・安全への配慮、差別・虐待の撤廃といった9つの分野について、企業が基準を満たしていることを申請し、必要な査察を受けた上で、認証を受けるというものです。日本の企業としては、2004年にイオンが初めて認証を受けました。
 SA8000の認証を受けることによって、企業にとってはCSRを果たしているという証しになるとともに、それが企業イメージの向上につながるという効果をもたらします。ただし、認証を受けた後も6ヶ月ごとに審査を受け続けなくてはならず、基準に反する行為があれば認証を取り消されることもあります。
 また、CSRの基準としては、国連でつくられたグローバル・コンパクト(Global Compact)も有名です。これは、1999年にアナン国連事務総長(当時)の呼びかけではじまったものであり、人権の保護・尊重、強制労働や児童労働や撤廃、環境上の責任の実践、腐敗防止などの10項目のコンパクト(誓約)への参加を企業が宣言し、国連に申請するというものです。日本では、キッコーマンが最初にグローバル・コンパクトへの参加を表明しました。
 グローバル・コンパクトはSA8000のような認証基準ではなく、企業の側がそれに参加することを表明するだけの自主的な行動規範に過ぎませんが、これに参加することは、CSRの履行を世界に誓約するものであり、SA8000と同様に企業イメージの向上に役立ちます。また、グローバル・コンパクトでは、「対話と学習」というとりくみが重視されます。つまり、単にグローバル・コンパクトに沿った活動を個々の企業が実践するだけでなく、その経験や知見を持ち寄って対話し、互いに学習しあうというプロセスに力が注がれているのです。この「対話と学習」の輪が、政府や民間団体を巻き込みながら世界中に広がることによって、「人間の顔をしたグローバリズム」を実現しようというのが、グローバル・コンパクトの最大の目的なのです。
 ところで、上でも述べたとおり、CSRは企業にだけに課された責任ではなく、私たち市民の側も、企業にCSRを果たすように働きかけたり、自ら社会的な責任を果たしていかなければなりません。市民の側から企業に働きかける手段としては、SRI(Socially responsible investment:社会的責任投資)が効果的です。SRIとは、個人や機関投資家が、株や社債の購入などを通じて企業に投資する際に、その企業の経常利益といった経済的な指標だけではなく、人権や環境への配慮などCSRを果たしているかどうかを判断基準にして投資を行なうことです。欧米ではこのSRIが広がっており、株式市場に相当の影響を与えるようになっています。こうした動きが拡大すれば、企業はますますCSRに気を配るようになり、CSRに気を配る企業には投資が集まるという循環が生まれます。そして、その過程において、人権や環境に配慮した企業活動が活発化していくというわけです。
 加えて、私たち自身が社会的責任を果たすことも必要です。私たちは、日々、消費者としてモノやサービスを購入しています。その際、経済的価値や使いやすさといった基準だけではなく、購入する製品やそれを生産している企業が、CSRを果たしているかどうかを判断の指標に含めて行動しなければなりません。たとえば、「フェアトレード・ラベル」という言葉をご存じでしょうか? これは、途上国の労働力を搾取していないか、人体に有害な物質を用いていないか、環境に配慮した生産を行なっているか、といった観点から商品を評価し、合格したものに「フェアトレード・ラベル」の貼付を認めるという国際的なとりくみです。いまでは、コーヒー、チョコレート、バナナ、サッカーボール、衣料など、さまざまな商品でこのマークを見つけることができます。消費者としての個人が、「ちょっと高いけれども、フェアな(公正な)商品を買う」という身近なとりくみを積み重ねていけば、世界の人権状況の改善に大きく貢献できるはずです。

おわりに – 「人権問題の当事者」の視点に立って

 世界人権宣言と憲法が生まれて60年以上の時が経ったものの、世界中にさまざまな人権問題が山積しており、私たちの前には多くの課題が横たわっています。日本においても、種々の差別や虐待が残っており、また最近では、格差社会のなかで、生きること自体が阻害されたり否定されたりしています。こうした問題に立ち向かうためにも、「当事者の視点」から人権問題を考える必要があります。人権はすべての人が持っているものですが、実際には、それを否定され、不当な差別や排除を受けている人びとが数多く存在します。そうした「人権問題の当事者」の視点に立って、いま何が必要なのかを判断しなければなりません。当面の課題は、当事者の声に耳を傾け、当事者の思いを共有し、当事者の立場に立って活動してくれる救済機関を整備することです。
 また、これまでの成長重視・発展重視の価値観を改め、他者と共存できる発展や成長を模索していかなければなりません。ここでいう「他者」には、国外の人びとが含まれるのは当然ですが、さらに未来の人びとも含めて考えなければなりません。つまり、「持続可能で社会的責任のある発展」をめざし、そうした社会を未来の世代に残すことが私たちの責務であるといえます。
 すべての人が平和的に共存し、未来へとつながる社会。その導きの糸が人権なのです。

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