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「命」より大切な国家ならいらない

2010年9月 1日

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 戦後65年目の8月15日、今年も暑い一日だった。菅直人内閣の閣僚は一人も「靖国」参拝を行わなかった。安倍晋三元首相は「政府方針として参拝しないと決めたのであれば信教の自由上問題」と言った。ならば、勝手に本人の宗旨と関係なく「靖国」に合祀された者は信教の自由を侵害されてはいないのか。彼の物言いは、いつも理屈になっていない。自民党の西田昌司参議院議員は「まったく情けない。国家の名においての戦争で、国家の犠牲者の代表たる政府の人間が無視している。あり得ない」と述べたそうだ。石原慎太郎東京都知事は「英霊が浮かばれない」とコメントした。50人以上の国会議員が参拝したらしい。

 「母は、父の戦死公報を受けても泣かなかった。国に殉じた兵士の妻は、泣くことが許されない」。靖国は天皇の名の下で、そのように戦争遂行の機能・役割を担ってきた。息子はこう述懐する。「戦争中一度も泣くことのなかった母が、戦後無事生還した人のお祝いに行った夜、初めて泣いたのを見た」。戦争遂行のために、兵士を国に殉じた英霊につくり直し、人に涙させないために「靖国」はあった。この事実がある限り、「靖国」は許されない。国家の犠牲者を祀るのが「靖国」ではない、国家の犠牲者をつくるのが「靖国」なのだ。

 手足を吹き飛ばされ、内臓が飛び出し、ウジが湧き、獣に引きずり回されながら野辺に放置される兵士の死体を、国家に殉じた崇高な死に転化し、戦争を美化しようとする者がいる。自分の意志に反して止められた「命」、戦争の死はそういうことだ。あの時、誰もが生きたいと願った。当たり前にそう思ったに違いない。「命」より大切なものをつくることが、戦争につながる。「命」より大切な何かをつくらないことなのだ。「国家」という言葉を出すと、もうそれは「命」を粗末にすることなのだ。「国家」に殉じた者を祀るとする「靖国」はいらない。戦争犠牲者の本当の思いを知るのは、彼らのそばにいた彼らの愛する者たちだ。その者たちの側に、一人の人間として彼らを帰そうではないか。

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