2009年、ニュースペーパー

2009年05月01日

ニュースペーパー2009年5月号

【インタビュー・シリーズ その34】
平和フォーラムの経緯といまに期待するもの
平和フォーラム顧問(初代事務局長)佐藤 康英さんに聞く

 

インタビューに答える佐藤 康英さん 【プロフィール】
1943年福島県会津生まれ。福島県職に勤めた後、県職労役員、自治労財政局長、副委員長を経て、1997年憲法擁護・平和・人権フォーラムと原水爆禁止日本国民会議の事務局長に就任。1999年の平和フォーラムの発足を牽引し、初代事務局長。現在顧問。趣味は、魚釣り、シーカヤック、山登りと山野草。ホームページ「ふくしまからの平和発信 ザ-BASE」を開設 http://base.sub.jp

──平和フォーラムは発足して10年になりますが、誕生の経緯をお聞かせください。
 1997年に護憲と原水禁の前任の事務局長だった榎本庸夫さんが自治労の委員長に就任したので、その後を引き継いで事務局長になりました。護憲連合と原水禁、食とみどり、水を守る労農市民会議の3つは総評時代の組織です。総評が解散をし、連合ができて、かつての総評関連の組織については、幕引きをして解散をすべきという意見と、なくさずに続けるべきという意見に分かれていました。前任の榎本さんは組織をなくさずに運動を継承しようと努力されていましたが、それを次いだのが僕なのです。総評時代の組織を、連合に代わったなかで、どういう組織にしていくのかがそもそもの議論でした。

──総評運動の継承が問われたわけですね。
 日本の運動はいろんな事情で分裂の歴史がありますけれども、平和運動はもともとあらゆる組織を超えて結集できるものという基本的な考えが僕にはあるのです。あらゆる組織を超えて、多数派を形成できる組織を展望する思いを込めて平和フォーラムを結成しました。フォーラムという名前にしたのは、いろんな市民が自由に集まることを期待したからです。結果として、結成を前にいくつかの団体が抜けたこともあって、官公労中心の組織になったことは残念でしたが…。
 日本の平和運動は、いつの間にか政党の戦略や政治的判断に左右されてしまい、もっと結集しうる理念をみんなでつくろうという運動が生まれてこなかったのではないかと思います。とくに日本の戦争の加害責任は大きな問題です。たとえば、福島県内には20以上の自治体で強制連行の問題があるのですが、自治体史にはその事実も侵略戦争の歴史についても何も触れられていません。
 自治体で戦争について検証し、反省し、教訓を残すという作業が本当は必要なのですが、やられていません。こうしたことに日本の平和運動の問題点があると思います。多数派をつくるための組織づくりをどう展望するのか、いまの政党や労働団体では難しいと思いますので、平和フォーラムにぜひつくってほしいと思います。


平和フォーラムの結成総会(1999年11月・東京)

──佐藤さんが強制連行問題に関わるのはどういう経緯からですか。
 福島に戻ってからです。故・大塚一二さん(郷土史家)が中心となって調査した県内の強制連行を記した本をベースにしながら、全国の良心的な研究者の書籍や自治体史などの文献調査をして、僕のホームページに掲載しています。福島は全国4位の4万人からの強制連行があったとの記録がありますが、半数は未調査です。僕が「自治体を平和の砦に」というのは、住民を強制的に支配したことを検証・反省して、それをそれぞれの自治体が発信することが必要だからです。いまのような、国へ右にならえでは平和は展望できません。
 これまでもそうしたチャンスもあったので、日本の平和運動がしっかりしていればできたと思いますが、朝鮮戦争のときに変化して、その後は後退してしまいました。県内でも平和運動をしている人たちがつくった「戦争を語りつぐ」冊子を読んでみると、日本があたかも被害者のように書かれていて、加害者であることがどこにも書かれていません。これにはがっかりしました。朝鮮半島における強制連行だけで400万人にも及んでいます。日本の植民地支配や侵略戦争が及ぼした加害を隠ぺいしてはなりません。

──佐藤さんのホームページでは靖国問題に触れていますね。
 僕の平和運動の原点は、親父が戦死したことです。父親がサイパンで戦死したとき僕はまだ2歳でした。そのため、若いころから平和運動に敏感でしたし、榎本事務局長の時の「戦後50年の戦争責任を問うとりくみ」に共鳴して、自分から希望して平和フォーラムの立ち上げにかかわるようになりました。
 戦争中は「九段の杜で会おう」という言葉で象徴されるように、戦死して靖国神社に合祀されることをよしとして、万歳の言葉で戦地に送り出した時代ですね。そういう時代を繰り返さないためにも、とくに自治体が阻む力にならないといけないと思います。

──逆にいまの日本では、北朝鮮問題などでやられたらやりかえせという動きが強まっています。

 日本は絶対に戦争はしない立場で、平和フォーラムはもとより、国会議員などがこぞって平和外交で説得するとか、戦争を止めるために体を投げ打つことが必要ではないでしょうか。これまで日本は戦争に巻き込まれそうになったときが何回もありましたが、それをとどめたのは戦争を体験した人たちの思いと平和憲法の存在です。この先、戦争を知らない世代だけになるときが心配です。それだけに、戦争の悲惨さを伝え、日本の侵略戦争の事実検証と教訓化することが必要です。もっと気付いた人が平和を発信することが必要じゃないかなと思います。僕はいまでもかなりの数の年賀状を出したり、FAX通信やホームページを出すようにしています。
 平和フォーラムにはそれ以上のことを期待しています。とくに地方の力をどうつくるかです。政党中心のとりくみではどうしても弱いし、色々な人が入りにくいですね。多数派形成の結集軸になってほしいと思います。

──平和フォーラム・原水禁の取り組みの中で、特に印象に残っているのは何ですか。
 瀬戸内寂聴さん、坂本龍一さん、立松和平さんたちが呼びかけ人や賛同人となった、2001年8月の第1回「メッセージfromヒロシマ」です(写真上)。その前から広島で行なわれていた大規模な子どもの集会をヒントにしたものですが、新しい人たちに広げたり、今までにない人たちとの関わりをつくっていく発想が重要だと思います。

──最後にこれからの抱負についてお聞かせ下さい。
 戦争と平和についての自治体史の検証ですね。これまで調査・整理する人たちが高齢化し、少なくなっています。これを継ぐ人たちをつくっていきたいですね。福島では県教組がまとめた県史があって、それが地域の自治体史のなかにも活かされています。とくに自治労と日教組がしっかり受けとめてもらえると嬉しいですね。

〈インタビュ─を終えて〉
 意気軒昂!私たちの大先輩は、故郷の福島で元気いっぱいでした。戦死した父親への思いを、平和への運動の力にしてきた佐藤さんは、だからこそ、戦争を知らない世代だけになる時代への危機感を一層強めていらっしゃるように感じました。平和運動の中にある問題点を、そこにいたものならではの視点から語っていただきました。まだまだ、言い足りない部分もあったようです。靖国問題、強制連行の問題へと、熱い思いを感じました。これからも厳しい視点からの発信をお願いします。
(藤本 泰成)

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本土復帰37年、変わらない沖縄の米軍基地負担
5・15平和行進 基地のない平和な島を!

 沖縄県民と5月15日
沖縄平和運動センターの呼びかけで今年も、5月14日から17日の日程で、5・15平和行進が開催されます。
 アジア太平洋戦争末期の1945年3月から沖縄で日米両軍の死闘が各地で繰り広げられ、6月23日に戦闘は終了します。本土では広島や長崎に原爆が投下され、主要都市は空襲を受け、多くの市民が犠牲になりました。しかし日米両軍による地上戦や、日本軍による県民殺害、軍の強要による集団死、戦闘終了後の収容所生活を経験したのは沖縄県民だけです。沖縄戦では県民50万人のうち15万人が犠牲になりました。
 1951年9月8日、日本は連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、日本は独立を回復しました。ところが、沖縄は日本から切り離され、引き続き米国の統治を受けることになりました。日本の法律は適用されず、米軍の土地接収も続き、拠点にされてしまったのです。朝鮮戦争やベトナム戦争では、米軍は沖縄から出撃していきました。米兵による性暴力、殺人、強盗も多発しましたが、米兵の罪を問うことはできませんでした。
 こうした中で、沖縄では本土復帰運動が大きくなりました。日米政府は沖縄の闘いを止めることはできず、ついに1972年5月15日、沖縄は日本に復帰しました。沖縄県民が期待した本土復帰は、戦争を放棄した「平和憲法のもとへの復帰」でした。しかし本土復帰後も、米軍は沖縄駐留を続けました。接収された軍用地が、返還されることもなく、米軍による事件・事故も無くなりませんでした。沖縄県民にとって5月15日とは、見せかけだけの本土復帰が行われ、米軍による新たな沖縄支配が始まった日なのです。

SACO合意と在日米軍再編


昨年の平和行進の様子(08年5月・読谷村)

 日本に駐留する米兵の総数は、約50,000人で、このうち沖縄には約23,000人が駐留しています。また在日米軍基地面積の約75%が沖縄県に集中し、沖縄県面積の約10%を米軍基地が占めています。
 1995年9月、3人の海兵隊員が12歳の少女に性暴力をふるう事件が発生しました。県民の怒りは爆発し、10月には8万5,000人が参加した「県民総決起大会」が開催されました。県民の怒りが安保を脅かすことを恐れた日米政府は、沖縄に関する特別行動委員会(SACO)を設置して基地の整理・縮小を検討、96年12月に普天間基地の返還を含めた最終報告を発表しました。
 ところが普天間基地の返還は、同じ機能を持つ基地を県内に新設することが条件であり、その候補地が名護市辺野古とされたことから、辺野古現地では住民や市民団体、労組が一体となった反対運動が沸き起こりました。2007年5月、日米政府は在日米軍再編で合意しました。合意の中には、沖縄の基地負担軽減という言葉が何度も出てくるのですが、実際の内容は沖縄の米軍基地を固定化するものでした。

私たちの力で在沖米軍基地の撤去を
 昨年12月、米軍基地キャンプ・ハンセンに隣接する金武町で、車のナンバープレートに軍用銃弾が突き刺さっているのが発見されました。県警は米軍の銃弾と断定しましたが、米軍は否定しています。今年1月からは空軍嘉手納基地に最新鋭戦闘機のF22が一時配備され、国内をはじめアラスカや韓国から米軍機が飛来して空中戦訓練を行っています。4月3日には、米海軍艦船2隻が市長の拒否にもかかわらず、石垣島の港に強行入港しています。4月4日には那覇市内で、米兵によると思われるひき逃げ事件が起きました。
 衆議院では4月14日、普天間基地の辺野古への移設を米国に約束する、「海兵隊グアム移転協定」が承認されました。サンフランシスコ講和条約に際して、日本は沖縄を切り捨てることで戦後の経済的繁栄を手に入れました。いままた日本は、沖縄を切り捨てることで米国との同盟関係を強化しようとしているのです。
 こうした中で行われる今年の平和行進に参加し、沖縄の人々と連帯して、日米政府の進める沖縄米軍基地の固定化に反対し、基地の撤去を実現しましよう。

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海上自衛隊ソマリア派遣と「海賊対処法案」の問題点
戦後初めて自衛隊の戦闘行為の危険性も!

自衛隊法に違反し他国の船を護衛
 
「ソマリア海自、外国船から救援要請…大音響で海賊追い払う!」─これは、3月14日に広島・呉基地を出港した護衛艦2隻のうち、「さみだれ」が不審な小型船に追われるシンガポール船籍のタンカーの救援要請に応じて、大音響で追い払ったという記事です。各社一斉に報じられました。自衛隊法82条の海上警備行動では他国の船舶を護衛することは出来ません。海上自衛隊は、派遣の最初から派遣の根拠法に違反する事態を起こしています。
 麻生内閣は閣議決定のみで、海上自衛隊を武力行使も予測される海外に派遣するという重大事を、民主的手続きもなく安易に実行しました。不審船からの攻撃はなかったとのことですが、もしも、反撃してきた場合はどのような事態に発展したのかと考えると心胆を寒からしめるものがあります。

「専守防衛」を逸脱する「海賊対処法案」


海上自衛隊派遣に反対し座り込む広島平和センター代表者等
(3月13日・広島平和公園)

 平和フォーラムは、自衛隊法82条の海上警備行動を援用して、護衛艦をソマリア沖に派遣し海賊対策にあたることは違憲であると主張してきました。現憲法下における自衛隊は、これまでの政府解釈で言えば「専守防衛」に限定されるものです。そうしたことからも、82条は日本の領海内での活動に限定されるべきで、現にこれまでの2回の発動(1999年の能登半島沖不審船事件と2004年の漢級原子力潜水艦領海侵犯事件)も領海内での活動でした。防衛省も平和フォーラムとの話し合いの中で、自衛隊法の援用での海外派遣には無理があるとしていました。そのため、政府は「海賊対処法」を新たに制定するとしているのです。
 平和憲法の下で、自衛隊が海外で活動するという基本的問題を除いても、与党の「海賊対処法案」は、1)海上自衛隊の海賊行為への対処は、内閣総理大臣の命令により、承認時と終了時に国会へ報告を行う、2)これまでの正当防衛・緊急避難という警察官職務執行法7条の規定に加えて、不審船が船舶へ著しく接近することを制止するにあたり、他の制止措置に従わない場合は武器の使用を可能とする、という大きく二つの問題があります。
 戦後まもなく成立した自衛隊は、成立時から今日まで、専守防衛の枠組みの中で、人に対して一度も銃の引き金を引いたことがありません。戦うことのなかった名誉ある戦力と言えます。しかし、民間船舶の護衛という中で、戦わざるを得ない状況が招来することが予想されます。海上自衛隊の早期撤収を求めるとともに、「海賊対処法」の成立を許してはなりません。

平和憲法のもとでの国際貢献を
 今回の2隻の護衛艦では、現場を航行する日本関係船舶の約1割ほどしか護衛することが出来ないとされています。これまでの考え方から逸脱し、憲法に反してまで新しい法律をつくり、多くの反対の声を無視しても、それだけの効果しか上げられないとしたら、実は海上自衛隊を海外展開させる口実にすぎないと批判されてもしかたないものです。
 3月8日付け朝日新聞の「耕論」の欄で、ソマリアを知るフォトジャーナリストの谷本美加さんは、「海上での警戒や取り締まりで(海賊問題を)解決できると思いません。ソマリア国内には海賊になるしかないような予備軍がいくらでもいるからです」と主張されていました。アフリカの最貧国であるソマリアは、国土全域を掌握する政府がなく、群雄割拠の状況で国民の生活は厳しい困窮にさらされているのです。
 平和フォーラムは、この問題の根本的解決がソマリア国民の生活支援にあると主張してきました。ソマリア海賊対策の問題を、平和憲法が要請する国際貢献とは何かを改めて考えていく機会とするべきです。加えて、「専守防衛」という自衛隊のあり方が、平和国家として先の戦争から立ち直ろうとしてきた日本の国際的理解にどれだけ貢献してきたか、そして東アジアの繁栄にどれだけ役立ってきたかを考えるべきです。

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消費者の視点に立った食品表示を
食の安全・監視市民委員会が提言


食の安全・監視市民委の食品表示学習会(08年11月12日・東京)

 政府は、今国会に「消費者庁設置法案」を提出し、「縦割り的体制を見直し、消費者行政を一元化する」としています。なかでも、食品表示制度は、規制の不整合の代表格です。平和フォーラムも参加している「食の安全・監視市民委員会」は、「さまざまな法律にまたがる食品表示の法律を一元化し、分かりやすいものとすべきだ」と主張してきました。同委員会は、行政の動きに呼応して、「食品表示法」(仮称)制定のための提言を行っています。その主要点を紹介します。

  1. 食品表示法を制定し、表示制度を一本化すること
    食品表示に関しては、「食品衛生法」「農林規格・品質表示法(JAS法)」「景品表示法」「計量法」「健康増進法」「薬事法」があり、所管官庁も法律の目的も違います。消費者にとっては、複数の法律を理解して購買行動に反映することは困難です。消費者・事業者にわかりやすい食品表示法を制定すべきです。
  2. 法律の基本理念を消費者主権に置くこと
     2004年の消費者基本法で、「安全の確保、選択の機会の確保、情報の提供、消費者の意見反映」などが消費者の権利として尊重されるべきであるとしました。この基本理念に沿って、食品表示制度は消費者重視へ修正し、消費者の権利として位置づけるべきです。
  3. 表示基準作成に消費者の意見が反映されること
     現行の表示基準作成は各省庁の審議会等で行われますが、審議会委員は政府が指定した消費者・事業者団体等の代表者などに限られ、消費者の意見が充分反映しているとはいえません。審議会委員の公募、公聴会の開催、申し入れ制度の導入などをすべきです。
  4. 違反事業者の罰則強化、効果あるものとすること
     現行では表示違反の是正の指示に従わない場合にのみ「公表」となり、効果がありません。また、実際に罰金が科せられることもほとんどありません。不当表示による損害賠償の課徴金制度などを設けるべきです。
  5. 回収命令・廃棄基準を導入すること
     現在、食品衛生法以外の表示違反の場合、回収は事業者の任意となっています。企業は広告やホームページなどで回収を呼びかけていますが、実効性は不明です。自動車におけるリコール制度などを参考に、回収・廃棄にあたっての事業者の責務を定めるべきです。
  6. 市場調査等の監視システムを強化すること
     監視システムを実効性のあるものとするため、行政・消費者による市場調査を充実したものとし、立ち入り調査などの制度を導入すべきです。
  7. 事業者間取引も表示の義務付けをすること
     現行の食品表示は、最終の商品を対象としています。しかし、原料が明確でなければ、最終商品の表示が正しく行われないことは、最近の原料偽装を見ても明らかです。事業者間の取引にも表示義務が必要です。
  8. 多様な取引も対象とすること
     いまの食品購入は店舗のみならず、通信販売やネット販売など多様化しています。これらの商品も店頭販売商品と同様に取り扱うべきです。さらに店頭でのバラ売りや外食なども表示の対象とすべきです。
  9. 使用したものを表示することを原則とすること
     「漂白していません」「遺伝子組み換え大豆を使用していません」「食品添加物を使用していません」等の表示がありますが、良いものであるかのような「優良誤認」を招く恐れがあります。これらの否定表示は禁止し、使用したもののみを表示することを原則とすべきです。
  10. 栄養表示を導入すること
     欧米ではすでに導入されていますが、日本では栄養素を強調する場合だけ規制の対象となっています。海外からの輸入品に栄養表示があっても、制度化されていないため翻訳されていません。食品の栄養表示を実施し、健康保持のための選択に役立たせるべきです。
  11. 製造年月日を導入すること
     賞味期限表示は、ガイドラインに基づき、事業者が任意に設定することができるので、虚偽の取締りが困難です。製造年月日表示は検証が容易です。
  12. 食品添加物と原材料は明確に区分すること
     現在、食品添加物は原材料の中に羅列され、見分けるのが困難です。本来の原材料と食品添加物は明確に区分して表示すべきです。
  13. その他の個別品目の表示について
     生鮮食品と一部の加工食品だけとなっている原料原産国表示の対象品目を拡大することや、遺伝子組み換え食品表示の対象品目を拡大すること等が必要です。

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韓国、ブラジル、アメリカの被爆者1,000人以上が提訴
在外被爆者集団訴訟に勝利し問題の完全解決を
在外被爆者支援連絡会 共同代表 平野 伸人

被爆者援護法改正─在外被爆者支援の大きな成果
 2008年12月15日の被爆者援護法の改正で、海外からの被爆者健康手帳の申請が可能になりました。これまでの在外被爆者支援活動が勝ち取った大きな成果です。そして、予想以上に在外からの手帳の申請が多くなされ、韓国からはもちろん、ブラジル、台湾、ボリビアなどからの申請と手帳の取得がなされています。
 本誌09年2月号で、韓国の在外公館で被爆者健康手帳の申請第1号になった、鄭南壽(チョン・ナムスン)さんのレポートが掲載されていますが、鄭さんはその後、被爆者手帳を取得することが出来ました。

在外被爆者が国家賠償を求めて勝訴


集団訴訟で弁護士が被爆者の聞き取り調査(08年11月・韓国)

 いま、在外被爆者裁判の集大成とも言える「国家賠償に基づく慰謝料請求集団訴訟」が取り組まれています。この訴訟は、07年11月の最高裁判決に基づいています。戦時中、徴用され、三菱重工業広島工場で働かされていた朝鮮半島出身の元徴用工46人が、国と三菱重工業を相手取り、強制連行・強制労働についての損害賠償請求を広島地裁に提訴した裁判です。さらに国に対しは、在韓被爆者を放置してきたことに対する慰謝料を請求しました。
 1999年の一審判決は原告の請求を退けましたが、2005年1月の広島高裁判決は「402号通達で被爆者援護法から排除されたことによって、原告らが受けた精神的被害に対する日本政府の賠償責任」を認め、日本政府が援護施策を講じず放置してきたことについて、一人当たり100万円の損害賠償の支払いを命じました。さらに、07年11月1日、最高裁第一小法廷は在外被爆者への手当支給を認めなかった旧厚生省の402号通達を違法とし、国に計4800万円の支払いを命じた広島高裁判決を支持し、国の敗訴が最終的に確定しました。
 援護行政をめぐる在外被爆者訴訟で初めて国家賠償を認めた判決で、「違法な通達のせいで被爆者健康手帳の交付や手当の受給申請を受けられなかった」と判断し、「国の担当者は通達の解釈を検討する注意義務を怠った。これによって援護措置の対象外に置かれ、被爆による特異な健康被害に苦しみ、長期間にわたり不安を抱えながらの生活を余儀なくされた」と原告の精神的損害を認めました。

これからも続く国の責任追及
  これを受けて国は「訴訟を起こしてくれれば和解する」と主張しました。どこまでも自らの誤りを認めようとしない日本政府らしいやり方です。そのため、昨年来、ブラジル・アメリカについで韓国の被爆者も相次いで大阪地裁、広島地裁、長崎地裁に提訴しました。現在までに原告は1,000人を超えています。
 裁判は多大の労力を要します。しかし、被爆者はどこにいても被爆者です。日本を出国すると被爆者援護法に基づく健康管理手当が受給できなくなるとした旧厚生省の402号通達は違法であり、違法な通達によって援護を受けられなかったことにたいする国家賠償はきちんとなされなければなりません。
 過去への補償という面において、運動の到達点ともいえるこの集団訴訟に勝訴し、在外被爆者問題の完全解決のための道筋をつけなければなりません。このことは、日本の戦争責任、戦後責任の一端を果たすことにもなるものです。訴訟は、早ければ4月下旬にも広島で初めての和解協議に入る予定です。

注:402号通達とは、旧厚生省が1974年7月に出した公衆衛生局長通達のこと。旧原爆特別措置法では「日本に居住関係を有する被爆者に対し適用されるもので、日本の領域を越えて居住地を移した被爆者には適用されない」と規定していました。被爆者援護法や旧原爆二法(原爆医療法・特別措置法)は本来、対象となる被爆者の居住地を規定していませんが、この通達により、在外被爆者が来日して手続きをしても、出国すると手当が打ち切られる状態が続きました。「被爆者はどこにいても被爆者」と判断した2002年12月の大阪高裁判決が確定したのを受けて、国はこの通達を廃止しました。

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山口県上関原発の建設計画阻止へ全国の支援を
迫る建設予定地の埋め立て・着工を許すな!
原水爆禁止山口県民会議 議長 岡本 博之

延期を重ねてきたずさんな計画
 中国電力による山口県熊毛郡の上関原発建設計画は、1982年の計画浮上から27年が経過しました。2001年6月には電源開発基本計画へ組み入れられました。当初計画では、最大出力275万キロワットで、1号機が2007年着工、12年完成、2号機は2010年着工、15年完成の予定でした。
 その後、計画は何度か延期されてきましたが、昨年、建設予定地の海面14万㎡を埋めたてる公有水面埋め立て免許が県によって交付されてしまいました。さらに今年1月には、原子炉設置許可申請に向けた地盤の強度に関する詳細調査が終わりました。しかしその後、中国電力は、08年度内に原子炉設置許可申請書の提出をめざしていましたが、データ解析などの遅れで09年5月以降に国に申請する予定としています。
 また、3月27日には、中国電力は2009年度の「電力供給計画」を発表し、その中で、上関原発計画について、2号機の着工をさらに2年延期することとしました。その結果、2号機は2015年度着工、運転開始は2020年度となりました。1号機は2010年度着工で、2015年度運転開始の予定とされています。
 延期の理由は、これまでの計画では1号機と2号機の工事が重なり、敷地が狭く作業がしにくく、安全確保が難しいことによるものでした。そうしたことは最初から分かっていることであり、いまさらそのような基本的なことで計画の延期がなされること自体、ずさんな計画であることを表明したものです。この背景として、世界的な景気後退の影響による電力需要の低迷があり、巨額の費用がかかる原発建設は先延ばししたいという、電力会社の事情も取りざたされています。
 あらためて「ずさん」と「矛盾」が噴出しているのが上関原発建設の現状です。いずれにしても、今年から来年にかけて上関原発をめぐる攻防がひとつの焦点になってくることは確かです。

全国の闘いの経験交流で反撃の陣形を


上関原発のボーリング調査反対行動(06年6月)

上記のような状況を受けて、原水禁山口県民会議や「上関原発を建てさせない祝島島民の会」「原発いらない山口ネッワーク」の上関原発計画に反対する現地3団体は、3月6日に山口県柳井市において「上関原発建設計画に反対する全国活動者会議」を開催しました。この間、現地3団体を中心に原発建設計画の白紙撤回を求めて様々なたたかいを続けてきましたが、今後のたたかいを一層強固にし、計画の白紙撤回を実現するために、全国の知恵と力を貸りたいとの思いで開催したものです。当日は、各地の原水禁や地元上関町、市民グループなど中国・九州地方を中心に24団体約40人が参加して、上関原発建設計画の阻止に向けた今後の活動について話し合いを行いました。
 会議では、1)まもなく「原子炉設置許可申請」の提出が想定されることから、全国的な署名活動を実施すること、2)現在進行中の訴訟(埋め立て免許取消・差し止め訴訟)に対する財政支援としてのカンパを実施すること、3)10月25日(反原子力の日)に現地での大規模な集会を実施することなどを確認しました。

全国署名を10月2日に提出して交渉
 特に全国署名については、全国の原水禁組織や各労働組合に協力をお願いして展開し、10月3日に東京・明治公園で開かれる「NO NUKES FESTA 2009」に合わせ、前日の2日に政府に提出して交渉を行う予定です。
 現在、中国電力は5月以降にも原子炉設置許可申請を国に提出するとしており、2010年工事着工、15年の運転開始を目標に動きを加速させようとしています。建設予定地の埋め立て工事着工も間近に迫っています。これに対して、早急に闘いの強化と運動の全国化が求められています。建設反対闘争に対し、全国の皆様からの大きな支援をお願います。

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PAC3は役に立たない
膨大なミサイル防衛費の問題

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は4月5日に「人工衛星」を打ち上げ、1段目の切り離しは成功しましたが、2段目以降は太平洋に落下した模様です。国連安保理事会は、新たな制裁決議を求める日米に対して、中国・ロシアが6ヵ国協議進展の立場から反対し、結局、議長声明に落ち着きました。北朝鮮の核問題は改めて考えたいと思いますが、今回は日本政府が大騒ぎした、迎撃用ミサイル・PAC3問題を取り上げます。

ミサイル防衛の仕組みとPAC3

 まず日本のミサイル防衛(MD)システムを見てみましょう。右図にあるように、1)弾道ミサイルの発射を早期警戒衛星で探知し、それらの情報は米軍を経て日本に提供される。2)日本は米国からの情報提供をうけ、航空自衛隊の警戒管制部隊がレーダーでミサイルを探知し、イージス艦の迎撃ミサイル・SM3(スタンダード・ミサイル3=高度200~300キロ)を発射し、大気圏外で迎撃する。3)SM3が命中しない場合、地上近くで地対空誘導ミサイル・PAC3(パトリオット3=高度200キロ以内)を発射するという仕組みです。
 しかし、これら迎撃ミサイルは、相手ミサイルに体当たりして破壊する仕組みであるため、スピードの速いミサイルに衝突するのは極めて困難です。北朝鮮の弾道ミサイルの場合、発射から着弾までの時間は8分ほどしかなく、しかも落下速度はマッハ10(単純計算で音速=331.45mの10倍)近くあります。迎え撃つPAC3のスピードを防衛省は明らかにしていませんが、PAC1でマッハ5でしたから、北朝鮮のミサイルが同等もしくはそれ以上であれば、体当たりするのは不可能です。
 また、おとりのミサイルが発射されても識別は困難で、まして複数弾頭(MIRV)ミサイルで攻撃されれば、完全にお手上げです。
 日本政府は昨年9月に米ニューメキシコのミサイル射爆場でPAC3を2発発射し、成功したと発表しましたが、朝日新聞は「標的の速度を実際より遅く設定し、発射時刻や飛来方向も事前に決められた状況で実施した」と報じています。またSM3についても、一昨年12月にハワイ沖で発射実験を行い成功したと発表しましたが、昨年11月のハワイ沖の実験は失敗しました。原因は発射時間を事前にイージス艦に知らせず、難易度を高くして実験したためでした。

PAC3ミサイル1発に5億円、全部で6兆円超
 日本政府は現在までに第1高射群(埼玉・入間、千葉・習志野、茨城・霞ヶ浦、神奈川・武山)、高射教導隊・第2術科学校(静岡・浜松)、第4高射群(岐阜・各務原)にPAC3を配備しました。さらにこの夏までに第4高射群の残りを、滋賀・あいば野と三重・白山に配備し、2010年度中に第2高射軍を福岡の春日・築城・高良台に配備する予定です。第3高射群(司令部は千歳)、第5高射群(司令部は那覇)、第6高射群(司令部は三沢)は、10年以降に考えるとしています。
 1高射隊は発射機5基を標準としていて、1発射機で16発の発射ができます。しかし、PAC3は射程が短く、守備範囲が狭いのです。防衛省は明らかにしていませんが、せいぜい半径20キロまでといわれていて、命中しないうえに守備範囲が狭くては、いざというときに役に立たないでしょう。
 ミサイル防衛には膨大な費用がかかります。当面の費用は1兆円といわれていますが、最終的には6兆円を超えるでしょう。09年度のミサイル防衛関連予算は1,112億円で、さらに日本は、独自に早期警戒衛星の打ち上げをめざしていて、その宇宙開発利用予算として約633億円を計上しました。
 防衛省は年に1回、米国でSM3、PAC3の発射実験を行っていますが、この実験費用も膨大です。昨年ニューメキシコ州の射爆場で行ったPAC3の実験では、一発に約5億円、全体で23億円を米軍に支払っています。SM3は一発20億円以上もします。
 また06年度から12年度にかけて、次世代のイージス艦搭載ミサイルの日米共同開発が始まり、開発総額も当初は約10億ドルでしたが、開発期間が2年延び、費用も3倍の約30億ドル(3,000億円)になる予定です。この次世代ミサイルは、全体に大型化されるため、実戦配備のときにすべて新しく配備し直す必要があります。こうした膨大な経費がかかるミサイル防衛に反対していきましょう。

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【DVDの紹介】
沖縄戦は消せない
「集団自決」と教科書検定
09年1月/全港湾労組、全日建運輸連帯労組、全国一般全国協制作

 「なぜ歴史を変えようとするのか」─沖縄の渡嘉敷島の集団自決から生還した吉川嘉勝さんの重い言葉が胸に響きます。08年度から使われる高校歴史教科書に対し、文部科学省は沖縄戦における「集団自決」への日本軍関与を否定した検定意見を付け、記述箇所を削除・修正させました。沖縄県民の怒りは、07年9月29日の11万人もの県民抗議集会(写真)となりました。
 平和フォーラムも検定意見撤回を求める署名に取り組み、52万名余を集めて文科省につきつけました。こうした動きに、文科省は一定の訂正を認めましたが、検定意見そのものは撤回しないままとなっています。
 このような中で、集団自決とは何だったのかを問おうと、全港湾、全日建運輸連帯、全国一般全国協の3つの労働組合は、戦争体験者の証言などを収録した学習用DVD「沖縄戦は消せない」を1年かがりで制作しました。
 前出の吉川さんは当時6歳。父親や兄をはじめ、島民700人中329人が自決で亡くなった現場で、「兵器軍曹が手榴弾を配り、1つは敵に投げろ。1つは自決しなさいと言われた」と証言します。「まさに地獄のように手榴弾が爆発した」。しかし、「手榴弾を捨てろ。生きられるうちは生きるべきだ」という母親の言葉で我に返りました。「母はかろうじて皇民化教育に洗脳されていなかったためではないか」と語ります。
 同年の照屋政雄さんは、現在のうるま市にあるヌチシヌチガマに住民300人が避難していたところに、日本軍が逃げ込んできたために状況が一変したと言います。「泣き声で米軍に知られることを恐れた兵隊が、赤ん坊を殺そうとした時、母親が泣き声を止めようとして我が子を圧し殺してしまい、その母親は気が狂ってしまった」と、重い口を開きます。「住民を守らず、犠牲にする」(照屋さん)という軍隊の本質が露わになっています。
 こうした歴史を否定しようとする教科書修正指示。県民集会で壇上に立った高校3年生の津嘉山拡大さんは、「おじい、おばあの話がウソだというのか」と鋭く問いかけています。「歩くことで知る本当の沖縄」─今年も5.15平和行進が行われます。
 制作した労組ではDVDの上映運動を呼び掛け、制作費へのカンパ協力(3000円)を募っています。詳細は各労組または平和フォーラムまで。
(市村 忠文)

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【映画評】
荒木栄の歌が聞こえる
(09年/日本/港健二郎監督)

 福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にあった三井三池炭鉱。約50年前、三井三池争議という歴史に残る大きな労働争議がありました。”労働者作曲家”荒木栄は大牟田に生まれ育ち、争議の最中も三井三池で働きながら歌を作り続け、1962年に38歳の若さで亡くなりました。栄が短い生涯の中で残した70曲あまりの歌は、闘う労働者や弱い立場にある人たちを励まし続けました。この映画では、そんな栄が生きた足跡を歌手のhizukiさんと監督・港健二郎さんが、大牟田や関係者を訪ねて話を聞きながらたどります。
 今、巷にあふれる歌は、メディアを通じて戦略的に届けられるものがほとんどです。しかし、栄の作る歌は苦しみ闘う労働者の中から口伝えで広がりました。76年生まれの私でも何となく知っていた「がんばろう」や、沖縄返還闘争時によく歌われたという「沖縄を返せ」に、私自身は悲壮感や戦闘性よりも肯定のエネルギーを感じます。ヒットチャートにのぼる歌やロックなどに慣らされている耳に、栄の作品は灸の熱のような心地よさと緊張を伴って迫ってきます。
 沖縄民謡を歌い続ける大工哲弘さんは「沖縄を返せ」を「沖縄へ返せ」と変えて歌っているそうです。沖縄はもう返っているではないかと。基地が固有の土地を奪い、米軍の横暴などによって、人々の尊厳が奪われている状況の中で、この歌は内包する意味合いも変化させながら歌い継がれているということでしょう。
 国や企業が人々に対し、”自己責任”を隠れみのに果たすべき責任を放棄している、そんな今を生きる私たちにも、荒木栄の肯定のエネルギーは有効なものだと感じました。
(阿部 浩一)
 映画ホームページ http://www.arakisakae.com

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投稿コーナー
米軍基地拡張反対・砂川闘争から50年
日米政府の介入で破棄された「日米安保条約は違憲」の伊達判決
砂川事件元被告 土屋 源太郎


立川基地内測量阻止闘争で警察隊と対峙
(1957年7月8日)

 1959年3月30日に砂川事件裁判で「日米安保条約は違憲」として、拡張反対のために基地侵入を問われていた被告全員を無罪とする東京地裁判決(伊達秋雄裁判長)が出されてから、今年で満50年を迎えました。

地裁判決を覆し、最高裁が米軍駐留認める
 砂川闘争は、東京三多摩・立川の米軍基地拡張のため、5万2000坪の農地と民家120軒を接収するという日本政府の決定に対し、地元砂川町(現在は立川市)が、町ぐるみで反対同盟を結成し土地の強制収用に対抗し、これを支援する総評、全学連などとともにたたかった基地反対闘争です。1955年から57年にかけて、砂川では三次にわたって、反対同盟と支援団体のデモや座り込み部隊と警官隊とが衝突しました。第三次では、基地内の民有地の強制収用のための測量に対して、基地内に立ち入ってたたかった数百人の労働者と学生のうち23名が逮捕され、7名が日米安保条約・行政協定に基づく刑事特別措置法違反で起訴されました。
 この7名の被告に対し「逮捕・基礎の根拠となる安保条約は憲法9条に反するので、全員無罪」という一審判決は、安保条約改定の作業を進めていた日米両国政府にとって大きな衝撃を与えました。両政府は、条約改定を進めるのに障害となる一審判決を早期に破棄すべく、二審を抜きにして最高裁へ跳躍上告を行い、最高裁長官に早期に合憲判決を出すよう圧力をかけました。その結果、9ヵ月も経ない同年12月16日の「安保条約・米軍駐留は合憲」とする最高裁判決が出され、翌60年の安保改定へとつながっていったのです。

マッカーサーによる政府・最高裁への圧力


基地拡張計画の対象とされた砂川の畑の前を通る米軍機

 昨年4月に、ジャーナリストの新原昭治さんがアメリカ国立公文書館で、伊達判決に驚いた当時のマッカーサー駐日大使が外務大臣、最高裁長官などに働きかけたことを国務省に報告する公文書14通を発見しました。それによると、大使は、判決当日の夕方、国務省に第一報を送り、翌朝8時に藤山愛一郎外相と会い、日本政府がいきなり最高裁に跳躍上告することを、その日9時の閣議で決めることを確約させています。さらに、4月22日には内密に田中耕太郎最高裁長官(当事件担当裁判長となった)と会い、「本件審議を優先させるが判決までには少なくとも数ヵ月はかかる」と言わせて年内結審の約束をさせています。
 アメリカ政府は日本の行政のみならず司法にも圧力をかけ、日本の最高裁長官も憲法が定める三権分立を犯して米国の言いなりになったのです。最高裁判決を出した直後、田中最高裁長官は記者会見で「何者にも干渉されず厳正に審理を進めた結論だ」と語ったのがまったくの虚偽であったことを、この公文書は明白にしています。

公文書開示で謀略の事実を明らかに
 私たち元被告は、アメリカでこれら公文書の存在が明らかになった今、日本側にも存在するに違いないこの事件にかかわる公文書の開示を、3月5日に内閣府、外務省、最高裁に対して正式に請求しました。この開示請求は、憲法9条を守り安保条約を破棄するひとつのたたかいであるとともに、政治・行政情報の公開と司法の独立を求める運動です。私たちは、今日も続いている半世紀前の日米政府の謀略の事実を、ぜひ多くの人に知ってもらいたいと考えています。

〈開示請求人連絡先〉
土屋源太郎 〒420-0911 静岡市葵区瀬名3-11-8

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