2010年、ニュースペーパー

2010年01月01日

ニュースペーパー2010年1月号

【インタビュー・シリーズ その41】
命を大切にする人間の英知を信じたい
日本原水爆被害者団体協議会 代表委員 坪井 直さんに聞く

【プロフィール】
1925年生まれ。20歳のときに、広島工専(現在の広島大学工学部)への通学途中、爆心地から1.2kmの地点の広島市役所付近の路上で被爆。1986年に広島市立城南中学校を最後に教員を退職。今でも後遺症と見られる貧血やがんと闘っている。現在まで数回の入退院を繰り返しながら、広島を訪れる修学旅行生などに自らの被爆体験を語るとともに、海外でも平和に関する講演や活動を続けている。日本原水爆被害者団体協議会代表委員で、広島県原水爆被害者団体協議会理事長。

──被爆されたときの状況を話してください。
 私は20歳のとき、市役所のすぐ東側にあたる広島市富士見町で、通学途中に被爆しました。爆心地から、約1.2キロのところで、建物疎開のために何も無いところを歩いて通学していました。そのとき、カメラのフラッシュを巨大化したような光が発生し、強い圧力を感じ、目と耳をふさぎました。視界が全部光だったので本当に驚きました。そして、10メートルくらい飛ばされて気絶しました。気づいたら真っ暗でした。いま生きているのが不思議なくらいです。
 原爆というものを知りませんでしたから、すぐ近くに大きな爆弾が落ちたのだと思いました。その後、街中では目玉が出ている女学生、腹から腸が出ている女性、骨が見えている状態でも動いている人を見ました。まっ黒こげの人もざらです。よく覚えているのですが、アスファルトが今のものとは違ってコールタールですから、道が溶けて歩きにくく、みな裸足です。靴を履いている人はみんな市外から来た人です。また、道路はガラスとか瓦、釘だらけです。釘を避けて逃げた記憶はあるけれど、ガラスはかなり踏んだようで、足は血だらけになりました。火のついたシャツを脱ぎ捨て、上半身裸で逃げました。どこか災害を受けていないところはないだろうかと探しました。
 薬がどこにあるのか、医者が居るのかもわかりません。最初は死んだ人をみると、気の毒だなあと思いました。しかし、昼頃になると頭がおかしくなり、人間が死んでいることにも情が湧かなくなりました。不思議な感覚です。だから、戦争に行った人は人を殺すのが何ともなくなると言いますが、死体をたくさん見ると感覚がなくなるのです。あわれみの心が湧いてこなくなり、物が転がっているという感じでした。
 そのとき、10人くらいが乗れる救援のトラックがやってきて、「このトラックに乗れるのは若い男性だけだぞ」と言いました。子どもや女、老人はダメで、戦争に役立つ人だけ助けましょうというわけです。これが軍国主義というものです。彼らは勝つか負けるかだけが問題なのです。小さい子どもがトラックに手をかけると突き飛ばされるのです。
 ここを私は強調したいのです。戦争に役立つ人だけ人間扱いし、あとはゴミと一緒だから、どこでも死んでくださいと言うのと同じなのです。もちろん、死ねとは言わず後回しという言葉を使いますが同じ事です。だから、戦争なんて絶対いけません。命を傷つけるようなことは絶対許せません。原爆だけではなく、テロでも何でも承知できません。戦争だけでなく日常生活でもそうです。

──40日間、意識がなくなったということですが。
 そうです。40日目に母親の「直、気がついたか」という声が聞こえました。見れば私の家です。ところが、私は軍国教育を受けていますので、「お母さん、日本は戦争に負けたと言っているけれど、それはアメリカのデマだよ。早く戦場へ連れていってくれ」と、母親に怒鳴り散らしたことはよく覚えています。私の兄が戦争へ行って、10月過ぎに帰ってきて、「直、俺が帰ってきているだろう。戦争は終わったのだよ」と言われて、だんだんに「本当に負けたんかの」となっていきました。しかし、それを聞くたびに自分が何をしていいかわからなくなってしまい、母親と何度ケンカしたかわかりません。
 また、貧血や下痢、脱毛が続き、ウジが湧きました。ちょっとしたことでかぶれたり膿んだりしました。やけどには、びわの葉や柿の葉を煎じたものや灸がいいなどと聞いていろいろ試しました。

──敗戦の日も意識がなかった坪井さんにとっての終戦というのはいつだったのでしょうか。


被爆者証言をする坪井さん
(07年8月・核兵器廃絶平和ヒロシマ大会)

 言い方は難しいですが、”落ち着いた”と言えるのは30年くらい経ってからです。30年くらいで、やっとアメリカを許すというか、乗り越えるというような気になってきました。それまでは「いつか見ておれ」という軍国青年の思いもなかなか強かったのです。その気持ちと重ね合って終戦という思いに至りました。自分が夢見た人生とは全く別の道になってしまったのですが……。

──ご自分で被爆体験を語りたいと思って教員になられたのですか。
 そうではありません。体調が悪いからです。その頃の教員は休日が多く、春夏秋冬の休みや、農繁期休みなどもあるので、体が休めました。最初はそれだけの気持ちでした。
 30年経って気持ちの整理がついて、このことだけは伝えなければという、大げさな思いではないのですが、子どもたちに「自分はこういう目に遭ってきたのだ」「こんなに苦しい目に遭ってもがんばっているぞ」ということを伝えながら、教育的な話もしました。

──「教え子を戦場に送るな」ということも、この頃はあまり言われなくなりました。
 寂しいですね。学校だけではなく、労働組合であれ、会社であれ、みんな同じように戦争のことを語らないような気がして仕方ありません。あまりにも今は刺激が多すぎて、自分というものがまとまらないのではないでしょうか。だから組織としてもなかなかまとまらないのではないでしょうか。昔だったら「俺一人でもやるぞ」というのがありましたが、今はないでしょう。刺激に迷わされているのではないでしょうか。私はもっとシンプルであっていいと思います。「平和でメシが食えるのか」と言われれば、「戦争でメシが食えるのか」と言いたくなります。平和なら平和に徹する。一人一人の生活が守られなければ平和もつくれないです。

──被爆後64年生きて来られた被爆者の方々は高齢化しています。しかし、地球上にはまだ核兵器があります。今年2010年には核不拡散条約(NPT)の再検討会議が国連であります。今後の世界はどのように動くと考えていますか。
 大きなことは言えませんが、人間の知恵というのか、人を信ずる心、これがモノを言う時代が来ると思っています。その走りが、今のオバマ米大統領ではないでしょうか。今まで黙っていた国が平和や環境問題、人間の命を大事にしようという方向に行くでしょう。どんなことがあってもあきらめてはいけません。ネバー・ギブアップ。これを皆さんが徹底していただければ実りが出てくると思います。
 運動は攻めるというより守りということが多いと思いますが、しかしいつかは峠を乗り越えられます。平和問題をやっていると、ついあきらめてしまいがちですが、そういう気持ちになってはいけない。これは私の生き方です。
 そんなに人間は愚かではないと思っています。人間はいい知恵を持っているのです。人間の命を大切にしようと、みんなが思えるならば、国境なんていらないという話にもなります。政治や経済、教育や宗教、歴史や文化等の違いは互いに認め合い、その上で障害を乗り越える人間の英知を信じていきたいと思います。

〈インタビューを終えて〉
 20歳の坪井さんは、一瞬にして地獄絵の中に引き落とされました。何度も生死の境にあって、塗炭の苦しみを味わい、長じては、被爆者としての差別に悩みました。重たい人生は、決して自分が望んだものではありません。そのことは、終戦という意味を受け入れるのに30年かかったとの言葉に表れています。インタビューの間、坪井さんの内に秘めた膨大な葛藤に思いを馳せました。「ネバー・ギブアップ」──そうでなくてはなりません。
(藤本泰成)

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特別座談会
「2010年・韓国併合100年と私たちの課題」
東海林 勤(牧師・高麗博物館前理事長)/和田 春樹(東京大学名誉教授)/清水 澄子(平和フォーラム副代表)

強制された韓国併合の歴史を明確に─和田


写真左から清水澄子、和田春樹、東海林勤

清水 韓国併合100年についての率直な思いを。
和田 併合が民族の意思に反して強制されたことは歴史家の常識ですが、日本政府の公式の方針にはないのではっきりさせる必要があります。
 私が思うのは、ハワイ王政を武力で打倒して併合に道を開いた1893年の事件で、米国が100年後の1993年、クリントン時代に王権の打倒を違法としてハワイの先住民に対して謝罪する議会決議を採択したことです。日本でも韓国併合100年にあたって「鳩山首相談話」を出してほしいですね。
東海林 韓国の植民地支配の質について思います。キリスト者は日本でも韓国でも天皇制の下で神社参拝を強制されました。韓国では、これに決死のたたかいをしました。日本では、成り立ちから存在自体が天皇制の中での宗教という形をとらざるをえなかった面があり、自ら進んで侵略戦争に参加・加担し、神社参拝もしました。韓国・朝鮮に出かけて、神社参拝は国民儀礼で宗教ではない、信仰に反しない、イヤならあなたは国民ではないという役回りをしました。
 日本の韓国に対する支配は、朝鮮人であることを許さないことです。皇民化政策は人間の否定です。これがどこから出てきたか、韓国・朝鮮の人たちにどれだけ心の傷を与えたかと考え続けてきました。

キリスト者は教団総会で戦争責任を確認─東海林
清水 強制支配に対する抵抗は強かったですね。
和田 抵抗はずっとありました。併合前には高宗(コジョン)皇帝が抵抗して退位させられます。併合後も1919年には3.1独立運動という大きな民族運動が起こりました。日本の支配は35年間ですが、15年は戦争の時代でもあります。1億総決起とか1億玉砕とか言いますが、1億の4分の1は朝鮮人です。朝鮮人にとって何が苦しいかと言えばあの戦争です。朝鮮人を戦争の主体の側に強制的に組み込んだ日本の罪は重いもので、もっとも反省すべきことです。
 戦後20年経って日韓条約を結びますが、日本は植民地支配の反省をしていません。併合条約は合意によって結んだ合法的な支配という見解です。30年経った戦後50年にようやく村山談話で朝鮮植民地支配を反省しました。そのころには日朝国交正常化交渉も開始しましたが、20年経ても何も実現していません。いまでは朝鮮民族が加害者で、日本人が被害者だという意識が拉致問題を通じて日本にあふれている状態です。
清水 キリスト教に対する弾圧も強かったですね。
東海林 日本の圧政が強まるなかで、農村の小地主階級や、海外留学生の中からキリスト教は広がりましたが、「105人事件」(1911年)弾圧のように、当初から日本はキリスト教を警戒していました。
日本のキリスト者の反省は、日韓条約で日本が戦争責任を頑として認めず、韓国の人たちの非難が集中していた1965年に日本基督教団総会議長が訪韓して謝罪表明したことが出発点です。67年には教団の総会で「戦争責任告白」を確認しました。韓国だけでなくアジアのキリスト者が心を開いたのはこのときからです。
和田 キリスト者は早くに反省を表明したので、その後の韓国市民との結びつきは強かったですね。日本の運動は左翼的でどちらかというと北朝鮮が軸でした。日韓条約に対しても日米韓軍事同盟反対という立場で、条約によって植民地支配を正当化したというのは少数意見でした。その意見が、その後に韓国の民主化運動と交流していくことになりますね。
 戦争の責任でも、戦争は天皇や軍国主義者の責任で国民は犠牲者とよく言いますが、国民も戦争の先兵として悪いことをした責任があります。植民地支配になるともっと見えないので、誰かがやったことで自分は関係ないと思っています。日本の国民の責任でもあることを反省して、韓国・朝鮮の人たちに相対して人間同士の関係でも変化していかなければなりません。自分の問題として考えるようになったのは、65年以後で、70年代に韓国の運動が盛んになって、国会決議を求める運動など声が本格的に起きるのは80年代です。
東海林 われわれも65年に厳しく問われなければわかりませんでした。戦後23年も何をしてきたかです。
清水 韓国民主化運動に覚醒されましたね。
東海林 僕もそう思います。高麗博物館の取り組みで韓国民主化運動と私たちの関わりを整理しようと資料を見直したとき、改めてこういうことだったのかと思いました。韓国で民衆と知識人とが一体となって何を求めたかと言えば、人間の尊厳、人権です。その感覚が日本には欠けている。口で言えば簡単ですが、命がけの取り組みを韓国の人々に教わりました。

南北分断の歴史を日本は利用してきた─東海林
和田 前に戻りますが、1950年からの朝鮮戦争は、日本人の意識にとっても、日韓関係でも、大きな意味を持ちました。非常に不幸な事件で、南北分断の固定化など新しい問題を作り出しました。アメリカの占領下だった日本人の感覚では、朝鮮戦争は対岸の出来事でした。隣国の戦争に横田基地から毎日B29が爆撃に飛び立ったり、戦争特需もありながら、主観的には離れたもので、後々に問題を残します。
東海林 朝鮮戦争当時の日本人の対朝鮮認識はないに等しいもので、日本国民でなくなると、もうまったく無視か、道具にしか思わない程度でした。
清水 旧日本軍の遺骨収集でも朝鮮戦争のときに、米軍の指示で朝鮮人のものは止めてしまいますね。
和田 年末からNHKで司馬遼太郎の「坂の上の雲」が放映されていますが、登場人物は日本人とロシア人と中国人で、朝鮮人は一人も出てこない。閔妃(ミンビ)殺害のことは出てきますが、閔妃自身は出てきません。朝鮮人の動きはみんなロシアの手先の動きだと見ているのでしょう。植民地支配が終わって、南北に分裂して、戦争となる中で、ますます朝鮮について考えなくなりました。逃げ出すのに非常に好都合な状況だったわけです。「坂の上の雲」は2010年をはさむ3年間の放映ですが、司馬さんの認識でいいのか議論を起こす必要がありますね。
東海林 日本では、分断を利用して、極論すれば金大中を殺していい、民主化しなくていい、軍政でいい、軍政は北と対峙する防波堤になる、稼ぐためにもいいという動きでした。
和田 そこを韓国は突破して民主化を実現し、金大中政権は北に太陽政策をとりました。ところが、いま日本では北は人権抑圧の国だということで、韓国は民主化しなくていいといっていた人たちが北朝鮮の民主化を言い、僕らになぜ言わないのかと言ってきているわけです。共産党政権のあり方の変化や、北の拉致・核開発問題など、現代史のすべての問題が凝縮されているわけです。しっかりした考えを持って建設的に方向を決めなければなりません。2010年については、NHKは韓国併合100年でも特集を組むとのことです。新政権も誕生したわけですから、問題の全体像がわかるようにしていくことが必要です。

東アジア共同体と日朝国交正常化へ─和田
清水 鳩山首相の東アジア共同体については。
和田 金芝河(キム・ジハ)さんにも会いましたが、韓国では鳩山さんに対する期待が非常に高いですね。鳩山さんの場合、対米関係を見直し、アジア重視ということがあるので、本気と受けとめられています。小泉さんが言ったときは誰も問題にしなかった。政治家が踏み出すと同時に国民各層でどうしていくか、東北アジアをどうするか議論していくことが必要です。僕の考えでは、東南アジアはASEANが共同体になろうとしているから、東北アジアは六者協議を基礎にして安保を中心にしたある種の協力体をつくる方向に進んで、その上で東アジア共同体に結びつけていったらどうかと思います。
 東北アジアは北朝鮮問題ですから、日本は100年経って国交を樹立していないことが課題です。鳩山談話を出して、植民地支配、併合を反省して、韓国との間では日韓条約2条で韓国側解釈を採用して統一する、北朝鮮とはその解釈を入れた日朝基本条約を調印して国交樹立に向かう、核や拉致、経済協力の問題は国交樹立後にというのが現実的だと思います。日本がイニシアティブをとって東北アジアの雰囲気を変えていくのでなければ、アメリカ頼みではどうにもならないと思います。
東海林 アメリカに対してもっとはっきりいうべきですね。日米同盟が基盤という枕詞は慎まないといけません。アメリカは覇権主義で、軍に牛耳られています。対テロ戦争も成功するはずがないことは見えています。アメリカに覇権主義を止めさせるよう、日本の100年の責任として言えば重みがあると思います。金大中さんは権力主義によらないで政権を代えることができることを示してくれました。どこの国も認めるような道義的な責任を北に示すことが大事です。
清水 植民地責任を改めて認識していく2010年にしていく必要性を痛感しました。ありがとうございました。

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沖縄の基地の縮小・撤去は新時代のあり方
新しい日米関係の構築を議論しよう!

沖縄県民の声が届いていない
 沖縄の普天間基地移転と辺野古の新基地建設問題で鳩山政権が揺れています。閣内不一致とあおり、早期決着を求める意見や日米同盟が危機に瀕するといった報道が目立っています。その中で、鳩山首相は「年内決着はない」との意志を表明しており、三党連立合意と、沖縄県民の声に沿った決着をめざすことが期待されます。
 しかし、09年10月に来日したゲーツ米国防長官は、恫喝ともとれる物言いで、早期に「辺野古新基地建設」に着手するよう迫りました。オバマ大統領との合意である「閣僚級作業部会」においても、ルース米駐日大使やグレッグソン米国防次官補などは「前政権との合意事項である現行案が唯一実行可能な案である」としています。このような米国の強硬姿勢は、「早期決着がないと日米同盟に深刻な影響をもたらす」との報道を誘引し、多くの議論がそのことを憂慮する方向に進んでいるように見えます。
 その一方で、日本国内の75%の米軍基地が集中する沖縄の声は届いていません。95年の県民大会や97年の名護市民投票、昨年の沖縄県議会における辺野古新基地建設反対決議などに表明される沖縄県民の思いに対し、国民的理解が進んでいるとは言い難い状況があります。

米国のご都合主義の主張


訴える伊波市長

 平和フォーラムは、この間、米軍再編や米海兵隊グアム移転問題に精通する伊波洋一宜野湾市長や、辺野古海域に住むジュゴンの保護に取り組む籠橋隆明弁護士などを招き、米軍再編にともなうグアム移転が辺野古新基地建設を前提としていないことや、ジュゴン訴訟勝訴によってキャンプ・シュワブに関わる工事着工が困難な情勢であることを明らかにし、国会内での政治勢力の結集に努めてきました。
 米国側の主張は、「米海兵隊グアム移転協定」が政府間の約束であり、米軍再編は一つのパッケージとして、海兵隊のグアム移転と普天間・辺野古の問題は決して切り離すことができないものと言っています。しかし、米軍再編の一環である米陸軍第一軍団のキャンプ座間への移転は、米国側の事情で頓挫する見通しです。12月9日の東京新聞は、「普天間見直し拒否 崩れる根拠」として、米国のパッケージ論はご都合主義であるとの批判記事を載せています。


2万1千人が集まった沖縄県民大会
(11月8日・宜野湾市)

 鳩山外交のブレーンとされる寺島実郎さん(日本総合研究所会長)も、「いま進めるべきは日米関係総体の再設計だ」として、「向こう岸にめざすものをはっきりさせないで普天間の決着はありえない」と朝日新聞のインタビューに答えています(12月8日)。12月7日に来日し、核問題で岡田外相と懇談した世界安全保障研究所代表のジョナサン・グラノフさんは、「日米間で重要なのは経済関係であり、この基地問題が日米同盟を危うくするとは考えられない」と述べています。

人間の安全保障の視点から論議を
 2010年は、日米安全保障条約が締結されて50年目の年になります。締結当時は、第2次大戦の敗北を色濃く引きずり、東西の対立構造や朝鮮戦争直後という世界情勢でした。現在の日米関係を取り巻く状況は一変しています。新政権の下、自らの安全をどのように考え、どのように確保していくのかを議論しなくてはならない時期に来ています。
 新しい時代には、新しい安全保障の考え方、新しい日米関係があるべきです。世界的な視野で、これまで以上にベターな日米関係を構築すべき時です。「人間の安全保障」の視点から、普天間・辺野古問題を含め、総合的に議論する必要があります。

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第41回食とみどり、水を守る全国集会の討議から
「食の安全」 「食料・農業政策」 「環境」─多彩な視点を提起

 平和フォーラムが農民団体や消費者団体とともに開催している、「食とみどり、水を守る全国集会」は、第41回を迎え、11月27日~28日に島根県松江市で開催しました。世界的な食料需給のひっ迫や国内の食料自給率の低迷、食品偽装や安全性などの食の安全、国内の農林水産業の衰退、森林や水などの環境問題が深刻になっている事態に対して、どう運動を進めるかを中心に討議。特に、民主党を中心とした新たな政権が動き出す中で、食・みどり・水の重要性を改めて見直し、食の安全・安定、農林水産業の再生、持続可能な循環型社会をめざした政策のあり方も課題となりました。

消費者こそ食の安全に関心と行動を
 依然として、食品の産地偽装や原料偽装、輸入食品や特定保健用食品(トクホ)の安全性など、食の安全に対する不安・不信が続いています。これらの問題は、表示制度の不備、罰則規定や監視体制の不十分性、そして大量の輸入食料に頼る日本の食料・農業政策など構造的な要因が重なっているものと言えます。
 食の安全をめぐっては、こうした「食の不安」の背景にある食生活のあり方や世界の食をめぐる状況、さらに食育基本法や各地の事例などが討議されました。また、学校給食現場で働く栄養教職員からは地場産の農産物を給食に取り入れる取り組みの報告や、島根県吉賀町の地域ぐるみで環境保全を行いながら有機農業の推進や消費者との提携、山間地の維持を進めている町の産業課長からの貴重な報告もありました。
 こうした討議の上で、「地産地消や作り手との顔の見える関係、五感をみがいて節度ある食を得るなど、食べ手にこそ求められることが多いのではないか」(牧下圭貴・農と食の環境フォーラム代表)などの意見が出されました。
 今後の課題として、9月に発足した「消費者庁」など行政の動きの監視や提言、食品表示の一元化をめざして、「食品表示法」(仮称)の制定など、消費者の立場に立った食の安全確保を求めていく必要があります。

国民の理解が得られる食料・農業政策へ


全都道府県から630人が参加した全体集会
(11月27日・松江市)

 民主党を中心とした政権交代で、注目されている「食料・農業政策」については、東京大学の谷口信和教授や民主党の川上義博参議院議員から、民主党農政の基本構想や食料自給率の向上への課題などの提起を受けて論議が進められました。
 41%という先進国では最低の食料自給率水準、狭小で産地や傾斜地も多い国土条件、農業構造改革の遅れなど、日本農業をめぐる問題点が山積する中、先の衆議院総選挙でも農政改革が大きな争点になりました。民主党を中心とした新政権は、自給率引き上げへの強い意志のもとで、戸別所得補償を通じた担い手対策と主要農畜産物の計画的増産、水田機能の最大限の活用などが政権公約となっています。
 しかし、こうした政策実施には農業予算の増額が必至で、どう国民の理解を得ていくかが課題です。助言者として参加した鳥取県畜産農協組合長で全日本農民組合連合会副会長の鎌谷一也さんからは、これまでの肉の産直や生協との提携を続けてきた経験から「ともに生活者の立場から食べることの価値を見つめ直すべきだ。農業・食料はもはや消費者の問題。耕作放棄地への関わりなど、消費者も共同の取り組みをしてもらいたい」と、訴えがありました。

木材も環境もの共生的構造が必要だ
 地球温暖化問題等からも注目される森林や水問題では、国民森林会議会長の只木良也さんから「森林の物質資源と環境資源としての活用」について提起があり、「木材か環境かの対立構造ではなく、木材も環境もの共生的構造が必要だ。森林を環境問題の対応策の軸にしよう」と指摘がありました。
 また、群馬県の八ッ場ダムで注目を集めているダム問題でも、水源開発問題全国連絡会の遠藤保男共同代表が「ムダなダム計画を中止させよう」と、日本のダム問題の詳細な報告がありました。さらに、会場となった松江市のシンボルである宍道湖のシジミの生態を通した水・森林問題の報告もあり、多彩な視点から環境を守ることの大切さが強調されました。

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核軍縮の好機:中堅国家構想が日本に代表団
いま、日本政府から米政府への声が欲しい
MPI国際運営委員、ピースデポ特別顧問 梅林 宏道

岡田外相との意見交換など精力的に活動
 核兵器廃絶をめざす国際NGO「中堅国家構想」(MPI=Middle Powers Initiative)が、日本政府、及び国会議員との対話を求めて、12月7~9日、日本に代表団を派遣した。とりわけ、12月9日の午前には岡田外務大臣と面会し意見交換をした。また、連合、平和フォーラム・原水禁、ピースデポなどNGOとも交流の機会をもった。
 MPIは、その名が示す通り、中堅国家が団結して核兵器保有国を包囲し、核軍縮を促進するよう中堅国家と協力するために生まれたNGOである。1998年に、カナダのダグラス・ロウチ上院議員が呼びかけて結成された。ロウチさん自身が議長を務めてきたが、昨年ヘンリク・サランダーさん(元スウェーデン軍縮大使)へと議長が交代した。
「中堅国家」に厳密な定義はないが、核兵器を保有せず、核軍縮に熱心であり、国際的な影響力がそれなりに大きい国を対象としている。新アジェンダ連合と呼ばれる国家群(アイルランド、スウェーデン、メキシコ、ブラジル、ニュージーランド、エジプト、南アフリカ)や、カナダ、ドイツ、オランダ、オーストラリア、日本などを主たる対象としてきた。
 今回の代表団は、ジョナサン・グラノフ(MPI執行委員、世界平和研究所代表、米)、ロバート・グレイ(元米国軍縮大使、超党派安全保障グループ事務局長)、ケイト・デュウス(国連事務総長軍縮問題顧問委員会委員、ニュージーランド)、梅林宏道(MPI国際運営委員、ピースデポ特別顧問)の4人で構成された。

新政権に核軍縮のリード役を期待


ミサイルの壁(米・グローバルセキュリティー研究所リーフ表紙から)

 訪日代表団派遣の議論は、日本で新政権が発足しそうだという状況認識が高まりつつある8月初め頃から日本のイニシアティブで始まった。オバマ政権の登場が生み出している世界的な核軍縮への好機と、日本での核軍縮に熱心な新政権誕生が共鳴し合うような働きをMPIが行いたい、というのがその趣旨であった。そして、日程が煮詰まっていく中で訪日団の目的は次のような3点に整理されるようになった。

  1. 他の国では持ち得ない被爆国の道義的権威をもって、日本が核軍縮をリードするよう新政権を激励する。
  2. 米国のオバマ政権が現在取り組んでいる「核態勢の見直し」(来年2月の第1週に議会に提出の予定)に好影響を与えるように日本政府から米政府へのタイムリーなメッセージを求める。とりわけ、米国の大幅軍縮によって日本が核武装をするようなことはあり得ないことを明確に伝えることの大切さを伝える。
  3. 1980年代、ニュージーランドが非核政策を確立したときに生まれた政府官僚の抵抗や動揺、それを克服したロンギ政権の具体的経験を伝え、新政権を激励する。

情報、知識、運動に基づくNGOの活動
 日本政府や議員に直接に働きかけるMPI訪日団の活動は、外交NGOともいうべき性格のものである。それだけに、訪問国の政治制度や文化をできるだけ知って行動することが求められる。と同時に、国際NGOだけが果たしうる代表団構成員(今回は米国やニュージーランド)の、それぞれの国からの正確な情報と専門知識と運動文化が新鮮なインパクトを与えるという役割が極めて重要である。
 これらの点に関して、今回の代表団は精力的に日程をこなしながら、日本政府に伝えるべきメッセージ、国会議員に伝えるべきメッセージ、NGOに伝えるべきメッセージについて、仕分けしながら絶えず熟考していたことを伝えておきたい。代表団の中でしばしば議論が交わされた。そのような議論において、代表団の中に米政府の元外交官がいたことは大きな利点であった。なかなか外からは見えにくい側面であるが、機会があればこのような点についても日本のNGO間で話し合えれば有益かも知れない。

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ニュージーランド非核法の経験を日本は学んでほしい
MPI代表団ケイト・デュウスさん(国連軍縮問題顧問委員)の講演から

非核法を掲げて勝利したロンギ労働党
 今回私は、一つの任務を得て来日しました。デビッド・ロンギ(元ニュージーランド首相)の本を岡田克也外相らに手渡すということです。彼はニュージーランド(NZ)の非核化に大きな役割を果たしました。彼が若き弁護士だったとき、ジョンソン環礁で核実験が行われたのを目の当たりにし、それをきっかけに活動家となり、10年後、労働党の議員たちと一緒にNZの港に核を搭載した軍艦が入ってこないように抗議行動をしました。これらの軍艦は、ANZUS同盟の一環で入港してきました。ANZUS同盟は、日本からの侵略ということを仮想して1951年に始まった太平洋安全保障条約です。
 ロンギが首相に就任したのが1984年。それまで9年間、私たちは草の根の活動を続けてきました。1973年にはオーストラリアや太平洋諸国とともにフランスに対して、太平洋での核実験をやめるよう、世界法廷に提訴しました。NZは小さな国ですが、太平洋地域における核実験に脅威を感じていました。当時は冷戦の最盛期でもあり、核を搭載する可能性のある船がニュージーランドの港へ寄港することに関してもです。そして、労働党は1984年、非核化の法律制定を公約に掲げて、選挙で勝利を手にします。そのときの公約は、原子力船も、核搭載の可能性のある航空機の入国も禁じるという法律をめざすというものでした。

大国に向かって正しいことを主張する誇り


来日したMPI代表団メンバー(中央がデュウスさん)

 NZの非核法は、1987年に可決し、NZの人々は核爆発装置をつくることも、つくることに手を貸すことも保有も所持も違法ということになったのです。領土内に一時的にでも置くことが禁止されました。
 いちばん論議を呼んだのが、首相にNZの港に寄港する船や航空機に対して、「核搭載を確認も否定もしない」というこれまでの核保有国の態度を追及する権限を与えるということです。また、軍縮、軍備管理に関しての諮問委員会を設けました。委員長は軍縮大臣で、その主な役割は首相に対して、この法律の実行に関する助言を送るということです。この法律の下、私たちの非核政策に一貫性を持たせることができるようになりました。
 また、こういう法律や議会があるがために、NZの全軍事基地もチェックできるようになりました。核兵器のようなものが持ち込まれていないか、あるいはアメリカの核抑止の一翼を担っていないかということも調べることができました。
 アメリカのシュルツ元国務長官は当時、「私たちは同盟ではなくなったけど、友人であり続けるのだ」と言いました。そのシュルツも今や核廃絶を言い出しています。結局は私たちの考えが正しかったのです。当時、NZの官僚や政治家にとっては、大変厳しい状況でした。しかし私たちにとっては良いことで、自分たちのしたことに誇りを持てるようになりました。

今度は日本が非核法をつくる番
 今の若い世代に自分たちの国に対してどういう点を誇りに感じるかと聞くと、自分たちが大国に向かって本当に正しいと思うことをちゃんと言えたこと、そこにあるといいます。私たちの決断は決して悪いことではなかったと思います。そして、政治家たちもそういう考え方を貫いたのです。1990年に政権が代わって保守派の政権になっていくのですが、94年、96年と国際司法裁判所で核兵器の使用が国際法上違法かどうかという議論をしたときにも、保守派でありながらNZ政府の人たちは法廷で違法であると言ってくれました。
 今ではイギリスとフランスからも軍艦がNZに入港しますが、当然私たちの非核政策を受け入れて核を搭載しない形で入港します。そして、ホワイトハウスには、NZを非常に友好的な国としていろいろな政治家が招かれています。
 私たちは「核廃絶」という大きな横断幕を掲げて、シュルツのような人でさえ、今ではそれに賛同しています。今度は日本がNZの非核法のような法律をつくる番ではないでしょうか。(12月9日・原水禁学習会)

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軍縮に進めないオバマ政権
時代は米軍基地不要へと動く

米ロ間の新軍縮条約はどこまで進むか
 12月8日、ボスワース米北朝鮮担当特別代表が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、オバマ政権になって初の米朝会談が開催されました。会談では6ヵ国協議の再開合意には至りませんでしたが、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開催される2010年に明るい展望が開けることを期待します。
 09年12月5日に第1次戦略核削減条約(START・Ⅰ)が失効し、この結果、米ロ間で唯一残っていたモスクワ東部・ポトキンスク工場から、米国の監視員が退去しました。START・1は米ロ間で唯一核兵器の削減状況を検証・監視する条約でしたが、20年という経過の中で、検証の対象となった米国の戦略核製造工場は次々と閉鎖され、ロシアのポトキンスク工場(ロシアの移動式大陸間弾道弾「トーポリM」などの製造)だけが検証の対象として残っていたのです。米ロは年内に新条約を結ぶ予定ですが、どのような条約になるのか、多くの不確定要素が残っています。

技術的信頼を欠いたまま展開するミサイル防衛
 そしてこの新条約の大きな障害になっていたのが、米ブッシュ前政権時代に計画された東欧でのミサイル防衛網(チェコにレーダー基地、ポーランドに迎撃ミサイル基地)計画です。このミサイルは米本土防衛用に配備しているのと同じく、大陸間弾道弾(ICBM)の迎撃用ミサイル(GBI)です。
 米国は、このミサイル防衛はイランのミサイル脅威に対処するためだと説明しましたが、地理的にも無理があります。ロシアにしてみれば戦略ミサイル削減を米国と相談しようとしているのに、すぐ近くにGBI基地が出現するとなれば、戦略核削減のバランスは取れないことになりますから、反対するのは当然とも言えます。
 こうした状況下で、オバマ大統領は09年9月17日に東欧へのミサイル防衛網計画を中止すると発表しました。ゲーツ米国防長官は記者会見で、海上発射の対空ミサイル(SM3)と移動型レーダーによるシステムを2011年から配備し、15年にはSM3を地上型に改変し配備する。チェコとポーランドにはミサイル網は配備しないと語りました。
 GBIミサイルは、大陸間弾道ミサイルを迎撃するために米ボ-イング社で開発され、すでにアラスカのフォートグリーリー基地に16発、カリフォルニア・バンデンバーグ基地に4発配備されています。この迎撃ミサイルのための探知レーダーには、日本の自衛隊車力駐屯地(青森)に設置されているXバンドレーダー(米・レイセオン社製)と同性能のレーダーが使われます。
 2004年2月4日に行われたGBIミサイルの発射実験は失敗しましたが、4年後の08年12月5日の実験では成功したと米国防総省が発表しました。しかしこの1回だけの実験成功では、GBIが実際に機能するかは不確かと言えます。しかもこのGBIは単弾頭(1基のミサイルに1発の核弾頭)用で、複数目標弾頭(MARV)ミサイルのような多弾頭積載ミサイルにはまったく対応できません。ロシアはすでに発射後軌道を変えられる弾道ミサイルを開発し、実験にも一部成功しています。

日米共同開発の兵器がイラン攻撃に使われる
 ゲーツ米国防長官はイランのミサイル脅威に、2015年から陸上発射型に改造したSM3で対応したいと語っていますが、それは現在日米で共同開発が進められ、14年完成予定の大型のSM3・ブロック2Aを念頭においてのことと考えます。
 日本側は、ノーズコーン(空気の摩擦熱から赤外線センサーなどを守る弾頭保護カバー)や、現在のSM3より21インチ(約54センチ)大型化される新SM3・第2段のロケットモーター部分を担当し、キネテック弾頭、赤外線シーカー(探知機)は日米共同開発となっています。
 しかし、新型が開発されたとしても、どこまで実用化されるかは明らかでありません。08年11月20日に日本のイージス艦「ちょうかい」がハワイ沖で発射実験を行いましたが失敗しました。標的となるミサイルの発射時間が事前に明らかにされなかったためです。つまり現在のSM3は役に立たない代物なのです。
 イランや北朝鮮の脅威を軍部、軍事産業、政治家が訴え続けるなかで、世界で軍拡は進んでいくのです。04年12月に小泉内閣は武器輸出3原則の見直しを明らかにしましたが、民主党内にも武器輸出3原則見直しの意見は強く存在しています。09年2月26日の衆院予算委員会で民主党・前原誠司副代表(当時、現国交相)が見直しを求めています。
 日米にとって必要性の無くなった普天間基地をめぐっても、時代の変化を理解できないメディアや保守派が騒ぎ立て、混沌としているのが現在の状況です。
(2009年12月10日記)

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【本の紹介】
司法官僚
裁判所の権力者たち
新藤 宗幸著


岩波新書・09年刊

 筆者は著名な行政研究者の一人ですが、「行政学は行政官僚機構、さらに言えば国会官僚機構に及んでいない。司法制度改革なるものへの疑問に加えて行政学研究への『自省の念』が執筆への動機である」と言います。本書は、1999年に設置された司法制度改革審議会が見落としたと言ってよい最高裁事務総局の実態と、「司法官僚」(裁判官の衣をまとった行政官)と言える一群のエリート裁判官は一体誰なのか、そして事務総局の幹部とその候補生について、具体的なキャリアパス(経歴)について示しています。
 特に、最高裁長官のキャリアパスでは、1985年の第11代長官から現在の17代まで24年間・7代の長官の「共通項」をあげ、最高裁長官人事への職業裁判官の就任がすっかり定着してしまい、かつてのような、田中耕太郎・横田喜三郎といった最高裁外部からの学者・知識人からの起用は、もはや起こりそうにない状況を指摘しています。また、「立法と行政は多数派のためにある。司法は少数派のためにある」という裁判官の「名言」とともに、市民に応えた司法とは、便利で使いやすい制度であるだけでなく、政治や行政に挑戦する司法(憲法判断を回避しない)であるだろうと強調しています。
 さらに、司法官僚による下級審にわたる裁判官「統制」の実態を、人事政策と裁判内容についての「指導・助言」の観点から「支配」の実態を明らかにしつつ、裁判・裁判官の「独立」問題の深刻さを指摘しています。そして、「裁判官会議」の復権による人事システムの改革と、裁判所情報公開法の制定について具体的に改革を提言しています。
 11月27日の閣議で、政権交代後初めて3人の最高裁判事の人事が決まり、弁護士出身者の人選では「流動化の兆しも」(読売新聞)との報道もありました。司法をめぐっては、代用監獄や、「取り調べ可視化」の問題等々、様々な課題がありますが、司法の「民主化」に向けて期待していますよ、千葉法務大臣!
(鈴木 智)

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【映画評】
ブルー・ゴールド
狙われた水の真実
(08年/アメリカ/サム・ボッゾ監督)

「20世紀が石油戦争の時代だとしたら、21世紀は水戦争の時代になる」─これは世界銀行の指摘です。森林に囲まれ、雨量も多い日本では、あまりピンときませんが、世界では確実に水資源の不足が予想されています。現に、今も世界では12億人が安全な水を得られず、24億人が適切な衛生設備を利用できない状態にあり、毎年500万人が水関連の病気で死亡しています。
 この映画はそうした状況の中で、水で利益を上げようとする企業と人々との様々な”水戦争”の現状をドキュメントしています。水企業は開発途上国に水道事業の民営化を迫り、ウォールストリートは、淡水化技術と水の輸出計画に投資の狙いをつけ、途上国の腐敗した政治家は、水の利権を自らの利潤や政治的利益のために利用しています。水道事業の民営化は、「水は国際的な公共財」「水は人権」という考え方と対立し、安全で安定した水へのアクセスを阻害する結果をもたらします。事実、世界各地で水道料金の値上げ、水供給の打ち切りなど、民営化失敗の事例が相次いでいます。
 映画の後半は、それに抗して、人々が立ち上がる姿を捉えています。南米のボリビア・コチャバンバやブエノスアイレス等では、軍隊との流血の末に民間企業を撤退させました。ウルグアイでは04年の住民投票によって、憲法に「水へのアクセスは人権」という条項が加えられました。国連に水憲章の採択を迫る運動も起きています。
 翻って日本を見れば、食料の多くを海外に依存していますが、ハンバーガー1個は2,400ℓ、牛丼は2,000ℓの水が農産物の生産に必要です。つまり、多くの水を世界から奪っていることと同じなのです。ペットボトルも含めて、水への視点を変える必要があります。
 映画は、原作の『「水」戦争の世紀』(集英社新書)の著者モード・バロウ(カナダ人評議会)をはじめ、世界の著名なNGO活動者・研究者のインタビューと関連映像で構成されています。映像の切り替えが早すぎるという難はあるものの、「地球温暖化は”どうやって”生きるかの問題だが、水危機は”生きられるかどうか”の問題なのだ」と語るサム・ボッゾ監督の意気込みが伝わってきます。日本では2010年1月から東京などで公開の予定。
(市村 忠文)

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歴史の転換期を迎えて

──副事務局長就任にあたって 藤岡 一昭
 昨年オバマ米大統領は「核兵器のない世界の平和と安全を追求する」とのメッセージを世界に発し、鳩山首相は、被爆国として核兵器廃絶運動の先頭に立つ意思を明確にしました。また普天間基地返還と新基地建設問題は、東北アジアの「人間の安全保障」をめぐる闘いの大きな結節点となっています。
 こうした中、私は09年12月、自治労から平和フォーラムに派遣され、副事務局長の重責を担うことになりました。平和運動は自治労運動の基本です。核兵器廃絶と国際平和に向けた歴史的な転換期を前に、平和フォーラムと原水禁運動の前進に向け取り組む決意を申し上げごあいさつといたします。

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