2010年、ニュースペーパー

2010年06月01日

ニュースペーパー2010年6月号



 沖縄平和運動センターの主催で、平和フォーラムが全面的に協力する「第33回5.15平和行進」が雨天の中、5月14日から15日にかけて、約1,500人が参加して行われました。本年は、鳩山政権のもとで大きくクローズアップされた普天間基地返還と移設問題を抱えた、大きな山場での行動となりました。
 辺野古をスタートした東コースの出発式には、名護市長としては24年ぶりに稲嶺進市長が出席。「復帰から38年間米軍基地に脅かされる生活は変わらないどころか、新政権はこの辺野古にくい打ち桟橋方式で基地を持ってこようと画策している。この計画を許してはならない。普天間の早期返還を訴えるためがんばりましょう」と呼びかけました(名護市辺野古の海岸を行進する参加者・5月14日)。

【インタビュー・シリーズ その46】
闘うことで開かれる、私たちの生きる道
国鉄労働組合・札幌闘争団 長尾 信一さんに聞く

【プロフィール】
1947年札幌市生まれ。67年旧国鉄の札幌鉄道管理局に採用され、国鉄労働組合(国労)に加入。69年~71年のマル生(生産性向上運動)反対闘争、75年のスト権奪還闘争を経験。国鉄分割民営化に伴う国労攻撃が吹き荒れる中、分会役員を歴任、反対運動の先頭に立つ。86年「人材活用センター」(国鉄がつくった施設)に収容される。87年国鉄分割民営化により発足したJR北海道に不採用となり、国鉄清算事業団に発令、特別対策対象者に指定される。90年に国鉄清算事業団を解雇された後、国労札幌闘争団の物販担当となり、国労神奈川地区本部に単身赴任。以降、現在まで神奈川県内を中心に、20年に及ぶ闘争を継続中。

──高校野球の強打者として活躍されたと伺いました。
 中学時代から、北海道では名の知られた選手でした。大阪のPL学園高校にスカウトされて野球留学したのですが、1年で挫折しました。その後、地元の強豪校である札幌光星高校に転校しました。甲子園の地方大会では元ヤクルトスワローズの若松勉さんが在籍していた北海高校に破れ、準優勝でした。
 国鉄に就職してからも10年間、社会人野球でプレーしていました。当時は社会人野球が盛んで、国鉄も管理局ごとに野球チームを持っていました。沖縄・興南高校の我喜屋優監督が大昭和製紙北海道に所属していたとき、試合したこともあります。

──そんな長尾さんが、なぜ「闘う国鉄労働者」になっていったのでしょうか。
 最初に配属されたのは札幌保線区でした。そこには組合が国労しかなかったので加入しました。その後、苗穂機関区に移りましたが、運転職場(運転士が中心の配属先)には国労の組合員が少ないので、否応なしに組合役員が回ってきます。めぐり合わせが悪かったのか、分割民営化のときにも役員をやっていました(笑)。
 しかし、国鉄分割民営化に反対する国労の方針は正しいと思いました。私の場合、自分にうそをつきたくない気持ちがありました。他の組合に行こうとしても採用されなかったでしょう。誰が見ても、根っからの国労組合員だったと思います。
 分割民営化のとき、私は40歳でした。長男が高校1年生で、生活が大変なときでしたから、どう生活していくかを考えました。清算事業団に入れられた3年の間に、何とか再就職できないかという気持ちもありました。しかし、「まずは若い人を優先して、俺はまあ、最後でいいわ」と考えていました。
 ところが清算事業団は、せいぜい新聞の求人広告の切り抜きを貼り出すくらいで、就職のあっせんに本気で取り組んでいませんでした。私は、その中で年齢的にも再就職が困難でした。
 清算事業団の3年間が終わり、最終的に解雇になりました。その後、解雇された人たちの生活体制をどうつくるか議論する中で、支援オルグを兼ねて、各地で物販を行うことになりました。そこで私は、神奈川へ単身赴任することになったのです。

──闘ってきた中で、この問題をどのように捉えられていますか?


「JR不採用問題解決へ! 中央集会」
(10年2月16日・日比谷野音)

 政府のやり方については「国家的不当労働行為」という言葉だけでは語り尽くせません。人間としてのフェア・プレーから外れたものでした。政府・国家権力が本気になったら、こんなことまでするのかという思いです。私は、国鉄分割民営化が、現在の派遣労働者や非正規労働者の問題の端緒になったと考えています。労働者を簡単に解雇できる、そんな流れをつくったのが分割民営化です。別法人をつくってしまえば責任逃れできる。国がそういうモデルをつくったのです。労働組合として雇用を守りきれなかったということには、やはり悔いが残ります。しかし、多くの解雇者を抱えながらも、それでも国労として支え合ってここまで来たことには自信を持っています。
 今回の展開(5月18日、JR不採用問題で国交相が「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」に和解を指示)については、「これが政権交代なのか」という思いです。裁判闘争にも取り組んできましたが、司法にも限界があります。自公政権のとき、どんなに要請しても動かなかったことが前進しました。働く者自身が政治をつくっていくことの重要性を感じています。

──権力の横暴も、働く者が寄り添い、助け合う気持ちを打ち崩すことはできませんでした。
 大変な攻撃の中で、それでも残ってきた者同士の結束の強さを感じています。これだけ職場で差別されてきて、それでも組合に残るなんてことはめったにないことです。
 解雇された組合員も大変でしたが、JRに移った人たちも大変だったのです。何度も昇進試験を受験しても受からない。給料は上がらないし、何かあれば給料をカットされる。ボーナスの査定も最低です。昇進差別、国労バッジの裁判(組合バッジ着用を理由とする差別裁判)も抱えていました。組織は小さくなりましたが、それでも闘い抜くことができたのは国労だったからだと思うし、戦後最大とまで言われる労働争議をその一員として闘えたことは私の誇りです。
 国鉄闘争が長期化して、日本の労働運動における最大の焦点になってきました。JRへ不採用となった1047名問題のときはナショナルセンターを超えて結集してくれる。裁判の行方次第では、労働者全体の様々なところに影響が出てくるということで、中小・ユニオン系などからもご支援をいただきました。

──お連れ合いの反応はいかがですか?
 マスコミで報道されるようになって、これまで以上に気にかけてくれて、電話がよくかかってくるようになりました。私が神奈川へ来てからは、3人の子育てを全部まかせてしまったから頭が上がりません。
 この闘いを始めるとき、こんなことは許されないという怒りが当然ありましたけれど、とにかく5年はがんばろうと決意しました。連れ合いにも「5年だけわがままを許してくれ。勝っても負けても、5年でめどがつくから」と言いました。それが23年間という、長い闘いになったわけです。

──長尾さんの姿は、地域の労働運動の象徴的なものになっています。
 受け入れてくれた国労神奈川地区本部をはじめ、支えてくれる人たちが地域にたくさんいて、そういう点で私は恵まれていたのではないでしょうか。国労神奈川の組合事務所で生活し始めてから約20年、ここではもう一番の古株です。組合の役員が代わっても、私だけはここにいるのですから(笑)。
 長い闘いの中で、いろんなところに義理ができました。地域とのつながりを大事にしながら、何らかの恩返しをしたいという思いがあります。恩返しができてから札幌に戻ろうと思っています。帰ったら、3人の孫たちと一緒に遊びたいです。
 4年前、がんを患いました。再発の不安もありますが、ここまで来たら、倒れるわけにはいきません。朗報を聞くまではがんばりたいと思います。

──平和フォーラムにひとことお願いします。
  神奈川は沖縄に次ぐ第2の「基地県」ということで、平和運動が盛んに取り組まれてきました。しかし一方で、労働組合の中では取り組みへの意識が薄れつつあるのも確かです。そんな状況の下で、平和フォーラムの存在はとても大切です。これからも皆さんとともに、平和をめざして闘っていきたいと思っています。それが私たちの生きる道だと考えます。

〈インタビューを終えて〉
 北海道で国鉄職場を追われてから、神奈川の各組織を国労の物販で回っていた長尾さん。私がまだ教育の現場にいるときからのお付き合いです。長くなりました。筋金入りの野球選手が、やはり筋金入りの組合員に。飄々と、淡々と、生きている姿はすてきです。拳を振り上げることなく、怒りを顔に出さず、「まずは若い人を優先して、俺はまあ、最後でいいやと」長尾さんらしいね。新しい出発が、期待されます。
(藤本 泰成)

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沖縄平和行進と普天間基地包囲行動に全国から
基地はいらない、つくらせないの声が響きわたる

平和行進、そして県民大会へ


熱気あふれる平和行進(5月15日・宜野湾市)

 5月13日から15日にかけて、沖縄平和運動センターが主催し、平和フォーラムも全国に呼びかけ、「第33回5.15平和行進」と「復帰38年・平和とくらしを守る県民大会」を開催しました。
 1972年5月15日、沖縄は米占領下から本土復帰しましたが、米軍基地はそのまま存続しました。そこで「米軍基地撤去、基地のない平和で豊かな沖縄」をめざし、「5.15沖縄平和行進」として毎年実施するようになりました。
 特に今年は、普天間基地の閉鎖・返還、県内・国内移設に反対する「4.25県民大会」に続く大きな行動となり、沖縄本島東コース、西コース、南コースと宮古、八重山の5コースで5月14日、15日の2日間にわたり取り組みました。
 各コースとも沖縄平和運動センターが先頭に立ち、平和フォーラムを構成する全国の地域組織、各労働組合が参加しました。また東コースは、名護市、宜野座村、北中城村、西コースは読谷村、嘉手納町、北谷町、宜野湾市、南コースは糸満市、八重瀬町、南城市、南風原町、浦添市を行進しました。

熱気あふれるあいさつが続いた県民大会
 15日の午後、宜野湾市の海浜公園屋外劇場に3コースの行進が集結し、雨天の中で県民大会を開催しました。約3,800人が参加した大会は、山城博治沖縄平和運動センター事務局長の司会で始まり、主催者を代表し崎山嗣幸実行委員長(沖縄平和運動センター議長)があいさつしました。藤本泰成平和フォーラム事務局長、伊波洋一宜野湾市長、野国昌春北谷町長、社民党沖縄県連から新里米吉代表(県議会議員)、地域政党である沖縄社会大衆党委員長の糸数慶子参議院議員、社民党の重野安正幹事長、照屋寛徳、服部良一両衆議院議員、山内徳信参議院議員の力強い連帯のあいさつや紹介がありました。また、安次富浩ヘリ基地反対協代表委員、伊佐高江ヘリパッドいらない住民の会からの特別報告、フィリピン、グアム、韓国からの海外ゲストの連帯あいさつ、原水禁・非核平和行進タスキの引き継ぎも行われました。平和行進の各コース団長からの報告を受けた後、大会アピールを確認し、熱気あふれる県民大会は終了しました。

沖縄にこれ以上の新基地はつくらせない
 沖縄は1972年に本土復帰しました。しかし、県民の願いである米軍基地撤去は実現せず、未だ在日米軍基地の75%が、日本全土の0.6%しかない狭い沖縄に集中しています。沖縄県民は想像を絶する基地の騒音や事故(2004年8月、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落し、炎上した事故がよく知られる)などの災害、米兵による県民への暴行や性暴力事件、飲酒運転による交通事故など基地被害の恐怖の中で生活しています。復帰38年の今日に至っても、「本土並み返還」は実現していないというのが実情です。
 そもそも日本は、敗戦後の52年4月28日、サンフランシスコ平和条約で国際社会に復帰したことになっていますが、そのとき沖縄は切り離され、72年までの27年という長期間にわたって、基地の島として米軍の支配下に置かれていました。沖縄にとって4月28日という日は、ずっと消し去ることのできない「屈辱の日」となったのです。
 さらに敗戦間際の45年4月に米軍が沖縄に上陸し、この地上戦で約15万人の沖縄県民の命が奪われました。今の日本社会は、沖縄の二重、三重の犠牲の上に成り立っている歴史を忘れてはなりません。平和主義と国民主権をうたう憲法の下で、すべての人々とともに沖縄の米軍基地撤去を実現していかなければなりません。
 普天間基地をめぐって、基地を「県内たらい回し」にしようとする動きがありますが、私たちは絶対にそのようなことを認めるわけにはいきません。こうした立場で、今年の沖縄平和行進と県民大会は米軍基地撤去と、平和で豊かな沖縄をめざした沖縄と本土をつなぐ熱い闘いとなりました。

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今こそ日米関係の見直しを
人々の輪が「不平等」を包囲する!

大雨の中で普天間基地を完全包囲


土砂降りの中で普天間基地を包囲する人々(5月16日)

 16日、土砂降りの雨の中で、約17,000人が普天間基地を完全包囲しました。この取り組みは、普天間基地を含め米軍基地が集中する沖縄本島中部の宜野湾市、沖縄市、読谷村、西原町、北谷町、中城村、北中城村の7市町村長が共同代表となって呼びかけ実施されたものです。また、辺野古がある名護市の稲嶺進市長も参加し、多くの民意が結実した行動となりました。平和フォーラムもこの行動を成功させるため、平和行進参加者をはじめ全国各地に呼びかけて、多くの人々が参加しました。

宜野湾・名護両市の共同声明
 普天間基地の包囲行動が大きな成功を収める中、普天間基地のある宜野湾市と、移設先とされている辺野古がある名護市は「普天間飛行場の県内移設に反対する共同声明」を発表しました。この共同声明には、「危険な普天間飛行場は一日でも早く閉鎖・返還されるべきである。日米両政府が安全保障や抑止力を理由に普天間飛行場の代替施設の県内移設を行わず、(沖縄)県民の基地負担の軽減を行い、住民の安全・安心の保障を最優先に確立するべきである。……米国が進める沖縄からグアム、テニアンへの海兵隊移転計画を政府として検証し対米交渉に強く臨むべきである」と明確に記されています。
 普天間基地を包囲する17,000人の輪は、大きな民意の一つの形です。県内移設の阻止を、私たちは何としても実現していかなくてはなりません。

日米安保、地位協定の根本的な見直しを
 昨年の12月15日以降、鳩山由紀夫首相が言い続けた「5月末決着」は、事実上先送りとなりそうな状況にあります。政府の方針としては現在、県内や国内で普天間基地の移設先を探っている模様です。また、マスコミ報道では、辺野古周辺の陸上、海上に建設するといった計画も伝えられています。平和フォーラムの基本的な考え方は「普天間基地の閉鎖・返還、代替新基地はつくらせない」です。移設先をどこにするのかということは本質的な問題ではありません。
 96年当時の日米政府は「沖縄に関する日米特別行動委員会」(SACO)で、普天間基地の閉鎖返還と、その代替に辺野古に新基地を建設する考え方を示しました。この段階で、沖縄海兵隊の移転や削減の考え方はありませんでした。しかし、2001年の9.11同時多発テロを契機に、アフガニスタン侵攻やイラク戦争を経た中で、世界的な規模での米軍再編が進みました。
 特に、米海兵隊の再編が進む中で、2006年「米軍再編のための日米ロードマップ」が発表され、大半の沖縄海兵隊がグアムに移転することとなりました。そしてこの中には、普天間基地の海兵隊も含まれていることが米軍資料からも明らかになり、辺野古に新基地を建設する根拠は無くなりました。つまり、代替基地の建設そのものが必要ないということです。また、海兵隊の実態を分析してみると、いわゆる「抑止力」としての意味合いにも、大きな疑問があります。

「普天間」はすべての道に通ずる
 普天間基地の閉鎖・返還と辺野古に新基地をつくらせない闘いは、岩国、横須賀をはじめとする在日米軍基地のあり方や役割そのものの見直しに通じています。今年は、日米安保50年を迎えます。東西冷戦構造が際立ち、核抑止力競争を基調とした50年前の安全保障と抑止力の意味は、世界的な米軍再編を見るまでもなく大きく変質しました。同時に、在日米軍が事実上の治外法権化している日米地位協定や、「思いやり予算」の根本的な見直しを、鳩山政権は全力で進めるべきです。「抑止力」とはいった何なのか。安全への脅威というものが、なぜ生まれるのかといった、安全保障に関する基本的な検討を進め、米国政府と協議すべきです。
 普天間基地の閉鎖・返還と代替基地をつくらせない闘いとともに、日米安保、地位協定の見直しに向け、全国的な取り組みを進めていかなければなりません。

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「健康食品」の表示と安全性を問う
悪質な宣伝をなくし、規制強化を
食の安全・監視市民委員会代表・弁護士 神山 美智子

効能うたう広告があふれる現状
 2009年11月、内閣府消費者庁に「健康食品表示問題検討会」が設置され、私もその委員を務めています。これは、昨年のエコナ・クッキングオイルの発ガン性問題を機に設置されたもので、「健康食品」の表示を中心に、そのあり方を検討しています。
 「健康食品」という言葉に法的な根拠はなく、健康に良いとして販売されている食品全般を指します。この中で法的な枠組みがあるのは、特定保健用食品(トクホ)と栄養機能食品だけです。トクホ制度ができたきっかけは、文部科学省補助の研究で、「食品には、栄養・味覚の他に、体調調節という第三の機能がある」という報告が出たことでした。その後、機能性食品と銘打ったものが売り出され、栄養改善法(現・健康増進法)の特別用途食品(病気の人用の食品や妊産婦用食品)の中に組み込まれて制度化されました。
 トクホは、一定の機能と安全性を消費者庁と食品安全委員会が評価して許可します。「お腹の調子を整える」、「体脂肪が気になる方へ」、「血圧が気になる方へ」などと表示し、トクホマークをつけることができます。栄養機能食品は、ビタミンとミネラルについて、「カルシウムは骨や歯をつくるのに必要な栄養素です」など、栄養素の働きを表示できる制度です。
 これ以外の「健康食品」について、「老化を防止する」「肌にうるおいを与える」「膝や腰の痛みをとる」「血管のつまりを防ぐ」などの表示はすべて禁止されています。しかし、新聞・テレビ・インターネットなどには、こうした効能があるかのような広告宣伝があふれています。

進展しない規制への議論


健康食品をめぐっての討論会
(2010年4月17日・総評会館)

 法律上、食品とは「医薬品・医薬部外品を除くすべての飲食物をいう」ことになっており、医薬品か食品かの判定基準が定められています。また「医薬品にしか使用できない成分」と「効能効果をうたわない限り食品に含まれてもよい成分」のリストもつくられました。そこで事業者は、効能効果を直接うたうのではなく、ほのめかして消費者に買わせようと、様々な知恵をしぼっています。足腰に良いという代わりに足の絵、眼に良いという代わりに眼がついた植物の実の絵などが使われています。
 ヒアルロン酸やコラーゲンなどのタンパク質は、体内で分解されてアミノ酸になってしまうので、食べたヒアルロン酸やコラーゲンが、そのまま皮膚や膝などで働くことはありえないのですが、あたかも効能があるように宣伝されています。
 さらに、本当に薬事法違反の効能効果をうたった悪質な違法広告もたくさんあります。毎年500件も摘発指導されており、後を絶ちません。消費者庁の検討会の消費者委員は、こうした違法広告やインチキと紙一重の「健康食品」をなくすべきだと意見を出しても、事業者側の委員もいるため、意見がまとまりません。

カプセル・錠剤型はただちに規制を
 健康食品問題が拡大したきっかけは、2001年に医薬品の範囲から、カプセル・錠剤型のものを除外したことでした。しかし、カプセル・錠剤型のものは特定成分が凝縮された製品で、過剰摂取しやすく、逆に健康障害につながる恐れがあります。
 私は、原則カプセル・錠剤型食品を認めない、2001年以前の状態に戻すべきだと思います。しかし、1兆円以上の市場を形成している食品を全廃させることは困難です。本来カプセル・錠剤型で、一定の効能を証明できるものは、医薬部外品(医薬品と同じようなもので作用が穏やかなもの)として承認を得るようにすべきです。しかし、第三者機関で安全性と一定の機能を評価し、合格したものに何らかのマークを付けさせるかわりに、そのマークのないものは一切販売を禁止するという制度もあり得ると考えています。
 「健康食品」の広告をたやすく信じるとお金を無駄にし、健康まで害することになりかねません。健康の基本は健全な食生活や、適度の運動と休養にあるのです。

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NPT再検討会議へ代表団を派遣
被爆国に問われる核軍縮へのリーダーシップ

核軍縮への国際的機運の高まり
 5月3日、米・ニューヨークの国連本部で、核拡散防止条約(NPT)再検討会議が始まりました。これまでのNPT再検討会議では、1995年の「核不拡散と核軍縮の原則と目標」や2000年には「核廃絶への明確な約束」を含む「13項目の具体的措置」などが採択されてきました。しかし、2005年のNPT再検討会議では、最大の核兵器保有国である米国のブッシュ政権が、核軍縮への国際的な協調を拒否して終わり、「NPT体制」自体が崩壊の危機にさらされました。
 その後米国は、オバマ政権に代わり、これまで失った信用を取り戻すかのように「核兵器のない世界」の実現に向け方向転換の姿勢を示すようになりました。そのことによって再び世界の核軍縮の機運が大きく盛り上がってきました。
 オバマ大統領は、包括的核実験禁止条約(CTBT)や兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)などの批准や交渉をめざす動きを表明し、米ロ間での戦略核兵器削減条約(新START)の合意や、今年4月に公表された核態勢の見直し(NPR)では新たな核兵器開発の中止やNPT体制の枠内にある非核保有国に対しては核兵器を使用しない消極的安全保障を明言し、核軍縮への姿勢を示してきました。
 そのような流れを背景に、今年のNPT再検討会議が開かれようとしていました。原水禁も国際的機運を推し進めるために、26人の代表団を派遣し、ニューヨークでは、連合や核禁会議と共同で行動に取り組みました。

ネバダ核実験場を日本の団体で初めて見学


暑さの中で元気にアピールする代表団
(5月2日・ニューヨーク)

 原水禁派遣団は、NPT再検討会議に先立って4月30日、ネバダ州にある核実験場を訪れました。その、とてつもなく広大な土地に、今だに多数の核爆発による巨大なクレーターや、放射能の影響で立ち入り禁止になっている区域がたくさん残り、あらためて核の威力の恐ろしさを感じさせられました。さらに、今も繰り返される臨界前核実験の実験建屋を見ることによって、核の開発と脅威は続いていることを実感しました。
 今回は特別に、日本人の団体として私たちが初めて見学を許可されました。しかし、実験場内に一切のカメラ、携帯電話などの記録機材の持ち込みが禁止され、場内の様子をお見せすることができないのは残念ですが、実験による広大な土地の汚染と核開発は今だに終わっていないことがよくわかりました。そして「核と人類は共存できない」ことをあらためて思いました。
 また、実験場近郊(といっても百キロ以上も離れていますが)のラスベガスには、広島・長崎の資料館と違い核兵器を推進する側からの視点で原爆開発をとらえた核実験博物館があり、そこも見学しました。核兵器の賛否はともかく、推進側の論理と核兵器開発の実態を知る上ではとても興味深い博物館で、一見の価値があるものでした。

1万人パレードと国連への署名提出でアピール


木のブロック展示はNYでも注目を集めた(5月2日)

 5月1日にニューヨークに入り、2日には、市内のタイムズ・スクエアに世界各国からNGOや市民ら1万人以上が集まり、国連へ向けてパレードをしました。当日のニューヨークは、最高気温29℃。暑い中でのパレードでしたが、参加者は元気いっぱいに核兵器廃絶をアピールしました。
 パレード終点の国連前にあるダグ・ハマーショルド広場では、三団体によるヒロシマ・ナガサキの原爆写真展と原水禁が独自でブースを出しました。ブースでは、毎年原水禁大会の時期に長崎で展示していた「核廃絶の壁・木のブロック」を展示。ここでも多くの人々の注目を集めていました。
 さらに国連本部前では、カバクチュランNPT再検討会議議長(フィリピン)に原水禁・連合・核禁会議の三団体が取り組んだ核兵器廃絶署名の6,660,569筆を直接手渡しました。提出には、原水禁から川野浩一議長、連合からは古賀伸明会長が立ち会い、議長に経過の報告と核兵器廃絶に向けた強いリーダーシップを発揮して欲しい旨を伝えました。
 今回のNPT再検討会議が、具体的に核兵器廃絶に向けた動きにつながることを多くの市民が期待し、その期待を後押しする660万の声として署名を国連に届けることができました。
 3日は、国連本会議を傍聴し、潘基文(バンギムン)国連事務総長や天野之弥国際原子力機関(IAEA)事務局長などの冒頭の演説を傍聴。午後には、原水禁、連合、核禁会議の3団体の代表が福山哲郎外務副大臣、須田明夫国連軍縮大使と面談し、NPT再検討会議で核軍縮への具体的な取り組みや、日本が積極的にリーダーシップを発揮し世界をリードするよう要請しました。

あらゆるヒバクシャと連携し核廃絶へ
 4日には、全米最大の平和団体・ピースアクションとの交流を行い、そこでは、原水禁世界大会にもゲストとして来日したピースアクション代表のケビン・マーティンさんやジョージ・マーティンさんなど懐かしい方々が歓待してくれました。ケビンさんからは、米国の核政策の現状と行方についての解説がありました。そこでは、オバマ大統領の「核のない世界」という願いと現実にはギャップが存在し、米ロで合意した新START条約の批准にも時間がかかる。CTBTの批准もここ2、3年は困難ではないか、と厳しい米国の現状が報告されました。 ジョージさんからは、米国でウラン採掘の動きが活発化しているが、ウラン採掘の場所は先住民の聖地も多く、ガンの発症率も高くなっているとの報告がありました。
 連合と国際労働組合総連合(ITUC)が主催するシンポジウム「核兵器廃絶のための労働組合の役割」にも参加。基調講演として核不拡散・核軍縮に関する国際委員会(ICNND)の議長を務めたオーストラリアのギャレス・エバンスさんがこの間、委員会でとりまとめた報告書の内容について解説し、米国を中心とした核の状況について論評しました。さらに、秋葉忠利広島市長、田上富久長崎市長からもそれぞれの立場からの取り組みと考え方について報告がなされました。インドの参加者からは、軍事費が国民の生活を圧迫していること、核兵器をつくるのではなく生活の権利を守ってほしいなどの発言がありました。
 さらに劣化ウラン問題の国際会議も開かれ、藤本泰成原水禁事務局長があいさつに立ち、あらゆるヒバクシャとの連帯をアピールし、短いニューヨークでの行動は終わりました。
 NPT再検討会議は5月28日まで続き、現時点では結論は出ていませんが、2000年合意を超える具体的な核軍縮の国際合意が図られることが期待されます。イランやイスラエルなどの核開発の問題や核保有国の具体的な核軍縮をどこまで迫ることができるのか。さらに被爆国日本が核軍縮のリーダーシップを発揮できるかどうかなど課題は残されています。そのことは私たちの運動にも問われています。

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若者が出会ったNPT
平和運動の気運の高まりを肌で感じて
第10代高校生平和大使・東京大学2年生
草野 昂志郎


 まずネバダ核実験場を訪れたとき、私は被爆三世として非常に複雑な気持ちになりました。というのも、深さ100m弱のセダン・クレーターを見た際、最初はその大きさに圧倒されましたが、これが広島・長崎にあれだけ甚大な被害を及ぼした原爆の威力を表したものなのかと考えると、単に大きいとだけ表現していいものかと、何とも言えない気持ちになりました。そして、この実験場で行われた数々の実験の意義というものが、私には今ひとつ理解できませんでした。私は終始「核兵器を使わなければいいだけなのに」という気持ちでいっぱいでした。
 次にニューヨークでの活動についてですが、残念ながらNPT再検討会議の傍聴自体は雰囲気を掴むことができたという程度だったものの、多くの方々とふれあえたことが私にとって、大変貴重な経験となりました。ブースにいる間は、広場に集まった現地の方や他団体の方と会話し、核兵器廃絶を願う生の声を聞く事ができ、NGO団体との交流では様々な平和活動のあり方を学ぶことができました。平和運動の気運の高まりを肌で感じ、自分自身にとっても良い刺激となりました。これらの人々の声が国連に確実に届き、核兵器廃絶に向けた具体的な決定がなされることを願います。

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被爆65周年原水禁世界大会に向けて(1)
拡大するミサイル防衛システム
軍産複合体制は聖域か?

軍需産業の副社長が国防副長官に就任
 オバマ米大統領は大統領選の中で、連邦政府におけるロビイストの影響を減らすと明言してきました。しかし、彼が国防副長官に起用したのは、レイセオン社のウイリアム・リン副社長でした。この軍産複合体制の中心人物とも言えるリン副社長の起用は、米国内でも大きな疑問が出されていました。
 レイセオン社は世界第5位の軍需産業で、ミサイル防衛(MD)において、中心的な位置を占めるパトリオット・ミサイル3(PAC3)や巡航ミサイル・トマホークを製造しているだけでなく、世界のトップを切って、青森県車力村に配備されたXバンド・レーダー、戦闘機のレーダーなどを手がけて、さらに全地球測位通信システムを開発中であるなど、今や宇宙空間における軍事産業として、トップの座にある会社なのです。
 そしてリン副社長が、レイセオン社のロビー活動をしていたことは広く知られていました。もちろん軍産複合体との関係で言えば、上院軍事委員会のヒラリー・クリントン国務長官の起用や、米国家安全保障会議やCIAを歴任し、米軍産複合体で重要な役割を果たしてきたロバート・ゲーツ国防長官の留任など、いろいろな批判、疑問が渦巻いていました。リン副社長は、共和党も国防副長官に強く推していたと伝えられています。そのような状況から考えると、今や米政界において産軍複合体制は、聖域化しているとも言えます。
 そして今、米国はミサイル防衛システムを世界に広げようとしています。

新START条約の火種、全欧ミサイル防衛
 昨年12月5日に失効した米ロの「第1次戦略核兵器削減条約」(START-1)の、後継条約の締結が大幅に遅れたのは、ブッシュ前政権がチェコとポーランドにミサイル防衛システム設置を計画し、それにロシアが強く反発したためです。オバマ大統領が計画の撤回を表明したことによって、ようやく交渉が妥結に向かったことは周知のことです。
 しかし、オバマ政権は東欧のミサイル防衛をあきらめたのではなく、新たに新欧州ミサイル防衛システム計画を立ち上げたのです。それは、現在日米で共同開発されている海上配備用のスタンダード・ミサイル3(SM3)ブロック2Aを、陸上に配備して、防衛網をつくるという構想です。この欧州ミサイル防衛計画について、今年2月1日にオバマ政権が発表した「弾道ミサイル防衛見直し」(BMDR)の中で、European Phased Adaptive Approach(EPAA)構想として取り上げられています。
 そして2月上旬、ルーマニア政府が新欧州ミサイル防衛システムの迎撃ミサイル配備を受け入れると発表しました。4月8日に米ロ大統領によって新START条約が署名されましたが、その日、ロシアは「米国のMDシステムがロシアの戦略核兵器の能力に脅威が生じた場合は新STARTから脱退する権利を有する」との声明を発表しました。これは欧州ミサイル防衛計画にロシアが依然強い危機感を抱いていることを示しています。

米日韓ミサイル防衛共同運用に反対しよう
 「SM3ブロック2A」は現在、日米で共同開発が進んでいます。日本が分担する部分と共同開発部分に分かれていて、日本の分担開発は、ノーズコーン(空気の摩擦熱から赤外線センサーなどを保護する弾頭保護部分)を三菱重工が手がけています。
 また、21インチ(約53センチ)と現在より大型化される新型SM3第2段ロケットモーターは、IHI(旧・石川島播磨重工業)傘下の、IHIエアロスペースが開発・生産し、キネテック弾頭(迎撃弾頭)、赤外線シーカーは日米で共同開発されています。04年末、小泉政権は米国との武器の共同開発・生産を、武器輸出3原則の例外扱いとしたため、米国への供給が可能となったのです。
 米国の弾道ミサイル防衛見直し(BMDR)の中で、重要な記述が存在します。「韓国は米BMD体制の重要なパートナー国であり、韓国が必要とするなら、米国は北朝鮮のミサイル脅威に対する防衛網強化に向け、韓国と協力する態勢ができている」と述べているのです。その後も米国は、韓国への働きかけを強めています。
 米国は将来、米日韓によるミサイル防衛共同運用を考えているのです。これは朝鮮半島の非核化よりも、中国を意識した米国の東アジア軍事戦略といえ、私たちは反対していかなければなりません。韓国の哨戒艦の沈没事故を機に、東北アジアの緊張が高まっています。私たちは冷静に状況を判断し、6ヵ国協議再開を求めていかなければなりません。こうした点も今年の原水禁世界大会の課題になります。

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【本の紹介】
メディアスポーツ解体〈見えない権力〉をあぶり出す
森田 浩之 著


2009年12月NHKブックス刊

 
 メディアは私たちの日常に深く、広く、グローバルにも、ローカルにも入り込んでいます。スポーツの情報も同様で、今このときにサッカーのワールドカップが行われていることも知らずに毎日を過ごすには、かなりの努力が要るでしょう。努力しようとした時点で、もうスポーツイメージは、私たちの日常の様々な位相に入り込んできます。
 社会学者のジョン・ホバマンは「スポーツはいかなる社会でも潜在的に政治的なイシューである」と言っていますが、スポーツに表れる対立軸を見ると、それがよくわかります。アマチュアリズムとプロフェッショナリズム、個人主義と集団主義、ナショナリズムと国際協調主義、男性優越主義とフェミニズム等々。
 そして、メディアはスポーツを通じて「物語」を語ります。強さ、技、若さ(熱意・活力)―ベテラン(経験・熟練)、才能―努力、創意工夫―規律、友情・愛情―敵意・ライバル。本書はこうしたメディアスポーツの「見えない権力」をあぶり出そうという試みです。
 第Ⅱ章では、メディアスポーツが「ナショナル」であるものを静かに作り上げる過程に焦点を当てています(国旗を激しく振るようなものだけがナショナリズムではない)。第Ⅲ章では、「物語性」に注目し、メディアが意識して語る物語、無意識に紡がれる物語(夏の高校野球が、なぜあれだけの関心を呼ぶのか等)について分析しています。
 そして、第Ⅳ章では、「ジェンダー(社会的・文化的につくられた男女の差異)」にさりげなく働きかける手法(メディアが女性アスリートに向けられる偏った目線)について考察し、第Ⅵ章では現代の「メディアスポーツヒーロー」の意味を、メジャーリーグで数々の記録を塗り替えるイチロー選手をケーススタディにして分析しています。
 現在の商業マスコミのあり方を問う好著です。あわせて、森田さんの前著に「スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉」があります。
(鈴木 智)

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【映画評】
老人と海
(2010年/日本/ジャン・ユンカーマン監督)


撮影:本橋 成一

 基地問題で揺れる沖縄。その本島から500㎞以上離れた日本最西端に位置する与那国島。年に数回は台湾の山々を望むことができる島で巨大カジキを追い求めた82歳の漁師、糸数繁さんを追ったドキュメンタリー映画です。すでに90年に公開されましたが、改めてディレクターズ・カット版として今夏、再上映されます。
 「老人と海」と言えばヘミングウェイが思い浮かびますが、この映画はまさにアジア版の「老人と海」。今から20年前、サバニと呼ばれる笹舟のように細長い舟を操り、200㎏ものカジキを一人で釣り上げるために毎日海に出る糸数さん。しかし、撮影が始まって1年間はまったく釣れません。カツオなど他の魚を釣るだけで十分なのに、あえて命がけでカジキを追う姿は、海に生きる自分自身への誇りなのでしょうか。
 収穫がない糸数さんにそっと魚を差し出す仲間の漁師たち、旧暦の5月に行われる爬龍船と呼ばれる小ぶりの舟で競うハーリー祭りに歓喜する人々。豊漁と安全を願うお祭りなど、美しい自然とともに生きる島の人々が大切にする多様な文化が淡々と描かれています。
 そして、圧巻は1年ぶりのカジキを釣り上げるシーン。時速100㎞以上で逃げ回るカジキを3~4時間引かせ、疲れるまで待ち、最後はモリ(漁具)を打ち込んで仕留める。その間、揺れるサバニの上で、何度も足を滑らせ格闘する場面は息が詰まります。ついに釣り上げて港に帰る糸数さんの目は、なぜか泣いているようでした。糸数さんは映画が公開された90年に、漁に出て大魚に引っ張られて亡くなってしまいます。海に生き、海に還ったのです。
 ユンカーマン監督は米国生まれながら、画家の丸木位里・俊夫妻を取材した「劫火─ヒロシマからの旅─」(86年)や日本国憲法の意義を問いかけた「映画 日本国憲法」(05年)など、日本での活動も多くなっています。監督は、「自然と共に生きることがだんだん忘れられている中で、もっとシンプルな生き方があることを問いたい」と、20年ぶりの映画公開の意義を語ります。7月末から東京をはじめ全国で公開。
(市村 忠文)

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投稿コーナー
沖縄への内なる差別を自覚しよう
憲法の使い方講座・元東京都府中市議 三宮 克己

「戦訓」の元になったと思われる「神日誌」のコピーの一部

政府ニ対スル連絡
一、略

二、沖縄県人ハ(略)劣ル 精神的中核ナシ
  神社仏閣極少

三、軍隊ニ対スル態度 消極的ニ協力
 (例)
 (一)軍隊ガ来タカラ我々ガ戦闘ノ渦中ニ入ッタトナスモノ頗ル多シ
 (二)学徒(防召)ハ駄目ナリ 召集シテモ皆家ニ逃ゲ帰リ召集解除ノ止ムナキニ至ル 最後迄我ニ依リシハ一中 男師範ノミ
 (三)本県人ノスパイ
   甚ダシキハ落下傘ニテ潜入(本県人)ヲ目撃追跡スルコトアリ 電話線ノ故意ノ切断
 (四)弾丸ノ中デモ金ヲヤラネバ物資ヲ分ケテ呉レヌ 何ヲ考エテイルカワカラヌ

四、本土作戦ヲ考慮シ次ノ件ヲ官民ニテ準備セヨ
 (1)略
 (2)沖縄作戦ニ於イテハビルマ作戦ヨリ情報入手困難ナリキ ビルマ人ハ積極的ニ情報ヲ齎(モタラ)セリ

以下略

40年間探し続けた「戦訓」
 上記の文章は、大本営へ戦況報告のため沖縄の戦場を脱出、上京した第32軍神参謀の手書きメモの一部で、大本営は1945年7月頃、このメモが要旨と思われる沖縄戦の総括「戦訓」を全軍に配布したようです。
 沖縄戦直後、私が分隊長より読み聞かされたこの「戦訓」は戦後も心に残っていました。いったい、何が書かれていたのか知りたいと思い、就職のため上京した1970年頃から、国会図書館や防衛研究所図書館などで探してきました。「戦訓」そのものは見つからなかったのですが、2009年9月に防衛研究所図書館で「神日誌」というメモ書きを見つけました。読み進むうちに、これが40年間探していた「戦訓」の元になった文章ではないかと、コピーを取りました。あまりに差別的な内容で公開することを迷いましたが、今年1月17日の府中市民による「普天間基地撤去・辺野古新基地建設反対デモ」のとき、全文を発表しました。

現在も続く沖縄への差別
 天皇制国体護持のため、沖縄に配置された日本軍は、方言や神仏など民俗信仰がヤマト(本土)と異なる沖縄の歴史を知ってか知らずか、あたかも占領地に進駐した外征軍のようにふるまい、住民軽視、軍務への動員、食料強奪、避難壕からの追い出し、集団自決の強要などで沖縄戦は一般住民が軍人軍属を上回る犠牲者を出しました。
 また、戦後には昭和天皇から米軍に対して、半永久的に沖縄を占領してもいいという申し出もありました。1972年の施政権返還(本土復帰)後も日本政府は日米安保条約で日本の全面積の0.6%でしかない沖縄に、在日米軍基地の75%を移転集中させて、県民は昼夜を問わない爆音、墜落事故、ひき逃げ、性犯罪など米軍による被害を日常的に受けています。
 沖縄の祖国復帰運動は、基地のない平和な沖縄を願い、平和憲法を持つ日本に復帰する県民運動でした。しかし、復帰した祖国は日米安保の危険な負担を沖縄に押しつけて、他人事のように同情しても、戦前から続く差別に気付かないまま今日に至っています。ヤマトには、その責任が問われています。

沖縄基地問題は全国民の問題
 マスコミは、沖縄の基地問題が長引けば日米同盟にヒビが入る、米国を怒らせるな、社民党を連立政権から外せと世論誘導を図っています。それに対して、沖縄現地の声は、民主党は公約どおり普天間基地の県外移設を、今さら日米同盟や国益をいうのであれば、本土の都道府県も平等に負担せよ。基地問題を沖縄にばかり問わず、全国民の反対の声を背景に、勇気を出して米国に向かって説得せよとの声が上がっています。
 沖縄の基地問題を沖縄の地域的問題とせず、これまでとかく無視されてきた沖縄の取り組みにヤマトが謙虚に学び、平和憲法を実行する国づくりに、今こそ大いに力を合わせるときだと思っています。

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「東アジアとの新しい連帯を築く」署名の取り組みを進めています

 韓国併合100年、そして新日米安全保障条約調印から50年を迎える今年、東アジア諸国との友好関係を築くためには、「戦後清算」に向けたさらなる努力が必要です。そのため、平和フォーラムは、東アジア諸国との関係改善と新しい安全保障の確立のために、「東アジアとの新しい連帯を築く」署名運動に取り組んでいます。皆様のご協力をお願いします(詳しくはHPに)。

  1. 植民地支配や侵略戦争の加害の責任を認め、真摯な反省のもとに東アジア諸国との友好・連帯の確立。
  2. 植民地支配や侵略戦争に対する歴史認識の共有化に努めるとともに、戦争被害の実態調査を行い、被害に対する補償問題など「過去の清算」。
  3. 国立非宗教的戦争被害者(関係諸国全てを含む)追悼施設を建設し靖国問題の決着。
  4. 教科書検定は、日中・日韓共同宣言や村山首相談話に示された日本政府が公式な見解とする歴史認識を基本とする。
  5. 唯一国交のない朝鮮民主主義人民共和国との早期の国交回復をめざして交渉を開始し、拉致被害など両国間に横たわる懸案事項の解決。

第1次集約6月30日、最終集約9月30日
集約先:平和フォーラム事務局 (TEL03-5289-8222)

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