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ニュースペーパー2015年7月

2015年7月 1日

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反核燃の日集会
 5月30日に、30回目を迎える「4・9反核燃の日全国集会」が、青森市内の「青い森公園」で開かれ、九州から北海道まで全国各地から850名が結集しました。集会では「1985年4月9日の核燃受け入れから30年経っているが、当初の計画通り進んでいる事業は一つもない」として、核燃料サイクル政策がもはや破綻していることが次々訴えられました。最後に「核燃料サイクル施設と原発の再稼働は絶対認めない」とする集会アピールを採択し、「危険な再処理はやめろ!」「原発再稼働反対!」を訴えながら市内デモを行いました。その後の「反核燃の日全国交流集会」では、弁護士の只野靖さんから、高浜原発差し止め裁判と規制基準の問題点のお話をいただきました。
 翌31日は、六ヶ所再処理工場の正門前で現地抗議集会を開き、その前後に村内の核燃料サイクル施設の見学を行い、ウラン濃縮工場、低レベル廃棄物埋設施設など様々施設が立ち並ぶ異様な状況を目の当たりにしました。(写真は市内のデモ行進)

インタビュー・シリーズ:102
戦争と貧困の問題はつながっている
自立生活サポートセンター・もやい理事 稲葉 剛さんに聞く

稲葉 剛さん
いなば・つよしさんのプロフィール
1969年広島市生まれ。被爆二世として戦争や平和の問題に敏感な子どもとして育つ。大学在学中から平和運動、外国人労働者支援活動に関わり、94年より新宿を中心に路上生活者の支援活動に関わる。2001年、自立生活サポートセンター・もやいを設立し、幅広い生活困窮者への相談・支援活動に取り組む。09年、住まいの貧困に取り組むネットワークを設立し、住宅政策の転換を求める活動を始める。また、11年より生活保護制度の改悪に反対するキャンペーンに本格的に取り組んでいる。現在、認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事、一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事、住まいの貧困に取り組むネットワーク世話人、生活保護問題対策全国会議幹事、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科准教授。著書は『生活保護から考える』(岩波新書)、『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために―野宿の人びととともに歩んだ20年』(エディマン/新宿書房)など多数。

─稲葉さんが生活困窮者の問題に関わるようになったきっかけはなんですか。
 私は広島出身で、実は被爆二世なのです。母親が入市被爆者(原爆投下後、救援活動や肉親捜しなどで被爆地に入った人)なのです。そんなことがあって、平和運動に関心があり、学生の頃は湾岸戦争反対のデモなどをやっていました。バブル経済が崩壊した1994年2月に新宿駅西口地下で、ホームレスの「ダンボール村」が強制排除されるのを見に行ったのがホームレスの人との最初の出会いでした。当時、年間40~50人が路上で亡くなっていました。それにショックを受けて、路上生活者の支援活動として炊き出しや夜回りのパトロールなどを行ってきました。また、生活保護の申請をしても、役所では「水際作戦」として、窓口で追い返されることも横行していました。そんなこともあって、ホームレス問題に取り組むようになりました。私の中では、これも平和運動の一つと言えます。

─その後、行政の対応も変わってきたのでしょうか。
 東京では2000年に「自立支援センター」ができて、自立支援に向けた動きが出てきました。しかし、施設に入って仕事が見つかり、アパートに入居するためのお金が貯まっても、入居に必要な保証人がいないという相談が増えたので、2001年に「自立生活サポートセンター・もやい」を立ち上げ、ホームレスの人がアパートに入る時の保証人になりました。こうしたことから居住支援が活動の根幹にあります。また、生活保護の申請も支援団体がサポートをするようになって、受けやすくなりました。
 しかし、住まいの問題については、民間の宿泊所で生活保護費から住居費や食費を差し引いて、本人にはわずかしか渡らない「貧困ビジネス」も横行しています。一方、ドヤと言われる簡易宿泊所の居住環境は劣悪ですが、長期にわたって住んでいる人も多くいます。福祉事務所も「ホームレスは一人暮らしが出来ない」「面倒を見られない」などと偏見を持って、アパートに移ることを積極的に進めていません。私たちが保証人になっても、アパートの大家はそうした人を入れたがらない。公的住宅も非常に減っていて、「ハウジング・プア」と言える深刻な問題が生まれています。

─どうして、このような深刻な状況になったのでしょうか。政策の問題は何でしょう。
 特に、派遣労働者は仕事とともに住まいも失ってしまうことから、2008年暮れからの日比谷公園での「年越し派遣村」で、こうしたことが大きな社会問題になりました。民主党政権の時は居住問題に取り組もうという動きもありましたが、自民党政権になって後退してしまいました。今年度から、「住居確保交付金」などの支援制度も出来ましたが、対象者は離職者のみで、高齢者は使えないなど、効果は限定的でしかありません。
 一方、仕事があっても低賃金な若者や女性は住む所もなくて、脱法ハウスやネットカフェに出入りしていますが、そうした「ワーキング・プア」にも支援制度は使えない。特に安倍政権になってからは、生活困窮者への給付が縮小しています。子どもの貧困対策でも、法律は出来ても児童扶養手当の拡充もなく、民間の基金が入る方向になっています。国の責任で生活困窮者を支援することが弱くなっていて、生活保護水準の引き下げにもなっています。特に生活保護のバラマキ批判が出されて、自助努力や家族や地域の「絆」が強調されて、そこで支え合うということを制度の中に盛り込もうとしています。

─生活保護費の切り捨てでは、今年度、暖房費や住居費などを減額し、188億円も削減されています。その一方、オスプレイの購入や防衛費増額、海外支援のODA予算に膨大な金をばらまいている。そうした政治のあり方をもっと批判すべきですが、なかなか私たちも気がついていません。
 生活保護基準に対する自民党などからのバッシングがありますが、私たちはこの基準を「命の最低ライン」と言っています。これが下がるということは、生きるための「ボトムライン」が下がることを意味します。例えば、就学援助や最低賃金のラインも連動して下げられてしまいます。社会のボトムラインをどう設定するかは、他にも連動しています。生活保護引き下げ反対の運動をすると、「自分たちの方がもっと苦しい」と言って叩くという事が起きています。「底辺への競争」に乗せられているようです。
 確かに、路上生活者は少しずつ減ってきていますが、その一歩手前の、仕事や住まいが不安定な人は確実に増えているのではないかと思います。しかし、困窮者自立支援法にしても、生活保護水準以上の人に対するメニューが限られている。公営住宅にも入れない。そうなると、相談さえ行こうとしません。そうした人がどのくらいいるのかもわからない。厚生労働省が2007年に調査したところ、ネット・カフェ難民は全国で5400人でしたが、実際はもっと多いかと思います。


「許すな戦争法案5.12集会」で
生活困窮者の相談を受ける稲葉さん
─いま、特に若者を中心とした「雇用」の問題が深刻になっています。連合も格差問題に取り組んでいますが、労働運動に期待することはありますか。
 90年代は、私たちの所に相談に来るのは、50~60代の日雇い労働者の人が圧倒的に多かった。それが、1999年と2003年に労働者派遣法が改悪されて、派遣労働が拡大して、3人に1人は非正規労働という状況になって、若者や女性の相談が増えてきています。貧困が、かつては中間層だった人達まで広がってきているということを感じています。
 とりわけ、20代では約半数が非正規労働者になっている状態で、正社員になることに必死になっています。そこにつけこんで、過労死寸前まで長時間労働をさせることが横行しています。私たちは「ブラック企業対策プロジェクト」を作って、キャンペーンもしていますが、雇用の質を確保していくことも必要になっています。その意味からも、今の国会では労働者派遣法の改悪と残業代ゼロ法案の成立は止めてほしいですね。それが将来的には貧困を阻止する事につながっていくと思います。

─日本の社会的基盤が崩れ、だんだんアメリカ型の社会になりつつあるようです。しかも、いま安倍政権は戦争法制を作り、自衛隊が戦争することになります。アメリカでは貧困層が兵士になっていますが、日本もそうなるのではないかと思っています。
 それは感じています。いわゆる「経済的徴兵制」と言われますが、アメリカでは、貧困地域にターゲットを絞ってリクルートをかけるということが多いと言われています。日本で戦争法案が成立すれば、自衛隊への志願者が減ると思うのです。そうすると、アメリカで行われているような、貧困地域の人達を勧誘するというようなことが行われるのではないかと思います。
 その上、海外で戦闘に巻き込まれると、それがトラウマになってPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症してホームレスになってしまうのではないでしょうか。実際、アメリカではベトナム戦争など海外での戦闘行為に参加したことによるPTSDからホームレスになる人が増えています。そういう意味でも、戦争と貧困の問題はつながっていると言えます。

インタビューを終えて
 過日、生活に困窮した母親が、公営住宅を強制撤去されようとする日に中学2年の娘を殺害した事件の判決が、千葉地裁で下されました。懲役7年でした。子どもの貧困率が16.3%、OECD加盟国中下から4番目となりました。国内総生産は上から3番目です。社会的につくられた貧困とも言えるでしょう。安倍政権は、弱者を切り捨て、戦争への道に歩みを進め、防衛予算を膨らませています。「戦争と貧困はつながっている」稲葉剛さんの言葉を噛みしめなくてはなりません。
(藤本泰成)

【生活困窮者を支える活動にご協力を!】
 認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやいでは、活動を支えてくださる寄附金を募っています。郵便振替口座00160-7-37247口座名「自立生活サポートセンター・もやい」
※銀行振り込みやクレジットカードによる寄附、古本を活用した寄附も可能です。また、認定NPO法人への寄附は、確定申告をすることにより、寄附金控除の対象になります。詳しくは、もやいウェブサイトをご覧ください。
http://www.npomoyai.or.jp/

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安保法制には、害毒ばかりで「理も利もなし」
問われる「積極的平和」への対案
ピースデポ 代表 田巻 一彦 

集団的自衛権を認めていない政府見解
 初めに、最高裁判例集から、今話題の「砂川事件判決」の要旨(抜粋)を引用したい。
(一~三略)
四 憲法第9条はわが国が主権国として有する固有の自衛権を何ら否定してはいない。
五 わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であって、憲法は何らこれを禁止するものではない。
六 憲法は、右自衛のための措置を、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事措置等に限定していないのであつて、わが国の平和と安全を維持するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に則し適当と認められる以上、他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない。(以下、略)
政府は、これがいわゆる「安保法制」とよばれる法案群の前提にされる集団的自衛権行使「合憲論」の論拠であるという。しかし、この判決をどう読めば「集団的自衛権合憲」と読めるのか?ということだ。読める人はいないだろう。「自衛権は合憲」とは言っていても、我々には承服しがたいが、これはあくまでも「個別的自衛権」のことだ。
続いて、有名な政府見解を引用する。
「集団的自衛権と憲法との関係に関する政府資料」(昭和47年(1972年)10月14日参議院決算委員会提出資料)「(略)平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」。


3万人が参加した「平和といのちと人権を!憲法集会」
(5月3日・横浜臨港パーク)
もっと論議されるべき「新ガイドライン」
 政府は安保法制が「徹頭徹尾シロ」だと言い張って、この夏には成立させると息巻いている。その動機が、新しい「日米防衛協力の指針」(新ガイドライン)にあることは間違いない。
 2015年4月27日、岸田文雄外相、中谷元防衛相、ジョン・ケリー国務長官、アシュトン・カーター国防長官がワシントンで日米安全保障協議委員会(2プラス2)を開き、合意された新ガイドラインの目的は、「平時から緊急事態までのいかなる状況においても日本の平和及び安全を確保するため、また、アジア太平洋地域及びこれを越えた地域が安定し、平和で繁栄したものとなる」ことだという。
 読み進むと、次のような一節がでてくる。「日米両国が、各々、米国又は第三国に対する武力攻撃に対処するため、(出た!「集団的自衛権」だ:筆者)主権の十分な尊重を含む国際法並びに各々の憲法及び国内法に従い、武力の行使を伴う行動をとることを決定する場合であって、日本が武力攻撃を受けるに至っていないとき、日米両国は、当該武力攻撃への対処及び更なる攻撃の抑止において緊密に協力する」。
 問題は下線部の「各々の憲法及び国内法に従い...」というところだ。「新ガイドライン」が約束された時、そして今も、日本に「憲法」は存在するが、「米国又は第三国に対する武力攻撃に対処する」ために「武力の行使を伴う行動をとる」ための法律は存在しない。「安保法制」はこの「国内法」を行政当局の約束である「新ガイドライン」に「後付け」するものなのだ。
 今国会で行われている論議が、「新ガイドライン」を承認するか否かを巡る議論であると考えればわかりやすい。それにしては、「新ガイドライン」が正面切って論じられていないように思える。これもひとえに、政府の粗雑かつ稚拙な論理のせいだということができる。具体的な場面を想定して、「これは合憲か違憲か」とやりあうのはもちろん大事なことだが、大掴みな状況の想定、あるいは「立法の動機付け」である「新ガイドライン」がもっと論じられてよい。

「新ガイドライン」の系譜をたどると
 「日米ガイドライン」は、1978年に初めて策定された。時代は米ソ冷戦の真っ盛り。この78年ガイドラインの下で、中曽根康弘首相(当時)の「日本を不沈空母にする」という物騒な発言が飛び出した。つまり、日本は西太平洋における対ソ連封じ込めの最前線とされた。日本は「盾」で米国は「槍」という大まかな役割分担が設定された。これを元海軍将校の中曽根首相は「不沈空母」という時代錯誤的な呼び方をしたのだった。日本は「そこに存在すること」自体でもって、日米同盟上の義務を果たすことができた。「思いやり予算」と呼ばれる米軍駐留経費の負担が始まったのもこの78年ガイドラインと軌を一にするものだった。
 日米ガイドラインの1回目の改定が行われたのは97年で、きっかけは「朝鮮半島の核危機」だった。93年、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発疑惑で、核査察を求めるIAEA(国際原子力機関)と北朝鮮が対立を深める中で、米国は戦争計画(「5027号」のコードネームを持つ米韓合同作戦計画)を相当真剣に検討しはじめる。その中でわかったことの一つは、第2次朝鮮戦争が起これば、とても在日米軍基地だけでは持ちこたえられない、日本の民間港や空港、そこで働く人々を巻き込んでゆかねば戦争は続けられないということだった。
 この時、米軍当局が日本にやってほしい戦争協力の項目を数えあげたら、1059項目にもなったと報道された(99年2月3日「朝日新聞」のスクープ記事)。例えば、神奈川県でいえば、「相模補給廠から横浜への軍需物資の輸送」とか「横須賀・厚木の海上自衛隊基地使用に関する後方支援」といったリアルな要求項目が並べられた。50年代の朝鮮戦争の時には20万人、ベトナム戦争当時は10万人の将兵が日本に駐留していた。それが90年代当時は6万人弱となり、単純に手が足りないというのが米軍の切実な動機の一つだったに違いない。
 この97年ガイドラインの時に「発明」されたのが「周辺事態」であり、「周辺事態法」だった。同法は99年に成立した。ガイドライン改定から2年後のことである。当初の政府見解は、「周辺事態」は「地理的なものではなく、事態の性質に着目した概念」とされたが、99年の周辺事態法の国会審議の中で「中東やインド洋は想定されない」との小渕恵三首相(当時)の答弁で、概ね日米安保条約にいう「極東の範囲」ということで適用範囲は限定された。


「とめよう!戦争法案 集まろう!国会へ」
国会包囲に2万5千人が集まった(6月14日・国会前)
米国の国内事情と安倍の好戦主義が合体
 では、今回のガイドライン改定に働く力学はどういったものだろうか。それはオバマ政権が進める「アジア太平洋地域へのリバランス」(軍事力の再均衡)政策と、97年当時からは想像できないような日米同時不況である。米軍事費には厳しいシーリング、強制削減枠が設定されている。さらにイラク戦争がウソで塗り固められた戦争であったことがわかり、それが厳しく米軍の手をしばっている。
 ガイドライン改定は、このような米国の国内事情と安倍首相の好戦的・復古主義的志向が「合体した」という以上に、リアルな意味での軍事的な合理性はみあたらない。要するに、「アダ花」のように降ってわいたのが、新ガイドラインなのではないか、というのが筆者の印象だ。だが、その害毒は78年、97年の比ではない。何しろ自衛隊員たちに海外にいって、他国(=腐っても軍事大国・米国)を助けるために命を投げ出せ、奪え、というのだから。「安保法制」は絶対に「アダ花」に終わらせねばならない。そうすれば「新ガイドライン」も機能できないのだ。

軍事に替わる知恵を、市民から
 一方、現在の国際安全保障環境においては、ますます「非軍事」分野の重要性が増している。そのことに一番敏感なのは、皮肉なことに米国なのかもしれない。米国ではオバマ政権のイニシアチブで専門的能力を持つ文民からなる組織の設立によって、従来、軍が行っていた活動を文民に委ねてゆくという議論が一時、相当真剣に議論された。この議論は国務省と国防総省の「縄張り(予算)争い」の側面もあって、結局、国防総省に軍配があがっているようだ(何しろ「利権」の根の張り方というか、応援団の迫力が違う!)が、トレンドとしては生きている。
 どうも、安倍政権のやり方を見ていると、無二の同盟国・米国と逆を行っているように見える。政府は何かといえば「積極的平和主義」を口にするが、その実は、いかにも古い、軍事に偏重した政策ばかりで、安保法制はその典型だ。むしろ北東アジア非核兵器地帯化などの外交的イニシアチブや、文民中心の紛争予防、紛争後の平和構築等、幅広い政策の検討こそがはるかに、平和憲法を持つ日本には相応しいはずだ。
 仮に「新ガイドライン」と「安保法制」に歴史的な意味があるとすれば、日本市民がそうした欠落に気づき、真に「積極的平和主義」の名に相応しいオルタナティブの議論が開始されることなのではないか。今こそ具体的な対案で「積極的平和主義」を市民のものにしようではないか。
(たまきかずひこ)

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8月14日に「戦後70年 東アジアフォーラム」開催
いまこそ戦後責任を果たし、アジアとの新しい関係を築こう!

戦後50年で出された「村山談話」に希望
 私の祖父は韓国・朝鮮人BC級戦犯でした。祖父は91年8月に他界しましたが、その後、祖父の友人である元戦犯たちが日本政府を相手に謝罪と賠償を求めて訴訟を起こしました。ちょうど同じ年の8月14日、韓国では金学順(キム・ハクスン)さんが日本軍「慰安婦」であったことを名乗り出て、日本政府に謝罪と賠償を求めました。冷戦の崩壊とアジアの民主化という境目にあって、日本の戦後責任を厳しく追及する動きが次々と現れ、それに連帯する日本人の動きも広がっていきました。
 そして「戦後50年」にあたる1995年に、「痛切な反省」と「おわび」を表明した「村山談話」が出されました。戦後50年を迎え、やっと日本の戦後責任が果たされるのではないか。そして日本とアジア諸国との関係も改善されていくのではないか。思春期の最中に戦後50年を迎えた私は、そんな希望を抱くようになりました。


東京で開かれたシンポジウムで発言する
元従軍慰安婦の金福童 (キム・ポクトン)さん。
(2015年4月23日・参議院議員会館)
※日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークのブログより
史実に向きあおうとしない日本社会と安倍政権
 しかし現実は甘くありませんでした。90年代の後半から、「新しい歴史教科書をつくる会」を筆頭とする歴史修正主義者たちが、日本軍「慰安婦」も強制連行も「日本を貶めるためのねつ造」であると主張しはじめ、侵略戦争と植民地支配を美化する教科書を採択させようと動き出しました。このような反撃を受ける中で政府による謝罪と賠償もおざなりにされ、日本人の歴史認識も歪められていきます。その帰結として、第二次安倍政権の誕生という今の危機があるのです。
 安倍晋三首相の最大の狙いは、過去の侵略戦争・植民地支配を美化し、「大東亜戦争はアジア解放のための自存自衛の戦争だった」と歴史を嘘で塗り固めることにあります。そのときもっとも障害となるのが「河野談話」と「村山談話」なのです。この二つの談話を歴史から抹消しようとする安倍首相の思惑は、もちろんうまくいっていません。米国をはじめとした外圧のために、二つの談話については「継承し、見直すつもりはない」と言わざるを得ませんでした。
 その一方で、日本軍「慰安婦」に関して「強制性を示す証拠はなかった」と発言するなど、あくまで両談話を無力化することに執着しています。今年8月15日に発表される新たな談話に関しても、「村山談話」で用いられた「痛切な反省」「おわび」という表現を用いる必要はないとしています。このように、安倍首相はあくまで戦後責任を否定し、歴史を歪曲しようとするのです。
 このような動きはどのような結果をもたらすでしょうか。戦争の悲惨さを嘘で覆い隠し、人々を再び戦場に送り込もうとするでしょう。また二つの談話を否定することは、中国・韓国のみならず世界各国との間に軋轢を生みだすに違いありません。そしてなによりも、戦後70年という歳月を経過してもなお謝罪と賠償を訴える被害者の声を黙殺することになるのです。

講演や分科会で歴史修正主義を批判、「慰安婦」問題でアピールも
 アピールも戦後50年で果たせなかった戦後責任。あれから20年という歳月が流れる中で、多くの被害者の方が無念のうちにこの世を去りました。私たちが失ったものは決して少なくありません。しかし、だからこそ戦後70年目となるこの2015年をあらためて戦後責任を果たすための、そしてアジアとの新しい関係を築くための契機としなければならないのです。
 8月14日、日本教育会館で「戦後70年東アジアフォーラム」が開催されます。この集会は、安倍首相の歴史修正主義を批判し、そして「日本が果たさなければならない責任とはなにか」を広く訴えかける集会です。記念講演では、ギュンター・ザートホフさん(ドイツ・「記憶・責任・未来」財団理事)にドイツが歩んできた道について、そして徐載晶さん(ソ・ジェジョン、国際基督教大学上級准教授)に日韓関係はどうあるべきかについて講演していただきます。
 午後は「日本軍『慰安婦』―終わらない戦争―」(戦後責任)、「記憶の継承と教科書」(歴史認識)、「『積極的平和主義』で失うもの」(集団的自衛権・戦争)、「オキナワ―そもそもの歴史から―」(植民地主義)の4つの分科会を開催し、それぞれのテーマで活動されてこられた方が発言されます。そして閉会集会では、ちょうど24年前の同日に金学順さんが証言されたということを記念し、日本軍「慰安婦」に関するアピールも行います。まさに戦後70年にふさわしい集会です。
 私も中学生の時に抱いた希望を今度こそ現実のものとするために、仲間の皆さんとともに集会を成功させたいと思っています。皆さんも是非ご参加ください。
(パク・スンハ)

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6月から機能性表示の食品販売始まる
安全性や効能に疑義 早急な制度見直し必要

4月から新たな「食品表示法」が施行され、その一つとして、機能性表示食品制度がスタートし、一部商品の販売が6月中旬に始まりました。これは「体脂肪を減らす」などの効能効果の証拠があれば、消費者庁に届けるだけで表示できるというものです。書類に不備がなければ受理され、60日後の販売が可能になります。
6月12日時点で届け出は約200件を超え、37件が受理されています。従来の特定保健用食品(トクホ)のように、食品メーカーが莫大な研究費を使って臨床試験をする必要はなく、第三者による既存の研究データを活用できるため、開発費が安く済むというメリットがあり、安倍政権の規制緩和政策の一つとされてきました。
しかし、すでに今年の本誌2月号でも指摘しているように、安全性や効果を示すデータの信ぴょう性が明らかでないことや、公開情報が不十分であることなどの問題点があり、消費者団体は最後まで制度の創設に反対してきました。こうした声を無視して、制度が始まりましたが、多くの問題点が改めて浮き彫りになりました。


キューサイが機能性表示食品として
届け出た「ひざサポートコラーゲン」
左上に機能性食品の表示
トクホで認められないものも届け出
 機能性表示問題に詳しい科学ジャーナリストの植田武智さんは、5月18日までに消費者庁から公表された21件の商品のうち、約半数で問題があったとしています。その中でも危険性が懸念されるものは、(株)リコムの「蹴脂粒(しゅうりりゅう)」と言う、体脂肪を減らす効果があるとされる商品です。以前、同じ成分でトクホとして申請した時に、食品安全委員会は、心血管系や呼吸器系など多岐にわたる臓器に影響を及ぼす可能性が否定できないと評価を下しています。トクホで認められないものが、機能性表示食品で販売可能となれば、制度の信用を得ることはできません。同じように、過去にトクホとして申請したが、「有効性が認められない」として却下されたものもあります。
 また、消費者庁のガイドラインでは、企業は機能性の証拠として、最終商品を使った人の臨床試験の論文か、過去の研究論文を再評価するシステマティックレビューを受けることが必要となっています。しかし、レビューの対象となる論文は自社の試験結果だけで、それを自社の別の社員がレビューして「効果がある」と判断している自画自賛的なレビューもあります。
 さらに、安全性については、関与成分を含んだ自社食品などの販売歴だけで安全だと評価しています。しかし、中には販売歴が1年未満のものもあります。消費者庁のガイドラインでは食経験の必要年数を定めていませんが、アメリカでは最低25年の摂取を目安としている事と比べて、あまりにも短すぎます。
 平和フォーラムも参加する「食の安全・監視市民委員会」(代表:神山美智子弁護士)では、消費者庁に対して、8件について具体的な商品名をあげて、食品表示法違反の疑いがあるとし、制度の早急な見直しを求めました。全国消費者団体連絡会も「国内外の公的機関が安全性や機能性を評価したりした場合は、否定的な結果を含めて消費者に情報を提供すべきだ。公的機関が安全性に疑義を示した製品の届け出は受理すべきでない」とする意見書を提出しています。
 板東久美子消費者庁長官も、5月27日の記者会見で、「トクホとして認められないという判断ならば、安全性の科学的根拠を否定する情報になると思う。信頼される機関で科学的根拠が明確に否定された場合は、届出受理の可否の問題に関わる」と説明していますが、具体的な措置は取られていません(6月15日現在)。

届け出さえしないインチキ「健康食品」会社
 「それにも増して問題なのは、こんなにも企業寄りの制度ですら利用しない企業だ」と、植田さんは指摘しています。食の安全・監視市民委員会では、4月に主要な健康食品会社41社を対象に機能性表示食品を届出する予定があるかアンケート調査を行いました。6月12日現在で27社から回答があり、企業によって対応に差があることが明らかになりました。
 特に、サプリメント大手3社の対応には大きな違いがでました。「ファンケル」は、積極的に機能性表示食品の届出を進めています。「小林製薬」は、「検討はしているが、個別製品については回答を控える」とし、一番ひどいのが「DHC」で、電話の問い合わせに対しても「回答しない」(社長秘書)としています。「DHCのサプリメントはいずれも、科学的証拠を準備しようともしないインチキサプリメントであることの証明だ。まさに、買ってはいけない」(植田さん)と言えます。
 その他にも、テレビのCMで有名なグルコサミンの「世田谷自然食品」や、しじみエキスの「日本食研」、ブルーベリーの「わかさ生活」なども回答拒否でした。「これらの健康食品を利用の方は、企業へ電話をして『機能性の証拠を見せろ』と要求してほしい」と同監視市民委員会は呼び掛けています。
(市村忠文)

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原水爆禁止世界大会の開催にあたって
「命」を基本に新たな出発を
原水禁世界大会実行委員会 事務局長 藤本 泰成

 被曝70年、原水禁の結成から50年の月日が経過しました。この間、一定の政治勢力に与することなく、人々の「命」に向き合い真摯に闘かってきた結果として、私たちは今、何ら臆することなく原水禁運動のこれまでの取り組みと主張の正しさに胸を張ることができます。
 しかし、そのこととは裏腹に、取り組みの結果としての社会は必ずしも私たちが喜ぶべきものになってはいません。「命」に向き合えば向き合うほど、ないがしろにされる現実が見えてきます。そのひとつ一つに丹念に取り組み、核兵器廃絶と脱原発、ヒバクシャへの援護と連帯にむけて積み上げてきたものが、戦後70年を迎える今、大きく瓦解しようとしています。70年前、1945年8月15日のあの敗北の日に平和を誓った原点に戻って、自らの社会をどうすべきかが問われています。

原発は構造的差別・暴力の中に存在していた
 2015年4月、核不拡散条約(NPT)再検討会議への原水禁派遣団は、ニューヨーク入りの前に米国ニューメキシコ州アルバカーキへ向かいました。1970年代から経済成長期における日本の電力の中心であった原子力発電所の燃料であるウラニウムの鉱山跡を視察するためでした。そして何世代にもわたってそこに住んできた先住民と話し合うためでした。
 「あるとき突然、企業がやってきて、自分たちの土地で何の説明なくウランを掘り始める。乾燥した環境でウラン鉱を含む粉塵が飛び、河川は汚染される。その危険性を誰も指摘しなかった。ゴールドラッシュならぬウランラッシュは、貨幣経済を浸透させ先住民の生活を一変させた。そして、ある日突然、鉱山や精錬所は廃止となり静けさが戻る。そこには、失業と放射性物質を含む鉱滓と、環境と健康、生活と文化の破壊だけが残る」─先住民というマイノリティーの居住地域だけに、徹底した差別と搾取が繰り広げられ、それは今も続いています。
 日本の経済成長は、そのような先住民の犠牲の上に成立したことを忘れてはなりません。日本の原発は経済的に後れを取った地方に、札びらで頬を張るがごとくつくられました。そして、そこに働く労働者は2次、3次と続く下請け労働者として、搾取の中に置かれました。原発は、そのような構造的差別・暴力の中に存在していたのです。原水禁の先達は、そのことに気がついたからこそ「核と人類は共存できない」との、核の平和利用さえも否定する「核絶対否定」のスタンスに立ったのです。
 2011年3月11日の東日本大震災・福島原発事故から、原水禁は「一人ひとりの『命』に寄り添う政治と社会」を合い言葉に、「さようなら原発1000万人アクション」の取り組みを展開してきました。そこには、個人の幸福追求の権利を基本に据えて、誰一人の不幸も許さないと言う徹底した考え方がなくてはなりません。構造的差別や暴力を根本から否定する思想がなくてはならないのです。

被害者に寄り添い被害者の視点で運動を
 震災・原発事故から4年が経過をしました。フクシマは今、まさにその差別と暴力にさらされています。2016年度末には避難指示のない自主避難者への住宅の無償提供、商工業者への営業損害賠償も終了します。放射線量が50mSv/y超とも言われる帰還困難区域を除く全ての地域で、2017年度末までには避難指示を解除し、避難者に対する精神的保障も2018年度末で打ち切るとしています。
 自民党東日本大震災復興加速化本部の額賀福志郎本部長は、「避難指示解除をきっかけとして避難している人が故郷に帰る道を切り開く」と述べていますが、その本音は帰宅させることで事故の風化を狙うと言うことではないでしょうか。もう、事故はなかったことにして「再稼働」を基本に原発政策の再出発を期すと言うことではないでしょうか。ここには「棄民」とも言える差別があります。
 先行して避難指示が解除された川内村東部地区では帰還率が10.5%にとどまっています。汚染地区の山中は除染が全く手つかずであり、山菜からは1kgあたり14000~270000ベクレル(食品基準100ベクレル以下)もの放射性物質が検出され、腐葉土も1kgあたり10000ベクレルを検出します。宅地周辺のみの除染では、安全な生活を営むにはほど遠い現実が残ります。
 原発の周辺の住民に原発事故に関して何の責任もありません。住民の生活を放射性物質によって汚染され崩壊させた犯人は、今や裁く側にまわっています。自主避難者に対して、ある福島県幹部は「自主避難者がフクシマは危ないとの風評被害を広げている側面がある」と述べたとされています。そこには、被害者に寄り添う姿勢のかけらもありません。原水禁は、常に被害者に寄り添い被害者の側からものを見てきました。そのことが、まさに今、日本社会の中で重要になっています。今国会で議論されている戦争法案は、日本社会の安全を強めることなく、私たちをテロや戦争の脅威に巻き込むものとなるでしょう。日本の被爆者が、何の結果として存在しているのかを見れば、そのことは明らかです。「命」を基本に、新たな出発の年にする原水禁世界大会にしようではありませんか。
(ふじもとやすなり)

原水禁世界大会の日程:8月1日・福島大会(いわき市)8月4~6日・広島大会、7~9日・長崎大会

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原水禁発足50周年に思う(6)
原水禁と世界の核被害者との交流
フォトジャーナリスト 豊﨑 博光

核の脅威を訴える運動の突破口
 原水禁が、世界の核被害者を運動の視野に入れたのは1971年12月にマーシャル諸島を訪れて水爆実験の被害者の調査を行った時と思われる。調査団の一行は、アメリカが1954年3月1日に行った水爆実験の放射性降下物をあびたロンゲラップ島とウトリック島を訪れることはできなかったが、中心のマジュロ島で多くの被害者に出会い交流した。
 調査団の一人で当時、原水禁事務局次長の池山重朗さんは著書『原爆・原発』(1978年、現代の理論社)で「世界の反戦・平和運動の中で、初めてマーシャル諸島を訪れ、水爆実験の犠牲者と直接交流できたことは成果であった。原水禁運動がこの地の被曝者と交流できたことは、運動発展の礎石をつくりえたことであり、彼らの被害の実相を世界に知らせ、救援する運動に着手したり、核兵器の脅威を諸国民に訴えるという運動を起こしてゆく突破口になるだろう」と書いた(一部省略)。
 翌72年8月、水爆実験が行われた時に、ロンゲラップ島の村長だったジョン・アンジャインさんが来日して広島と長崎の原水禁世界大会に参加し、多くの人びとが同じ水爆実験の被害をうけたマグロ漁船「第五福竜丸」の航跡の向こう側の実相を知った。以後、弟のネルソン(ロンゲラップ島村長)、チェトン・アンジャイン(マーシャル諸島上院議員、厚生大臣)などが来日して交流は深まり、水爆実験被害を立体的にとらえることになった。
 マーシャル諸島の核被害者との出会いから、原水禁は75年以後、ベラウの非核憲法制定支援など太平洋の非核・独立運動に積極的に関わることになった。


原水禁世界大会で報告する豊﨑 さん
(2013年8月・広島)
世界の核被害と被害者の実相を学ぶ
 80年4月、アメリカ、ワシントンで「全米放射線被害者市民公聴会」が開催され、ウランの採掘から核燃料と核兵器の製造、核実験、原発の運転と事故、核廃棄物の処分までの核兵器・核燃料製造のすべての工程に携わった労働者や核施設周辺の住民、79年におきたスリーマイル島原発事故による被害者などが参加し、国家による補償を訴えた。核大国アメリカは核被害者大国であることが明らかになったのである。
 原水禁がアメリカの核被害者大会に参加したのは84年10月のサンフランシスコでの「全米放射線被ばく生存者会議」が最初である。広島と長崎の原爆被爆者が参加し、ウラン採掘で被ばくしたアメリカの先住民族や被ばく兵士、ネバダ実験場の風下の被害者などの他、アメリカ西海岸に暮らす在米日系人・韓国人原爆被爆者と交流した。
 この時の核被害者との出会いと交流が、原水禁が世界の核被害者と共に反核・平和運動と核被害者問題に取り組む始まりとなった。85年8月には広島で「世界核被害者フォーラム」を、翌年8月には長崎で「核被害者フォーラム」を開催したことに続いて、87年9月にニューヨークで「第1回核被害者世界大会」を、92年にはドイツのベルリンで「第2回核被害者世界大会」を開催した。この間の90年5月にはカザフスタンで開かれた「核実験停止国際市民会議」に参加し、旧ソ連の反核運動家や核実験被害者などと交流した。
 以後、今日まで、大きな核被害者大会は開かれていないが、原水禁は毎年、世界の核被害者を招いて核被害の実相を学び続けている。また一方で、ヨーロッパやアメリカなどでの反核運動に参加する途中に各地の核被害の現場を訪れ、被害者と交流を行っている。

核開発は人間の生存の基盤を破壊する
 私は、78年のマーシャル諸島の核実験被害の取材後から原水禁の方々にさまざまなことを教えていただき、核被害者大会にも参加させていただいた。一連の核被害と核被害者大会の取材で学んだことは、軍事利用と平和利用を問わず核開発が生みだす被害は、人間の健康に影響を与えるだけではなく、心をむしばみ、故郷を核で汚染された人々は他の地への移住を余儀なくされることで、独自の伝統や文化、コミュニティが破壊される、言い換えれば人間の生存の基盤を破壊することを知った。核による文化や伝統、コミュニティへの影響と暮らしの破壊について、アメリカの核実験被害をうけたマーシャル諸島の人びとと東京電力福島第一原発事故の被害をうけた福島の人々の調査を行った国連人権理事会特別報告者は、「著しい人権侵害である」と指摘している。
 核被害の地を訪れ、被害者と交流し、学び、支援することで核の脅威を知らせ、核兵器廃絶と脱原発をめざす原水禁の運動は、2011年3月におきた東京電力福島第一原発事故の被害地・福島でも行われている。1971年にマーシャル諸島の水爆実験被害調査で学んだ「核の被害地を訪れて被害者と交流して被害の実相を知り、被害者の救援運動を行うことで核の脅威を知らせてゆく」という意思と、広島・長崎の原爆被爆者を含め核被害者から学ぶという原水禁の行動は受け継がれている。
(とよさきひろみつ)

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NPT再検討会議関連データ:削減ペース鈍化と余剰プルトニウム

 4月27日から5月22日までニューヨークの国連本部で開かれた核不拡散条約(NPT)再検討会議の初日の演説で、ジョン・ケリー米国務長官は、米国の核兵器について新しいデータを発表しました。2014年9月時点の核弾頭数は、予備なども合わせて、4717発、この他約2500発が解体待ちというものです。同長官はさらに、この20年間で1万251発を解体したことも明らかにし、2009年9月までに退役したものは2022年までに解体すると述べています。

 4717発というのは、本誌でしばしば引用している「米科学者連合(FAS)」のハンス・クリステンセンと「天然資源防護協議会(NRDC)」のロバート・ノリスが『ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ』誌3月号で発表していた米国の核弾頭数の推定と43発しか違わない数字でした。上の表は、クリステンセンが新しい数字を反映させてブログに載せた世界の核兵器データです。米国の数字が4700となっているのは、昨年9月以降退役になったと推定されるものを加味しているからです。約2500発の解体待ち弾頭を加えた合計7200発が米国の総数となります。この他に核兵器のプルトニウムの芯の部分「ピット」約2万個がテキサス州パンテックスの核弾頭組立・分解施設で保管されています。
 米国が昨年4月19日に発表したグラフを本紙の昨年6月号で紹介しましたが、そのグラフに最新のデータを入れたのが図1です。冷戦後減って来ていますが、オバマ政権での削減数はわずか500発ほどです。


遅れる余剰プルトニウム処分─増え続ける民生用
 図2は、世界の軍事用プルトニウムと民生用プルトニウムの量の推移を表しています。「国際核分裂性物質パネル(IPFM)」が5月8日、国連本部の会議室でカナダ政府と共に開いた説明会で発表したデータを処理したものです(フランク・フォンヒッペルIPFM前共同議長が5月19日に連合会館での記者会見で使用)。冷戦後の米ロの核削減に合わせて核兵器の解体が進み、そのプルトニウムが何らかの形で処分されていれば図2の軍事用部分も図1に似たようなカーブで減っているはずですが、グラフは処分が進んでいないことを示しています。米国が核兵器用余剰プルトニウムの処分に手を焼いている一方で、世界の民生用プルトニウムの量は増え続け、総量約500トンの半分以上が民生用となっています。
 民生用約260トンの内分けは、英国100トン、フランス60トン、ロシア50トン、日本47トン、日本以外の非核保有国合わせて5トンとIPFMは推定しています。非核兵器国で唯一の工業規模の六ヶ所再処理工場が動き出せば、年間8トン(核兵器1000発分)もの割合で日本の量が増え続ける可能性があります。

各地からのメッセージ
継続は力なり!反核座り込み400回
原水爆禁止長崎県民会議 副会長 矢嶋 良一


 今年は、長崎へ原爆が投下されてから70年の節目を迎える。平和祈念像前の公園で毎月続けられて来た「反核9の日座り込み」が、5月9日、1979年3月から座り続けて400回目を迎えた(写真)。初歩的な実験で放射線漏れ事故を起こした欠陥原子力船「むつ」が1978年10月16日に佐世保港へ強行入港した。その後、「むつ」廃船の旗を高く掲げ、非暴力の座り込みが始まり、82年8月に「むつ」が出港した後、「反核9の日座り込み」と名称を変更.毎月9日に行うようになった。
 平和式典が営まれる8月9日を除き、雨の日も風の日も36年間の長きにわたり黙々と座り込み、中止されたことは一度もない。核兵器廃絶と世界平和を求め地道な取り組みが展開される中で、今や広範な市民運動へと拡がっている。
 当初は県労評、原水禁の呼びかけで30人の組合員から始まり、次第に参加者が増え続け、今では被爆者、被爆2世、被爆体験者、市民、高校生へと拡がり、この5月には約210人が集い「核も戦争もない世界をめざす」ことを誓い合った。核兵器廃絶に希望の光が見えた時もあれば、絶望に打ちのめされた時期もあった。しかし、どんな時でも、核兵器廃絶は被爆地長崎の責務であり、長崎が諦めてどうする。「むつ」を廃船に追い込んだように「この地球上から必ず核兵器を無くしてみせる」という、参加者の強い信念が揺らぐことはなかった。
 当初考えた通り、捲まず、弛まずコツコツと取り組んだ結果、歳月を重ねるにつれ、核廃絶という被爆県長崎の意志を国内外に示すために市民の誰もが参加できる場所として、平和運動の活力あふれる交流の拠点になり、存在感を増している。
 この春、ニューヨークで開催されたNPT再検討会議が、被爆者の期待を見事に裏切り、最終文書さえ合意できなかった。しかし、ここで悲観してはいけない。未来を見つめ、最初に約束したように、「50年後も100年後も核兵器がなくなるまで座り込みを続ける」ことを決して止めてはならない。長崎の平和運動の役割が、これまで以上に大きくなったことをかみしめ、我々のピースロードはこれまでも、これからも続く。
(やじまりょういち)

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〔映画の紹介〕
戦後70年記念作品『おかあさんの木』
磯村一路・監督・脚本(2015年/東映)


 「おめでとうございます!」「本当に名誉なことですね!」と息子が戦地へと出征することが決まった母親が言われて嬉しいだろうか。「神州不滅」そう信じて、戦況悪化を疑わない世論の中、「もしかしたら死ぬかもしれない...」という思いを抱きつつ、「息子も、お国のために闘うことが出来ます。ありがとうございます」と言わなければならないその思い。
 土地の整備事業で伐採の必要に迫られた7本の桐の木。何故その木を切ってはならないのか。それを説明する形で、回想が始まる。舞台は100年ほど前の長野。姉夫婦に里子に出した六男を含め、七人の息子を産んだ母親が主人公である。夫の突然の死。成長した息子たちに届く赤紙。「お国のため」という名目で戦地へと子どもたちを送り出していく母親。長男を笑顔で送り出した彼女も、いつしか息子の脚にすがりつき「行かないでくれ」と出征の場で声を上げる。
 また、映画の題名にある「木」とは、息子たちを戦地に送り出すたびに桐の木を一本ずつ植えたことからきている。母親はその木に息子の名を付け、語りかけ、息子たちが無事に戻ってくることを強く願いながら大事に育てていく。どんどんと育っていく桐の木とは裏腹に、息子たちの「名誉の戦死」の報せが届く。どれだけの時間が過ぎたのか、若く美しかった母親も、白髪になり、やつれた様子を見せていく。戦争が終わったと知らされても、誰一人として、7人の息子は帰ってこない。それでも母親は、「戦争に行かせてしまった自分が悪い」と嘆きながら、息子たちの帰りを待つ。終戦翌年の冬、唯一人、生死がわからなかった五男が傷だらけの姿で戻ってくる。「生きて帰って来ました」と発する声もむなしく、母親は桐の木の下で、木に語りかけるように亡くなっていた。
 製作陣は、この話をどれだけまっすぐに伝えるかを重視したという。この作品は「母子の愛」を扱っているからこそ、心に響きやすい。「ただいま」「おかえり」というその言葉さえも言えなくさせてしまう「戦争」が望まれることは決してないのである。6月から全国公開中。原作:大川悦生「おかあさんの木」(ポプラ社刊)。
(橋本麻由)

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核のキーワード図鑑


憲法を壊して戦争する国づくり

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とめよう!戦争法案「戦争させない・9条壊すな!
総がかり行動」7月の行動

 安倍政権の「戦争法案」に反対する「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動」は、6月14日の2万5千人が集まった「国会包囲行動」をはじめ、連続座り込み行動などに毎回多くの市民・労働者の皆さんが参加しています。しかし、政府は、今通常国会の会期を延長してまで、法案の成立を強行しようとしています。
 「戦争をさせない1000人委員会」などは、7月も引き続いて連続して行動を展開することにしています。現在のところ、以下の行動を予定しています。また、全国でも一斉行動が行われます。

(1) 木曜連続行動毎週木曜日の18時30分から1時間程度、衆議院第二議員会館前を中心に「戦争法案反対!木曜日連続行動」を行います。(7月2日、9日、16日、23日、30日)
(2) 7.14集会日時:7月14日(火)18時30分~場所:日比谷野外音楽堂
(3) 7.26国会包囲行動日時:7月26日(日)14時~場所:国会周辺
(4) 7.28集会日時:7月28日(火)18時30分~場所:日比谷野外音楽堂

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