ニュースペーパー、沖縄コーナー

2020年05月01日

沖縄平和行進とは? その歴史と意味を振り返る

沖縄平和運動センター事務局長 岸本 喬

1978年5月、5・15平和行進が歩き出しました。復帰-日本への返還から5年を経ても変わらぬ「基地の島、沖縄」の内実を問うために。

1972年5月15日、沖縄は日本になりました。では沖縄人が日本人になったのか?については、今回与えられたテーマではないので機会があれば一石を投じてみたいと思います。

さて、若い方々は本文中の用語等「?」については紙面の都合上ご自分でググってくださいね。

戦後27年間の米軍占領と復帰闘争

1945年6月23日の慰霊の日が沖縄戦終結と一般には認識されていますが、実際の降伏調印式は同年9月7日に現米軍嘉手納基地内で行われました。以来、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約第3条による「沖縄切り捨て」を経て復帰まで、米国の軍事植民地と形容されてもおかしくない占領政策、軍人(中将クラス)が就任する高等弁務官がおかれ、行政・立法・司法の3権をすべて掌握された期間が27年間続きました。特に象徴的なのは、第3代高等弁務官キャラウェイは「沖縄住民による自治は神話にすぎない」と住民自治をすべて否定した政策をとりました。

本土で60年安保闘争が燃え上がるときを同じくして、1960年4月28日、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、自治権と人権のたたかいとして、また沖縄における組織的なたたかいが形成されていきます。それでも人権蹂躙の銃剣を向けた米軍に対し、戦争放棄と基本的人権、国民主権の平和憲法への復帰を求めて、沖縄大衆のたたかいが沸き起こっていきました。復帰運動とは、憲法のない時代に憲法前文が謳う「平和的生存権」を自らたたかいとる運動と言われています。

一方、60年代、ベトナム戦争が激化する中、沖縄基地を「自由使用」する米軍は、嘉手納基地を拠点にB52による北爆などを行い、殺人的爆音をまき散らし、またある意味では戦争犠牲となっている米兵によるレイプ、殺人など凶悪犯罪をはじめ事件、事故が横行していきます。それらに屈せず、権利を守るたたかいは続けられます。

復帰運動は、本土との連帯した全国的な運動に拡がり、国際的な運動へと発展していきます。「27年間の心血を注いだ復帰闘争は、県民の要求をすり替えた欺瞞的返還であり、結果的には新たな琉球処分であるが、歴史の発展法則から一定の評価をしなければならない。(仲宗根悟復帰協事務局長・故人)」として、「欺瞞的返還であるが、県民の主体的闘いによって国民運動、国際連帯運動にまで発展させ勝ち取った初歩的勝利である。」「沖縄闘争とは、究極において人間解放の闘いに結びつく極めて高次元の政治課題であり、全国的な闘いに、更に継承・発展させなければならない。」などと復帰協は総括しています。

第2回平和行進 西コース出発式
第2回平和行進 西コース出発式 名護市役所旧庁舎(現・市博物館)1979年5月

復帰の内実を問う平和行進

「(前略)…1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された しかるが故に この碑は…(中略)闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり…(後略)」。辺戸の岬に建つ復帰闘争碑文にはこう謳われています。

戦後50年平和大行動として実施 北部東コース1995年5月
戦後50年平和大行動として実施 北部東コース1995年5月

今年復帰48年を迎えます。基本的人権は保障されているでしょうか。主権は私たちにあるでしょうか。軍隊は、戦力は、戦争はなくなっているでしょうか。殺人的爆音、レイプ、殺人、事件事故の数々、米軍占領下から変わったでしょうか。復帰に際し日本政府は「核抜き本土並み」と宣言したがそれは果たされているでしょうか(注.沖縄側は「即時・無条件・全面返還」)。そう問い続けながら42回、基地の島、核の島沖縄において平和行進を歩いてきました。沖縄の内実の問いかけは、全国の問いかけでもあります。「沖縄から安保がよく見える」とよく使われます。2020年の今、全国で安保がよく見えています。今年は残念ながら中止となりましたが、来年5月ぜひ沖縄に足を運んでください。

連帯し、憲法を、民主主義を私たちにとり戻しましょう。(きしもと たかし) 

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