ニュースペーパー

2021年02月01日

毎日もやもやしながらでも運動を続ける

インタビュー・シリーズ:162
小説家 矢口敦子さんに聞く


矢口敦子さん

やぐち あつこさんプロフィール

1953年 函館市に生まれる。/1965年 小学校休学/1966年 東京に転居/1969年 二度目の心臓手術/1971年 中学校卒業程度認定試験合格/1974年 大学入学資格検定試験合格/1979年 慶応大学文学部通信課程卒業/1990年 札幌に転居
 『かぐや姫連続殺人事件』でデビュー。代表作に『償い』(幻冬舎文庫)、『人形になる』(徳間文庫)、『最後の手紙』(集英社文庫)等。


─矢口さんは小説家でいらっしゃいますが、反原発の運動にずっと携わってこられたとお聞きしています。最初に反原発、脱原発の運動に関わるきっかけをお聞かせください。

1970年代に中山千夏さんたちが作った革新自由連合という文化人が中心となった政治団体がありましたが、その団体にボランティアで加わっていました。そこで、東大の自主講座の宇井純さんが「やっぱり原発って危ないらしいよ」とお話しされたのを聞きましたが、その後、1979年にスリーマイル島で原発事故が起こって、「ああ、やっぱり危ないんだ」と思い、1980年に小さな反原発グループに入ったのが始まりです。1990年まで東京にいたので、それまでずっと東京で反原発運動をしていました。

─3・11のときはどこにいらっしゃったのですか?

札幌におりました。大きな地震でしたので、原発がどこかやられないかと心配していたら、案の定という感じで。どんどんどんどん原発事故が広がっていくので、毎日、地図で北海道と福島の距離を測っていました。北海道まで放射性物質が飛んで来たら、日本は食糧庫を失ってしまうと思ってほんとうに心配でした。少し落ち着いてからは、悔しいというか、悲しいというか、なんとも言えない気持ちになりました。札幌にいても、東京電力に対する株主運動をやっていたのですが、あの年はとにかく東京電力にすべての原発を止めるようにと株主提案をして、デモにもでかけました。とにかく悲しかったし、みんな無事でいてほしいと思っていました。いまでもあの当時のことを思い出すと、気持ちが沈みます。東京電力に対する怒りが湧いてきたのはしばらく経ってからのことです。

─福島の事故から10年経ちましたけれども、この10年の運動や、または10年間の福島についてはなにか話さなければいけないということはありますか。

私は日本で大きな原発事故が起きたら、政府は原発から手を引くと考えていました。いまになってみるとそれはとても甘い考えでした。私は原発が止まるだろうと思っていましたので動き出すのが遅かったですし、反原発の運動をやっている中には、私と同じように甘い考えの人間がたくさんいたのではないかと思います。原発推進派に比べたらほんとうに甘いですね。そういう反省というか、怒りといったものがあります。

─これだけの事故を起こして、福島があんなひどい状況になったのですから、もう原発政策はもたないと考えるのが普通だと思います。しかし、いまの政府はそうではない。気候危機の問題が出ると原発に頼るしかないという発言を始めます。ドイツはチェルノブイリのあと脱原発の方向性を作り上げてきました。福島のあとは脱原発に向けて動いているわけですよね。この政治の土壌と違いをどのように考えたらいいのかをお聞かせください。

政治もそうですが、日本の国民自体が忘れっぽいのではないかと思います。なにか起きたときに突き詰めて考えるということが少ないです。日本という国は自然災害に何度もやられてきて、忘れるしかないという土壌ができているのかもしれません。政府はしっかりしてほしいけれども、その政府を選んでいるのは国民なのだから、国民がしっかりしていないのだろうな
と、少しきつい考えかもしれませんが、そう思います。
3・11直後は誰もが原発はいやだと思ったはずですし、東京電力の株主総会でも、私たちの原発廃止の提案に賛成の手が林立しました。その状況に比べて、いまの東京電力の株主総会は原発賛成派、容認派にのっとられている、あまりにひどい状況です。原発より電気がある快適な暮らしがしたいとか、そういう人が多いのかなとも思います。地震や風水害で多くの人が亡くなっていく、そういうものを乗り越えていくときに、忘れるというのもひとつの方法であるとは思いますが、原発事故は自然災害とは違って人の手で防げるのですから、そのこと自体は忘れてはいけません。世論調査ではまだまだ脱原発という声は大きいのですよね。しかし、それが政治を動かすことにつながらない。
運動をやっていてさみしいところはありますね。

─札幌にお住まいになっていて、過度の電力依存から抜け出さなければと書かれていますが、冬に暖房を使わないのは厳しい。私も北海道の生まれで、冬の寒さと厳しさはよくわかっています。矢口さんはガス暖房を使われているのでしょうか。

電気を使わないで温まる暖房器具がないかと思っていろいろ探しましたが、やはりどこかで電気を使うのですね。ガス・セントラルヒーティングでも300ワット以上も使うので、それはちょっといやだなと思っていました。それで暖房を使うのをやめました。この部屋は集合住宅なので、熱が逃げない作りになっています。日中陽が差せば20度くらいになるし、夜になると16度くらいで、北側の部屋に行くと10度ちょっとですが、ダウンなどを着て耐えています。水道管を破裂させないために自動で暖房がつくことはありますが、数年前から自分では一切暖房をつけていません。

─個人の生活では努力して電気の消費量を少なくできますが、エネルギーとしての電気というものは社会経済がまわっていくために必要になっています。エネルギー政策についてはどのように捉えられていますか。

ペンクラブの環境委員会で風力発電とか小水力発電とかを見学に行ったりしていますが、騒音がひどかったり、風力発電でいえば渡り鳥の衝突による死傷とか、低周波音で牛が乳を出さなくなったというドイツの人の話も聞きました。太陽光発電では希少物質を使って発電するしかないのですよね。そういうことを考えると企業が省エネルギーの製品を作って、個人が少しは贅沢をあきらめるという、このふたつしかないのではないかと思います。エネルギー源と資源を未来の世代にまで伝えるのは、そういうことでしかできないのではないでしょうか。パソコンも冷蔵庫も、省エネルギーの製品に買い替えてはいますけれども、でももっともっと省エネルギーになってほしいと思っています。
スマートフォンだってガラケーに比べるとずっと消費電力が多いので、ほんとうにスマートフォンが必要なんだろうかと疑問を感じます。NHKが8Kのテレビを盛んに宣伝していましたが、それだって電気を食うのだろうなと考えると、電力消費ではなくて、省エネの方向に向かっていってほしいと思います。

─北海道では高レベル廃棄物の問題が寿都町と神恵内村で起きています。私たちは抗議声明も出しましたが、原発政策は寿都や神恵内のような生活や状況の厳しいところに付け込んできます。いま住民の人たちと話してみたいことはありますか。

ずっと都会に住んでいて、不自由なく暮らしている人間になにか言える資格はないと思うのですが、ただ、たった20億円ですよね。20億円なんてあっという間に消えてしまいます。そんなもののために自分たちの暮らしを売っていいのかと考えます。寿都の町長は洋上風力発電を造る財源にしたいと言っていましたけれど、福島では600億円以上をかけて洋上発電を造ったけれど、うまくいかなくて撤退しました。20億という一見大金に見えるお金で、どこか貧しい村に廃棄物を押しつけさせないためには、地層処分をしようという政府の政策を変えていくしかないと思います。廃棄物の処分は昔から言われていて、「トイレなきマンション」みたいな言われ方をしていたので、本気で考えなければいけないと思いますが、日本にそんな強固な地盤があるとは思えないですし、お金で村を操ろうというのもおかしい。ほんとうに難しいです。

─世界的に見ても最終処分場というのはどこにも決めきれていない難しい問題です。原水禁としてはいちばん安全なのはドライキャスクかと考えています。常時監視できる方法で当分は保管しなければならなのではないかとしか言えません。

同感です。私もそう思います。

─小説を書くようになったきっかけはありますか。

小学校2年生のときに夢を見て、その夢がおもしろかったので文章にしたのが始めです。30歳くらいのときに会社勤めをしましたが、8時間も他人といるのがいやで、それで、小説家なら誰にも会わなくて済むし、小説家になりたいと思いました。小説を書くということ自体が好きですね。私は出版社からの原稿依頼がなくても勝手に書いて、できあがったときに出版社に持ち込みます。テーマがあって書くのではなくて、書いていくうちにストーリーができてきて、自分でもどうなるかわからなくて、わくわくしながら書くということが多いですね。出版社からこのテーマでと依頼があって執筆する場合はひどいものしか書けないです。捨ててしまう作品も随分ありますが、とにかく書くのが楽しくて、毎日1行でも書きたいと思っています。

─最後にこれからの原水禁の運動についてお聞かせください。

これまでどおりがんばってください。私は裁判も関わったし、選挙運動も関わったし、集会もいろいろ出てきました。これ以上なにをやったら今の政権を変えられるのかがわからなくて、ある意味お手上げ状態です。新しい展開がまったく見えませんが、でもお手上げだと言っているわけにはいかないので、毎日もやもやしながらでも運動を続けるしかありません。一緒にがんばっていきたいと思います。

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