インタビュー

2020年05月01日

どんな状況でも声を上げ続けていくことが大切

青木 初子さん

インタビュー・シリーズ:156
青木 初子さんに聞く

あおきはつこさんプロフィール

沖縄出身

沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック

部落解放同盟東京都連合会品川支部

─最初に沖縄での子どもの頃のことをお聞かせください。

父は強制労働で大阪に行き、そこで好きな女性ができました。敗戦後、単身で沖縄に帰ってきた父は、しばらくしてその女性を大阪から呼びました。その時、母は私を妊娠していて、もうすぐ生まれるという時期でしたが、父は家から追い出したのです。友達の産婆さんが、私を取り上げてくれましたが、母は豚小屋で産んだと言っていました。ですから、私は父親と暮らしたこともなくて、父親に対しては何の思い出もなく育ちました。私の上に3人の兄姉がいますが、いちばん上の姉は沖縄戦で亡くなり、平和の礎に名前が刻まれています。母は父の家から逃げてきた兄と姉も引き取り、野菜の行商をして私たちを育ててくれました。近所でも最も貧しい家庭でした。母にご飯を作ってもらったという記憶はなく、料理は子どもの仕事でした。私は、高校を卒業すると沖縄で実施されていた本土の大学への留学で、1966年、パスポートをもって新潟大学歯学部に入学しました。お金を儲けて母に楽をさせたいという気持ちでした。しかし、中途退学してしまい、しばらくは敷居が高くて家に帰れませんでした。

大学中退後、東京に出てきました。1970年頃です。そこで労働運動と部落解放運動をやっている夫と知り合いました。はじめの頃は、部落差別と言っても、「何が部落だ。部落だって日本じゃないか」という反発心がありました。部落解放運動のなかで、1980年に品川区の学校用務員として採用されました。現業の定年制が敷かれ、多くの年配者が切られ、新たに新規採用が行なわれたころでした。私が部落解放同盟ということで、ほかの職場から「部落解放同盟の人ってどんな顔をしているのか」と私を見に来た人もいました。「沖縄って、英語を話しているの」と質問されたこともありました。

そのころ学校警備に対する合理化案が提示されていて、それに対する組合の案に私は納得がいかず、いま反対の声を上げないと後悔すると思って、「現場の声」という機関誌をつくり発行、全学校職場に配布し、執行部の提案に反対しました。闘わずに、自ら合理化することに納得いかなかったのです。職場の用務の仲間は私を応援してくれました。組合運動をやるために入ったわけではありませんが、執行部に反対してやらざるを得ませんでした。その後、上部団体の自治労か自治労連かの路線選択のたたかいもあり、学校用務協議会の事務局長として多くの仲間に支えてもらいました。

─青木さんの中にどうしてそういう闘志が湧いてくるのですか。

部落問題や労働問題もそうですが、差別に対する怒りです。「ふざけるんじゃない!」「ばかにしているのか!」という怒りです。学校に入るまでも、全国一般南部のパートの組合を作って、身分保障せよとたたかったりしていました。学校現場は、校長が頂点のピラミッド型になっていて封建的なところがありましたね。あらゆるところで用務員の声がなかなか上に届かない、無視されてしまう。そういう理不尽なことに対する怒りです。生意気でしたね。花壇で草取りをしていたときに、校舎の上の階から子どもに唾を吐きかけられたときは、三階まで駆け上がっていき、怒鳴りつけたこともあります。でも、子どもたちは真剣に向き合えば、ちゃんと応えてくれました。

─沖縄復帰のときのことを教えてください。どのようにお考えでしたか。

初めは平和憲法のもとに戻るんだと思っていましたね、本当に。日本に帰ったら基地がなくなるんだと。今は「日の丸・君が代・元号」に反対しているが、その時は単純に「日の丸」は祖国復帰の象徴だったんですよ。「君が代」も歌ったことがなく、知りませんでした。それが「即時無条件全面返還」ではなく、基地はそのままだということがわかり、ベトナム戦争もあり、反戦復帰、復帰反対に変わっていきましたね。屋良朝苗主席が沖縄県の意見をまとめて建議書として国会に持って行ったときも、政府は抜き打ちに強行採決し、まったく無視して議論すらしなかった。2013年1月の「建白書」と同じです。今も続く「沖縄の民意無視」の抑圧です。憲法の上に、日米安保条約があって、地位協定があって、その中での復帰という仕組みの矛盾。あのときの学生たちは問題意識としてみんなが持っていたと思います。私もその中のひとりです。

─その世代がこの日米安保60年の年に、あまりものを言わないと機関紙のコラムに書きましたが、そうは思いませんか。

そのとおりです。システムの中に埋没しちゃって、いいおじいちゃん、おばあちゃんになってしまっています。私たちのときから今に至るまで、本当の教育というのがなされていないのではないでしょうか。とうとう道徳教育までやられるようになって。ものを言わないような、物事を知らせないような教育、そのほうが権力には都合がいいんですね。難しい問題を避けて、生活が豊かになることがよいとされてきているので、自民党の教育が功を奏しているのかもしれませんね。

2月11日の「建国記念の日」に反対する集会に参加したときに、いちばん印象に残ったのが日韓の高校生のディスカッションでした。平和大使にもなった日本の高校生が、疎外されるのが心配で友だちの中で政治の話とか集会の話ができないということに大変驚きました。韓国では普通に話せることが日本の高校生は友だちにもその話ができない。そういえば、地域でも政治の話がタブー視されていますよね。「愛知トリエンナーレ」どころではなく、私たちは日常的に表現の自由が保障されていないのではないか。自民党支持ならOK、天皇制万歳ならいいけれど、ほかの権力に反する話は一切ご法度ということが暗黙のルールになっているのではないか。今年は天皇代替わりがありましたが、ましてや天皇制批判などご法度ですよね。憲法の思想信条の自由、表現の自由が保障されていないことに危機感を覚えます。

もうひとつ左翼といわれている、いまの政権に反対する人たちにも問題があると思います。先日も法案に反対して自分だけ起立しなかった立憲民主党の議員が、離党届を出したという報道がありました。このことにも私はとても腹が立ちました。いろいろな考えがあって、ぶつかりながらでも団結しなければ闘えないんです。自民党を割るくらいにしないといけないのに、こっちが割れてどうするのだという思いです。巨大な自民党があって、反対勢力はほんとうに小さいのに、その中で喧嘩して更に小さくなって。なにをやっているんだと怒りがわきます。地をはうようにたたかっている人たちがいるのに。

こういうことでは安倍政権を崩せない、いつまでたっても自民党がなくならない原因のひとつではないでしょうか。民主党の鳩山さんが総理になったときにもみんなが痛烈に批判したでしょう。はじめて政権をとって、うまくいくわけはない。それを支援していかなければならないのに、足をひっぱってどうするんだと。いろんな問題がありながらも、反自民の政権を作っていかなきゃならないのに。

─私もそう思います。次に沖縄の運動についてお聞かせください。

辺野古の工事が始まった時に、銀座や有楽町でバナーを持ってスタンディングを始めました。解放同盟の仲間が後押しをしてくれ、私は沖縄問題で発言するようになりました。そして、仲間と共に南部の会という個人加盟の小さな組織を作りました。翁長さんや山城さんが国連でスピーチをしたとき、反差別国際運動の国連ジュネーブの事務局が大きな役割を果たしました。それは1988年に部落解放同盟が立ち上げた日本で初めての人権NGOです。その反差別国際運動がすごい力になっているということを知ったとき、部落解放運動ってなんてすばらしいんだろうと感動しました。そして自分が解放運動をやっていることに改めて誇りを持ちました。

─安倍政権の沖縄政策、安倍政権になってから辺野古も含めてものすごく強行にやり始めたという印象があります。安倍政権の沖縄政策というのはどのように思っていますか。

税金を湯水のように使って武器を爆買いして、辺野古にしても、軟弱地盤があることがわかっていて、崩壊するかもしれないと指摘されているのに、とにかく基地建設を強行する。三権一体となって沖縄の民意を踏みにじっています。それは安倍政権になってあからさまに見えただけで、今までもそうだった。復帰のときも、屋良朝苗主席の建議書を全く無視して、国会で強行採決した。2013年の「建白書」のときも同じように日本政府は無視しました。日本本土を守るために沖縄を捨て石にして、戦後は日本が独立するために沖縄をアメリカに差し出した。沖縄の民意というのは一度も顧みられたことがないと私は思っています。軍事基地は他の県ではいらないから沖縄に置いている。基地があることによって騒音、性被害、土地や海の汚染・・・・・。沖縄だって他府県と同じように基地はいらないんですよ。しかし沖縄には民意を踏みにじって強行する。そういう支配の構造に沖縄の歴史は置かれ続けてきた。昨年、アメリカのNGOが辺野古・大浦湾を日本で初めて「希望の海」に指定しました。「希望」を見つめながら闘っていく、どんな状況になっても声を上げ続けていくことが大切だと思います。特に、安倍政権は、違法・強権・弾圧で沖縄に襲い掛かっています。「沖縄に寄り添って、基地の削減に取り組む」という言葉を聞くと、寒気がします。絶対に許せません。

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