歴史を学ぶ

2020年12月01日

「誠信の記憶」を見て

歴史を学ぶ、そして今をつくる!

WE INSIST!

今年の「憲法理念の実現をめざす第57回大会」は、大会が始まって初めて湖国滋賀県で開催された。コロナ禍の中の集会で、WEBを十二分に活用した大会になった。大会二日目のはじめに上映された「誠信の記憶」と題したビデオに感動した。朝鮮半島と滋賀のつながりの中で、日韓、日朝の問題を捉えたもの。戦争をさせない1000人委員会滋賀の共同代表で日朝交流を研究されてきた京都芸術大学の仲尾宏さんと朝鮮史研究を専門とされている滋賀県立大学の河かおるさんのガイドに誘われ、朝鮮との交流の陰と陽を学ぶ。日韓の間では、元徴用工裁判を中心に対立が続き、日朝関係は安倍前首相の「拉致三原則」が立ちはだかってびくとも動かない。国内では、朝鮮学園で民族教育を学ぶ子どもたちに、授業料無償化措置からの排除が続く。朝鮮幼稚園は幼保無償化から、朝大生は学生緊急支援金制度からも外された。現在の日本と朝鮮半島の不幸な関係はいつまで続くのか。解決の方法はないのか、このビデオを見ながら、もう一度日本と朝鮮半島の歴史を学びなおして、考えてみてはどうだろうか。

飛鳥の時代から、日本人の目は西へ、大陸へと向いていた。古代から様々な文物をもたらすのは西方であり、朝鮮半島だった。そこは、日本人にとって憧憬の地であり、新文化の摂取の地でもあった。日本列島と朝鮮半島は、旧石器時代や縄文時代から交流のあることが様々な出土品から証明できる。特に百済との交流は活発で、論語を伝えたとされる王仁や五経博士の段楊爾などは著名だ。石上神宮の七支刀や仏教の公伝などは百済第26代聖明王の時代とされている。様々な資料が、朝鮮半島南部の百済との交流を明らかにしている。660年の百済滅亡後は、多くの百済人が近江大津の宮に渡来したが、彼らの知識は律令制度を中心とした政治制度の確立に大きな役割を担った。

近江大津宮はわずか5年、壬申の乱後政権を掌握した大海人皇子は、飛鳥浄御原宮に遷都した。それから1000年の時が経過した1607年、秀吉の朝鮮出兵の過去を清算して「朝鮮通信使」が滋賀を通るようになる。最初の通信使は「回答兼刷還使」と呼ばれ、朝鮮出兵に対する謝罪と捕虜の刷還(帰還)を求めるものであったらしい。対馬藩の働きもあって4回目からは通信使となり、江戸時代に12回も実施された。仲尾さんが話されるように、それは対等な関係であり、朝鮮人街道の名称が残る滋賀県を含めて全国にその遺構が残る。鈴鹿市東玉垣町や瀬戸内海に面した岡山県牛窓町の唐子踊りなどは、朝鮮の文化が大きく反映されている。ビデオを見ながら、是非ゆっくりとその跡を尋ねる旅がしたいと考えた。

近江ゆかりの儒学者に、新井白石・室鳩巣ともに木下順庵門下の十哲に数えられた雨森芳洲がいる。芳洲は、幕府より朝鮮方佐役に任命され朝鮮に7度も足を運んでいる。仲尾さんは、芳洲が秀吉の朝鮮出兵を「無謀の極み」と批判したこと、そして「争わず、偽らず、真実を以て交わり候を、誠信の交わりと申し候」との芳洲の言葉を紹介している。

日本は、1910年に朝鮮半島を植民地として、敗戦まで過酷な政策を強要した。滋賀県各地にも強制連行・強制労働の痕跡が残っている。河さんは、滋賀県内で確認できる範囲で700人くらいが強制連行されてきたと語っている。

敗戦から75年、日本政府は韓国の元徴用工が起こした裁判に対して、解決済みとして一切応じようとしない。加えて、在日朝鮮人の民族教育を認めず、無償化措置から排除し日本の学校に通えとの植民地政策同様の主張を繰り返している。11月3日の国会議事堂前で開催された憲法集会で朝鮮大学4年の学生は、「私たちは自国の言葉を学ぶことも許されないのですか」と、朝鮮学園への差別に抗議した。75年も経過しながら、日本と朝鮮半島は、心から理解し合えているとは言いがたい。これまでの政治の不作為としか言い様がないのではないか。仲尾さんは、芳洲の「誠信の交わり」は多文化共生の考え方と評した。河さんは、強制連行の歴史の中から「平和っていうものを作っていこうと思ったら、市民こそが歴史を忘れたら絶対だめだと思う」と結んだ。滋賀朝鮮初級学校の鄭想根校長は最後にこう話した。「朝鮮通信使が通った東海道(朝鮮人街道)は、実は本校の真横、そこを2000人の行列が行く。鳥肌が立つ。そんな実体験がこの近江の地にある。じゃあ、私は、あなたは、ともに何をなすべきか。何ができるか。」私たちも考えたい。(藤本 泰成)

憲法理念の実現をめざす第57回大会で上映:「誠信の記憶https://youtu.be/HBCuxMY7MsY

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