沖縄 | 平和フォーラム

2024年06月28日

【平和フォーラム声明】繰り返される米兵による女性への暴力・暴行事件に強く抗議する

平和フォーラムは6月28日付で、以下の声明を発表しましたので、お知らせします。

繰り返される米兵による女性への暴力・暴行事件に強く抗議する

昨年12月、嘉手納基地所属の空軍兵士が沖縄本島中部の公園で声をかけた16歳未満の女性を誘拐して米軍基地外の自宅に連れ込み、性的暴行におよぶ許しがたい事件が発生した。

事件当日の女性の家族からの110番通報をもとに沖縄県警による捜査が行われ、今年3月27日に起訴に至った。起訴を受けて外務省はエマニュエル駐日米大使に綱紀粛正と再発防止の徹底を申し入れたが、他方で沖縄県には何の連絡もしなかった。このため、沖縄県は6月25日に報道があるまで、起訴から3カ月が経ってもこの事件を把握できないままだった。これについて、林官房長官は「関係者のプライバシーへの配慮」「捜査公判への影響の有無を考慮」したと釈明し、外務省の報道官も「常に関係各所への連絡通報が必要だとは考えていない」と述べている。しかし、県民の生命や安全を守る責務を負う沖縄県に通報がないことは重大な問題であり、日本政府や外務省は「被害者のプライバシー」に配慮したのではなく、6月16日に投開票が行われた県議会議員選挙や6月23日の「慰霊の日」の岸田首相の訪沖といった政治日程を踏まえて沖縄県内で事件への抗議の声が高まることを恐れたのではないか。また、これまでの辺野古新基地建設をめぐる国と県の対立が影響を及ぼしたことも否めない。

起訴により日米地位協定にもとづいていったん日本側に引き渡された被告の米兵の身柄は、現在は保釈によりふたたび米軍基地内へと移されている。6月25日の報道によりこの事件が発覚した後、27日に沖縄県庁を訪れた米第18航空団のエバンス司令官は被告について「裁判期間中は基地の外へ出られないよう関係者に指示し、パスポートも差し押さえている」と報告しているが、米軍基地内での米軍による身柄確保は過去に米兵が引き起こした犯罪事件を振り返ると、証拠隠滅や逃亡の懸念がぬぐい切れない。そもそも在日米軍基地内では日本当局による出入国審査が行われておらず、パスポートを取り上げることが被告の逃亡を防ぐ有効な手段であることを意味しない。しかも、エバンス司令官とドル駐沖縄米国総領事は県庁を訪れた際に「遺憾の意」は表明したものの、被害者や県民への謝罪の意志は示さなかった。

沖縄では、今回の事件にとどまらず、米兵による女性に対する暴行、暴力事件が相次いでいる。1972年の復帰後、2023年までの51年間で沖縄県内における米軍構成員(軍人、軍属、家族)の刑法犯による摘発は6235件、摘発者は6124人にものぼり、うち殺人、強盗、放火、不同意性交など「凶悪犯」の摘発は586件、759人をしめている。日本政府に県民、国民の安全や尊厳を守る姿勢が欠如しているなか、日米地位協定の下で犯罪を起こした米兵が適正に処罰されないこと、被害者への補償がなされないことも深刻な問題である。とくに不同意性交については被害者の多くが泣き寝入りを強いられており、表面化している摘発件数は氷山の一角に過ぎない。

今年に入ってからも米軍構成員の刑法犯による摘発は28件、34人にのぼり、うち「凶悪犯」は5件、4人を占めている。5月に20歳代の海兵隊員が女性に性的暴行を加え、抵抗した女性にけがを負わせて逃亡した後、通報を受けた県警に米軍基地外で不同意性交致傷の疑いで逮捕された。6月3日には海兵隊の大尉が飲酒したうえで交際相手の女性に暴行して全治日数不詳の打撲を負わせ、傷害の疑いで現行犯逮捕された。

さらに、4月には海兵隊員が県内のコンビニエンスストアでナイフを店員につきつけて現金約13万円を奪った強盗事件が発生した。6月9日深夜には北谷町のホテルで泥酔した海兵隊の少尉がホテルの備品を破壊して器物損壊で逮捕され、さらに22日早朝には北中城村で基準値の約3倍の酒気を帯びた状態で乗用車を運転した陸軍兵士が逮捕された。一般の兵士ばかりか将校までが事件・事故を繰り返すなど、米軍の規律の崩壊はますます深刻になっていると言わざるを得ない。

「綱紀粛正」「再発防止の徹底」では、米兵の犯罪はなくならないことは明らかである。新基地建設を阻止し、さらに沖縄から米軍基地をなくすこと以外に安心・安全な生活を実現する途はない。12月に発生した米兵による未成年の女性への性的暴行事件と日本政府・外務省の情報隠しに対し、これまでに浦添市議会、那覇市議会、北中城村議会で抗議決議が可決されている。平和フォーラムは相次ぐ米兵による女性に対する暴力事件、暴行事件に最大限の怒りをもって抗議し、沖縄の仲間たちとの連帯を強めつつ、米軍基地の撤去に向けたたたかいのいっそうの強化を決意し、全国に呼びかける。

2024年6月28日
フォーラム平和・人権・環境
共同代表 染 裕之
共同代表 丹野 久

2024年03月06日

『不当な「代執行」による大浦湾の埋め立てを許さない3.7学習集会』のご案内

「止めよう! 辺野古埋立て国会包囲実行委員会」が主催し、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が協賛で開催する以下の学習集会について、ご案内いたします。

『不当な「代執行」による大浦湾の埋め立てを許さない3.7学習集会』

日時:3月7日(木)18:30~
場所:文京区民センター3A 会場アクセス
主催:「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会
協賛:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会

下記の緊急の取り組みにも、御協力下さい。

・辺野古代執行訴訟・最高裁への緊急「団体署名」
・辺野古代執行訴訟・最高裁へ個人ハガキ運動

詳細は、「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会のサイトにて、ご確認ください。

 

2020年05月01日

どんな状況でも声を上げ続けていくことが大切

青木 初子さん

インタビュー・シリーズ:156
青木 初子さんに聞く

あおきはつこさんプロフィール

沖縄出身

沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック

部落解放同盟東京都連合会品川支部

─最初に沖縄での子どもの頃のことをお聞かせください。

父は強制労働で大阪に行き、そこで好きな女性ができました。敗戦後、単身で沖縄に帰ってきた父は、しばらくしてその女性を大阪から呼びました。その時、母は私を妊娠していて、もうすぐ生まれるという時期でしたが、父は家から追い出したのです。友達の産婆さんが、私を取り上げてくれましたが、母は豚小屋で産んだと言っていました。ですから、私は父親と暮らしたこともなくて、父親に対しては何の思い出もなく育ちました。私の上に3人の兄姉がいますが、いちばん上の姉は沖縄戦で亡くなり、平和の礎に名前が刻まれています。母は父の家から逃げてきた兄と姉も引き取り、野菜の行商をして私たちを育ててくれました。近所でも最も貧しい家庭でした。母にご飯を作ってもらったという記憶はなく、料理は子どもの仕事でした。私は、高校を卒業すると沖縄で実施されていた本土の大学への留学で、1966年、パスポートをもって新潟大学歯学部に入学しました。お金を儲けて母に楽をさせたいという気持ちでした。しかし、中途退学してしまい、しばらくは敷居が高くて家に帰れませんでした。

大学中退後、東京に出てきました。1970年頃です。そこで労働運動と部落解放運動をやっている夫と知り合いました。はじめの頃は、部落差別と言っても、「何が部落だ。部落だって日本じゃないか」という反発心がありました。部落解放運動のなかで、1980年に品川区の学校用務員として採用されました。現業の定年制が敷かれ、多くの年配者が切られ、新たに新規採用が行なわれたころでした。私が部落解放同盟ということで、ほかの職場から「部落解放同盟の人ってどんな顔をしているのか」と私を見に来た人もいました。「沖縄って、英語を話しているの」と質問されたこともありました。

そのころ学校警備に対する合理化案が提示されていて、それに対する組合の案に私は納得がいかず、いま反対の声を上げないと後悔すると思って、「現場の声」という機関誌をつくり発行、全学校職場に配布し、執行部の提案に反対しました。闘わずに、自ら合理化することに納得いかなかったのです。職場の用務の仲間は私を応援してくれました。組合運動をやるために入ったわけではありませんが、執行部に反対してやらざるを得ませんでした。その後、上部団体の自治労か自治労連かの路線選択のたたかいもあり、学校用務協議会の事務局長として多くの仲間に支えてもらいました。

─青木さんの中にどうしてそういう闘志が湧いてくるのですか。

部落問題や労働問題もそうですが、差別に対する怒りです。「ふざけるんじゃない!」「ばかにしているのか!」という怒りです。学校に入るまでも、全国一般南部のパートの組合を作って、身分保障せよとたたかったりしていました。学校現場は、校長が頂点のピラミッド型になっていて封建的なところがありましたね。あらゆるところで用務員の声がなかなか上に届かない、無視されてしまう。そういう理不尽なことに対する怒りです。生意気でしたね。花壇で草取りをしていたときに、校舎の上の階から子どもに唾を吐きかけられたときは、三階まで駆け上がっていき、怒鳴りつけたこともあります。でも、子どもたちは真剣に向き合えば、ちゃんと応えてくれました。

─沖縄復帰のときのことを教えてください。どのようにお考えでしたか。

初めは平和憲法のもとに戻るんだと思っていましたね、本当に。日本に帰ったら基地がなくなるんだと。今は「日の丸・君が代・元号」に反対しているが、その時は単純に「日の丸」は祖国復帰の象徴だったんですよ。「君が代」も歌ったことがなく、知りませんでした。それが「即時無条件全面返還」ではなく、基地はそのままだということがわかり、ベトナム戦争もあり、反戦復帰、復帰反対に変わっていきましたね。屋良朝苗主席が沖縄県の意見をまとめて建議書として国会に持って行ったときも、政府は抜き打ちに強行採決し、まったく無視して議論すらしなかった。2013年1月の「建白書」と同じです。今も続く「沖縄の民意無視」の抑圧です。憲法の上に、日米安保条約があって、地位協定があって、その中での復帰という仕組みの矛盾。あのときの学生たちは問題意識としてみんなが持っていたと思います。私もその中のひとりです。

─その世代がこの日米安保60年の年に、あまりものを言わないと機関紙のコラムに書きましたが、そうは思いませんか。

そのとおりです。システムの中に埋没しちゃって、いいおじいちゃん、おばあちゃんになってしまっています。私たちのときから今に至るまで、本当の教育というのがなされていないのではないでしょうか。とうとう道徳教育までやられるようになって。ものを言わないような、物事を知らせないような教育、そのほうが権力には都合がいいんですね。難しい問題を避けて、生活が豊かになることがよいとされてきているので、自民党の教育が功を奏しているのかもしれませんね。

2月11日の「建国記念の日」に反対する集会に参加したときに、いちばん印象に残ったのが日韓の高校生のディスカッションでした。平和大使にもなった日本の高校生が、疎外されるのが心配で友だちの中で政治の話とか集会の話ができないということに大変驚きました。韓国では普通に話せることが日本の高校生は友だちにもその話ができない。そういえば、地域でも政治の話がタブー視されていますよね。「愛知トリエンナーレ」どころではなく、私たちは日常的に表現の自由が保障されていないのではないか。自民党支持ならOK、天皇制万歳ならいいけれど、ほかの権力に反する話は一切ご法度ということが暗黙のルールになっているのではないか。今年は天皇代替わりがありましたが、ましてや天皇制批判などご法度ですよね。憲法の思想信条の自由、表現の自由が保障されていないことに危機感を覚えます。

もうひとつ左翼といわれている、いまの政権に反対する人たちにも問題があると思います。先日も法案に反対して自分だけ起立しなかった立憲民主党の議員が、離党届を出したという報道がありました。このことにも私はとても腹が立ちました。いろいろな考えがあって、ぶつかりながらでも団結しなければ闘えないんです。自民党を割るくらいにしないといけないのに、こっちが割れてどうするのだという思いです。巨大な自民党があって、反対勢力はほんとうに小さいのに、その中で喧嘩して更に小さくなって。なにをやっているんだと怒りがわきます。地をはうようにたたかっている人たちがいるのに。

こういうことでは安倍政権を崩せない、いつまでたっても自民党がなくならない原因のひとつではないでしょうか。民主党の鳩山さんが総理になったときにもみんなが痛烈に批判したでしょう。はじめて政権をとって、うまくいくわけはない。それを支援していかなければならないのに、足をひっぱってどうするんだと。いろんな問題がありながらも、反自民の政権を作っていかなきゃならないのに。

─私もそう思います。次に沖縄の運動についてお聞かせください。

辺野古の工事が始まった時に、銀座や有楽町でバナーを持ってスタンディングを始めました。解放同盟の仲間が後押しをしてくれ、私は沖縄問題で発言するようになりました。そして、仲間と共に南部の会という個人加盟の小さな組織を作りました。翁長さんや山城さんが国連でスピーチをしたとき、反差別国際運動の国連ジュネーブの事務局が大きな役割を果たしました。それは1988年に部落解放同盟が立ち上げた日本で初めての人権NGOです。その反差別国際運動がすごい力になっているということを知ったとき、部落解放運動ってなんてすばらしいんだろうと感動しました。そして自分が解放運動をやっていることに改めて誇りを持ちました。

─安倍政権の沖縄政策、安倍政権になってから辺野古も含めてものすごく強行にやり始めたという印象があります。安倍政権の沖縄政策というのはどのように思っていますか。

税金を湯水のように使って武器を爆買いして、辺野古にしても、軟弱地盤があることがわかっていて、崩壊するかもしれないと指摘されているのに、とにかく基地建設を強行する。三権一体となって沖縄の民意を踏みにじっています。それは安倍政権になってあからさまに見えただけで、今までもそうだった。復帰のときも、屋良朝苗主席の建議書を全く無視して、国会で強行採決した。2013年の「建白書」のときも同じように日本政府は無視しました。日本本土を守るために沖縄を捨て石にして、戦後は日本が独立するために沖縄をアメリカに差し出した。沖縄の民意というのは一度も顧みられたことがないと私は思っています。軍事基地は他の県ではいらないから沖縄に置いている。基地があることによって騒音、性被害、土地や海の汚染・・・・・。沖縄だって他府県と同じように基地はいらないんですよ。しかし沖縄には民意を踏みにじって強行する。そういう支配の構造に沖縄の歴史は置かれ続けてきた。昨年、アメリカのNGOが辺野古・大浦湾を日本で初めて「希望の海」に指定しました。「希望」を見つめながら闘っていく、どんな状況になっても声を上げ続けていくことが大切だと思います。特に、安倍政権は、違法・強権・弾圧で沖縄に襲い掛かっています。「沖縄に寄り添って、基地の削減に取り組む」という言葉を聞くと、寒気がします。絶対に許せません。

2019年04月25日

普天間基地の即時撤去を求め、辺野古新基地の建設を断じて許さない特別決議

4月25日、東京の日本教育会館で行われた平和フォーラムの第21回総会で、2018年度活動経過報告や2019年度運動方針などの議論の後に、総会参加者から、総会アピールや以下の特別決議を挙げました。

普天間基地の即時撤去を求め、辺野古新基地の建設を断じて許さない特別決議

4月28日、沖縄では67年目の「屈辱の日」を迎える。

1952年のこの日に発効したサンフランシスコ講和条約により、日本は独立を回復したが、沖縄は1972年に復帰するまで米国の占領下でありつづけた。日本国憲法が適用されず、主権も民主主義も基本的人権もなかった。沖縄では、日本から切り離されたこの日を、「屈辱の日」という。

そしていまはどうであろうか。

国土の1%にも満たない沖縄の地に、全国の米軍専用施設の7割が集中している。米軍機の墜落事故が毎年のように発生している。米軍人・軍属による事故や事件が相も変わらず頻発している。そのたびに県民は、軍用機の飛行停止を、米軍の綱紀粛正を求め、声を上げ続けている。しかしながら、米軍はいったん飛行停止や軍人・軍属の外出禁止などを行うものの、すぐさま解除してしまう。日本政府の対応も、遺憾の意は表明するものの、米軍の措置を追認し、何ら県民の求めに応じることはない。

そこには、「屈辱の日」以来と変わらぬ沖縄のすがたがある。

本来であれば日本政府が、沖縄の現状を打開するため米国に忖度することなく、積極的な行動をとらなければならないはずだ。しかし、そんな姿勢を微塵も見せることはなく、今の安倍政権は沖縄をしてさらなる従属を強いている。

安倍政権は、「世界一危険」と称される普天間基地の運用停止を沖縄県に約束していたが、その5年以内の運用停止の期限となる今年の2月を過ぎても、約束を果たすことはなかった。あまつさえ、「県が辺野古移設に反対しているからだ」と責任転嫁をする始末だ。

辺野古新基地建設で安倍政権は、県の行政指導を無視する、行政不服審査制度を濫用する、事前協議もせず赤土を辺野古の海に投入する。幾度となく示された辺野古反対の民意を聞くこともない。

決まり事を反故にし、法律をねじ曲げて県民に基地を押しつけるこの政権のすがたは、あまりにも醜い。

何としても安倍政権を打ち倒そう。そして日本社会に、平和と民主主義、そして地方自治の精神をとりもどそう。

平和フォーラムは、沖縄県民と連帯し、安倍政治に抗う人びとと共同し、普天間基地の撤去の闘いを、辺野古新基地建設をくい止める闘いを力強くすすめていく。来る5月25日には、「示そう辺野古NO! の民意を」全国総行動が計画されている。全国から声を上げていこう。

2019年4月25日
フォーラム平和・人権・環境
第21回総会参加者一同

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