イラク情勢Watch vol.63 08年3月31日

         発行:フォーラム平和・人権・環境  編集:志葉 玲



イラク戦争5周年特集 その1

 本コーナー編集人は、今年2月末から3月上旬にかけて、イラク北部・クルド人地区を中心に取材を行った。今号と次号のイラク情勢ウォッチは、現地の人々の声から、5年目となるイラク戦争を考察していく。今号は、問題が山積するイラクの中でも、その人数の多さから、特に深刻な難民・避難民問題を扱う。

     
      
イラク北東部クルド人自治区スレイマニアの避難民キャンプ


1)イラク国民の6分の1が住まいを追われる

 昨年後半から、イラクでの民間人や米兵の犠牲者数は減少し、ブッシュ政権は「米軍増派の成果」と喧伝している。だが、実際には、シーア派有力指導者のサドル師が配下の民兵組織に停戦を命じ、スンニ派側も米軍と停戦した「覚醒評議会」が過激派を取り締まっていることや、以前は同じ地域に混在していたスンニ・シーア両派が分かれて暮らすようになったことが、「状況が改善」した原因だ。しかも、先月も約600人のイラク人が犠牲になるなど、依然、治安状況は深刻だと言える。

 こうした中、多くのイラクの人々が国内・国外に逃れ、避難生活を余儀なくされており、国連各機関の統計によれば、国内・国外避難民は合わせて約450万人に上るとされている。イラクの人口が約2700万人だとされているから、実にイラク国民の6人に1人が避難民となっている計算となる。



2)イラク北部クルド人自治区の避難民キャンプ

 今回、志葉が取材した避難民キャンプは、イラク北東部クルド人自治区の都市・スレイマニアにあった。クルド人自治区は、米軍がほとんどおらず、地元のクルド人が治安を担っているため、イラクの他の地域に比べれば、治安状況ははるかに良い。そのため、主にイラク中部から、多くの避難民たちが、この地域に集まっている。

    

 スレイマニアの避難民キャンプは、同市中心部から車で10分程の空き地にあった。数十もの布やビニールシート等で出来た粗末なテントが立ち並ぶ。ここには、主にイラク中部からの避難民、約200世帯が暮らしており、現在も避難民がやって来るという。キャンプでは、食糧や水、医薬品、燃料が不足し、衛生状態も悪い。また、避難民達には仕事にありつけていない人も多く、失業も大きな問題である。キャンプの避難民に対しては、クルド人自治区や国連から一定の支援はあるものの、彼らの生活を改善するには、お世辞にも十分とは言えず、避難民たちが外部からの援助を渇望していた。



3)避難民達が逃げてきた理由

 今回、話を聞いた避難民たちの中でも、それぞれの立場や事情があり、現在も元いた地域に戻れないという。大雑把に、避難民達を分類すると、以下の様な人々がいた。

・宗派間衝突の犠牲者
・米軍への協力者
・若者
・医療関係者

 バグダッドから来た、ジャマル・アベットさん(41)2年前の4月、息子のマハールさん(享年20歳)が宗派間衝突の中で殺されたと語る。
「あの時期は、スンニ・シーア両派の間で激しい殺し合いが行われていました。息子も仕事に出かけようと、家の外に出たとたん、シーア派民兵らしき武装した男達に、突然、銃弾を浴びせられました。息子は必死で自宅まで戻りましたが、そこで力尽きました」
マハールさんは結婚していて、小さな子どももいたという。現在、5歳になるマハールさんの子どもは、母親と共に、バグダッドにある祖父母の家に住んでいるという。

         
         
殺されたマハールさんとその家族の写真を持つジャマルさん

 ワリード・シャアフさん(38)も宗派間抗争で兄弟を殺され、バグダッドからスレイマニアに来た。彼は当分バグダッドに戻るつもりはないという。
「私達がシーア派民兵の襲撃を受けている時、米軍は何もしませんでした。今、バグダッドの治安は改善されたと、ブッシュ政権やイラク政府は喧伝しているようですが、信用できません。まだまだ襲撃やテロ、誘拐が頻発しているので、危険だと思います」
 
 アレフ・アブドラ(48)さんは、イラク中西部ラマディの出身だ。ラマディは開戦以来米軍との衝突が激しいイラク最激戦地の一つだったが、昨年夏、米軍と住民との間で停戦が結ばれ、米軍が軍事行動を控え、地元部族系の自警団が治安を維持するようになってからは、治安が安定化している。ただし、アブドラさんは地元武装勢力とトラブルがあったため、今もラマディには帰れないと言う。

 「私が米軍に協力していたことが原因です。戦前、私はイラク軍で働いていましたが、政権崩壊で失業し、他に仕事は無かったのですが、武装勢力の怒りを買い、脅迫を受けるようになりました。実際、私の父は殺害され、私達家族は避難を余儀なくされたのです」
 アブドラさんは、何度かラマディに様子を見に戻ったが、依然、帰れる状態ではないという。
   
    
アブドラさんの娘のイプティサムちゃんは、米軍の空爆でショックを受け、話すことも立つ
    こともできなくなってしまった。

 

 マルワン・ムハンマドくん(13歳)は、サダム政権崩壊時、略奪が横行したバグダッドから家族と共に、北部の街モスルに移り住んだが、やはり米軍と武装勢力との衝突が続くなど、危険な状態であるため、最近、このキャンプに避難してきた。マルワンくんは日本で言えば、中学生くらいの年であるが、家族の生計を支えるため働いており、学校には行っていない。また、「バグダッドへ戻りたい」とは思うものの、若い男性は「戦闘可能年齢」だとして、特に米軍やイラク警察、民兵などから弾圧される恐れが高いので、戻ることが難しいそうだ。
    
    
難民キャンプの若者たち

 難民キャンプの外、市内の病院には、バグダッドから来た医者がいた。彼はこの1月にバグダッドからスレイマニアに移ってきたばかりだと言う。バグダッドでは、政治的な殺害や襲撃が減少した一方で、金目当ての誘拐や殺害が激増しており、特に医者などはターゲットとされるため、バグダッドにいられなくなったという。そのため、バグダッドの医療関係者は次々とイラクの他の地域や国外へ流出しており、バグダッドの医療現場は深刻な人手不足に直面しているとのことだ。



4)難民問題が解決してこそ、「治安の回復」

 ブッシュ政権は盛んに「治安回復」をアピールし、日本の新聞やテレビもそれに追従しているが、国民の6分の1が避難生活を余儀なくされているという状態は、国家としては破綻状態だと言えるだろう。今回の取材では、今なお様々な理由から自宅へ戻れない人々と会ったが、彼らが元いた地域に帰還し、安全に生活できるようになってこそ、本当に治安が回復した、と言えるのではないか。イラクの国内・国外避難民問題には、日本の政府もメディアも関心が高いとは言えないが、この問題をイラク復興の尺度として注視する必要がある。また、日本の対イラク国際貢献としても、重要なテーマであることは間違いない。




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